世の中には、二種類の人間がいる。
鍵は閉ざすための道具だと思う者と、開けるための道具だと思う者。
僕の勤める会社の裏手には、プレハブの物置小屋がある。
そこに仕舞われているのは、法的に保管期限が定められている書類、展示会で使う什器、大掃除の時以外使ったことがない掃除道具、やたらと大きな脚立など、要するに、使用頻度が低い、そういうモノたちだ。
仮に盗まれたとしてすぐに会社が傾くようなものはたぶん、一つもない。
だが、突然消えて無くなってしまえば困る。
外の人間には見られるべきでない。
この物置小屋は、そういうモノたちを吸い込んでいく。
物置小屋の扉を閉ざしているのは、五桁のナンバー錠だ。
51901、これがそのナンバー錠の解錠番号になっている。
番号の由来は、何ということはない。
昭和五十一年九月一日。
うちの社長の生年月日が、物置小屋を開けるための番号だ。
僕は中途採用でこの会社に入った。
初日に総務の今井さんからこのナンバー錠の番号は社長の生年月日だと言われた。
入社して数ヶ月の間、何度かその物置小屋に出入りするうち、あることに気づいた。
施錠時の番号が、いつも51900とか、41901とか、端の一桁が一つ、回されているだけになっている。
僕はそのことになんとも言えない、気持ち悪さを覚えた。
それから僕はしばらくの間、物置小屋の前を通るたび、その番号をランダムに並べ替えるようになった。
今井さんに声をかけられたのは、僕が番号を並べ替えていた時だった。
「野田さん、何してるんですか?」
「あ、えーと、鍵を掛けていて」
「ちょっと見てもいいですか?」
今井さんはナンバー錠を手に取って番号を確認すると、続けた。
「野田さんだったんですね。最近みんなから、物置の鍵が誰かにいたずらされてる、って話を聞いていて」
「いたずら……ですか?」
「はい。番号がバラバラにされてて、開けるときに面倒だ、って」
「え?それの何がいけないんですか?鍵って本来なら、開けにくくするための道具でしょう」
「……野田さん、わかりますよ。でも、今までみんな、そうやってきたんです」
「でも……」
「野田さん、それで問題はなかったんです。盗まれて困るようなものも特にないですし。逆に今、野田さんのやっていることはみんなから問題だと思われているんです」
「……そうですか……気をつけます」
小さな会社だ。関わる人の顔ぶれが変わることは多くない。
五桁のナンバー錠を端の一桁だけ、一つだけ回す。
たしかに、それでなんらかの問題が起こる確率は極めて低い。
僕は渋々ではあるが、今井さんの言うことに従うことにした。
施錠の際、端の一桁を一つだけ回す。
次第に慣れた。
だが、やはりあの気持ち悪さは、消えなかった。
僕に姉ができたのは平成四年、小学校三年生の時だった。
姉は三つ上の六年生だった。
僕は姉のことをすぐに「お姉ちゃん」と呼ぶようになった。
姉は今でも僕のことを「悠太君」と、君付けで呼ぶ。
子供の頃は、自分は姉には弟として受け入れられていないのかもしれないと、少し寂しい気がしていた。
大人になってから、日本語には「お姉ちゃん」に釣り合うような弟への呼びかけがないことに気づいた。
だから「悠太君」のままなのは、仕方がないことかもしれない。
中学に上がった頃、クラスメートの女子のことを好きになった。
恋心を覚えるのは初めてではなかった気がする。
だけど、もっと知りたい。独占したい。
そういう得体の知れない衝動に駆られたのは、初めてだった。
学校の外ではどんな服を着ているのか。
僕以外とはどんな話をしているのか。
心の奥では何を思っているのか。
そういうことを知りたいと思った。
姉はその頃、赤い合皮の表紙に金色の錠前がついた日記帳を持っていた。
その日記帳はいつも机の引き出しの中に仕舞われていて、錠前を開ける鍵は別の引き出しに入っていた。
僕はいつの間にか、鍵の在処を知っていた。
姉は成績が良くて真面目なタイプだった。
僕が好きになったその女子は、どことなく姉に似ているところがあった。
そしてある日、一つの考えが浮かんだ。
姉が鍵を掛けているあの日記帳。
それを読めば、あの子のことが、あの子の気持ちが、もう少しだけ、わかるかもしれない。
──僕は姉が学校から帰る前にと、姉の部屋に忍び込み、机の引き出しから日記帳を取り出した。
もう一つの引き出しを開け、錠前の鍵を見つけた。
そして鍵穴に鍵を差し込み、回そうとした……が、手が止まった。
鍵を回せなかった。
僕は震える手で日記帳と鍵を元に戻し、姉の部屋を出た。
あの時僕の手を止めたのは、罪悪感ではなかったかもしれない。
ただ、中を見るのが怖かった。
それだけを、覚えている。
それから二ヶ月ほどの間、僕は姉の日記帳のことを忘れて過ごした。
正確には、忘れようと思っていた。
そんなある日曜日に、夕食時になっても部屋から出てこない姉を呼んでくるようにと、母から頼まれた。
姉の部屋のドアをノックした。しかし返事がなかった。
ゆっくりとドアを開けると、机に向かう姉の耳には、ラジカセから延びたヘッドホンが掛かっていた。
僕は「お姉ちゃん」と呼びかけ、姉の椅子の背もたれを叩いた。
姉は跳ねるようにして振り向くと、慌てて手元の日記帳を閉じた。
姉が日記に何を書いていたかまではわからなかった。
姉に「見た?」と聞かれ、「別に」と答えた。
だが一瞬のその中で「悠太君が」と、姉の日記に自分の名が書かれていることに気づいた。
──姉が、僕のことを日記に書いている。
それを知ったその日の夕食は、ほとんど味がしなかった。
次の月曜日、僕は学校から帰ると、また姉の部屋に忍び込んだ。
姉はあと一時間は帰ってこないとわかっていた。
机の引き出しからあの日記帳を取り出し、別の引き出しから錠前の鍵を拾い、鍵穴に差し込む。
僕はその鍵を回しながら、言い訳を探した。
──僕のことを書いたんだから、僕が読んだっていい。
──読まれたくないなら、もっとちゃんと鍵を隠しておいてくれ。
──そもそも鍵なんか掛けているから、見たくなるんだ。
カチャ、と金具が外れる音がして、張っていた合皮の表紙が緩む。
僕は表紙を開いてページをめくり、昨日、姉が僕のことを書いていた最後の日記に辿り着いた。
僕はそのページを読んだ。「悠太君が」の続きは「最近ちょっと変だ。何かあったのだろうか」だった。
昨日の日記で僕のことについて書かれていたのは、それだけだった。
正直なところ、少し拍子抜けした気分になった。
だが次の瞬間、その周りの文字が目に飛び込んできて、別の感情が衝き上げてきた。
僕は思わず他のページをめくった。そして姉の日記を一つずつ、読んでいった。
──今日は学校に行かなければよかった、と書いてある日があった。
──時々自分がわからなくなる、と書いてある日があった。
──悠太君がうらやましい、と書いてある日があった。
やがて吐き気がするほどに、僕の胸の鼓動は速く、大きくなっていった。
そして僕は眩暈を覚え、倒れるように床に横になった。
天井を見上げてしばらく木目の数を数えたあと、姉が帰ってくる時間が近いことに気づいた。
僕は慌てて日記帳と鍵を引き出しに戻し、自分の部屋に戻った。
僕は今日も物置小屋の前を通る。
あのナンバー錠は、一つ回せば開いてしまう。
僕はそのことを知っていて、みんなもそのことを知っている。
鍵は、閉ざすための道具だ。僕はそう思っている。
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