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メモリーカード

神影零

3,886 字

心理ドラマ、喪失と記憶の物語

"記憶が、愛した人の輪郭を奪っていく。"

息子のために、今日も作るハンバーグ。

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玄関のドアが、キィっと音を立てて開いた。

「おかえり。今日も学校お疲れ様。」

湊を、毎日しているようにそっと抱きしめた。
毎日学校に通って、勉強をして、部活動もしてきて、クタクタになって、そしてうちに帰ってきてくれる。
普通のことかもしれないけれども、私にとっては「帰ってきた」ということが何よりも嬉しかった。

「湊。今日の学校、どうだった?他の子と喋った?」

湊はいつも無口で、あんまり喋ってくれない。そこにいるはずなのに。
学校の勉強についていけてるのか、友達はいるのか、好きな子はいるのか。
聞きたいことは山積みだけど、でも湊のペースに合わせるのが母親というものだと思ってるから。
ゆっくりでいい。湊は湊のままでいい。
ただそのままで、たまに口をきいてくれたらいい。
そうは思っているけど、無言がリビングを漂っているのはなんだか落ち着かない。

「湊?ねえ?」

声は返ってこない。
もしくは、返しているはずなのに、私の耳が聞き取れていない。
多分疲れているんだろう。何度も催促しすぎるのも良くないし、一回止めておくか。

「……なんだか、最近聞こえないな。」

誰にいうつもりでもなかったのに、言葉が口から滑り落ちた。
重さを持って、床に落ちて、跳ねることなく沈んでいった。
こめかみの骨を私の指がコツコツと叩く。

「そうだ、湊!今日はハンバーグにしよっか!好きって言ってたでしょ?デミグラスソースにする?それとも和風のほうがいいかな?ねぇ、どっちが好きだっけ?」

声が聞こえないって思った時はいつもこれ。ハンバーグを一緒に食べている時は饒舌になって、いろんなことを話してくれる。学校のこと、この前一緒にイオンに行ったこと、小さい頃にドライブして一緒に海を見たこと。
どれも忘れられない、大事な思い出だ。湊の顔は、そういう時にはいつもはにかんでいた。可愛らしい顔で、はにかんでいた。

「ねえ湊。湊って、デミグラスソース好きだったでしょ?」

あれ。
今、私なんて言った?
喉がざらりと、荒いヤスリで擦られたように痛んだ。
好き「だった」?
なんで過去みたいに言ったんだ?ううん、ちょっと言い間違えただけだよね。うん。大丈夫。大丈夫だよ。香織。

「ああ、ごめん。湊って、デミグラスソース好きだよね。」

うん。これで自然だよ。うん。湊はデミグラスソースが好き。
湊はデミグラスソースが好きで、いっつも口の横につけて、「香織さんの作ったハンバーグ、めっちゃ好きなんだよね!」って言ってくれる。
うん。そうだよ。そう。

「ほら、ハンバーグできたよ。一緒に食べよう。」

二つの皿を対面に並べて、一緒に食べる。
小さい頃からも、どんなに喧嘩をしても、絶対にこのルールだけは守るようにしていた。
さて、これでやっと話ができそうだな。

「ねえ、明日雨降るんだって。洗濯物どうしよっかな。学校は歩いていく?傘早めに出しておかないとね。」

そうだね、準備しておかないと。

「……ご飯食べたら、出しておくね。」

声が聞こえた。よかった、やっぱりご飯を食べたら聞こえるんだ。
男の子にしては、甘くて高い声。そんな湊の声が、私は心から好きだった。
声だけじゃなくて、姿も、服も、えくぼも、目尻も、髪型も。
筆跡も、握っている鉛筆も、指の節々も、生命線も、くるぶしも、なんだって、全部が、心から大好きだった。

ああ、違う。大好きだ。心から大好きなんだ。今も、ほら、部屋着を着て目の前に座ってくれている。
うん、合ってるよね。これでいいんだ。うん。大丈夫だよ、落ち着いて、香織。うん。落ち着くよ。大丈夫。

「ご馳走様。先に傘出して、寝るね。」

なんだか最近は、さっさと寝たくなっていた。
お金はある。湊もいる。だけど、なんだか毎日眠たくて。
もう午後8時には、起きてられなくて。
傘はずいぶん大きくて、湊の毎日の成長がこんなにも心にのしかかってきた。

「それじゃ、おやすみ。」

私の寝室は左にある。湊の部屋は右にある。
ほんとはここで左に行って寝るんだけど、湊の声が聞こえなかったから、今日は湊の部屋に寄って行こうと思った。
ガチャリとドアを引き、中に入る。
勉強机、いろんな服、辞書、趣味の本や漫画。ああ、この漫画は湊におすすめするために買ったんだよね。懐かしい。
そして、部屋を大きく埋めるベッド。湊の匂いがしっかり染み付いているベッド。
ああ、湊がここにいるんだ。ここに。
湊はいつも、シーツを丸ごと被って寝てるから。いつも、いつでも、どんな時でも、ここなら湊のことが。

あれ。

湊って、どんな顔だっけ。

輪郭が、目尻の角度が、眉の形が、首筋が、どれも砂のように、手でかき集めようとしても、零さまいとしても、どんどんと、ただどんどんと溢れていく。
少しずつ、消えてる。
音もなく、名残もなく、指の隙間から、湊が消えていっている。
思い出そうとしても、湊じゃない。あれは湊なんかじゃない。

「嫌だ。」

潰された蛙のように喉がひくついて、嗚咽が口から溢れ出た。
嫌だ。嫌なんだ。絶対に嫌なんだ。
湊が消えていく。
私の湊が、どこかに行ってしまう。
ここにいるのに。いつも話しかけてくれるのに。
いつでも、私のことを抱きしめてくれてるのに。違う、湊は消えてなんかいない。

「忘れない。忘れない、絶対に。忘れたくない。嫌だ、忘れない、忘れたくない。だから……消えないで……。」

湊はまだここにいる。
だって、そうじゃなきゃ布団から湊の匂いはしない。
布団から湊の匂いがするんだから。
湊の匂いがすることが、湊の存在を証明しているんだから。
顔を埋めて、肺に湊を溜め込む。
湊はここにいるんだ、そう言いたくて。

そこにあった匂いは、いつも使っていた柔軟剤の匂いだった。
布団からしたのは、私の服と同じ匂い、柔軟剤の残り香で。
そして、湊の、体温を含んで、男の子特有の汗ばんだあの匂い、そしてどこか日光のようなあったかい匂いは。

もう、私にはわからない。

部屋の空気がヘドロのように気管を染め、時計の針の音はどこか彼方へ歩いてしまった。
自分の息子のことさえ自分で覚えられない。
自分の記憶さえ、自分のことを裏切っていく。
原始的なものから、どんどんと、もう二度と帰らない場所へ消えていく。
自分の指がガリっと肌を掻いて、地平線の側の三日月のように、真っ赤に弧を描いていた。

あ、この傷。似てる。
「あの人」の爪。あ、あ、そうだ、あれ、あれは。

あ。

津波が陸を襲うように、音もなく、予報もなく、ただ、すうっと。
何かが、脳を汚した。

あの人が私に暴力を振るったあの日の記憶。
湊が庇ってくれたあの日の記憶。
小さな指で私の腕に絆創膏を貼ってくれたあの日の記憶。
私が抱きしめるのに、そっと応えてくれたあの日の記憶。
こんなお母さんでごめんねって言う口を手で押さえてくれたあの日の記憶。
一緒に海に行って、沈む夕日を見ていたあの日の記憶。
中学校の入学式、あんなに笑っていたあの日の記憶。
勉強机に向かって、私の言葉も聞かずに鉛筆を走らせていたあの日の記憶。
私の冗談に笑ってくれていたあの日の記憶。
私の頬を撫でてくれたあの日の記憶。
湊の髪を梳いたあの日の記憶。

あ、ああ、ああああ。
覚えてるのに。
こんなにも覚えているのに。
なのに、なんで、顔も、声も、姿も、輪郭も、怒っている肩も、泣いてる肩も、起きた時の声の低さも、寝る前の声の高さも、笑い方も、肌の艶も、膝の皺も、抱きしめた時の温度も、足音のリズムも、箸の持ち方も、相槌も、話したことも、歩く速さも、。

体が弓形に歪んで、そのまま床に倒れ込んだ。

「あ、ああああ…。」
どんなに言葉を使っても。

「ああああ…。」
どんなに未来を見たとしても。

「ああああ…!」
どんなに家を探しても。

もう、この世のどこにも、湊はいない。

「返して…返して!!返してよ!!」
何が真実で、何が妄想?
何が湊で、何が私?
私が湊?いや、湊が私?
全部忘れてるの?私は何を覚えてる?何なら覚えられてる?
何を忘れた?何を撫でた?何を救った?何を堕とした?
何を食べた?何を聞いた?何を触った?何をおぶった?
何を謗った?何を描いた?何を作った?何を変えれた?
何が、何で、何を、何?

私の中の、湊は、誰?



止まらぬ思考の中、気づけば私はぐっすりと眠っていた。
湊のベッドには、漕い涙の行進ができていた。
ああ、そっか、このベッドに入る、この勉強机に座る、そしてそもそもこの部屋の主人さえ、もうここにはいないんだった。
もう、湊との思い出は永遠に増えることはない。
でも、それでも。
思い出が指の隙間から落ちていったとしても。
落ちていった思い出をまた拾って、湊の分まで抱えて、果てなき果てまで歩いていけばいい。

冷めた一人分のハンバーグを背に、朝ごはんを作る。
これからの分量は、ずっと一人前。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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