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姥捨会議

奥井晴弥

16,978 字

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一、目撃
秋庭頼賢が領内の視察に出たのは、格別の理由があってのことではなかった。春の終わりの、風の柔らかい日だった。供は二人。
山あいの道を北へ向かったのは、田植えの支度を見ておきたかったからだ。今年の雪解けは遅かった。苗の生育が気にかかる。家臣の話と、実際に土の上で起きていることはしばしば違う。足を運べばわかることを、足を運ばずに済ませるのは怠慢だと、考えるのが頼賢の常であった。
村に近づくにつれ、道はやせていった。両脇から草が迫り、踏み固められた幅は人ひとり分しかない。供の者が前後に分かれ、頼賢を真ん中に挟む形になった。

臭いに気づいたのは、川を渡る手前だった。

水の臭いではない。獣でもない。頼賢は歩調を変えなかった。供の者の足音が背後にある。ここで立ち止まれば、二人も立ち止まる。立ち止まった理由を問われれば、答えなければならない。
道の脇の草むらに、何かがあった。布にくるまれた、小さな何か。頼賢は足を止めなかった。歩きながら、自分の呼吸を意識した。乱れてはいない。驚いていないのか。いや、驚いてはいる。だが驚きの形が違う。予期していなかったものを見た驚きではなく、知っていたものが目の前に現れた驚きだった。

帳面にはない数字。領主にとって帳面を読むとは、その余白に何があるかを考えることだ。年貢の記録。出生の届け。死の届け。三つの数字の辻褄が、どの村でも微妙に合わない。合わない分が何を意味するのか、考えてはいた。だが帳面を読むことと、臭いを嗅ぐことは違う。

村に着くと、田の支度は思ったより進んでいた。水は足りている。苗は悪くない。庄屋が出てきて頭を下げ、今年の見通しを語った。頼賢は丁寧に聞いた。作柄の話をしている間、あの臭いのことは意識の底に沈めるようにした。

帰路は別の道を選んだ。供の者は何も言わなかった。頼賢も何も言わなかった。

城に戻り、夕餉を終え、一人になって初めて、頼賢はあの道のことを考えた。
考えた、というより、堰を外した。歩いている間ずっと水面の下にあったものが、一気に上がってきた。

あの布は産着だった。いや、産着であったかどうかはわからない。だが頼賢にはそう見えた。見えたということは、そう見る準備があったということだ。間引き。言葉は知っている。帳面の辻褄が合わない理由として、もっとも簡明な説明だった。この藩だけの話ではない。山あいの、土地のやせた、冬の長い国では、どこでも起きていることだ。

頼賢は自分が何を感じているのかを確かめようとした。怒りか。悲しみか。そのどちらでもなかった。もっと冷たく、もっと硬いものだった。

罰するか。

誰を。布の傍にいたであろう人間を。だがあの道には誰もいなかった。仮にいたとして、捕らえて、裁いて、罰する──それで何が変わるのか。
罰は何も解かない。罰は民の腹を満たさない。

ではどうする。

頼賢は自分の思考が、いつの間にか一つの水路に流れ込んでいることに気づいた。あの道で足を止めなかった瞬間から、すでにこの方向へ歩き始めていた。口が多い。だから口を減らした。これが民の論理であるならば、頼賢が問うべきは「なぜ減らしたか」ではなく「誰を減らすか」の基準だった。民は赤子を選んでいる。まだ名もなく、顔も知られず、誰の記憶にも深くは刻まれていない命。それ自体を責めることは、頼賢にはできなかった。追い詰められた者がもっとも柔らかい場所を選ぶのは、残酷ではなく道理だ。

だが、道理だからといって放置するのは、統治ではない。

収穫を増やす策があれば解決する。だが頼賢にはわかっていた。新田の開墾は容易ではない。地形が許さない。交易は隣国との関係に左右される。年貢を下げれば藩が傾く。どの道をたどっても、民の口と食分の差は埋まらない。

差が埋まらないならば、口を減らすしかない。

頼賢は自分がその結論に至ったことを、静かに認めた。あの道端の布を見た人間としてではなく、為政者として。

口を減らす。だが赤子ではない。

赤子を殺すことは、未来を食うことだ。子はやがて育ち、田を耕し、次の子を産む。その連なりを断つことは、今年の飢えを凌ぐために来年の種籾を食うのと同じだ。

ならば。

思考がその先に踏み込んだとき、頼賢は自分の体が冷えていることに気づいた。夜気のせいではなかった。老いた者。すでに田に出る力を失い、口食だけを必要とする者。その命と、まだ名もない赤子の命を秤にかけるならば。

頼賢は秤にかけていた。

かけてはならぬ秤であることは、わかっていた。わかっていて、かけていた。ほかに秤がなかった。

赤子を殺すくらいならば、老いた者を棄てよ。

その言葉が頭の中で形を取ったとき、頼賢はまず、それを口にした場合の家臣たちの顔を思い浮かべた。反発するだろう。だが反発の中身を想像すると、頼賢はある種の冷たい確信を覚えた。家臣たちは反発する。だが対案を出せるか。

出せまい。

出せないならば、最後にはこの道しか残らない。

頼賢は行灯の灯を見つめた。芯が傾いで、炎が揺れている。手を伸ばし、芯を立て直した。部屋が少しだけ明るくなった。だが藩の抱えた問題は、芯を直すようにはいかない。どこかを明るくすれば、別のどこかが暗くなる。すべてを照らす油は、この藩にはない。

ならば、どこを暗くするかを選ばねばならない。

その夜、頼賢は誰にもあの道のことを話さなかった。すべてを抱えたまま、目を閉じた。

赤子殺しのことは、誰にも告げぬ。この先も告げぬ。民を罪人にしないために。──そう自分に言い聞かせた。それは嘘ではなかった。告げれば、自分がこれから何をしようとしているのか、その起点を明かすことになる。赤子の代わりに老人を差し出す。そのような交換の論理を、領主の口から語ることはできない。語れば、「老いた者の命は赤子より軽い」と帳面に記されることになる。語らぬ方がよい。語らぬことこそが、民のためだ。

頼賢はその判断を、善いことだと信じた。

二、会議
広間に重臣たちが揃うまでに、頼賢にはすでに結論があった。だが、すぐに出すつもりはない。結論を先に示せば、家臣は賛否を述べるだけの役になる。そうしないために、手順を踏まねばならない。
四人の重臣。頼賢は末席から順に顔を見た。それぞれの表情に、それぞれの警戒があった。急な召集の理由を測りかねている者。おおよその見当をつけて、すでに腹を据えている者。

「民の口食が足りておらぬようだ」

頼賢がそう切り出したとき、広間の空気が微かに動いた。政にはつきものの、居心地の悪さ。知らぬふりができなくなったのではない。知っていたことを、知っていたと認めねばならなくなったのだ。最初に口を開いたのは、頼賢の予想通りの人間だった。

「新田の開墾をお許しいただければ」

江木清十郎。家臣の中ではもっとも若い。声に力がある。まだ何かを変えられると信じている者だ。北の山裾を切り開けば、三年で実りが出る。水路を引き直せば、既存の田の収量も上がる。藩の未来に賭けるべきだ──

頼賢は最後まで聞いた。最後まで聞くのは礼儀であり、論の弱さを話す者自身に気づかせる時間でもある。

「北の山裾は石が多い。切り開いたとして、土が実りを返すまでに何年かかる。その間、むしろ多くの口食が必要になる」

江木は黙った。黙り方に悔しさがあった。答えが足りないことを自分でわかっているのだ。頼賢はこの男が嫌いではなかった。だが今日は、好き嫌いの話ではない。

「水路の件はどうか。普請の入用と人手は賄えそうか」

頼賢が重ねて問うと、江木はしばらく考えてから、正直に首を振った。具体の算盤を持っていなかった。頼賢はそれ以上は追わなかった。

次に声を上げたのは、成瀬喜左衛門だった。成瀬は穏やかな声で言った。

「年貢を軽くされてはいかがか。民の口食が足りないのであれば国の取り分を減らすのが道理」

頼賢は頷いた。頷いたのは同意ではなく、その意見が出ることを待っていたからだ。

「年貢を軽くすれば、たしかに民は楽になる。だが藩の蓄えはどうなる。飢饉のとき、備えがなければ救えるものも救えぬ。年貢を下げた年に不作が来れば、藩ごと傾く」

成瀬は反論しなかった。反論する気がなかったのだろうと頼賢は思った。この男は案を出したのではない。案を出したという事実を作ったのだ。退けられることを見越して、しかし黙っていたとは言われぬように。頼賢はそうした振る舞いを責める気にはなれなかった。家臣とはそういうものだ。責めるべきは、その程度の対案しか出ない状況の方だった。

「恐れながら申し上げる。長幼の序は天の定めたる道理にございます」

堀江帯刀。儒学を修めた家臣だ。白髪の、背筋のまっすぐな男で、周囲の信頼が厚い。この男が長幼の序を持ち出すのは、道徳の話をしているようでいて、実は壁を立てているのだと頼賢にはわかっていた。「長幼の序」と言えば、老いた者を切り捨てる案はその先に進めない。進めなければ、議論は別の方向へ流れる。別の方向に流れれば、この男自身が考えたくないことを考えずに済む。

だが頼賢は、この家臣の言葉を正面から受けた。

「長幼の序を言うのはいささか勇み足ではないか。まあそれは良い。たしかに長幼の序は道理だ。だが道理で腹は膨れぬ。道理を守って民が飢えるのと、道理を曲げて民が生きるのと、いずれを取る」

堀江は目を伏せた。頼賢の問いに答えることは、どちらを答えても自分の立場を危うくする。道理を取ると言えば民を見殺しにする覚悟を問われ、民を取ると言えば自ら道理を捨てることになる。

広間が静かになった。

三つの案が出て、三つとも退けられた。頼賢はそのことを確認するように、一人ずつ顔を見た。目が合った者は視線を外した。視線を外しながら、何かを待つ目をしていた。

誰も次の案を出さなかった。

頼賢がもっとも注意深く見ていたのは、この沈黙だった。四人の重臣がいて、全員が口をつぐんでいる。案が尽きたのではない。まだ案はある。それを誰も口にしないのだ。

頼賢にはわかっていた。彼らの何人かは、頼賢と同じ場所にたどり着いている。口を減らすしかない。民はおそらく、いや間違いなく、赤子を殺すことで口を減らしている。しかし減らすならば赤子ではなく、老いた者の方が理に適う。だがそれを口には出せない。言えば、自分がその案を考えたことになる。考えたということは、年長者の命を秤にかけたということになる。秤にかけたのが自分だと知られることを、この広間の誰もが恐れている。

中には、別の恐れを抱いている者もいるだろう。この広間にいる者の中で、若いと言えるのは一人だけだ。残りは壮年から老年にかかっている。老いた者を捨てるという案を口にすることは、自分の親を、あるいはいずれ自分自身を、その秤の上に載せることだ。

だが誰もそうは言わない。言わない代わりに、黙っている。黙ることで、何も考えていないふりをしている。頼賢はその沈黙を見ていた。

「棄老の制を設ける」

頼賢が言った。声は静かだった。

広間に走ったのは驚きではなかった。驚きとは、予期していなかったものに対する反応だ。この広間にいる全員が、その言葉がいずれ出ることを知っていた。知っていて、自分の口からではなく頼賢の口から出たことに、安堵と恐怖が混じった何かを覚えたのだ。
堀江が声を上げた。

「それは──」

言いかけて、止まった。止まったのは、反論の言葉が見つからなかったからではない。反論はすでに述べた。長幼の序。だがそれは先ほど退けられている。同じ論を繰り返すことの意味を、この男は理解していた。

江木が口を開いた。

「民が従いましょうか」

それは道徳の問いではなく、実務の問いだった。頼賢はこの問いを待っていた。道徳で反対されれば道徳で返さねばならない。だが実務の問いならば、実務で答えられる。

「従うか従わぬかではない。口食が足りぬことは、民もわかっておる」

「わかっていることと、受け入れることは──」

「同じではない。だから制を設ける。個々の家の判断に任せれば、恨みは隣家に向く。藩の触れとして出せば、恨みは私に来る。それでよい」

頼賢がそう言ったとき、広間の空気が変わった。変わった、というより、定まった。頼賢が恨みを引き受けると言ったことで、家臣たちの中にあった抵抗のいくつかが行き場を失った。反対する理由が道徳であるならば、道徳の代償を領主が負うと言った以上、その抵抗は「領主に代償を負わせたくない」という情の話になる。情で政を止めることは、この広間の流儀ではない。

成瀬が口を開いた。

「仔細を伺いたい」

それは賛成の言葉ではなかった。だが反対の言葉でもなかった。仔細を聞くということは、すでに議論を「是か非か」から「どう行うか」に移したということだ。頼賢はこの一言を、採決よりも重く受け取った。

「六十を越えた者を対象とする。捨てに行くのは原則として肉親。できれば長男が望ましい」

頼賢は淀みなく言った。考え抜いてあった。

「なぜ肉親か」

堀江が問うた。声は硬かったが、問い方は冷静だった。この男は理解していた。制度そのものは止められない。ならば制度の中身を削ることで、少しでもましなものにしようとしている。

「他人の手で捨てられるのは、犬の扱いだ。最後まで肉親の手の中にあることが、せめてもの──」
頼賢は言いかけて、止まった。「せめてもの尊厳」と言おうとしたのだ。だがその言葉は、棄老という行為と同じ口から出るには重すぎた。
「──せめてもの作法だ」

作法。頼賢自身、その言葉を選んだ瞬間に、何かが自分の中で一段下がったように感じた。

「六十はいささか若うはないか」

成瀬が口を開いた。その声には、問い方の慎重さとは別の何かがあった。六十。この男は今、幾つなのか。頼賢は知っていた。五十の半ばにかかる歳。六十はそう遠くない。

「七十では遅い。ほとんどの者がその前に死ぬ。六十ならば、まだ山を歩けよう」

頼賢は答えた。答えながら、一瞬だけ立ち止まった。だが一瞬だった。
広間は静かだった。反対の声はもう出なかった。出ないことが賛成を意味するのではない。出せなくなったのだ。案を退ける論理がない。代わりの案がない。領主が腹を括っている。三つが揃えば、家臣にできることは仔細を詰めることだけだった。

「一つ、申し上げたいことがございます」

声を上げたのは、杉山善兵衛だった。これまで一度も口を開かなかった、末席に近い、実務を預かる男だ。頼賢は目を向けた。

「触れを出すからには、まず殿ご自身がお示しになるのが筋かと存じます」

広間が凍った。

頼賢は杉山の顔を見た。悪意はない。この男は本気で言っている。制度を民に守らせるならば、領主がまず範を示す。それが統治の作法だ。この男は頼賢の日頃の言葉をよく聞いていた。足を運べばわかることを足を運ばずに済ませるのは怠慢だ──頼賢自身がそう言ってきたのだ。
頼賢の母は、六十を越えていた。
広間の全員がそれを知っていた。末席の家臣も知っていた。知った上で言っている。頼賢にはそれがわかった。

「その通りだ」

頼賢は言った。自分の声がどこか遠くから聞こえるような気がした。

「触れを出す前に、まず私が母を山に連れてゆく」

広間は沈黙した。先ほどの沈黙とは質が違った。先ほどは言えなかったから黙っていた。今度は、言うべきことがなくなったから黙っている。頼賢は家臣たちの顔を見回した。反対する者はいなかった。反対しないことが、この場では最も重い言葉だった。

散会の後、頼賢は一人で広間に残った。
ここで自分は何を決めたのか。
民を救うために、老いた者を捨てさせる。そのために、まず自分の母を捨てる。論理は通っている。手順も正しい。家臣たちも異を唱えなかった。

それならば、この胸の底にある硬いものは何か。

頼賢は考えなかった。考えれば、明日から先のことが動かなくなる。今はただ、決めたことを動かす。それだけを考えた。

三、垂範
母に伝えたのは、会議の翌日だった。
頼賢は言葉を選ばなかった。選べば飾りになる。

「棄老の触れを出す。ついては、まず私が母上を山にお連れしたい」

母は頼賢の顔を見た。長い間、見ていた。頼賢はその目を見返した。目を逸らせば、逸らした分だけ言葉が軽くなるからだ。

母が口を開いた。
「善い、政です」
「赤子を殺すよりは、よほど善い」

頼賢の体が強張った。知っていたのか。いつから。どこまで。──だが問わなかった。問えば、母の言葉の意味が変わる。知っていて「善い政だ」と言ったのか、知らずに言ったのかでは、同じ言葉がまるで違うものになる。頼賢はどちらであるかを確かめることを避けた。確かめれば、どちらであっても自分が楽にはならないことがわかっていた。

「これは私にとっても至上の誉です」

母はそう言った。声は静かで、揺れていなかった。
至上の誉。その言葉を、頼賢は受け取るしかなかった。
母は付け加えた。

「秋庭の家の者が最初に山に入る。民はそれを見る。おまえの触れに重みが出る。私はその重みになる」

それは統治の言葉だった。母は領主の妻として、領主の母として、長くこの家にいた。自分の死を、統治の道具として図ることができる人だった。それが母の強さなのか、あるいはそうすることでしか受け止められなかったのか、頼賢には判じかねた。判じかねたまま、頼賢は頭を下げた。

山に入ったのは、三日後の朝だった。供はつけなかった。肉親の手で連れてゆくと決めたのは頼賢自身だ。であれば、自分もその通りにせねばならない。
母は自分の足で歩いた。六十を越えて、背は少し丸くなっていたが、足取りは確かだった。頼賢は母の後ろを歩いた。前を歩けば、道を選ぶのは自分になる。母に道を選ばせたかった。理由は自分でもわからなかった。
山道は緩やかに登っていった。木々の間から朝の光が差し、足元の土は湿っていた。鳥が啼いていた。山は、穏やかだった。
母は時折、立ち止まった。息が切れたのではなく、何かを見ていた。木の幹に触れた。苔の色を見ていた。頼賢はそのたびに足を止め、母が歩き出すのを待った。
何も言わなかった。何を言えばよいのかわからなかった。いや、言うべきことはなかった。言葉はすべて、昨日までに使い果たしていた。会議の広間で、母の部屋で。残っているのは足を動かすことだけだった。

道が開けた場所に出たとき、母が足を止めた。

「ここがよい」

頼賢は周りを見た。平らな場所があり、木の根が椅子のような形を作っていた。眺めはよくなかったが、木漏れ日が落ちていた。

母はその場所に腰を下ろした。ゆっくりと、しかし迷いなく。

「頼賢」

名を呼ばれた。母がこの名で呼ぶのを聞くのは、いつ以来だろう。領主になってからは「殿」だった。その前は何と呼んでいたか。思い出そうとしたが、うまく思い出せなかった。

「迷わず下りなさい」

母はそう言った。頼賢を見上げていた。目は穏やかだった。
そして母は目を伏せ、懐から紙と筆入れを取り出し何かを書き始めた。
その手は少し、震えているように見えた。辞世の句であろうか。頼賢はそう思った。

母から紙を渡され、開いた。そこに書かれていたのは、句ではなかった。
山を下りる帰路の目印──特徴のある木や岩の形が、順を遡って書かれていた。

「振り返らずに下りなさい。振り返れば、おまえの足が止まる。足を止めれば、触れが出せなくなる」

頼賢は頭を下げた。深く。長く。顔を上げたとき、母は微かに笑っていた。笑っていたように見えた。頼賢は背を向けた。一歩を踏み出した。振り返らなかった。母がそう言ったから振り返らなかったのか、振り返れば歩けなくなることを自分で知っていたから振り返らなかったのか、その区別はつかなかった。

山を降りる間、頼賢は足元だけを見ていた。木の根を踏まないように。石を蹴らないように。そうした小さなことに意識を向けている間は、背後のことを考えずに済んだ。

城に戻ったとき、日はまだ高かった。
頼賢は誰にも会わずに自分の部屋に入り、しばらく動かなかった。何を考えていたかは、後になっても思い出せなかった。

翌日、触れが出た。

六十を越えた者は、肉親の手で山に送ること。これを定めとする。触れの文面は短かった。理由は書かなかった。理由を書けば、理由に反論が来る。理由なく出せば、反論は制度そのものに向かう。だが制度そのものに反論するには、領主がすでに自らの母を山に送ったという事実を越えなければならない。越えられる者はいなかった。
領主が母を捨てた。その事実は、触れのどの文言よりも重かった。反対する者は、まず領主の覚悟を否定しなければならない。領主の母の「誉」を否定しなければならない。

民は従った。納得したからではない。触れに逆らう足場がなかったからだ。領主がやったのだから、自分たちもやらねばならない。その論理は、納得よりも深い場所で人を動かした。頼賢はそのことを知っていた。知っていて、それでよいと思った。納得を待っていたら、その間にも赤子は死ぬ。納得は後からついてくる。あるいは、ついてこなくてもよい。制度が動けばよい。

制度は動いた。山に向かう者の列が、やがてこの藩の風景の一部になった。

四、日常
棄老の触れから三度目の冬を越えた頃には、もう誰も声を上げなかった。

最初の年は泣き声が聞こえた。山に向かう道で、送る者が泣き、送られる者が泣いた。だが今、山に向かう者の足取りは、畑に向かう者の足取りと見分けがつかなくなった。いつの間にか山に向かう者が歌う節ができた。節の調子は不思議と軽やかで、どこか誇らしげでもあった。

頼賢は帳面を見ていた。

不自然な空白が消えていた。数字の辻褄が、以前より合うようになっていた。 赤子の数が増えた。そのことを、頼賢は静かに確かめた。代わりに、山に送られた者の数がある。帳面には記されている。頼賢はその数を見た。見て、次の頁をめくった。

秋の視察で頼賢は北の村を歩いた。三年前に通った道だった。草はあのときと同じように両脇から迫り、川の水は同じように澄んでいた。だがあの臭いはなかった。道の脇の草むらには何もなかった。頼賢はそのことに安堵を覚えた。

庄屋と話した。子供の数が増えている。若い夫婦が二人目、三人目を産むようになった。村には活気があるように見えた。活気がある、と庄屋も言った。頼賢は頷いた。

村の端に、空いた家があった。戸が開いたまま、中には何もなかった。庄屋は何も言わなかった。頼賢も何も訊かなかった。

帰路、頼賢は供の者に訊いた。

「あの村に、六十になる者は何人おる」
「二人と聞いております。いずれも来年には」

供の者は言いかけて、口を閉じた。

城に戻ると、堀江が待っていた。

「殿に、お耳に入れておきたいことがございます」

堀江は三年前と変わらぬ姿勢で座っていた。白髪は増えたが、背筋はまっすぐだった。

「北の郡の庄屋から訴えがありました。村の仕事の差配ができる年長者が足りない、と」

頼賢は眉を動かさなかった。

「やはりそうであったか。だが、老いた者がおれば、差配を務める者も育たぬのではないか」
「はい。しかし、長く年長者の知恵に頼って暮らしてきた民には、性急だったのではないかと」

頼賢は考えた。触れに例外を設けるか。いや、それでは村の秩序が失われる。恨みは私が引き受けると言ったはずだ。

「考えておく。ただ今は、私は民が自ら知恵をつけると信じる」

頼賢はそう答えた。答えながら、自分が今、何を考えたのかを反芻した。人を山に送る手続きの、細部を整える。三年前には想像もしなかったことだ。いや、想像しなかったのではない。想像する必要がなかったのだ。触れを出せば、民は従おうとする。従おうとすれば、次の不都合が出る。統治とはそういうものだ。

堀江から異論はなかった。三年前に長幼の序を説いたこの男は、おそらくこれが長幼の話でないことを、わかっている。だが堀江自身がそのこと自体をどう思っているのか、頼賢は訊くことができなかった。

冬の初め、成瀬が病んだ。重い風邪だと聞いた。年が年だ、と誰かが言った。頼賢はその言葉を聞き流した。成瀬は五十の半ばを過ぎている。三年前の会議で「六十はいささか若うはないか」と問うた。六十まで、あと数年。
見舞いに行った。成瀬は床に伏していたが、意識ははっきりしていた。頼賢が来たことに恐縮し、起き上がろうとした。頼賢はそれを手で制した。

「養生せよ。藩にはまだ成瀬が要る」

成瀬は藩の政に必要だ。必要な人間が病むことは困る。それだけのことだ。だがその言葉は、別の場所から聞けば別の意味を持つ。成瀬は冬を越した。春には、また広間に座っていた。

四年目の春、頼賢は帳面を開いた。出生は増え、口食の状態が改善されているのがわかった。赤子の不自然な死の存在は、帳面からは感じられない。触れは機能している。頼賢はそのことを確認し、帳面を閉じた。機能している。頭に浮かんだその言葉を、頼賢は善いこととして受け止めた。

赤子が殺められることが減った。それが触れの目的だった。目的は達せられている。山に送られた者の数は、帳面に記されていた。帳面を読む者は、数字を読む。数字の向こうに顔を見ることは、帳面の読み方ではない。頼賢はそのことを自ら言い聞かせた。

五、難題
五年目の夏、隣国から使者が来た。二人の使者を、頼賢は広間で迎えた。重臣たちが居並ぶ中、使者から書状が差し出された。書状は短かった。隣国の領主は二つのことを求めていた。

第一に、国境を流れる川の水利の配分について。現状ではこちらの取り分が多すぎる、双方に公平な配分を求めると。
第二に、山を越える交易路の通行について。あの道の大半は隣国の領内であり、こちらの国の者に通行の銭を課したいと。
そして、この二つの取り決めに対する返答を、秋の収穫の前までに寄越せと。

頼賢は書状を読みながら、隣国の領主の顔を思い浮かべた。会ったことは数えるほどしかないが、愚かな男ではないことは知っていた。風土はこちらと似ている。山がちで、土地がやせていて、冬が長い。棄老の触れのことは、隣国にもとうに伝わっている。国の維持のために長幼の序を軽んずる領主。あの男にとって、頼賢はそのように映っているはずだ。

使者が退がった後、広間に重臣たちが残った。

「水の配分が不公正だと言っているが、根拠はあるのか」
頼賢が問うた。
江木が答えた。
「今の水の配分は、代々の慣行に従ったものです。ただ、なぜ今の形になったのか、経緯ははっきりいたしません」
「文書は残っていないのか」
「探しましたが、見当たりません。水利の取り決めは、もともと両方の村の間で口約束に近い形でなされていたようです」

頼賢は頷いた。文書がなければ、慣行の正当性を主張しにくい。慣行とは「ずっとこうしてきた」という事実の積み重ねだが、相手が「不公正だ」と言い始めれば、なぜこの形なのかを説明せねばならない。

「先代の御代に、水利の争いはなかったか」

堀江が口を開いた。
「先代の御代には、水利で揉めたことが一度ございました。あのときは、双方の年寄りが川に出て、水の流れを見ながら話をまとめたと聞いております」
年寄り。その言葉が広間の空気を微かに揺らした。

「今、川の流れの経緯に詳しい者はおるか」
頼賢が訊いた。沈黙が答えだった。

川の水利は、代々の庄屋や村の長老たちが管理してきた。水の流れは季節ごと、年ごとに変わる。田のどこに水を引き、どの時期に堰を開け、どの順で下流に流すか。それは帳面に書ける種類の知識ではなかった。土地に長く住み、水と付き合い、親から子へと伝えてきた記憶だった。その記憶を持つ者の多くは、すでに山に送られている。頼賢はそのことに思い至った。だが口にはしなかった。

「交易路の件はどうだ。向こうは、あの道が隣国の領内を通っていると言っているが」
話題を移した。
江木が答えた。
「あの道がどちらの領内かは、はっきりしたことが言えません。もともと双方の民が使ってきた道で、どちらのものとも決められていなかったはずです」
「はずだ、というのは、証が残っているのか」
江木は口ごもった。

「あの道がいつ、どのようにしてできたか、ご存じの方は」
成瀬が広間を見回すようにして訊いた。誰も答えなかった。  

堀江が静かに言った。
「おそらく、もう──」

言いかけて、止めた。その先を言えば何を言っていることになるか、わかっていた。
広間は沈黙した。頼賢は、その場での結論を諦めた。

散会の後、頼賢は一人で書状を読み返した。
隣国の領主は、こちらの足元を見ている。だがそれは単なる悪意ではない。同じ山あいの、同じやせた土地で、民の暮らしを守ろうとしてきた男が民の口食を賄う、そのための異なるやり方だ。

対処しなければならない。だが駒が足りない。五年前ならあったかもしれない知恵──土地の記憶、水の記憶、道の記憶──を、この藩は失ってしまった。
だが、今、それを言うわけにはいかない。言えば山に送られた者、送った者の誉を、汚すことになる。

その夜、頼賢は眠れなかった。

六、百姓の男
百姓の男が城に来たのは、隣国の書状から十日後のことだった。  
男の名は与助といった。北の村の百姓で、齢は三十を越えたばかりだという。城の門の前に立ち、領主に申し上げたいことがあると言った。門番は追い返そうとしたが、与助は動こうとしなかった。男を門番が持て余しているところに、杉山が通りかかった。与助は杉山に同じことを言った。領主に申し上げたいことがある。隣国からの書状の件で。

「ここでしばし待っておれ」

杉山はそう言い残し、頼賢に男のことを伝えた。
頼賢は門まで出向き、与助の話を聞くことにした。
与助は地べたに跪き、頭を下げた。

「殿に申し上げたいことがございます。その前に、お咎めを受けることを承知で、申し上げねばならぬことがございます」

頼賢は黙って待った。

「私は、母を山に送っておりません」

空気が止まった。次の瞬間、門番が槍を持つ手を返し、傍に控えていた杉山が後ろ手に制した。

「母は今年、六十八になります。触れが出た年にすでに六十を越えておりました。私は……送れませんでした」

送れなかった。与助はそう言った。送らなかった、ではなく。頼賢はその言い方を聞き取った。

「五年の間、どうしておったのだ」

「家の床の下に穴を掘りました。昼は穴の中に。夜だけ出しておりました」

頼賢は与助の顔を見た。顔色は疲れ果て、痩せこけてはいたが、怯えてはいなかった。

「なぜ今、名乗り出た」

「隣国の書状のことが、村にも伝わっております。水のことと、山の道のこと。母がそれを聞いて、自分には話せることがあると申しました」

「そうか、ではすぐに、連れて参れ」

頼賢はそう言った。杉山が何か言いかけたが、頼賢は手で制した。

その日の夕刻、与助は母を連れてきた。
与助の母は、小柄な女だった。名をトキといった。六十八には見えなかった。五年の間、床の下で暮らした体は痩せていたが、目は濁っていなかった。

「水のことから話してよいですか」

トキは許しを待たずに話し始めた。頼賢は口を挟まなかった。

「あの川の水の分け方は、今の形になるまでに三度変わっています。最後に変わったのは、私の祖母がまだ、娘だった頃のことだと聞いています」

トキは語った。川の上流にかつて大きな淵があったこと。ある年の大水で淵が崩れ、流れが変わったこと。水が隣国の側に多く流れるようになり、こちらの田が干上がりかけたこと。その次の大水で、隣国の村に多くの被害が出たこと。両方の村の者たちが出て、堰を作り直したこと。今の水の配分は、その堰の位置で決まっていること。

「あの堰を動かせば、たしかに水は向こうに多く流れます。ですが、そうすれば大水のときに向こうの村が浸かります。今の形は、そうならないように向こうの村とともに作ったものなのです」

頼賢は黙って聞いていた。帳面にはない知識だった。文書にも残っていない。川の傍に住み、水と付き合い、祖母から母へ、母から娘へと伝えられてきた記憶だった。

「向こうの殿様に、そう伝えてください。水の配分を変えれば困るのはむしろ向こうの村だと。嘘ではありません。堰を見ればわかることです」

頼賢は自らの母と重ねた。与えられた領分の中で、聞くべきことを聞き、言うべきことを言う。

「山の道のことも、話してよいですか」

頼賢は頷いた。

「あの道は、私の祖母の、そのまた祖母が若かった頃にできたものです。もともとは別のところに道がありました。もっと南の、尾根の低いところだったと聞いています。それが崩れた。崩れたのは向こう側です。向こうの山肌が崩れて、道が埋まった」

トキは少し間を置いた。

「新しい道を切り開いたのは、こちらの村の者たちです。向こうの村は崩れの片づけに手を取られていた。こちらから人を出して、今の道を通した。そのとき、道の普請に出た者の名を記した石がどこかにあるはずです。こちらの村の者の名です。私の祖母が子供の頃に見たと聞いています」

頼賢は訊いた。

「その石は今もあるか」

「草に埋もれているかもしれません。ですが、石は腐りません」

頼賢は考えた。石が見つかれば、あの道がこちらの民の手で開かれたことの証になる。石が見つからなくても、経緯そのものを隣国に伝えることはできる。

「向こうの年寄りに、聞いてもらえば」

与助が口を開いた。頼賢は与助を見た。与助は続けた。

「年寄りの女に聞けば、誰かしら覚えている者がいるはずです。向こうの年寄りが覚えているなら、向こうの殿様も無理は言わぬでしょう」

頼賢は与助の顔を見た。この男とその母は、命を賭けてここに来ている。知恵を差し出すことで許されるかもしれないと、考えなかったわけではないだろう。
だがこの男は、村人の目を忍んで五年もの間、穴の中に母を匿い続けていた。
それに比べればおそらく、ここに母を連れてきて話をすることなど、造作もないこと。

頼賢はトキの顔を見ていた。小柄な、痩せた老女。五年の間、穴の中にいた女。この女が持っていた知恵が、藩を救おうとしている。
母は「至上の誉」と言った。トキは「話せることがある」と言った。言葉がまるで違う。だが二人とも、息子の側にいる。二人とも、息子が背負うものを軽くしようとしていた。

「与助」

頼賢は名を呼んだ。

「この度の話、誠に有り難いものであった。だが、母を匿っていたことについては、触れに背いたことになる」

与助は頭を下げた。覚悟していた顔だった。

「しかし──」

頼賢は言葉を探した。
触れに背いた。罰すべきか。罰すれば、この男の母が差し出した知恵を、この男を罰した上で使うことになる。知恵だけを受け取り、恩を返さぬのか。
褒めるべきか。褒めれば、触れに背くことを認めたことになる。他の者も母を匿ってよいことになる。
孝行と称えるべきか。いや、頼賢にとっては、親を山に送ることこそが孝行だった。自分が母を山に連れていったのは、母の「誉」を守るためだった。
だが、この百姓にとっては孝行や誉など、取るに足らないことなのだ。ただ、母に生きていてほしかったのだ。

「──この件は、おまえ個人の問題としては扱わない」

頼賢は言った。

「触れそのものについて、改めて考え定める。定めが決まるまで、おまえと母を咎めることはしない」

与助は顔を上げた。礼を言おうとしたのかもしれない。だが頼賢の表情を見て言うのをやめた。ただ、頭を下げ続けた。

頼賢の顔には深い迷いが、浮かんでいた。

七、沈黙
隣国への返書を送り、水利と交易路の問題がともに収まったのは、秋の初めだった。堰の経緯については大水のことも、堰を共に作ったことも、隣国側でも調べがついたようだ。水利の件は取り下げられた。交易路の石は見つからなかった。トキの話を証明する物はなかったが、こちらの村の者が出て道を通したという話は、向こうの年寄りの記憶にもあったようだ。通行の銭の話は、棚上げとなった。すべてが片づいたわけではない。だが、差し迫った問題は去った。

隣国との問題が落ち着いてから、頼賢は与助とトキを城に呼んだ。
城の門前に膝をついて座る与助の面持ちは、決然とした色を湛えていた。
頼賢が門に姿を現すと、与助とトキは深々と頭を下げた。

「与助。待たせてすまなかった。おまえと母トキには、城の牢に入ってもらう」

頼賢は言った。与助もトキも、頭を下げ続けた。

「ただし、牢とは名ばかりだ。不自由のない部屋を用意する。食事も寝床も、困ることのないようにする」

与助は思わず顔を上げた。意味を測りかねたような目で、頼賢を見た。トキは動かなかった。

「触れを破った者を咎めぬわけにはいかない。それは筋だ。だが──」
「村に帰したところで、おまえたちは安穏とは暮らせまい」

与助は一瞬目を見開き、再び深く頭を下げた。

「城に置く。それが私にできる礼であり、詫びだ」

トキが口を開いた。

「殿のお心遣い、ありがたく存じます」

与助は何も言わず、ただ頭を下げ続けた。少し、震えているように見えた。

翌日、頼賢は広間に重臣たちを集めた。

五年前と違うのは、全員が少しずつ老いていることだった。江木の顔にも疲れが見えるようになった。成瀬の白髪は増えた。堀江は変わらぬ姿勢で座っていたが、手の甲には五年前にはなかった筋が浮いていた。 頼賢は口を開く前に、一人ずつの顔を見て、静かに言った。

「棄老の触れを取り下げる」

広間は動かなかった。五年前の会議では、声が上がった。新田の開墾。年貢の減免。長幼の序。三つの案が出て、三つとも退けられた。議論があった。反発があった。問いがあった。

今、誰も口を開かない。

堀江は目を伏せていた。五年前、この男は「長幼の序は天の定めたる道理」と言った。今は、何も言おうとしなかった。
成瀬も黙っていた。あのとき、「六十はいささか若うはないか」と問うた。今年、五十八になっていた。
江木も黙っていた。新田の開墾を訴え、頼賢に退けられたこの男が、民の口食について問うことはなかった。
杉山も黙っていた。「殿ご自身がお示しになるのが筋」と言い、頼賢の母を山に送る契機を作ったこの男は、今、何を思っているのか。頼賢には見えなかった。

頼賢は彼らの沈黙を、一人ずつ見た。咎めているのではなかった。

「取り下げるのだ。禁ずるのではない。廃する」

頼賢は言った。言葉を選んでいた。

「禁ずれば、親を山に送った息子たちに申し訳が立たぬ。それはせぬ。藩としては、もう命じぬというだけだ」

広間の空気が微かに動いた。動いたのは、安堵だったかもしれない。禁止ではなく廃止。

反論する者はいなかった。

「異議のある者は」

頼賢が訊いた。形式的な問いだった。異議はなかった。

散会は静かだった。重臣たちは一人ずつ立ち上がり、広間を出ていった。頼賢はあのときと同じく、一人で広間に残った。
思い返したのは、五年前に母を山に連れていったあの朝のことだった。母が木の幹に触れ、苔の色を見ていた。触れは廃する。だが、母が戻ることはない。そのことだけを思った。

八、確信
触れを廃してから、最初の冬が来た。
頼賢は帳面を開いた。山に送られる者の数が止まった。当然だ。触れを廃したのだから。
だが赤子の不自然な死が帳面に戻ってくる気配も、今のところはなかった。
五年の間に、藩は変わっていた。子供が増えた。若い者が、田の仕事を仕切るようになった。水路の手入れを覚えた者もいる。五年前には年寄りに頼っていた仕事を、若い者が引き継いでいた。すべてではない。だが、知恵は受け渡されつつある。頼賢はそのことを、帳面の中に読んだ。

春になると、頼賢は北の村を歩いた。
庄屋が出てきた。頼賢の顔を見て、少し驚いた顔をした。触れを廃した後、頼賢が村に来るのは初めてだった。村は静かだった。静かだが、五年前の静けさとは違っていた。

畑の脇に子供の声が聞こえた。その傍らに老いた女が座って子供たちを見ていた。六十か、その前後。頼賢はその光景を見て、足を止めた。この女が、山に送られることはないだろう。触れは廃したのだ。

城に戻り、頼賢は一人で庭を眺めた。
赤子が殺められるのを止めたかった。そのために棄老の制を設けた。そして、廃した。

母を山に送った。無駄ではなかった。母の行いがあってこそ、触れは民に届いた。
それを廃することの重みも、民に届いたはずだ。母の誉は、誉として残る。頼賢はそう思った。
善い政だと母は言った。頼賢は、そう信じた。

夏の終わり、頼賢は帳面を読んでいた。赤子の死は増えていない。山に送られる者もいない。
庭の向こうの山を眺めた。あの山のどこかに、母がいた。今はもう、草に覆われているだろう。

空は高く、秋の気配がある。穏やかで冷たい風が、吹きはじめていた。

── 了 ──

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