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再生

奥井晴弥

2,084 字

現代文学、職人ドラマ

"効率と美が交錯する工場で、真鍮に宿る魂の調べ。"

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扉を開けると、旋盤の高音が鼓膜を叩いた。
その音響は繊細に周波数を変え、やがて、ふっと途切れる。
真鍮の切削片が散らばる作業場には場違いな、荘厳な調べが流れていた。
古いラジカセから聞こえるのは、ヨハン・パッヘルベルのカノン。

旋盤の前に立つヒデさんは、機械と一つになって見えた。
背中が、動かない。動かないのに、音だけが微細に変わる。
耳が拾う変化に、体が先に反応してしまう。

「ヒデさん」
「おう、若。どないした」
「どないしたはこっちやわ。ヒデさんが呼んだんやろ」
「そやったかな……」

その声はまるで、マーラーの交響曲を通しで聴いたあとの一声みたいに掠れていた。掠れているのに、通る。

「前からこんな曲、かけてはりましたか?」
「ああ、ここ一番集中したい時だけな。えらい疲れたわ。こんな難儀な仕事、もう取って来んとってな」

ヒデさんはしわくちゃのハイライトを取り出し、火も点けないまま扉の外へと向かう。
金属と油、汗の匂い。
扉が閉まる寸前、カノンの和声が一拍遅れて残った。

作業台の上には、無造作に五つの部品が置かれている。
永遠に滑り落ちそうな曲線。
差し込む斜陽に照らされ、神々しさすら感じる。
寸法公差の話ではない。
0.01ミリをクリアしているとか、そういう数値には還元できない。
旋律の重なりが別の物質へと翻訳されたような、終着点がそこにある。

ヴァイオリンの旋律とチェンバロの低音が消え、金属音の余韻も溶けるように引いていく。
残ったのは、鈍い光を放つ五つの部品。

事務所に戻り、モニターを立ち上げる。本日の稼働状況。
松田さん──今年五十歳になる、工場を支える大黒柱。生産数はヒデさんのちょうど倍。不良品もない。
松田さんの仕事はいつもと同じ「正解」だ。

「若、僕も半分サンプル作ったんで」
松田さんが、トレイに整然と並べられた五個の部品を持ってきて、モニターの前に置いた。
「みといてください。たぶん、量産になったら僕の仕事になるんで」

私は、松田さんの部品の横にヒデさんの五個を並べてみた。合わせて十個の真鍮の部品。松田さんの部品は蛍光灯の下で均一に光を跳ね返している。精度は十分だろう。
だが、私の視線はヒデさんの五個に吸い込まれる。
数値の上では同じはずの曲線。
なのにその周りだけは時間の流れが遅くなり、止まってしまいそうになる。

「……ほんま、見惚れるよね」

松田さんが私の視線を察したかのように、ぽつりと言った。褒めるというより、ため息に近い。笑えなかった。笑えば、心の底がこぼれ出てしまいそうだった。

翌朝、ふと思い立ち、昨夜のまま置かれた十個の部品を手に取った。
あの、神々しく見えたヒデさんの五個と、松田さんの五個を、ただかき混ぜる。その瞬間、私は自分が何をしているのかを理解した。

──奇跡を、試そうとしている。

指先で、あの「時間の流れが遅くなる感覚」を探す。
だが、真鍮はすべて冷たく滑らかだった。

──吐き気がした。

私が見ていたのは真鍮の形じゃない。幻だ。

社長になってから、毎朝いちばん先に見るのは稼働率と歩留まりだ。
生産数。稼働時間。仕掛品。納期。それが工場を生かす。
数字は嘘をつかない。
だから、真実に見える。

私はモニターの前に戻った。
ヒデさんの稼働ログを見る。
そこには、ところどころ空白の時間がある。
その間に何も作っていないのは、たぶん事実だ。
けれど、何もしていないわけじゃない。
そんなはずがない。そう思いたい。

──思わず、手が動いた。

「機械調整」「材料待ち」「段取り替え」

それらしい言葉を、空白に流し込む。
書き換えたところで、何が増えるわけでもない。何も生まない。
ただの儀式だ。
だけど「非効率」が「真実」に見えるのが怖い。
耐えられない。

気がつけば、ログを一年ぶん遡っていた。
キーを叩く音が、工場の音に混じって消えた。
数字は、空白を埋め尽くしていた。

翌週、量産試作が始まった。
旋盤の前に松田さんが立っている。ヒデさんは古いラジカセでカノンを流し、その背中を見つめている。

「松田くん、そこや」
ヒデさんが、松田さんの肘を軽く叩く。
「音、聴きや。真鍮が泣いとるやろ」

松田さんは黙って頷いた。旋律の重なりに、呼吸を同調させる。誰かの背中をなぞるというより、音の中心に体を置き直すみたいな動作。

数日後、最初の量産ロットが揃った。
私は全体を眺めてから、一つ一つを手に取る。表面に刻まれた微細な文様。

──再現、と呼んでしまえば楽だ。それで、奇跡は手順になる。
手順になれば安心だ。安心でたぶん、畏れは死ぬ。
手順にならないものは残らない。
残らないものは、工場では消えてしまう。

扉の向こうで、ヒデさんのライターの音がした。
煙の匂いが、遅れて届く。

工場の奥では松田さんが回す旋盤の音が響く。
その音響は繊細に周波数を変え、やがて、ふっと途切れる。
そしてまた始まる。

私はただその音に、耳を澄ませた。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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