プロローグ
御前会議の席上、十二歳となった皇太子フリードリヒは地方長官の報告を最後まで聞いてから口を開いた。
「オットー、なぜ裁きと統治を切り分けてはいけないのだ」
「この者は、土地を知らずに領民を裁くことはできないと言う。だが土地を知っていることと罪を裁くことは、別ではないのか」
臣下たちの間にかすかな動きがあった。頷きではない。
だが否定でもなかった。
そして、その視線は一斉にオットーに向けられた。
オットーは卓の下で右手を握った。七本の指が順に掌へ折れていく。考えるときの癖だった。
一拍だけ息を止め、口を開いた。
「殿下。仰ることは道理にございます」
それだけを言った。肯定でも否定でもない。皇太子の聡明さを認めつつ、自分の立場を明かさない。
「そうだろう。私にはわからぬ。なぜ皆、このように割り切れぬことを好むのだ」
フリードリヒは呆れたようにそう言った。
「それは世の習いゆえ、にございます」
オットーはこの少年に何度も繰り返した言葉を反射的に返し、その問いをひととき封じ込めた。
帰りの馬車の中、オットーは気づいた。
あの一拍の間に、自分が探していたのは十二進法の言葉ではなかった。十四進法の言葉だった。
クレメンスならどう返すか。それを探していた。
オットーは自分の手を見た。右の七本、左の七本。この十四本の指で国を治めてきた。
翌朝、オットーは馬車を出させた。行き先を告げたとき、御者は何も言わなかった。
この道を知っていた。十二年前にも走った道だ。
半日の道のりをオットーは眠らずに過ごした。
首都の近郊は十二進法で区画された農地が整然と並んでいる。
この退屈な風景を、一身を賭して作ってきた。
それが次第に崩れ、景色には古い様式が混じり始める。
十四進法の時代が残っている土地。
境界線が曖昧で、畑と林の間に誰のものでもない草地がある。
非効率で、そして、美しい。
クレメンスの屋敷は、ちょうどその境目にあった。
十二進法の風景と十四進法の風景の間。あの男のことだ。意図しなかったはずがない。
門は開いていた。十二年前もそうだった。鍵をかけないのか、とあの時も思った。
庭は手を入れていなかった。いや、手を入れないという手の入れ方をしていた。
蔦は壁を覆い、庭木は剪定を免れて自由に伸びている。ただ、調和している。
何も決めていないのに、何かが保たれている。
この上ない、十四進法の庭だった。
老人は庭の椅子に座っていた。膝の上に本があった。読んでいたのではない。
本を膝に置くという形式を維持していた。
その体躯は小さかった。だがオットーは、権力の頂点にいたクレメンスを知っている。
この小ささもまた、「小さな老人」を演じているのに違いない。
「生きていたか」
クレメンスは振り向くことなく言った。
「あなたこそ」
「私は生きているのではない。死に損なっているだけだ」
冗談とも本音ともつかない言い方だった。この男はいつもそうだ。境界を引かせない。十四進法の流儀だった。
オットーはクレメンスの向かいの椅子を引き、腰を下ろした。招かれてはいない。だが拒まれてもいない。
「皇太子殿下の御前会議に出ました」
オットーは自分の声が、思ったより静かなことに気づいた。
「殿下は、なぜ皆は割り切れぬことを好むのだ、と仰いました」
その言葉を口にしたとき、オットーは御前会議の席で感じたものが蘇るのを感じた。
「好む、と。あの方にとって十四の世界は、理解できない古い趣味なのです。本当にわからないのです」
クレメンスは茶を啜り、静かにカップを置いた。
「そうか。それで、お前は何が言いたいのだ」
「あなたは、あの時、本当に十四進法の世界を守ろうとしていたのですか」
言ってしまった、とオットーは思った。十二年分の問いだった。あるいは三十年分の。
「……買いかぶりすぎだ」
「私はただ、十二に割られる醜い世界を見たくなかった。それだけだ」
クレメンスはそう言うと、老いて節くれだった七本の指を広げ、鼻と顎をさすった。
オットーが期待した答えではなかった。期待した答えなどなかった。
だが、この老人が今、割り切れる答えを渡さなかったことはわかった。
渡せなかったのではない。渡さなかった。
オットーは立ち上がった。
聞きたいことは聞けない。それが答えだ。
門を出るとき、背後でクレメンスの声がした。
「オットーよ」
振り返った。老人はまだ椅子に座っていた。
「お前は昔から、考えすぎる」
それが最後の言葉だった。
一、十二の革命
およそ五十年前。
クレメンスはまだ二十歳だった。隣国ガリエンの王立大学に籍を置いていた。
外交官の子息として送り込まれた留学だった。学ぶべきは学問ではなく、隣国の空気だった。
その朝──
クレメンスは大学の講堂で数論の講義を聞いていた。
ガリエンの数学者は十四進法の非効率を論じていた。
「七は素数であり、割り切れないことが体系全体の冗長性を生む」
講義は明快で、論理的だった。
そして何かが欠けているような気がした。
クレメンスにはそれが何か、まだ言葉にできなかった。
講義が終わる前に、扉が開いた。
「国王の第七指が、広場の中央、無数に集まった公衆の面前で切り落とされた。片手六本、両手十二本。王は十二進法の身体になった。そのセレモニーに、民衆は熱狂した」
これが、その一報だった。
「切り落とした?」
クレメンスは報せを持ってきた学友の顔を見た。
「比喩ではないのか。何かの政治的な宣言を、そう表現しているのではないのか」
学友は首を振った。
「切り落とした。王の両の手の第七指を。聖別の刃で。王は自ら手を差し出したとも言われている」
クレメンスは黙った。言葉が追いつかなかった。
第二報は、その日の夕刻に届いた。
「王都の民衆が、王に続いて自らの第七指を切り落とし始めた。広場に刃物が持ち込まれ、順番を待つ列ができた。血を流しながら、人々は笑っていた。六本の指を掲げ、互いに見せ合い、抱き合った。十二の手になったことを祝った」
「……狂っている」
クレメンスは思わず呟いた。
だが、と考えた。狂っているのは民衆か。それとも。
七本の指が、十四進法が非効率だと、今朝の講義で聴いた。論理的に、明快に。
学者が理論を説き、民衆はそれを肉体をもって実行した。
論理の帰結としては、あり得る。
自分が髭を剃るのは何故か。邪魔だからだ。美しくないと思うからだ。
では、指を切り落とすのは。
──寒気がした。
クレメンスは自分の手を見た。七本の指。紛れもない、今朝と同じ手だ。だが、今朝とは違って見えた。
翌朝、学友のヴァルターが興奮した顔で部屋に来た。
「聞いたか、クレメンス。いや、聞いたに決まっている。凄いことが起きた」
「凄いこと、か」
「十二進法は世界の夜明けだ。考えてもみろ。七の、十四の呪縛から解き放たれる。割り切れる。決まる。閉じる。これが進歩でなくて何だ」
クレメンスは答えなかった。ヴァルターの目は輝いていた。昨日の第二報を、この男も聞いたはずだった。血を流しながら笑う民衆の話を。
それでも目が輝いている。あるいは、それだからこそなのか。
「俺たちも続くべきなんじゃないか?」
ヴァルターの言葉に、クレメンスはしばし沈黙した。
「……指を切り落とすのか?」
「指は象徴だ。本質は体系の転換だ。十二進法が、割り切れる世界がどれほど明快か、お前にもわかるだろう」
わかる。それが問題だった。わかってしまう。十二がいかに効率的に世界を変え得るか。それは想像に余る。
だが、美しくない。ヴァルターもきっと、そう感じている。
だから、自らの指を切り落とす気はないのだ。
自分の代わりに王が、民衆が、指を切り落とした。そういうことだ。
大学の空気は、数日で割れた。
回廊で交わされる声が二種類になった。
「進歩だ」と言う者と「蛮行だ」と言う者。
貴族の子弟が多い学校だ。大勢は守旧派だった。だが彼らの怒りは、十四への愛ではなかった。
それは王が傷つけられたことへの怒りであって、七本の指がそこにあることの意味を語る者はいなかった。
身体に刻まれた、割り切れない均衡。曖昧であることの強さ。美しさ。
それらについては語られない。
クレメンスにはそれが一番堪えた。
本当に守るべきものを、守る側が知らない。
父からの手紙が届いたのは、七日目だった。
文面は短かった。「帰れ」。理由は書かれていなかった。外交官の子息には、理由は不要だった。隣国の情勢が自国に波及する前に、人質になりうる者を回収する。それだけのことだった。
クレメンスは荷物をまとめながら、ヴァルターの部屋を見た。灯りがついていた。別れを言うべきだろうか。何を言う。「指を切られるなよ」とでも言えば良いのか。
ヴァルターの部屋の前で足を止めた。扉の下から、細い光が漏れていた。中で何かを書いているらしい物音がした。
ノックしようとした右手が、途中で止まった。七本の指が、扉の前で宙に浮いていた。
ヴァルターには届かない。届く言葉がない。言葉にならないものを、言葉にしないまま持ち帰ること。それが今の自分にできる、ただ一つのことだった。
クレメンスは手を下ろし、静かにその場を離れた。灯りは、最後まで消えなかった。
国境を越えたとき、クレメンスは御者に道を変えさせた。
街道を外れ、古い村を抜ける道を選んだ。急ぐ理由はなかった。急がないことが、今の自分にできる唯一の抵抗だった。
村々の風景は何も変わっていなかった。
十四の区割り、曖昧な境界、誰のものでもない草地。
この風景が、いつまでもつか。
二十歳のクレメンスはこの世界の守り方に、考えを巡らせていた。
二、十四の抑圧
五年後、クレメンスはガリエンに戻った。
外交官の末席。書記官の肩書で、大使に随行した。
父の名前が道を作り、留学の経験が理由を作った。「あの国の空気を知っている者が要る」大使はそう言った。
五年ぶりのガリエンの都は、同じ街だった。通りの幅も、建物の並びも変わっていない。
ガリエンに着いてすぐに目についたのは、手袋だった。
すれ違う市民の一部が、この陽気にもかかわらず手袋をしている。
よく見れば第七指が少し不自然な方向を向いている。
革命の熱狂の中で指を切った者たちは、手袋に「義指」を仕込み、それを隠していた。
あれは狂っていたと、指を切ることを禁じる法令が出ていた。
十二進法の革命は抑圧の季節を迎えていた。
ただ、指を戻す法令は存在しない。切った指が生えることはない。
この国の王にはもう、第七指がない。
クレメンスを驚かせたのは、市場だった。
市場では、誰もが十二で数えていた。十二刻みの度量衡を使い、商品は六個入りあるいは十二個入りになっていた。
人の心は十四の世界に戻ろうとしていた。
だが商人たちは十二を手放そうとしない。
彼らは指を切ってはいない。だが、使っていない。
利を得ようとする者たちは思想とは無縁だ。
背筋に重いものが走った。
──この醜い分割を、この国では「思想」が、ひとたびは、認めたのだ。
ある夜、大使館の宴席でガリエンの貴族と話した。老人だった。七本の指を残していた。革命で切らなかった側の人間だ。
「十四を守ったのですね」
クレメンスが言うと、老人は苦笑した。
「指は守った。だが帳簿は十二で付けている。そうしないともはや、商人たちとは付き合えないのだ」
「あの『指削ぎの祝祭』は狂っていた。それは違いない。だが十二という数の味を、多くの民が知ることになった。それも違いない」
帰国の馬車の中で、クレメンスは考えていた。
ガリエンは十四の世界に戻りつつあるように見えた。だが商人の間に十二は残った、いや、定着した。
それはそうだろう。商人にとって、十二は都合が良い。
自国では、あの「指削ぎ」の恐ろしさが、忌避が、民衆を十四の世界に留め続けている。
だがひとたび十二の門が開けばどうなるか。
クレメンスは両の手を広げ何度も、指折り十四を数え直した。
三、十二個入りの瓶詰め
クレメンスが宰相の椅子に座ったのは、それから十五年の後だった。
その年の秋。ガリエンの瓶詰めが港町の市場に並び始めた。
果実の保存食。蓋を開ければ、季節を問わず果実が食べられる。
それは十二個入りの木箱に入っていた。港町の商人は、その梱包に首を傾げた。
十二。中途半端な数だ。キリが良いのは七か十四。感覚は欠落を覚える。
味も悪くはないが、格別でもない。ただ、保存が利き、価格が手頃なのは確かだった。
冬の訪れとともに、港湾都市の長官から報告が届いた。
あの、ガリエン製瓶詰めの流通量。
国境を超えて流通する食料品は従来、穀物や東方からの香辛料、乾燥させた香草といった、元から保存がきく類のものしかない。
果実の瓶詰めは奇異な商品だ。だから、数字自体は小さい。
だが、クレメンスの目は別の行に引きつけられた。
自国の商人の間で、十二個入りの梱包が広まり始めているという記述。
驚いたことに、自国の商人が、自国の商品を、十二で数え始めているというのだ。
十二は割りやすい。二でも三でも四でも六でも割り切れる。
十四は二と七でしか割れない。三人の得意先に分ければ、誰かが多く誰かが少なくなる。そのたびに話し合いが要る。
その話し合いは美徳であり、それこそが「仕事」だった。
だが帳簿の上では、その美徳は利を生まない。
クレメンスは思わず報告書を閉じた。
十五年前、ガリエンの老貴族が言った言葉。
「十二という数の味を、多くの民が知ることになった」
それが頭の中に、何度も響く。
指は切られていない。血は流れていない。
それでも、当たり前にそこにあった十四の世界は、侵されていく。
クレメンスは自分の右手を見た。四十歳。あの日よりも皺が増えた。指は七本のままだ。この手で、何ができる。この手で。
十二の「進軍」は速かった。十二個入りの梱包は、翌年には内陸の商人にも広がっていた。自国の商品を十二個入りで売る業者が現れ、十四個入りにこだわる業者の棚は、端に寄せられていった。
閣議が紛糾したのは、次の年の暮れだった。
「関税を上げるべきです」
商務大臣が立った。港湾都市の業者から陳情が相次いでいた。
「関税を上げて、ガリエンの瓶詰めを締め出すべきだ。そうしなければ、我が国の食料品産業が滅びる。あれが安すぎるせいで、食料品業者の廃業、農民の離農が相次いでいる」
内務大臣が続いた。
「ガリエンの瓶詰めは十二個入りだ。梱包の規格を定め、十四個入りを標準として、十二個入りの流通を制限するのはどうだ」
クレメンスは黙って聞いていた。二人の危機感は正しい。だが処方が違う。
「関税を上げれば、瓶詰めの値は上がり数は減るだろう。だが、それでどうなる。安い瓶詰めに慣れてしまった民は、飢えるだろう。梱包の規格を定めたところで、商人は中身を二個抜いて、十二個入りとして売るだろう。その分無駄は増える。値は上がり、やはり民は飢える」
「では宰相は、どうすれば良いとお思いか」
クレメンスはわずかな沈黙の後、言った。
「交渉を、続ける。それだけだ」
四、七拍子の会議
クレメンスが始めたのは、ガリエンとの通商条約の改定交渉だった。
結ぶためではない。結ばないためでもない。交渉し続けるために始めた。条件を出した。ガリエンが修正した。修正を受けて再修正した。再修正に但し書きを付けた。但し書きの文言について法務官の見解を求めた。法務官の見解に、ガリエン側が異議を唱えた。
異議について協議の場を設けた。協議の結果を持ち帰り、検討すると伝えた。
ガリエンの通商使節は、半年で本国に三度、進まない交渉について打電した。
「この国の宰相は、条約を結ぶ気があるのか、わからない」
三度目の打電の後、使節は直接クレメンスに問うた。
「宰相閣下。率直に伺いたい。我が国との通商条約を、締結なさるおつもりはあるのですか」
クレメンスは微笑んだ。
「もちろんです。結ぶ方向で誠実に検討しております。ただ、我が国は十四進法の手続きで動く国でしてな。少々、時間がかかる」
使節は黙った。皮肉だと気づいたのか、気づかなかったのか。
クレメンスにはどちらでもよかった。
そんな折、クレメンスは舞踏会を催した。通商使節団の歓迎と称した。
慣例に則った、外交儀礼としての舞踏会。誰にも断る理由はなかった。
クレメンスは楽団に、古い形式の舞曲を命じた。
七拍子。片手の指の数で一巡する、この国の伝統的な拍子だ。
舞踏会の夜、クレメンスは壁際から床を眺めていた。ガリエンの通商使節団が踊っている。
そこに、クレメンスが見たかったものがあった。
使節団の団長は五十代だった。革命の前に育った世代。七拍子に、身体が自然に応じていた。目を閉じて踊っている瞬間さえあった。
指が、七本の指が、音に合わせて拍を刻んでいる。彼の指は六本しか残っていない。それでも、失われた第七指の幻が、音楽の中で動いていた。
一方で、若い随員たちは違った。革命の後に教育を受けた世代。七拍子に乗りきれない。四拍目と五拍目の間で足が迷う。頭で数えようとして、身体が遅れる。
それでも、彼らも七本の指を持って生まれたのだ。徐々に、この舞踏のリズムを掴んでいった。
クレメンスは団長に近づき手を差し出した。
「一曲、いかがですか」
男同士の舞踏は、この国の外交儀礼だった。
対等な立場を認めた者が、互いの身体の拍子を合わせる。言葉より先に、身体が信頼を測る。団長は頷いた。
二人は踊った。七拍子。クレメンスの七本の指と、団長の六本の指が、同じ旋律の上で動いた。
「宰相閣下」 団長が踊りながら言った。
「あなたは、ずるい人だ」
「褒め言葉と受け取ります」
舞踏会の翌日、交渉の空気が変わった。変わった、というのは大げさかもしれない。
だが団長の言葉遣いが、わずかに軟らかくなった。「締結の期限」を口にしなくなった。
代わりに「双方にとって良い形」という言い方をし始めた。
七拍子の床の上で、団長の身体は十四の記憶を蘇らせた。
かつては自分も、七と十四で数えていた。
帳簿は十二で付けている。だが足は、七歩で回った。
割り切ることに、苦味を覚えた。
クレメンスは、その隙間に交渉を置いた。帳簿と、身体の記憶の、その間。
十二と十四の間。どちらにも決まらない場所に、条約の文言を浮かべ続けた。
会議を、簡単には進ませなかった。されど、踊らせた。
それから五年、クレメンスは踊り続けた。踊りながら、考え続けた。
我が国の民は、十二進法を嫌悪している。
十二は指を削いだ国の忌避すべき狂気だ、と。
十四を守らなければならない。
だが、隣国は確かに豊かになった。このままではやがて、呑み込まれる。
我が国を守るために、十二を、十二進法を入れなければ。
商人の間に、十二の門は開き始めている。
だが、自ら十四を捨てることはできない。
自分が十四を捨てようとすれば、この均衡は壊れる。
右の七本、左の七本。指を折り、十四を数えた。
答えの代わりに、数だけを数えた。
ふと、「指削ぎの祝祭」のあとの夜、扉の前で下ろした右手のことを思い出した。
あのとき自分は、ヴァルターに何も言わなかった。
何も言わないまま、抱え続けている。
踊り続けるというのは、そういうことだった。
五、正直な男
オットーが首都の議場に足を踏み入れたのは、二十八歳の春だった。
地方の小貴族の家の出身。家名に華はない。だが、領内の農民たちはこの男を推した。 大学では経済学を、そして十二進法の論理を学んだ。
何より、生来の大柄な身体と、鋭く、かつ思慮深さを感じさせる眼。
二十代の若さに似つかわしくないその佇まいは、領民の期待を背負うには十分だった。
宰相クレメンスの名は、首都に着く前から知っていた。
「会議を踊らせる男」そう聞いていた。褒め言葉なのか皮肉なのか、わからない。オットーはそう思っていた。
議場で初めて見たクレメンスは、小さな男だった。
オットーは初めて議場に立ち、通商規制の質疑を行った。
十二進法の、制度としての導入を主張した。通商の前線である港湾だけでなく、内陸の市場でも十二の度量衡を正式に認めるべきだ、と。
十二進法の利便性は明らかだ。港湾都市と内陸部という国内で、「通訳」をしている余裕などない、と。
若い議員の直言として、議場にはざわめきが走った。
議場の後、廊下でクレメンスに呼び止められた。
「先ほどの質疑。なかなか面白かった」
宰相が新人議員に声をかける。それ自体は珍しいことではないらしい。
だがオットーは、この男の「面白かった」が額面通りではないことは察した。
「ありがとうございます。宰相閣下」
「閣下はやめろ。議場の中だけで十分だ。立場を決められるのは、肩が凝る」
軽い言い方だった。だがその軽さの中に、何か測るような気配を、オットーは感じた。
「君は十二進法を、美しいと思っているか?」
唐突なクレメンスの質問に、オットーは一瞬、目を泳がせた。
オットーは、十四の土地で育った。村の畑は十四の区割りで、境界は曖昧で、畑と林の間に誰のものでもない草地があった。子供の頃、その草地で遊んだ。誰の土地でもないから、誰も咎めなかった。
「数を数えることについて、美しさなど考えたことはありません」
オットーはそう答えた。
「そうか。では質問を変えよう。十二進法を、好ましいと思っているか」
「……それは、難しい問いです。私は大学で十二進法を学び、その効率を知っています。ただ、好ましいかと言われれば、そうではありません」
「正直だな」
クレメンスは笑みを浮かべると、オットーの七本の指に手を添えて、言った。
「オットー君。正直なだけでは、守れない。割り切れない均衡を、保てない。覚えておいてくれ」
しばらく、動けなかった。
小さな男だった。しかしオットーははるかに見上げる感覚を、覚えた。
六、二つの顔
翌月、クレメンスはオットーに側近役を打診した。
宰相の諮問役。名目上は末席だったが、実質的にはクレメンスの十二進法政策の相談相手としての要請だった。
オットーは驚いた。
この男のことは、守旧派の長だと思っていた。
議場ではこの一ヶ月、オットーの主張はクレメンスによっていなされ続けた。
そして、隣国からの十二進法の流入を、会議を踊らせ拒み続ける男。以前からそう認識していた。
しかし、執務室でオットーに初めて発せられた言葉は、議場のそれとは違った。
「十二の度量衡を内陸に広げる手順を考えろ。ただし、十四の『慣習』は壊すな」
クレメンスは平然とそう言った。
オットーは気づいた。この男は自分の主張をいなしこそすれ、遮ることなく最後まで聞いていた。
そしてその言葉は、十二を入れること自体に何の抵抗もないように聞こえた。
クレメンスの傍で、オットーは「踊り」の裏側を見た。
この男が議場で守旧派の顔をしているとき、執務室では十二の導入計画を進めていた。港湾の度量衡を十二進法に沿って制度化し、商人への規制を緩め、十二個入りの梱包を事実上推奨していたと聞いた。
「議場では反対し、執務室では推進する。それは矛盾ではないのですか」
オットーが問うと、クレメンスは書類から顔を上げずに答えた。
「矛盾か。十四が七と七で成り立っているように、政治も二つの顔で成り立っている。片方だけでは倒れる。そもそも、私が一度でも反対したか?」
「いえ、そういうわけでは。ただ、受け入れないのはつまり反対なのだと……」
クレメンスはオットーが言い終わる前に返した。
「考えすぎだ。今、何が必要なのかだけを考えろ」
その年、もう一人の若い男が議場に入った。
アウグストといった。官吏の家の出身で、法学を修めていた。
オットーより二つ年上。議場での発言は少なかったが、書類の処理は誰より速かった。数字を扱わせれば、十二でも十四でも正確だった。
そして、周囲に十二進法の優位性を説いて回った。
オットーとアウグストは、自然に隣り合うようになった。
改革を志す若手という括りで、周囲がそう並べた。
オットーはアウグストの実務能力に一目を置き、盟友と称した。
ほどなくしてアウグストもクレメンスに呼ばれ、オットーと共に諮問役に加えられた。
アウグストは、クレメンスの政治家としての巧みさを評価していた。
「あの方は巧い。あの舞踏会の一件。ガリエンの使節の心理を読んで、七拍子で揺さぶった。見事な戦術だと思う」
オットーは黙って聞いていた。戦術。その言葉に、かすかな違和感があった。だが何が違うのか、まだ言葉にできなかった。
七、抜擢
オットーに任された仕事は、形になり始めていた。
内陸の市場に十二の度量衡を段階的に導入する計画。商人への支援。農村部の流通路の整備。地味な実務だったが、効果は出た。港湾都市の商人たちは、やがてガリエンの商品よりも自国の商品を優遇するようになった。
十二で取引し、十二で帳簿をつけ、ガリエンの商品よりも良い棚に並べるようになった。
優遇というのは、正確ではないかもしれない。
商人たちは自国の商品が優れていることを、誇るようになっていった。
商人にも製造業者にも、この変革をもたらしたオットーの名は少しずつ知られていった。
一方で、オットーの意思と構想を実務に落としたのは、アウグストだった。
商人や製造業者たちとの複雑な調整を淡々と、正確にこなした。
報告書は常に簡潔で、数字に誤りがなかった。クレメンスはアウグストからの報告書に目を通すと、何も言わずに頷いた。
一方でオットーにはいつも何か一言あった。問いかけ、皮肉、あるいは沈黙。アウグストには頷きだけだった。
ある夜、議場での討議の後、オットーとアウグストは二人で酒を飲んだ。
「宰相は、なぜ俺には色々と言い、君ばかり褒めるんだと思う?」
オットーが問うと、アウグストは即答した。
「君は気を遣いすぎなんだ。内陸の市場に十二の導入をやれと言われた。それならただ、やればいいだけだろう」
アウグストの言葉に、オットーは目を丸くした。
「それはそうだ。だが、十四の『慣習』は壊すな、とも言われた」
「慣習など曖昧なものだ。制度を入れれば、それがいずれ慣習になる。そう思わないのか」
「……それはそうだが」
「オットー。ところで俺は宰相に褒められた覚えはないぞ。君にはそう見えるのか」
「それはそうだろう。君の報告に、宰相はただの一度も文句を言ったことがない」
「わかったわかった。そう思うことにするよ」
クレメンスへの敬意、ちょっとした愚痴。
自国をガリエンに負けない豊かな国にすること。
お互いが欠かせない存在であること。
二人は、夜通し語り合った。
ある日、クレメンスはオットーを外交の場に連れ出した。
ガリエンとの国境紛争の調停だった。小さな案件。川の中洲の帰属。どちらの国のものでもないような土地。
「見ていろ。口は出すな」
交渉は三日続いた。中洲の帰属は決まらなかった。決まらないまま、両国が共同で利用する取り決めだけが残った。
帰りの馬車でオットーが言った。
「決まらなかったではないですか」
「決まらなかったのではない。決めなかったのだ。あの中洲は、どちらのものでもないことに価値がある」
クレメンスの外交に同行するうち、オットーは苛立ちを覚えた。
結論が出ない。条件が決まらない。会議が終わるたびに、次の会議の日程だけが決まる。
内政においては、執務室で答えを選んでいる。なぜ外交ではそれができないのか。
「なぜ、決めないのですか」
何度目かにそう問うたとき、クレメンスは答えた。
「国内の制度は、間違えたら戻すことができる。条約は、後戻りができない。だから、書かないことが最善のときがある」
転機は、東方の国、ベームとの交渉だった。
ガリエンがベームに同盟を持ちかけていた。結ばれれば、自国は東西から挟まれる。
クレメンスはオットーに言った。
「行ってこい」
初めての独立した任務だった。
「一つだけ言っておく。十二で考えるな。十二で考えれば、同盟を阻止するか、対抗同盟を組むか、どちらかになる。割り切れる選択肢は、割り切ろうとする対立を生む」
オットーはベームへ交渉に赴いた。
同盟を阻止しなかった。対抗同盟も組まなかった。代わりに、通商と文化の協定を結んだ。同盟ではない、曖昧な友好協定。
その後、ガリエンはベームとの同盟を結んだ。
しかし、その同盟は自国とベームの協定に対し、微妙に矛盾する条項を含んでいた。
ベームはどちらの味方でもなく、どちらの敵でもない。そういう場所に置かれた。
オットーに、クレメンスは一言だけ言った。
「悪くない」
その言葉を受けて、オットーは珍しく饒舌になった。
ベームで見た風景を語った。山間の村は、十四の区割りだった。
境界の曖昧な畑。誰のものでもない草地。
「あの風景は、私の故郷に似ていました」
そう言ってから、少し黙った。言いすぎた、と思った。
十二の導入を推進する立場の人間が、十四の風景を懐かしむ。矛盾だ。
クレメンスは何も言わなかった。かすかに、微笑んだように見えた。
その年の冬、クレメンスはオットーに外交の全権を委ねた。
閣議で発表したとき、誰もが驚いた。若すぎる。経験が足りない。
クレメンスは一言だけ言った。
「この男は、決めずに保つことができる」
その言葉の意味を、閣議の誰も正確には理解しなかった。
アウグストも理解しなかった。オットーだけが、わずかに身を固くした。
その夜、オットーはアウグストと飲んだ。
「大抜擢だな。宰相は君をよほど買っている」
アウグストは素直に祝った。嫉妬はなかった。外交は自分の領分ではないと知っていた。自分の仕事は内政の実務であり、それはそれで十分に重い。
「外交は君がやれ。内政は俺がやる。そうすれば、この国はうまく回る」
合理的な分担だった。オットーも頷いた。
だが心のどこかで、クレメンスが「決めずに保つことができる」と言った言葉が引っかかっていた。アウグストにそのことは話さなかった。
八、変質
それから十五年が過ぎた。
オットーはベームとの協定を起点に、周辺諸国との均衡の網を編み上げていった。どの国とも同盟を結ばず、どの国とも敵対しない。通商と文化の条約や協定が幾重にも重なり、微妙に矛盾し合いながら、全体としては誰も動けない均衡を作り出していた。割り切れない均衡。クレメンスが踊りで守ったものを、オットーは条約や協定の網で保った。
一方、アウグストは内政での十二進法の適用範囲を、着実に広げていった。
度量衡、通貨、徴税の計算方法。港湾から始まった十二は内陸の町に浸透し、やがて行政の隅々にまで届いた。報告書は常に簡潔で、数字に誤りはなかった。
ただ、一つ手をつけられない領域があった。
土地だった。
農地の区割りは、十四のまま残っていた。
帳簿は変わった。市場は変わった。度量衡は変わった。しかし畑の形だけは、百年前と同じだった。
農民にとって、土地は帳簿ではなかった。足で歩き、手で耕し、身体で覚えるものだった。畝の数は十四。七歩で畝の端から端。その歩幅に、作物が植わり、季節が巡り、命が繋がっていた。
境界は曖昧だった。畑と林の間に、誰のものでもない草地があった。非効率だった。だがその草地が、共有の牧草地になり、洪水には遊水地になる。余白が命を支える、と言われていた。
クレメンスもアウグストも、そこには踏み込めなかった。民の抵抗は理屈ではなかった。土地に触れるな。
それは霊的とも言える、民の身体からの拒絶だった。
その年の夏、大旱魃が来た。雨が降らなかった。川が細り、畑が割れた。
十四の区割りで耕された農地は、十四の非効率をそのまま抱えていた。
水路は曲がりくねり、灌漑は畑ごとに異なり、統一的な対処ができなかった。
隣国ガリエンでは、十二の区画で整備された農地が、効率的な灌漑で被害を抑えていた。同じ空の下で、同じ日照りに見舞われながら、収穫は持ちこたえた。
だがガリエンも豊作ではなかった。やがて、あの瓶詰めは入ってこなくなった。
民は、飢えていった。
閣議は荒れた。
「今こそ、農地の区画を改める時だ。十二の区割りに改め、水路を統一しなくては」
アウグストが立った。数字を並べた。ガリエンの農地と自国の農地の収穫量の比較。灌漑効率の差。餓死者の予測。自国の農地を十二の区割りにすることの効果。計算は正確だった。どの数字も、十二が正しいと告げていた。
だが閣議は動かなかった。土地に手をつければ、農民は反発する。反発では済まないかもしれない。
「数字の問題ではない」
古参の大臣が言った。
「土地は、民の身体そのものだ。帳簿を変えるのとは訳が違う」
オットーは閣議の席で古参の言葉を聞きながら、幼い日のことを思い出していた。
故郷の村の水路は、一度だけ大きく曲がっていた。子供の頃、父にその曲がりの意味を尋ねたことがある。父は答えなかった。代わりに、曲がり角の脇に石が置かれているのを指差した。苔むした、名もない石だった。
後に村の老人から、あの場所ではかつて人が死んだのだと聞いた。
誰が、いつ、どのような経緯で死んだのか、水路の曲がりと関わりがあるのか、もう誰も知らない。ただ、人が死んだということだけが伝わっていた。
水路は曲がったまま流れ続けていた。畑はその曲がりに従って区割りされ、畝はその区割りに従って引かれ、作物はその畝に従って植わった。
議論が膠着した三日目、クレメンスが口を開いた。
「オットーに任せる」
閣議が静まった。
「オットーは十四の土地を、民の感覚を知っている。一方で、十二の制度を、民の暮らしのために推進してきた。外交においても均衡を守った。農地の改革に、これ以上の適任はない」
アウグストは頷いた。実務は自分が支えられる。だが、民の前に立ち、民の言葉で語れるのはオットーしかいない。
オットーは黙って受けた。受けるしかなかった。飢えている民がいる。今、何が必要か。答えは一つしかない。
オットーは自分の手を見た。
右の七本、左の七本。この手で、十四の土地を十二に変える。故郷の草地と同じ風景を、整然とした区画に引き直す。あの誰のものでもない草地を、誰かのものにする。あの水路も、真っ直ぐにする。
その年の秋、畑が枯れた国の王宮で、皇太子が生まれた。フリードリヒと名づけられた。
オットーが農地改革に着手した翌月、クレメンスは議場で声を上げた。
「土地は民の魂だ。十二の区割りに変えることは、この国の根を断つことに等しい」
議場がざわめいた。オットーに農地改革を任せると言ったのはクレメンスだ。その男が、そう言った。
クレメンスは、変わった。
議場に立つたびに、十四の伝統を語った。農地の区割りは祖先からの預かりものだ。水路の曲がりには意味がある。効率で測れないものがある。
かつて「十四の手続きで動く国でしてな」と軽妙に語っていた男から、軽さが消えていた。
オットーは戸惑っていた。
執務室でのクレメンスは変わらなかった。農地改革の進捗報告に目を通し、修正を入れ、時に鋭い助言をくれた。
だが議場では十四の伝統を語る。
私に任せると言ったではないか。その言葉は飲み込んだ。
クレメンスは「二つの顔」を持つ男だ、何か考えがあるに違いない。
そう自らに言い聞かせた。
やがて民の間で、二人の名は対照的に語られるようになった。
オットーは飢えた民のために、土地を変えようとしている。
クレメンスは変化を恐れ、旧弊にしがみつき、オットーの邪魔をしている。
「会議を踊らせる男」は、「踊りしか知らない老人」になったと囁かれた。
「あの人は、老いたのだ」
アウグストはオットーに耳打ちをした。
「いいか、次は君が宰相だ。君なら十二も十四もわかる。俺が内政を支える。今と同じだ」
合理的だった。正しかった。
民もそう望んでいるのかもしれない。オットーはそう思った。
九、失言
農地の改革は急務ではあった。
だがそれが効くのは早くても翌年以降の話だ。
今、多くの民が、飢えで死の淵にいる。それこそが喫緊の課題だった。各地からの報告によると、畑が枯れたのは全土ではなかった。西部の穀倉地帯は持ちこたえている。食糧はたしかに足りない。しかしそれ以上に、届いていないのだ。
オットーとアウグストは閣議に提案を出した。食糧の流通を、国が一時的に管理する。配分を十二の計算で最適化する。どの町にどれだけの穀物を、どの経路で送れば、最小の犠牲で冬を越せるか。
アウグストの数字は明快だった。流通経路、輸送量、配分比率。十二で計算すれば、割り切れる。どの町にも、最低限の食糧は届く。
しかし、クレメンスは認めなかった。
「流通の管理統制はたしかに必要だ。だが十二の様式は許さない。十四の様式でやれ」
閣議が凍った。
流通の帳簿は、とうの昔に十二で動いている。商人は十二で数え、倉庫は十二で管理されている。いまさら十四に戻せば、現場が混乱する。
「宰相。流通はすでに十二で動いております。いま切り替えれば、配給が遅れます」
アウグストが数字を出した。十四に切り替えた場合の遅延日数、その遅延が生む餓死者の推計。
クレメンスは数字を見なかった。
「多少の犠牲は、やむを得ない」
クレメンスはそう言った。
「十二の流通は民が望んで、民の手でやった。それは構わない。農地の改革も、今や民が望むことだろう。だが国家が表立って十二の流通統制を行うのは、十二をただの制度ではなく、思想として広めるのに近い。そうなれば、この国から十四は消える。いや、民は十四を奪われた、と感じるだろう。多少の犠牲は、必要だ」
その言葉に、議場は沈黙した。オットーは、自分の耳を疑った。
オットーは夜、一人で考えた。
クレメンスの言葉を、何度も反芻した。「十二をただの制度ではなく、思想として広めるのに近い」
論理としては、筋が通っている。たしかに、十二の流通を整備はしてきたが、強制はしていない。民が選んだ。
国家が十二で統制すれば民は十四を奪われたと感じる。それはそうかもしれない。その危惧は理解できる。
だが「多少の犠牲は必要だ」これは正しくない。正しくないはずだ。
クレメンスの発言は、議場の外に漏れた。
「宰相は、十四を守るためなら民が死んでも構わないと言った」
偏った引用ではあった。だが、たしかに言ったことだ。
飢えた民の間に、怒りが広がった。十四を守るために民を殺す気か。あの老人は十四に取り憑かれている。踊りしか知らない老人が、民の命を踊りの道具にしている。
オットーの名が叫ばれ始めた。オットーに任せろ。オットーなら十二で救ってくれる。
アウグストは、その声を自分の執務室でも聞いていた。窓の下を通る民の声。
数字も見ていた。餓死者の数、流通の遅延、倉庫の在庫。どの数字も、一つの方向を指していた。
かつて自分が尊敬した宰相は、数字の届かない場所で語っている。十四の伝統、民の魂、失われる美しさ。言葉としては理解できた。だが言葉と数字が噛み合わない。
言葉と数字。実務家として選ぶべきはどちらか、アウグストは学んできた。十二で動く帳簿、十二で回る流通、十二で最適化される配分──それを整えるようにと言ったのはクレメンスだった。クレメンスから学んだはずだ。
あの人は老いた。アウグストはそう結論づけた。悲しかった。だが悲しむだけでは、民は救えない。
アウグストがオットーの耳元で言った。
「もう限界だ。あの人がいる限り、民が死ぬ」
オットーは黙っていた。
「俺が閣議で不信任を出す。君は何も言わなくていい。ただ、止めないでくれ」
閣議でアウグストが立った。
宰相の不信任。流通統制の妨害。餓死者の増加。数字を並べた。どの数字も正確だった。
閣議の目がオットーに集まった。
オットーはクレメンスを見た。小さな男が、宰相の椅子に座っている。
オットーは口を開いた。
「……民が、飢えております」
「宰相閣下。あなたが十四の伝統を守ろうとするのはわかります。私とて、十四を捨てたくはない。ただ、今のあなたは、十四を、貶めている」
貶めている。思わず口をついて出た。その言葉を自ら反芻したとき、オットーの脳裏にある考えがよぎった。
──まさか。
「……考えすぎだ。オットーよ」
クレメンスはオットーを見ながら、そう言い、鼻と顎をさすった。
オットーはそれ以上、何も言えなかった。
クレメンスは辞表を出した。抵抗はなかった。弁明もなかった。
首都を去る日、クレメンスは誰にも会わなかった。
翌日、オットーは御者に行き先を告げた。
「宰相の、クレメンスの屋敷へ、向かってくれ」
十、成長
ほどなくして、オットーは宰相になった。
各地に赴き農地の、食糧の、十二による改革を、統制を、説いて回った。
民は、涙を流しながら、頷いていた。
あの「指削ぎへの忌避」は、もうそこにはなかった。
アウグストは十二を使った流通統制で、飢えによる犠牲を最小限に留めた。
その勢いをかって農地の改革を一気呵成に進めていった。十二の区割りに変わった畑は翌年から収穫を増やした。水路は統一され、灌漑は効率化された。
それから数年。十二の区割りは首都から近郊へ、地方都市へと広がっていた。
だが、オットーは知っていた。畑と畑の間にあった草地が消えたことを。
誰のものでもなかった土地が、誰かのものになったことを。
余白が消え、境界が引かれ、割り切れるようになったことを。
そして、それらを進めたのは紛れもない、自分自身であることを。
オットーの政治は、二つの顔を持っていた。
内政は十二の論理を中心に置いた。それをアウグストが支えた。制度は整い、帳簿は正確に動いた。ガリエンに劣らない効率を手に入れ、国は豊かになった。
外交は十四だった。どの国とも同盟を結ばず、どの国とも敵対しない。割り切れない均衡の網は、オットーの手で保たれ続けた。
クレメンスの二つの顔を、オットーは継承していた。クレメンスが議場と執務室で使い分けていたものを、オットーは内政と外交で使い分けていた。
旱魃の年に生まれた皇太子フリードリヒは、十二の風景の中で育った。
整然と区画された農地。効率的な水路。十二個入りの箱が並ぶ市場。この国の豊かさは十二が作ったものだと、誰もが言った。フリードリヒもそう信じた。
オットーは、時折フリードリヒに十四の話をした。かつて畑の区割りは十四だったこと。境界が曖昧で、誰のものでもない草地があったこと。
フリードリヒは聡明な子供だった。聞いた。理解した。だが、それが何を意味するのかは、わからなかった。草地の余白を知らない身体に、余白の意味は届かなかった。
フリードリヒの教育には、アウグストが関わっていた。
オットーが外交で不在の間、内政の実務を見せることが教育になるとオットーは考えた。帳簿の読み方、制度の仕組み、数字の扱い方。アウグストはそれを淡々と、正確に教えた。
フリードリヒはアウグストに懐いた。アウグストの話は明快だった。問いには必ず答えがあった。数字は割り切れた。
オットーの話は違った。問いに対して、問いが返ってくる。答えのようで答えでないことを言う。フリードリヒにはそれが、もどかしかった。
フリードリヒが十歳になった年、オットーはアウグストを皇太子の補佐役として、正式に任じた。
今、何が必要か。フリードリヒには実務を学ばせなければならない。国を治める技術。数字を読む力。制度を動かす経験。アウグストほどの適任はいない。
オットーはそう信じていた。
ある日、フリードリヒが外交の報告を読んで首を傾げた。
何が決まったのか、理解できないと言う。
アウグストは説明した。
「殿下。この条約は、わざと曖昧になっているのです。宰相のやり方です。決めないことで均衡を保つ、という考え方です」
フリードリヒは納得がいかない、という顔で言った。
「均衡を保ちたいなら、均衡のとれた形に決めればいいのではないか」
アウグストは答えに詰まった。論理としては、正しかった。
「殿下は聡明でいらっしゃいますね」
それしか言えなかった。
オットーは外交に忙しかった。
均衡の網は、維持するだけでも膨大な労力を要した。条約の更新、協定の微調整、使節との舞踏会。どの糸も、放置すれば緩む。
その間、アウグストの明快さの中でフリードリヒは育っていった。
──それは、御前会議の席だった。
体調を崩した国王の代役として参席した十二歳のフリードリヒが、
「なぜ裁きと統治を切り分けてはいけないのだ」と問うた。
オットーは説明ができなかった。
「私にはわからぬ。なぜ皆、このように割り切れぬことを好むのだ」
その一言に、オットーは気づいた。
速すぎた。そして、遅かった。
アウグストは少年の成長に、目を細めていた。
十一、孤立
フリードリヒが即位したのは、十八歳の年だった。
聡明で、明快で、迷いがなかった。前国王の崩御の悲しみはあったが、臣下たちはこの若い国王に期待した。
フリードリヒは若さが不利であることも心得ていた。
口髭を生やし、威厳のある形に整え、その不利を補った。
国は変わっていた。
オットーが宰相になってから十数年。農地は十二の区割りで整備され、収穫は安定した。市場は活況を呈し、ガリエンとの通商は対等になっていた。もはや瓶詰めに怯える国ではなかった。
フリードリヒは豊かさの中で育った。この豊かさを作ったのは十二だと知っていた。そして思っていた。なぜ外交だけが、いまだに古い十四の論理で動いているのか。
フリードリヒは外交の報告を読むたびに苛立った。
ベームとの協定の更新。条件の微調整。曖昧な文言の維持。何も決まっていないように見えた。
「なぜ、このような曖昧な協定を残すのだ」
フリードリヒはオットーに問うた。
「ベームとは友好的ではないか。ガリエンとも、敵対はしていない。呑み込まれることもない。ならばベームと正式に同盟を結び、ガリエンとも対等に結べば、すべてが安定するではないか」
オットーは答えた。
「我が国が同盟を結ばず曖昧な状態を保つことで、東方の大国ロースクが我が国を攻める理由を封じているのです」
「ならばロースクとも均衡が崩れないような条約を、明確に結べばいいだろう」
なぜ割り切れる形に決めないのか。フリードリヒはそう言う。
オットーは、あの日の御前会議を思い出していた。
アウグストは、フリードリヒとオットーの間にいた。
内政の実務家として、フリードリヒの信頼を得ていた。同時に、オットーの盟友でもあった。
ある日、フリードリヒが問うた。
「アウグスト。率直に聞く。オットーの外交は、古いのではないか」
アウグストは少し間を置いた。
「陛下。宰相の外交は、間違いなくこの国を守ってまいりました。ただ、時代は変わっております」
否定はしなかった。否定する材料を、アウグストは持たなかった。
十数年、あるいは三十年以上、隣で帳簿を支え、数字を揃え、盟友と呼び合った。
その間、外交上の問題は何一つ起きていない。
だが、それがオットーの外交の成果なのか、そうではないのか、ついに見えなかった。
見えなかった。見えないものを、若い国王に説明することはできなかった。
見えないものを見えるように語ることは、アウグストの流儀ではなかった。
フリードリヒには構想があった。
この国は十二で豊かになった。ならば外交も十二でやればいい。明確な同盟、明確な条約、明確な敵と味方。曖昧さを排し、効率的な外交を行う。
それはフリードリヒにとって、自然な発想だった。内政で成功した方法を外交にも適用する。
オットーの「割り切れない均衡」が何を守っているのか、フリードリヒには見えなかった。見えないものは、ないのと同じだった。
オットーは気づいていた。
フリードリヒの苛立ち。アウグストの沈黙。閣議の空気の変化。かつてクレメンスに感じた「老い」を、今フリードリヒが自分に感じている。
あの日のアウグストの言葉が蘇った。「宰相は、老いたのだ」
いや、自分はクレメンスが老いたと思ってはいなかった。
アウグストに、思わされた。そう決められた。
アウグストに悪意はなかった。正しいと思った。だから、彼を信じた。
今、フリードリヒが同じことを思っている。
──あるいは、思わされている。
オットーは初めて、師の孤独を理解した。
終章 両の手
フリードリヒは即位から二年で、外交に手をつけ始めた。
最初は小さなことだった。使節への指示に、オットーを通さず直接口を出した。条約の文言に「明確にせよ」と朱を入れた。
オットーは黙認した。若い国王が自分の色を出したがるのは自然なことだ。
フリードリヒがベームとの正式な同盟を命じようとしたとき、オットーは反対した。
「ベームとの関係は、曖昧であることに意味があります。同盟を結べば、ロースクが動きます」
「ロースクとも結ぶ。すべてを明確にすれば、すべてが安定する」
「すべてを明確にすれば、矛盾が露わになります。矛盾が露わになれば、どちらかを選ばなければならなくなります」
「選べばいい。我が国にはその力がある」
オットーは黙った。この国を豊かにしたのは自分の政策だ。
その豊かさが、今、外交を殺そうとしている。
アウグストがフリードリヒの耳元で言ったのか、フリードリヒがアウグストに問うたのか。後にオットーはそれを確かめることができなかった。
ただ結果だけがあった。
フリードリヒはオットーに言った。
「オットーよ。お前の外交方針は、朕の構想と相容れない」
閣議でフリードリヒが宣言した。
「外交の方針を改める。曖昧な協定を整理し、明確な同盟関係を構築する」
オットーは席に座っていた。反論の言葉はあった。だが言わなかった。
アウグストがオットーを見ていた。
十二年前、同じ目でクレメンスを見ていた自分を、オットーは思い出した。
いや、違う。同じ目ではない。
あの人は老いたと、古くなったと、自分は思っていなかった。思っていなかったはずだ。
オットーが宰相の職を辞した翌日、アウグストがオットーを訪ねた。
「すまなかった」
オットーはアウグストを見た。この男の「すまなかった」は本心だ。
クレメンスの不信任決議の時も、アウグストは同じことを言っただろうか。
いや、あのときは祝いの言葉だった。「次は君が宰相だ」そう言われた。
「君は間違っていない。謝るな」
オットーはそう言った。アウグストは間違っていない。フリードリヒも間違っていない。
誰も間違っていない。ただ、割り切れないものは、消えていく。
次の日、オットーは馬車に乗った。
行き先を告げると、御者は静かに頷き、馬車を走らせ始めた。
出がけに、オットーは門番に一言だけ告げた。門は閉めなくてよい、と。門番は怪訝そうな顔をしたが、頷いた。
馬車は首都を出た。十二の区画が整然と並ぶ風景。
自分が作った風景。退屈で、効率的で、豊かな風景。
やがてそれが崩れ、古い様式が混じり始める。
十四の区割りが残る土地。まだ、残っていた。
オットーはただ、窓の外を眺める。
そしてその両の手で、繰り返し、十四を数えた。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。