消失点の野原
1991年・4月:五分咲きの桜
職員室の隅、パイプ椅子のきしむ音が静かに響く。
ベテランの田辺先生が、老眼鏡の奥の目をわずかに細め、夏目の前に一冊の書類を差し出した。
『平成二年度 第三学年児童 指導要録』
新年度から夏目が受け持つことになる、新四年生の昨年の記録だ。
今年、新しく四年生になるのは、後藤大輔一人だけだった。
表紙の下には、一学期から三学期までの三枚の用紙が綴られている。
今年、夏目が担任を務める高学年クラスの児童数は、この大輔を含めて五人。四年生から六年生までがひとつの教室に集う、複式学級である。
「夏目先生、大輔くんのことなんだけど」
田辺先生の声は、長年この山奥で子どもたちを「見届けて」きた者特有の、諦観に近い重みを含んでいた。
「あの子はね、難しいわよ。……いえ、手がかかるわけじゃないの。ただ、時々あの子の姿をした『空洞』が座っているような、そんな気がすることがあるの」
作文を一行も書いてくれないこと。絵を描こうとしないこと。田辺先生が語る大輔の姿に、夏目はわずかに眉を動かした。毎日校舎で見かける大輔は、遠くを見通すような、賢そうな眼をしていた。
「作文もですか。意外です。私の印象だと、とても知的な子だと思っていたのですが」
「知的なのは確かよ。国語、算数、理科のテストはほとんど満点。でも、自分を出そうとしないの」
「絵を描こうとしないことは、以前先生からご相談いただきましたよね」
「ええ。美大出身の夏目先生ならなんとかなるかと思って。たしかあの時は『自由に、思うように』って伝えて待つしかない、と教えていただいたけど、結局、あの子は何も描いてくれなくて……」
「そうですか……。文章はともかく、絵に関してはまだ表現の種が眠っているだけじゃないでしょうか。私も少しずつ、教えてみます」
四月の奥三河。冬の残り香を含んだ冷たい湿気が、杉林の隙間から這い出してくる。
校庭の、五分咲きのソメイヨシノ。満開にはもう少し、時間が必要だった。
1990年・夏:長久手の残像
半年前。
豊橋の小学校からこの分校に異動して初めての、一学期の終業式の日。夏目は、この「村」にようやく馴染み始めていた。
「夏目先生。夏休みの間、あの子たちに絵を教えてやってくれないかしら」
そう頼んできたのは、高学年の母親たちだった。
生来の長身に似合う細身のシャツ。清潔感のある身なり。都会的な雰囲気を残す夏目の存在は村の母親たちの間で、静かに、確かな信頼と憧れを持って受け入れられていた。
夏目は自分が担任を務める高学年の子どもたちなら、と引き受けることにした。
低学年の無邪気な落書きには、まだ教えられることが少ない。
自分という人間を意識し、世界との距離に悩み始める時期。
そこで初めて、美術を美術として教える意義が生まれる。
夏目には、そんな自分なりのこだわりがあった。
「わかりました。ところで場所は学校の図工室ではなくて、寄宿舎にしませんか。僕の部屋は、ちょっとしたアトリエみたいになっていますから」
母親たちは安堵の笑みを浮かべた。自分たちの知らない世界を知っている若い先生。その部屋で絵を習えることは子供たちにとって都会の学校では得られない、かけがえのない経験になる。彼女たちは夏目の提案をそのように受け止めた。
夏休みの活動は、予想を上回る評判を呼んだ。
夏目は「描き方」を教えるのではなく自由に制作が生まれる環境を整えた。
畳の上には古新聞が広げられ、描きかけのドローイングや、色の混ざり具合を試した紙の切れ端が散乱している。夏目が豊橋や名古屋の書店で買い込んできた、海外の画集や最新の展覧会のパンフレットはこの陸の孤島に住む子どもたちにとって、鮮やかな「外の世界」そのものだった。
「先生、これって夏休みだけなんだよね?寂しいな、また来たい」
夏休みが終わる頃、子どもたちが口々に言った。その言葉と母親たちの相談を受けて、二学期以降も土曜日の放課後に教室を続けることにした。
当時、土曜日はまだ半日授業があった。午後の手持ち無沙汰な時間、この山奥で子どもたちにテレビゲームではない、文化的な楽しみを与えられる場ができたことは、保護者にとっても好都合だった。
こうして毎週土曜日の午後、寄宿舎の一室は「夏目教室」になった。
畳の上で思い思いに色を重ね、画集のページをめくる子どもたち。
夏目はかつて長久手の丘のアトリエで自分を導いてくれた樋田先生の姿を、今の自分に重ねていた。
(樋田先生。僕は今、あの時先生が仰った『野原の自由』をこの山奥の子どもたちに伝えています)
そんな「寛容さ」で、子どもたちを包み込んでいるという全能感。
あの時代の挫折を、この僻地での教育という「使命」で塗り潰していく高揚感。夏目は、自分がようやく正しい場所に立てたのだと、誇らしい充実感に酔いしれていた。
1991年・4月:土曜日の拒絶
新年度が始まり、二度目の土曜日。
山に昼を告げるサイレンが響き渡る。低学年の子どもたちは堰を切ったように校門を飛び出していく。しかし、高学年の四人は、ランドセルを揺らしながら裏手の教職員寄宿舎へと向かう。
「大輔、夏目先生の部屋すげえんだぞ。変な匂いのする絵具とか、面白い本とかいっぱいあってさ」
校庭の隅で、五年生の翔太が声を張り上げた。
その視線の先には、昇降口の階段に一人で座り、靴紐を締め直している大輔がいた。夏目は寄宿舎の窓枠に手をかけ、無意識に呼吸を止めてその光景を眺めた。
「行きたくない」
大輔は顔を上げなかった。指先で器用に紐を操り、完璧な蝶結びを作ると、ようやく立ち上がった。
「そっか。大輔、絵、嫌いだもんな」
翔太が肩をすくめて駆け出す。子どもたちの足音が廊下を揺らし始めると、夏目は窓から身を引き、穏やかな微笑を顔に張りつけた。
「おっ、みんな来たな。今日は、名古屋で買ってきた新しい画集があるぞ」
六畳の和室は、瞬く間に子どもたちの熱気と、油絵具の鋭い匂いで満たされた。夏目は、彼らに惜しみなく「外の情報」と「自由」を与え続けた。飛び散る原色のしぶきは、夏目にとって自らの教育が成功している証に思えた。
だが、その喧騒のなかで、夏目の意識の端にはあの「空洞」が残っていた。
校門へと続く細い坂道を、一人で下っていく大輔の背中。一度も振り返ることなく、淡々と、一定の歩幅で。その背中は「子どもらしさ」からも、「野原の自由」からも、等しく距離を置いているように見えた。
1991年・5月:白の静止
連休が明けた五月の図工室。南向きの窓から差し込む午後の光の中で、無数の埃が粒子となって踊っていた。夏目は、木床の軋みを殺しながら、五人の子どもの机の間を歩いていた。
大輔の前に、真っ白な四つ切りの画用紙があった。
授業時間が終わろうとしているのに、紙の上に線は打たれていない。
大輔は背筋を伸ばし、鉛筆を握ったままその白磁のような空間をただ見つめていた。
「……大輔くん。かっこいい車でも、昨日の夕ご飯でも。君が描きたいものを自由に描いてごらん。上手じゃなくてもいいんだよ」
夏目は、自らが信奉する寛容さを込めて、穏やかに声をかけた。
大輔は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に宿っていたのは、戸惑いではなく、夏目の臓腑の奥までを見透かすような、澱みのない拒絶だった。
「自由……ですか」
大輔が初めて、授業中に言葉を発した。
「自由に描いたら、先生はそれを見て、僕のことをわかったような顔をするんでしょ。……この線は優しいねとか、この色は寂しいねとか」
夏目ははたと気づいた。そして言葉に詰まった。
大輔が感じ取っていたのは、夏目が「自由」と呼んだものの底にある、無意識の支配欲だった。自分を「観察」し「理解」しようとする大人。
そしてこの村で、大人はすべて顔見知りだ。逃げ場のない世界。
「僕は、何も描きたくない。……見られたくない」
大輔はそう言うと、再び視線を真っ白な画用紙に戻した。
そこには、完璧な静寂があった。
夏目は、最後まで白紙のままだった大輔の画用紙を回収した。
指先に触れる紙の感触はひどく冷たく、そして重かった。
奥三河の山々が、夕闇に黒い影となって校舎を飲み込んでいく。
夏目は大輔という深い空洞を前にして、これまで築き上げてきた「寛容さ」への信頼が、あまりに脆く崩れていくのを感じていた。
1991年・5月:檻の鍵
五月の末、奥三河は本格的な雨の季節を迎えていた。降り続く雨は杉林を深い灰色に染め、木造校舎の廊下を湿った冷気で満たした。
放課後の図工室。夏目は明日の授業の準備を終え、忘れ物がないか机の間を見回っていた。一番後ろの大輔の机の下に、細長い銀色の物体が落ちていた。拾い上げると、それはステンレス製の定規だった。教材指定の竹製のものではない。エッジの鋭い、本格的な道具。定規の隅には、サインペンで小さく「後藤」と書かれていた。夏目はそれを拾って、寄宿舎へ戻った。激しい雨音だけが支配する自室で、夏目はデスクの端に置かれた定規を眺めた。あの大輔が、こんなにも「正しく」直線を引くための硬質な道具を持っていたことが意外だった。
──控えめなノックの音がした。
ドアを開けると、傘から滴る水に肩を濡らした大輔が立っていた。
「……定規、忘れました。学校、閉まってて」
「ああ。拾っておいたよ。入りなさい」
大輔は初めて、夏目の部屋に足を踏み入れた。
その時、他の子どもたちが騒いでいた画集やパレットにではなく、大輔の視線は一直線に、夏目の座卓の上に開かれたままの一冊の洋書に注がれた。
それは樋田先生に自分を重ね「野原の自由」を教えるようになった、夏目が封じ込めていたはずの、美大時代の遺物だった。
『Perspective and Proportion』──透視図法と比例基準。
図版には、消失点へと収束していく冷徹なグリッドと、骨格を幾何学的に解体した人体図が並んでいる。感情の入る隙など微塵もない、数学的な世界の統治法。
「……これ、何」
大輔の声が、これまでにない熱を帯びていた。
ページ上の消失点をなぞる彼の瞳に、吹雪の中に灯りのともる家を見つけたかのような、安堵と興奮の混じった光が宿っていた。
「パースだよ」
夏目は、自分の傷口を晒すような気分で答えた。
「世界を、檻の中に閉じ込める方法だ」
大輔が顔を上げた。その瞳には、かつて「自由」を提示された時に見せた拒絶の色はなかった。
「……教えてください。これなら、僕、描ける気がする」
夏目は、窓を打つ雨音を聴きながら、自分が重大な岐路に立っていることを感じていた。
樋田先生のように「野原」を大輔に与えることはできないーーならば。
「……わかった。ただ、これは厳しいよ。誰にも否定されない『正解』を目指す世界だからね」
大輔は、ステンレスの定規を強く握りしめ、小さく、強く頷いた。
その夜、寄宿舎の六畳一間で、二人の歪な授業が始まった。
1991年 夏:檻の設計図
土曜日の午後は、騒がしい自由と、それとは対照的な「沈黙の一点収束」が同居する時間になった。畳の上に新聞紙を広げ、翔太たちが「野原の自由」を謳歌している傍らで、大輔だけは夏目の座卓の端に場所を占めていた。
大輔の手元にあるのは、あのステンレスの定規と、芯を鋭く削り上げた4Hの鉛筆。翔太が「昨日見たカブトムシ」を自由に歪ませて描く中、大輔は夏目の美大時代のノートを広げ、ひたすら立方体のパースを、あるいは人骨の比例を、定規で測りながら書き写していた。
「まあ、大輔くん。これ、あなたが描いたの?」
ある日の図工の時間、田辺先生が感嘆の声を上げた。大輔が描いたのは、窓際にある使い古された掃除用具入れだった。木目の質感、取っ手の錆、そして床に落ちる影の濃淡。それは冷徹な観察と技術による、「再現」だった。
「夏目先生、すごいわ。あんなに頑なだった大輔くんが、こんなに才能を開花させるなんて。やっぱり専門の方の指導は違うのね」
職員室で田辺先生に賞賛され、夏目は曖昧に微笑むしかなかった。
──夏目は長久手の丘で出会った、吉良のことを思い出していた。
心の奥底にしまい込んでいたはずの、十九歳の記憶。
夏目は、自分が「絵の得意な少年」であることを疑わずに生きてきた。
写生大会では常に金賞だった。「神童」とも呼ばれた周囲の賞賛を誇りにして、美大の門をくぐった。
だが、十九歳の夏目の自信は、いとも容易く打ち砕かれた。
二つ年上の同期だった、吉良。
吉良は、アトリエの誰よりも早く登校し、誰よりも遅くまでイーゼルの前にいた。あいつにとって「基礎」や「理論」は、学ぶべき苦行ではなく、呼吸と同じ、無意識の反復だった。
吉良のデッサンを見たとき、夏目は己の浅はかさを知った。
夏目が感覚でごまかしていた線の裏側には、骨格という名の構造が欠落していた。一方、吉良の線には、一ミリの狂いもないカノン(比例基準)が、血肉となって宿っていた。
(──追いつかなければ。技術という階段を一段ずつ登れば、いつかあいつと同じ景色が見えるはずだ)
夏目は狂ったように理論を貪った。骨の名前を暗記し、ヴァルール(明暗の階調)を二十段階に描き分け、透視図法の数値を計算した。
一年をかけ、ようやくあの時吉良がいた場所に辿り着いた、と自負した朝。
夏目は吉良の新作を見て、筆を落とした。
吉良は、夏目が必死に習得した「正解」を、まるで使い古した雑巾のように投げ捨てていた。あいつは完璧な基礎を身につけた上で、あえてその骨を歪ませ、肉を裂き、理論を飛び越え、「野原」を駆けていた。
目の前でステンレスの定規を使い、一ミリの狂いもなく線を引く大輔。
夏目がかつて、吉良に追いつこうと必死に掻き集めた「正解」。それをこの少年は、外界と自分を遮断するレンガの壁として積み上げている。
夏目は自分がかつて超えられなかった「檻」の作り方を、教え続けた。
1991年・晩秋:完璧な嘘
1991年11月。
大輔の描いた『図書室の静寂』は、愛知県知事賞に選ばれた。
題材に選んだのは、秋の日差しが差し込む分校の図書室。一点の歪みもなく奥へと収束する書架の列。埃を被った百科事典の背表紙の階調は、夏目から学んだヴァルールによって、冷徹なまでに正確に整えられていた。
そこには子供らしい「温もり」や「思い出」など微塵もなかった。
だが、その異常なまでの完成度は、見る大人たちを等しく沈黙させた。
名古屋で行われた授賞式。煌々とした蛍光灯の下、大勢の大人たちが大輔を取り囲み、感嘆の声を上げた。
「将来が楽しみだ」「少年の澄んだ心が見えるようだ」
大輔は、夏目に教わった通りの「正しい礼儀」を崩さず、静かに頭を下げ続けた。大人たちが「純粋」と呼ぶその絵の正体に、気づく者はいない。そう思えた。
帰り道の飯田線。山道を登る列車の車窓には、奥三河の闇が広がっていた。大輔は、金縁の賞状を大切そうに膝の上に置き、じっとそれを見つめていた。やがて、彼は夏目の方を向き、初めて見せるような深い安堵の笑顔を見せた。
「夏目先生、ありがとう」
大輔の声は、列車の走行音に混じって、驚くほど静かに、けれど確かな響きを持って届いた。
「僕、わかったんだ。自分の中身をこれっぽっちも見せなくても、こうやって正解を出せば、大人はみんな認めてくれるんだね。これなら、大丈夫だよ」
夏目は「……うん、本当によかったね」と答えた。
だが、それ以上は何も言えなかった。
夏目は、少年の笑顔を直視できず、暗い窓に映る自分の顔を眺めた。
自分が大輔に授けたのは、空を飛ぶための翼ではない。冷たくて重い、鋼の鎧だ。
大人が大輔の才能を称賛するほど、夏目の背徳感は深く沈殿していった。
大輔はステンレスの定規を鞄から取り出し、その鋭いエッジを指先でなぞった。その仕草は戦いを終えた兵士が武器を慈しむようで、夏目の目にはどんな子供の悪戯よりも、残酷なものに映った。
1992年・3月:閉校の宣告
三学期の終業式。
六年生がいなくなった後、五年生の翔太と舞、そして四年生の大輔の三人が教室に集められた。
そこに田辺先生が入ってきて夏目の隣に立つと、教卓に児童名簿を静かに置き、重い息を吸った。
「みんなに、大切なお知らせがあります。……この分校は、来年度の三月をもって閉校することが決まりました」
「えっ、じゃあ僕たちが最後の卒業生!?」
翔太と舞が、どこか誇らしげに声を弾ませて沸き立つ一方で、大輔はただ机の一点を見て、目を震わせていた。
大輔は考えていた。
(この分校なら、やり過ごす相手は少ない。でも、町の学校に行くことになれば、数え切れないくらいの相手に見られることになる……)
多数の同級生との出会い。
それは10歳の大輔にとってあまりに巨大な不確定要素の予感として、重くのしかかった。
大輔は、他人の些細な言動をよく覚えていた。一度向けられた視線の温度や、何気なく投げかけられた言葉の棘。そういうものをいつまでも鮮明に覚えてしまい、忘れられない。だからこそ他人もまた、自分の内面を自分と同じ解像度で見透かし、いつまでも記憶しているものだと信じていた。
あの授賞式で、大人は扱いやすいことを知った。彼らは「才能ある子供」というわかりやすい枠組みでしか、自分を見ない。だからその期待に沿った「正解」を演じてさえいれば、踏み込まれることはない。
だが、子供は違う。子供はまだ「枠組み」が不安定だ。
翔太や舞を見ればわかる。大人よりずっと「傾向と対策」が難しい。
そんな不確定な瞳が何十も、何百も、注がれる場所。
自分を隠しきれる気がしない。
「……嫌だ」
放課後、寄宿舎の夏目の部屋に飛び込んできた大輔は、開口一番そう絞り出した。
「あっちに行ったら、またみんなが僕を見る。何かを言わせようとする。……先生、もっと教えて。もっと、誰にも文句を言わせない『正しい描き方』を。この本にあるやつ全部。……完璧に」
夏目は、少年の剥き出しの焦燥に気圧され、息を呑んだ。
大輔の瞳にあるのは、表現への拒絶、などといった生易しいものではない。
生存のための、防衛本能だ。
「……わかった。春休みも、毎日来なさい」
夏目は、少年の焦燥に応えるように自らの美大時代の知識と技術を、
一心に注ぎ続けた。カノンによる人体の解体。透視図法による空間の支配。
大輔はそれらを凄まじい速度と精度で身につけていった。
夏目にとってそれは、かつて自分が吉良に追いつこうとして突き落とされた、挫折の記憶をなぞるような出来事だった。
そしてこの少年の渇望に応えることで、自らの敗北に意味を与えようとしていた。
大輔は、檻の壁をより高く、より厚く、塗り固め続けた。
その絵から「子供らしさ」は完全に消えていった。
1992年 秋:泥まみれの真実
1992年10月。分校として最後となる大運動会が開催された。
全校で十人の子供だけでなく、村の大人も参加する集落対抗戦だ。
この地には、川を挟んで「東」と「西」という二つの集落がある。
統廃合を前に、互いの意地がぶつかり合うこの年の運動会は例年以上の熱気を帯びていた。
教職員もそれぞれの集落のチームに組み込まれ、夏目は「東」の期待を背負って、勝負を決める一般リレーの最終走者を任された。
夏目は「若い先生」という期待に応えるべく、全力で土を蹴った。
だが、最終コーナーの入り口。校庭の砂に足を取られ、夏目の身体は側方へと投げ出された。
乾いた砂煙が舞い、静まり返る校庭。夏目は泥を噛み、鼻血で白いジャージを赤く染めながら、無様に地面を這いずった。
起き上がろうとして手が滑り、再び膝を強く打つ。
「都会的な爽やかな先生」の虚像が、衆人環視の中で無残に砕け散った。
大輔はその光景を凝視していた。
(……先生が、壊れた。計算できない、汚れた、痛そうな中身が見えてる)
大輔は、血と泥に塗れた夏目の中に、これまで自分たちが必死に隠してきた「生の汚れ」を初めて見た気がした。
その夜、大輔はいつものように寄宿舎の夏目の部屋を訪れた。
膝を擦りむき、湿布の匂いをさせた夏目が茶を淹れている間、大輔は本棚の陰に、一冊の古い美術雑誌を見つけた。
そこにはかつて夏目が長久手の丘で、その光に灼かれた男――吉良の絵が載っていた。
ページをめくった瞬間、大輔の目に飛び込んできたのは暴力的なまでの赤い「野原」だった。そこにはパースも、ヴァルールも、カノンもない。塗りたくられた絵具の塊(マチエール)が、泥のように、あるいは血のように蠢いている。
「……先生、これ」
大輔の声は、これまでにないほど細く、震えていた。
「この人、怖くないのかな。……こんなに、自分の中身を見せて」
大輔は、身を乗り出すようにして、誌面の赤を指先でなぞった。
「めちゃくちゃで、汚くて、隠さなきゃいけないものまで、全部出してるよね……どうして平気なんだろう……」
大輔の瞳には、かつて「自由」を拒絶したときと同じ恐怖が宿っていた。だが、その恐怖の裏側には、今日泥まみれで倒れていた夏目の背中に見た、「真実」への憧憬も混じっていた。
夏目は、大輔が手にしている雑誌を見て、一瞬だけ痛みに顔を歪めた。
「それは……僕が勝てなかった男の絵だよ。君に教えているような技術を、あっさり脱ぎ捨てた人の絵だ」
「脱ぎ捨てた……やっぱり怖いよ。……もっと教えて、先生。もっともっと、僕を隠せるくらい、正しくて、誰にも何も言わせない描き方を」
大輔はすがるように夏目を見つめた。その夜、彼の引くパースの線は、かつてのように真っ直ぐではなかった。何度も何度も消しゴムをかけ、紙を痛めるほどに、彼の指先は迷っていた。
その年、大輔の絵は県の絵画コンクールで『教育委員会賞』を受賞した。
前年の知事賞よりは一段落ちる賞だったが、技術的には前作を遥かに凌駕していた。描かれたのは、放課後の誰もいない教室。
机の一脚一脚にまで透視図法が行き渡り、
窓から差し込む光の粒子さえも色彩理論によって統制されている。
名古屋の授賞式会場。人混みと都会の騒音に、大輔は目に見えて萎縮していた。夏目のジャケットの袖を、何かにすがるように握りしめている。そんな二人に、一人の壮年の男性が歩み寄ってきた。
「──夏目君じゃないか。こんなところで何をしてる」
夏目は、心臓が跳ね上がるのを感じた。
それは長久手の丘で自分を導いてくれた恩師、樋田先生だった。今回のコンクールの審査員を務めていたらしい。
「樋田先生……お久しぶりです」
「そうか。君も、教師をしていたのか」
樋田先生の鋭い、けれど慈愛に満ちた眼差しが大輔へと向けられた。
「君が、あの教室を描いたんだね。審査員の間でも話題になったよ。小学生があそこまで完璧なパースを使いこなすなんて、とね」
大輔は、夏目の背後に隠れるようにして、樋田先生を凝視した。
樋田先生は大輔と同じ目線の高さまで腰を落とし、優しく、けれどどこか寂しそうに微笑んだ。
「素晴らしい技術だ。先生が、とても熱心に教えたんだろうね。……でも、技術は、君を守るためだけのものじゃない」
大輔の身体が、微かにこわばったように見えた。
樋田先生は、大輔が必死に築き上げた鋼の鎧に、そっと手を触れるような静かな声で言った。
「次は、自由に、思うように描きなさい。誰の真似でもない、君だけの震える線を、私は見たいんだ」
大輔は何も答えられなかった。樋田先生が立ち去ったあとも、大輔は石像のように立ち尽くしていた。
「自由に、思うように」
それはかつて夏目が、大輔に投げかけた言葉だ。大輔はそれを拒絶した。
そして夏目によって「檻の作り方」を学び、ようやく手に入れた安寧。
それを、かつて夏目が心酔した先生が、脱ぎ捨てろと言ったのだ。
帰り道の飯田線。大輔は窓の外を流れる暗い山並みを、ただ黙って見つめていた。その指先は、大切に持っていたはずのステンレスの定規を、拒むように鞄の奥へ押し込んでいた。
「……先生」大輔が、ぽつりと呟いた。「怖くないのかな。……自由に描けなんて。……自由に描いたら、あの絵を描いた人みたいに、汚い中身まで、全部見られちゃうのかな。覚えられちゃうのかな。」
夏目は、何も答えられなかった。
完璧な嘘の中に、あの日夏目が流した鼻血のような、拭い去れない赤が滲み出し始めていた。樋田先生が投げかけた「自由」という光。それが、大輔が必死に塗り固めた「正解」の壁を、内側から静かに、けれど確実に壊し始めていた。
その夜、夏目は眠れずにいた。
「技術は、君を守るためだけのものじゃない」
恩師・樋田が大輔にかけた言葉が、夏目の脳内を呪文のように巡っていた。夏目は、クローゼットの奥から埃を被った紙の束を取り出し、自嘲気味に息を吐いた。あの時の、アルシュ水彩紙。
十九歳の夏目は吉良の圧倒的な油彩に叩きのめされ、この白い紙に逃げ場を求めた。
(水彩なら。水の透明な光を操れば、この戦いから逃げられるかもしれない)
だが、水彩は油彩よりも残酷だった。一度置いた色は、繊維に食い込んだ。リフティング(修正)を試みても、それは無惨な「足掻いた傷跡」を晒しているように見えた。夏目は、自分の「不完全さ」が露呈することに耐えられず、結局この紙をしまいこみ、再び理論という強固な檻の中へ逃げ戻った。
「樋田先生。僕は、解き放たれるのが怖かったんです……」
指先に触れるアルシュの肌は、あの頃と変わらず冷たい。
先生の言う「自由」とは、リフティングで消しきれない汚れや傷跡さえも、自分だけの「震える線」として愛することだったのではないか。
夏目は、一度も完成させられなかった、白を見つめた。
大輔が築き上げた完璧なパースの裏側で、自分もまた、消えない傷跡に怯えている。
閉校を待つ、分校の寄宿舎。
その静寂の中で夏目はひとり、かつての挫折と向き合っていた。
1992年・12月:花祭
12月。凍てつくような夜の空気の中で太鼓の音が山を震わせ、笛の音に合わせて掛け声が響く。この土地に伝わる神事「花祭」で、大輔は今年「三つ舞」を舞う。教わったとおりに、足を運び、採り物を振る。
(一、二、三、決められたリズムと型をなぞる時間。この時間は、わりと好きだ)
閉校の日が一日、また一日と近づく中、この神事の稽古と喧騒はひととき、大輔からあの戸惑いを忘れさせた。
(何百年も前から、この村ではこうして地を踏んで固めて鎮めてきたって聞いた。豊作とか、みんなが元気でいられるようにとか、たくさんの人の気持ちがこのリズムと型になっているんだ、って)
村に引き継がれる「鬼さま」の面。それは重く、力強い。上を見上げれば、幾重にも重なり合う湯蓋の飾りが幾何学的で多層的な美しさを放っている。
(ずっと変わらないお面にも、毎年同じように作られる飾りにも、きっと、たくさんの人の気持ちがこめられている……)
大輔は舞を続けながら、あの戸惑いが不意に浮かんでくるのを感じていた。
1993年・3月:滲みの消失点
1993年、3月。
奥三河の山々には、まだ冬の名残のような冷たい霧が立ち込めていた。校庭の桜は、もうすぐ誰にも見届けられなくなることを知っているかのように、ひっそりと枝を震わせ、まだ固い蕾を蓄えていた。
学校では『思い出を絵に残そう』というイベントが行われていた。
大輔は、誰もいない理科室にイーゼルを立てた。
そして「完璧な絵」を描き上げた。
夏目から授かったあらゆる技法が、その四つ切りの画用紙に注ぎ込まれていた。窓枠から実験台の端へと収束する、一点の狂いもない透視図法。瓶の中の光の屈折さえも捉えるヴァルール。それは、最高傑作の「檻」だった。
夏目は、大輔の背後でその完成を見守っていた。
だが、大輔は筆を置いたまま、動かなくなった。彼の肩が、小刻みに震え始める。
「……先生、これじゃないんだ」
大輔の声は、ひび割れたガラスのように掠れていた。
「本に書いてある通りに描いた。先生に教わった通りに線を引いた。でも、これだと、ただの理科室なんだ」
大輔は、ステンレスの定規を床に叩きつけた。
カラン、という冷たく高い音が静まり返った理科室に響き渡る。
「先生? 僕は、あっちの学校へ行っても、こうやって、みんなを黙らせて、自分を、見られないようにはできるよ。でも、今は、僕の……僕の……気持ちを描きたい。見られてもいい。……でも、描き方がわからない」
大輔の目から、大粒の涙が溢れ出し、完璧に塗り分けられた画用紙の理科室に、無残な染みを作った。計算され尽くしたヴァルールが、涙によって滲み、崩れていく。
夏目は、胸の奥が引きちぎられるような感覚を覚えた。
かつて長久手の丘で、吉良の奔放な「赤」を前にして、自分の「正解」を抱えて震えていた十九歳の自分。それを今、目の前の少年が繰り返している。夏目は大輔の傍らに膝をつき、その震える肩を強く抱きしめた。
「……ごめんね、大輔くん。僕もずっと怖かったんだ」
「ちょっと待っててくれるかな」
夏目は涙をこらえながら裏手の寄宿舎に戻り、あの紙の束を手に取った。
アルシュ水彩紙の粗目。
夏目はそれを抱えて理科室に戻ると、大輔の前に広げた。
定規を跳ね返し、緻密なパースも拒絶する、圧倒的なマチエールを持った白。
「これに描こう。定規も、教科書も、僕の言った正解も、全部、ここに置いていこう」
夏目は最高級のチューブから一番鮮やかな赤と青をパレットに絞り出した。
大輔は、震える手で筆を握った。下書きの線はない。消失点もない。
大輔の手は震えたまま、宙の一点で浮いていた。
「大輔くん、思うままに、色を置くんだ。誰にも、見せなくていい」
夏目がそう言うと、大輔は小さく頷いて、言った。
「いいんだ、見られても」
そして、震える筆を落とした。
その瞬間たっぷりと水を含んだ色彩が、アルシュの荒い肌の上を意志を持った生き物のように走り出した。
大輔の筆が、強張って止まった。一瞬、目を上げて夏目を見た。
だが、再びアルシュに向き合い、筆を動かし始めた。
それは理科室でも、図書室でもなかった。
あの日、転んで泥にまみれた夏目の背中。
都会の授賞式で感じた、視線の渦。
分校を去らなければならない、逃げ場のない焦燥。
そして、暗い寄宿舎で冷たい技術だけを共有してきた、歪な愛着。
それらすべてがアルシュの上で泥のように混ざり合い、溢れ出した。
大輔が筆を置くリズムは、何ともつかない、一つのかたちを創っていく。
大輔は、声をあげて泣きながら筆を動かし続けた。
夏目もまた少年の隣で筆を手に取り、その「野原」を共に汚していった。
消失点は、もうどこにもなかった。
そこにあるのはただ二人の呼吸と、混ざり合う絵具の匂いだけだった。
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