Battle Symphony
バックステージの照明のもと、瀬名泉の月光色の髪がキラキラと輝いている。ヘアメイクにより柔らかい癖っ毛は真っ直ぐに伸ばされてしまい、真ん中わけでつるんとした美しい額があらわになっている。
なにが気に入らないのか眉根に皺がよれば、薄氷色の瞳を縁取る銀青の目元と跳ねたアイラインが、泉の冷然とした美貌をいっそう際立たせる。すっと通った鼻梁の下、淡く血色を帯びた薄い唇を一文字に結び、歪みひとつない姿勢も相まって、その姿は傲然としており近寄り難い——
泉のモデルとしての活動範囲は広い。
得意分野は雑誌や広告を中心としたスチール撮影。被写体として自身を魅せる仕事には強いが、機会があればもちろんショーにも出演する。身長はそこまで高くないし、要は適材適所ってやつだ。
一からやり直す、そうレオに啖呵をきってフィレンツェから帰国したものの、「瀬名泉」が日本中心に活動することは良くも悪くもあっという間に業界内で広まった。
子ども服も展開している一般知名度より業界評価が高い、国内中堅のデザイナーズブランドのショー。
泉はそのファーストルックとして選ばれていた。
バックステージを煌びやかな衣装を着たモデルたちや、モデルを囲むドレッサーやヘアメイク、スタッフが慌ただしく行き来する。ショーが始まる直前の熱気と喧騒のなか、衣装の最終調整を終えた泉は鏡を前に自身の仕上がりを確認していた。
メイクは上々。だが衣装は。
シルクサテンの白地に銀糸の刺繍が入ったハイカラーの衣装。光の加減で柄が見え隠れする刺繍は前面から側面、背面にかけてあつらわれており、ゆっくり身体を捻れば刺繍は光を帯びては消えていく。生地の白は泉の瞳の色より薄い、涼しげな水色へと変化する。
(……『輪』ねぇ……)
これで翌期秋冬コレクションのデザインテーマは「輪」だという。実験的なことを好む割に几帳面で完璧主義の気難しいデザイナーは、独自の世界観のなかで完結することを良しとするタイプだった。
「瀬名さん靴です」
「ありがとうございます」
(変化が繊細すぎて、いくら俺が完璧なウォーキングしても観客から見てわかんなくない……?)
初回のフィッティングから今日まで何度も繰り返した悪態を心のなかでつき、これもまた装飾が繊細なデザインの靴を足に通す。念のためとリハーサルで靴を履き歩かせてもらったが、ガラス細工のような見た目に反して安定性があり拍子抜けしたくらいだった。
(けど、この仕事も完璧にやってみせる)
フィッティングを重ねるうちに、デザイナーの要望は増えに増えて苦労した。だが、今日のこの日までデザイナーや演出スタッフらと会場の照明や、映像やらを入念にチェックし尽くしたのだから、やるべきことはすべてやった。あとはそのイメージ通りに歩くだけ。
「瀬名さん、そろそろ……」
「はい」
スタッフから誘導され、舞台袖へと歩く。
ショーの始まりまであと十分。
だが——。
「靴、別のにできますか?」
「え?」
「この靴じゃ歩けません」
「……なんでですか?」
近くにいたスタッフに伝えるが、これみよがしに顔を顰められる。
「靴が壊れてる」
履く前は気づかなかったが明らかにリハーサルの時とは違う履き心地で、身体の重心が僅かにぐらついた。おそらくソールの接地感がおかしい。踏み込むごとに違和感は増していたから、このまま歩き続ければ壊れそうな気がする。
「普通に歩けてましたよね? そんなわけ……」
「あんたじゃ話にならない。さっさとわかる人呼んで」
衣装スタッフでもなんでもないスタッフの独断で、このままランウェイに出されてたまるか。うっかり丁寧語を忘れ言葉じりにトゲが出る。行儀は悪いが靴を脱ぎ、スタッフを睨んだ。冬の床はひんやりして泉の足底から熱を奪っていく。
「その顔、俺が嘘ついてるとでも思ってる? 疑ってるなら突っ立ってないでその靴、確認してみたら」
「……」
スタッフがようやくインカムで他のスタッフを呼ぶ。
泉たちのやりとりを遠巻きに見る後続のモデルたちをすり抜けて、箱を持った衣装スタッフが駆け寄ってくる。
「瀬名さん、この靴で」
衣装スタッフが箱から出した靴は、脱いだ靴と同じもの。てっきり別に見繕ったものが出てくると思っていたが。
「……同じものだけど、その靴は大丈夫なの? ダメなら最悪裸足でいい」
「デザイナーのこだわりでバックアップのために別で保管されてたものです。事前に不具合はありませんでした。確認お願いします」
靴が床に置かれる。衣装スタッフの腕を支えに、新たな靴を履き、数歩歩く。やはり初めに履いていたものと全然違う。
「大丈夫そう、です」
衣装スタッフが泉の脱いだ靴を拾い上げ、隅々まで確認する。
「……ここ、わかりにくいですけど、僅かに歪んで亀裂が入ってますね。こちらの確認不足で申し訳ありません」
「いえ、ありがとうございます」
衣装スタッフは靴を回収し、消えていった。
「…………」
嫌がらせかな。なんて泉は思ってしまう。靴のトラブルなんてよくあることだし、欠陥品だったとしても、本当に嫌がらせだったとしても責任の追及などに興味はない。
高校に入る前は、自分の焦りを周囲に当たり散らすしかできない嫌な子どもだった。
どんなに大人になっても昔から芸能界にいる以上、「瀬名泉」に関する評判は過去を遡ってよく思われていないことも多いわけで。
つい悪い方に偏りがちな思考に辟易する。
「相変わらず細かいとこ気づくね」
「繊細そうなデザインだし、体重支えきれないんじゃない」
などと泉の後ろから聞こえてくる声たち。
嫌味にも聞こえてしまう。わざと聞こえるように言ってるのか、自分が敏感になってるのか。
ともあれ気にしたら負け。
けれど、泉は意味なく騒ぎ立てたり、嘘なんてついたことなかった。些細なことに騒ぎ立ててたのは過保護で過干渉な泉の両親の方であって。
(……居心地悪い)
今日は嵐や顔見知りのモデル仲間がいない現場。余計に疎外感が際立つ。何か言いたげな、バツの悪そうなスタッフを無視し、あとは始まりを待つだけ——と思いきや今度は別のスタッフに誘導されて自分の隣に並んだ子どもから視線を感じる。
「よろしくねぇ」
「…………よろしくおねがい、します」
消え入りそうな声でお辞儀する子ども。淡い栗毛がふわふわ揺れる。泉と視線があった途端、薄茶色の瞳は床に向いた。そのままスタッフの後ろに隠れてもじもじしてしまう。今日はこのキッズモデルの男の子と一緒にランウェイを歩く。
キッズモデルは泉とは異なる完全な白地のシルキーな衣装を纏っている。
襟はシフォンで覆われている。後ろは腰から透け感のあるシフォンを幾重にも重ね、その上から繊細なチュール刺繍を散らしている。刺繍の柄は泉の衣装と同じ。全て銀糸で施されていた。が、バックステージの暗がりではチュールと銀糸が同化してほとんど見えない。だが、軽い生地はランウェイを歩くだけで舞い、簡単に刺繍は見えるだろう。泉とは難易度が大違いだ。
「あと二分でーす」
進行スタッフが声をあげる。
じっとキッズモデルに見つめられて、泉は苛立ってくる。
リハーサルの時も、その前も顔を合わせるたびずっと見られている。声をかけると途端に黙り込んでもじもじしてしまうから、ろくに会話したこともない。親は一体どういう教育をしているのだろう。一応、ランウェイは歩けるが、本番はどうなることやら。
(なんでもいいけど、俺の邪魔だけはしないでよねぇ……)
キッズモデルに何かあれば一人で歩く。スタッフにすぐに回収される手筈になっている。
ファーストルックに選ばれたといえ、不安要素だらけ。素直に喜べなかった。
ふと泉の頭に数時間前の記憶がよぎる。
“ファーストルックなんで瀬名? デザイナーがキャスティングしたって話じゃん“
“キッズモデルとセットだから身長差出てちょうどいいんじゃない? 粗も見えにくいし”
“スチールなら顔面強いけど。ショーはね“
“あー。でもああいう顔、ペドおじには需要ありそう。海外じゃいまだにキッズモデル枠だったりして”
“さすが海外で身体張ってただけある〜“
衣装ラックの向こうから聞こえてきた、愉快そうなクソモデル達の戯言。そのなかには知っている声も混じっていた。泉が聞いてるなんて微塵も思っていなかっただろう。
ほんの数年前なら、直接言ってみろと乗り込んでいたかもしれない。
気持ち的にはいっそぶん殴って、汚い床に顔を擦り付け、今日のステージに立てなくしてやりたくはあった。が、泉は大人になったので深呼吸したのち、衣装ラックをショーに差し障りが出ない範囲で思い切り蹴ってやった。
中性的で同世代よりは幼めの顔立ちも、モデルの割に低い身長も、健康的な体重も。枕だの、性格が終わってるだの聞き慣れてしまえば昔から言われることは大抵一緒で捻りのない雑音である。
それに、でかくてひょろ長いだけでモデルをやってるような、馬面ド下手ウォーキング野郎にとやかく言われる筋合いはない。
(自分が老け顔なだけじゃん。俺より全然撮影もショーも呼ばれないからってさぁ。馬は牧草でもおとなしく食ってろばぁか)
百歩譲って一理あるとしたら。
デザイナーがペド野郎かなんて知ったことじゃないが、個性として需要があるうちはそれでいい。
表で音楽が始まる。
視線を感じる。
泉の腰にも満たない身長のキッズモデルはやはりじっと泉を見つめている。
「……いくつだっけ?」
「……」
小さな手を広げて五歳、と返ってくる。労働をなめるな、口で言え、と出かかって飲み込む。
泉がすでにキッズモデルをしていた年齢。少しばかり懐かしさを覚えた。スタッフから手を繋ぐように指示が入る。子どもの割に冷えた手。泉はキッズモデルの方に視線を落とした。
「瀬名さん、お願いします」
ショーの始まり。
泉はなかなか歩き出さないキッズモデルの手を引く。少し抵抗された。だが、すべてが計算されたこの場で、子どもの気まぐれに付き合う猶予など残されてはいない。
「……歩かないの?」
横に小さく首を振り、キッズモデルは歩き出した。スポットライトを浴び、暗がりにいる観客の視線が一気に刺さる。握った手が強く握り返された。
ふと見れば、キッズモデルは泣いている。
足はもたついて、泉に付いてただ歩いているだけ。やがて、くん、と手が引かれる。キッズモデルの足は完全に止まった。まだ、距離でいうところ四分の一も歩いていない。
(……プロ失格だね。俺はランウェイで泣かなかった)
——泣けなかった。小さくて、可愛くて。守らないといけない弟がいたから。
泉はそっと頭を撫で、キッズモデルを抱き上げた。
「怖くないよ」
キッズモデルは目を見開いて、泉を見る。
かつての真にも、嵐にも、自分にも重なってつい顔が緩む。大きな瞳に溜まる涙を拭った。
「泣いてても良いけど、前を向くの。あんたもモデルでしょ」
キッズモデルを抱きかかえながら、ランウェイを我が物顔で歩く。
ざわつくランウェイ。
(うぇ、やってしまった……俺としたことが……)
明らかなトラブル。本来ならスタッフに回収されるはずだった。それを頭で思い出したのは、もう腕の中に子どもがいた後だった。
一度抱き上げてしまえばいまさら下ろすことなんてできない。一瞬の感傷が命取りになるとは。
こともあろうに衣装は前面から側面、背面にかけてある大胆な銀糸刺繍がメインのデザイン。両腕でキッズモデルを抱きかかえたままじゃ、泉の服はほとんど魅せられない。
せめてと左腕を離し、空いた手でキッズモデルの服のチュール刺繍が見えるようにさりげなく調整する。
演出の風にのって、チュールは靡いた。
腕の力を少しでも緩めれば、つるつるのサテン生地も相まって子どもが滑り落ちていきそうだ。
もちろんこんな経験、泉には一度もなかった。
子どもを抱いてランウェイを歩くモデルは見たことがある。けれどそれは当然、予定されていたもの。
泉がまとう衣装も、キッズモデルの衣装も、今季一番の見せどころだったわけで。気難しいデザイナーはさぞお冠だろう。
ランウェイの先端で立ち止まり、左手を腰にそえて前面の刺繍を見せるためよれた生地を引く。重心がブレないよう、体幹に力を込めてゆっくりターンし、服を魅せる。
同時に、子ども服のチュール刺繍が空気をまとってふわりと舞い、照明を反射して刺繍がキラキラと輝いた。
ランウェイの先の薄暗闇に、観客の輪郭が浮かんで見えた。そのどれも、顔までは見えない。
何が正解かわからない。世界はずっと、泉に優しくない。自業自得? それでも、「瀬名泉」が死ぬわけじゃない。モデルとしては死ぬのかも? そもそもファーストルックの自分を、こんな年端もいかない子どもと歩かせようとした大人たちが悪い。もはやランウェイの感傷に浸る暇も、情緒もありやしない。
前面は難しくても背面の刺繍は魅せることができる。
会場のライトが衣装を綺麗に反射するであろう位置は把握している。だが、子どもを抱え込んでいるとなれば別。生地への張力も、皺の入り具合も変わるわけで。一人で歩く時と同じようにと、肩と背筋の位置を調整すれば、右腕にかかる重みは増して結構無理な姿勢になった。トレーニングで鍛えてはいるけれど、維持するのはなかなかにキツい。すでに右腕は痺れ、悲鳴をあげている。
でも、絶対に顔には出さない。ウォーキングにも響かせない。
泉はステージを後にした。
「イズミ……!」
「瀬名くん……!」
ステージ裏に待ち構えていた、進行や衣装、ヘアメイクのスタッフらが駆け寄る。
泉はようやく両腕でキッズモデルを抱えることができたが限界はとっくに通り越していた。
「どこかお怪我はないですか?」
「ないです」
キッズモデルを抱えたまま、泉は進行スタッフへ返答する。
「衣装の状態確認します。元々は同ルックでフィナーレも行く予定でしたが、デザイナーの判断次第ではフィナーレは外しになる可能性も」
「……わかりました」
そして今度は衣装スタッフらに次々と「なんで」だの「無謀」だの散々言われる。遠巻きには、これから出番のモデルたちの「これであんたも終わり」みたいな、性格の悪いほくそ笑んだ顔がちらほら。ひねくれているのは自分もだけど。泉は諸々すべてを無視し、バックステージの奥へと進む。
バックステージの奥の方にいて、パイプ椅子に座って静観しているデザイナーと目が合う。
「…………」
瞬間、音が消える。
デザイナーの顔からは何も読み取れない。何も言ってもこない。
「……っ、あんたのママはどこにいるの?」
泉は声を搾り出した。
泉の腕のなかできょろきょろするキッズモデルが、「いた」と一言。
泉はデザイナーから視線を逸らした。
ショーの真っ最中なのだ。ショーは滞りなく動いている、今はそれでいい。
泉は腕のなかからキッズモデルを下ろした。ようやく悲鳴をあげていた腕が解放される。
感覚の戻ってきた重怠い手で衣装の前身を緩く引いてみれば、すっかり皺が寄っていた。
「…………」
「ママぁ〜!」
キッズモデルが駆けていくほうを泉は目で追った。
「泉くん、こっち」
誘導されるがまま、鏡の前へ行く。
泉を取り囲んで衣装スタッフたちが状態確認をする。鏡を見れば明らかに服全体のシルエットが崩れ、刺繍は歪んでいた。ほつれた刺繍の糸がバックステージの照明で無残に光る。
「……」
「頑張ったね、ごめんね」
声の方に顔を向ければ、キッズモデルは母親に抱きついている。
泉はそれを注意深く見つめた。
母親はキッズモデルを抱きしめ、薄っすら涙を浮かべている。泉にはこの手の母親の違和感が手に取るように透けて見えるのだが、キッズモデルの母親は、我が子を責めることも、特段芝居がかった様子もない。
(謝るくらいなら、こんなことさせるなって感じ……)
どうせキッズモデルなんて、大半が親のエゴ。
それでも泉はほっと胸を撫で下ろす。この子にはちゃんとできなくても、寄り添ってくれる母親がいる。
「瀬名くん、脱げる?」
「はい」
衣装スタッフから言われて衣装から肩を抜くと、丁寧にかつ素早く服を脱がされる。
「……直せますか?」
「フィナーレまでになんとかやってみる……けど」
四十ルックのショー。予定通りに進行している。時計を見れば残り時間は十分もない。服の材質からして、修復は難しい気もする。
衣装スタッフが泉の衣装をボディに着せ、何人もの人が集って衣装の修復を始める。
「イズミ、目、閉じて」
泉にいくつもの手が伸びてきてヘアメイクの直しが始まった。
(今日を台無しにしたかも……)
遮断された視界。一気に暗闇に吸い込まれそうになる。
「最高に綺麗だったよ」
瞼の裏の暗闇から顔見知りのメイクさんの真剣な声色が聞こえる。
「……当然でしょぉ」
「すぐそうやってはぐらかすんだから」
「ふ」
泉は思わず吹き出した。
励まされている。気休めでもないよりはいい。
帰ればよくわからないタイミングで、全然泉が綺麗じゃない時も毎日毎日飽きずに「綺麗だ」とレオが言ってくれたあの家はもうないのだから。
「目、開けていいよ」
泉は瞼を開けた。
衣装を囲み縫製スタッフたちが皺やほつれ、刺繍の歪みを直しているが、表情からして芳しくなさそう。デザイナーもふらりと近寄って衣装の確認をしている。
(…………)
フィナーレの時間が迫っている。
進行スタッフから時間切れの指示が入る。
ボディから衣装を剥がし、衣装スタッフが泉の袖を通した。
「これが限界……でも、デザイナーからこのまま出せって」
「変更なしです。フィナーレも瀬名さん先頭で行きます」
進行スタッフからも指示が入る。
「……わかりました。すいません」
フィナーレに出ることはできる。最悪は免れたらしいが挽回できるだろうか。
泉は鏡の前で身体を捻らせる。衣装スタッフらに囲まれながら肩や腕を動かし、衣装を見た。
(どうする……?)
必死に記憶を辿った。
一年半くらいだったが、海外で自分に見合った仕事も、それ以上の仕事もレオのおかげで経験できた。時に劣等感に苛まれることもあったけど、たくさんのモデルたちを見てきた。もちろん、トラブルに見舞われたモデルたちのことも。その前は? 夢ノ咲に入る前、日本でモデルをしていた時のこと。どれもこの場を凌ぐ絶対的な正解なんて見当たらない。
指示をくれた進行スタッフが何か言いたそうに泉の側を離れない。気になって、鏡越しに見れば、進行スタッフと目が合う。
「……あと、デザイナーから……変えたんだから最後まで責任取れ、って伝えるよう言われましたが……」
最悪は免れたように思えたが、さらなる最悪がショーの終わりに待ち受けているのかもしれない。
「…………わかりました」
泉は進行スタッフの方に向き直った。
進行スタッフは気まずそうに軽くお辞儀をして立ち去る。
——なんとかなる? なんとかする。自分にできるだろうか。やってしまったことの重み。身体の奥が冷えて小刻みに震えてくる。
「ありがとうございます」
心配そうに泉を覗き込む衣装スタッフたちに笑って礼を言った。
ショーはあと数分でフィナーレを迎える。
泉を先頭に、モデルたちが列をなして並び、残りのルックの終わりを待つ。
震えは取れない。冷えて、感覚が薄い指先を握って開く。
『なぁ、今どんな気分?』
フランス語で話しかけられる、悪意をはらんだ言い方。振り返れば後続のモデルが嘲笑している。
フィレンツェにいた頃からたまに現場が被るフランス人のモデルで、理由はよくわからないが泉のことをよく思っていないらしい。周囲にわからないよう一言二言必ず嫌味を言ってくる。
『ショーの成功より自分の話題性重視? さすがアイドルはやることが違うな』
泉はいつものように無視を決めこみ、正面を向き直った。
『世良さんのショーに出れたのもあの作曲家のコネだろ。モデルで干されてもアイドルやってりゃいいんだからお気楽でいいよな。って、フランス語もわかんないお前に嫌味言っても通じないか』
「……」
世良の件は半分当たりで半分外れ。
あいにくフランス語はわかる。悪意も全部聞こえているけれど。今まであまりにも無視していたから、見当違いなことを言われてしまう。けれど今日も無視。
そもそも何故ここで世良の話が、と思えばこいつも世良のキャスティングの時は見かけたけれど、ショーにはいなかった。そんなどうでもいい記憶が蘇ってくる。今まで以上に絡んでくるのは選ばなかった腹いせだろうか。
ラストルックのモデルがバックステージに戻ってくるのが見える。ブランドとの関わりが深いベテランのモデルだ。泉と同様に象徴性のある黒を基調とした衣装をまとっている。
「最後までしっかりな」
すれ違いざま、その人は微笑んで泉の肩を柔らかく叩いていった。泉は頷く。何年もの間、この世界で生き抜いている人。その後ろ姿を視線で追った。
『これが人生最後のランウェイになったりして』
「……は」
フランス人モデルの嫌味は続く。
そんなわけあるか。と思いつつ、そうかも、なんて気もしてくる。わかりやすい挑発にざわざわする胸の奥。
(ああもう、『瀬名泉』の邪魔するやつは全員死ねばいいのに)
最後のランウェイならこいつと会うのもこれが最後。
話しかけられてもずっと無視してたから、一方的に言われ放題なのも癪に触っていた。
泉はモデルに向かって低く呟く。
『Pourquoi tu ne crèves pas?』
『は? 話せたのかよ!? 性格悪りぃな』
『ここ、日本なんだから日本語で話したら。あ、日本語わかんないんだっけ? 日本語の繊細な表現、仕事が大雑把なあんたには難しいもんね。チョ〜うざぁい』
泉はため息を吐き、なおもしつこく話しかけてくるモデルをそれ以降一切無視した。
こんなので多少、気が紛れる。
自分の本質は昔からなんら変わらないのだ。
もっともらしいことを並べ立ててはいるが、そもそもこのモデルにはお互いを尊重する気も、協力する気配も見られなかった。同じショーを作るメンバーなのに、都合が悪くなると言葉が通じないフリ。見てくれが良いだけで知性は猿以下。確実に馬鹿なんだろう。
「…………」
相変わらず震えている自身の手を胸に当てる。
とくとく早鳴る心臓。
深く息を吸って、ゆっくり吐き出す。
感情にのみこまれて、次々と醜い言葉が転がり出そうになる自分を抑えこんだ。
進行スタッフから声がかかる。
「瀬名さん、ちょっと」
「……あの子のことですか?」
「まさにその話です。安全面等を考慮して無しになりました。申し訳ありません」
「そうですか」
さっさとモデルの道は諦めて、自分みたいな夢みがちで、諦めの悪い子が一人でも少なくなればそれがいいのかも。他人にとやかく言われ続ける人生よりそっちの方が幸せに違いない。
汗でまとわりつくシルクサテンがやけに重い。
「フィナーレ開始、一分前です」
進行スタッフの無機質な声が聞こえる。
このブランドとの過去のキャスティング結果は半々くらいだった。
ブランドは提示するテーマごとに世界観が刷新される。デザイナー自身の世界観に合わなければ話題性や知名度のあるモデルでも平気で落とすと有名だった。
帰国したあと、事務所からキャスティングへの参加を打診されて、なりふり構ってられるかと受けてみたところ採用された。しかも、初回フィッティングですでに泉がファーストルックに決定していた。
衣装はしっくりきたが、どう考えても自分から程遠そうなテーマ。話が上手く行き過ぎていると思い、まずレオを疑って、その後に両親を疑った。だが事務所に確認した結果、どれも違った。
今回は、自分の持つ武器で得た仕事。
文句を言われる筋合いなんて一つもなかったのに、このありさま。
(……俺の武器……?)
生まれもった美貌、経験、努力——かつてはそこにレオがいて。そもそも前提が間違っている。レオは「武器」なんかじゃない。そう初めに称した自分が、レオにかけた呪いに違いなかった。
“……もうおれはいらない?“
言葉を尽くしたつもり。でも、レオのあの顔。全然上手く伝えられた気がしない。きっとまた、自分の言葉で傷つけてしまった。
見てて、とレオに言った。
手を伸ばせない。先も見えない。ただ信じて待つだけのしんどさを嫌というほど知っているというのに。
さよなら、とレオに言った。
レオにも、自分にも言い聞かせるために。あえて『さよなら』。
でも本当は、誰にもレオの隣を奪われたくないから転がり出た気もする。
(どこまでも欲深くて、ずるい……)
「瀬名さん」
合図がでて、泉はフィナーレの先頭をきってランウェイへ向かって歩き出す。
ひとつ、息を吐く。
真っ直ぐ前を向き、ランウェイの照明に目を細める。
でも、これが「瀬名泉」だ。
欲しいものは全部、自分で手に入れてみせる。
(……俺は、こんなところで終わらない。俯かない。美しく振る舞うの)
身体の震えが止んだ。
スポットライトと、観客の視線を一身に浴びる。
一人で歩くランウェイ。
うっかり他人を抱えてしまったせいで衣装は生地がぼろぼろだし、刺繍はかたちが崩れてほつれている。無残な姿。
昔から間違いだらけの選択をしてる気がしてくる。
でも、時間は巻き戻せない。ぼろぼろのまま、歩かなければならない。
やや着崩して全体のシルエットをよく魅せる。
着崩せば刺繍のほつれも歪みも目立たなくはなる。
独断だが、デザイナーから責任取れと言われてしまったのだから、手段など選んでいられない。
刺繍が少しでも輝いて見えるように、身体をやや捻り、迷いなく足を踏み込んでランウェイを闊歩する。
もちろん自分が世界で一番美しく魅せることも忘れない。
泉の後をモデルたちが続いた。
海外の仕事とは規模が異なるステージ。仕事の場を日本中心に戻した後の初ランウェイってだけ。
なのに一歩一歩、進むごとに痛くて仕方ない。
このショーが終わったあと、待ち受けてるのは天国と地獄のどちらだろうか。
どっちにしろ、足を踏み出すごとに楽しかったレオと過ごす日々が遠ざかるみたいだ。
ショーモデル全員が列をなしてランウェイを歩く。
照明に輝くランウェイ。
誰も泉の前を歩いていない。
口元が僅かに緩む。
痛い。なのに足取りは軽い。
歩くのをやめたくなかった。
バックステージは次々と戻ってくるモデルで溢れかえった。
「…………」
できることはやった。
ふ、と短く息を吐く。途端に泉の額に汗が滲んで、こめかみから頬を伝って滴った。
デザイナーが舞台へ出て、会場内が拍手に湧いた。短く挨拶し、直ぐにバックステージへ戻ってきた。
そのまままっすぐ泉を見据えて歩いてくる。
心臓が大きく脈打ち、泉の身体はこわばった。冷えた汗が背筋を伝う。呼吸が浅く、早くなってくる。
デザイナーが泉の側で立ち止まった。
モデルやスタッフらの、成り行きをうかがう視線が集まって、バックステージに静寂が生まれる。
息が詰まる。
こくりと泉の喉は小さく鳴った。
「どこまでが計算のうち?」
静寂を破ったデザイナーは相変わらず、感情が読めない顔で泉を凝視する。泉は瞬きを忘れ、デザイナーを見つめ続けた。
「……全部想定外だけど」
咄嗟にどうこう取り繕うこともできず、無愛想な本音が漏れる。
「……ふふ、そうか」
デザイナーは満面の笑みを浮かべ、二、三度強く泉の背を叩いた。
「良いショーになったよ。ありがとう」
「……」
——まだ「運」に見捨てられていなかったらしい。
静まりかえっていたバックステージ内にまばらな拍手が起きる。泉の周囲に音が戻ってきた。
拍手は次第に大きくなっていった。
「なら良かった」
泉は不敵に笑い肩をすくめてみせる。精一杯の虚勢。安堵した顔をして隙を見せたくなかった。
自分の価値も判断の善し悪しも、こういう人間の気まぐれや評価次第でいくらでも変わるのだから。
「それと——おかえり、泉」
「……えっと、ただいま? って、なんの……ですか?」
「はは、日本に戻ってきたんだろう? 昔から面白いよね。君を見ていると創造意欲が掻き立てられるんだよな」
仕事への最大の賛辞と思っていいだろう。
「また次も頼むよ」
デザイナーからは握手を求められる。
泉は差し出された手を見つめた。
(……俺のしたことが失敗の方だったら、この人の言う創造意欲とやらはどうなってたんだろう)
汗が、またひとつ、頬からすべり落ちていった。
「光栄です」
鳴り止まない拍手のなか、泉はデザイナーの手を握った。
(れおくんみたいだけど、れおくんとは違う……)
思って、バツが悪くなる。
見るだけで霊感が止まらなくなるだとかなんとか。
貰った愛の裏を探しても、なにも出てくるわけなかった。レオにはあったのかもしれないし、諦められてしまったのかもしれないけれど。
与えられて、甘やかされて。愛されて、ただただ一緒になって転がっていくだけ。そのうちどこまでが「月永レオ」で「瀬名泉」かわからなくなった。止まりたくても止まれない。それが心地よかった。
けれどレオがくれたものは大きすぎて、自分はどうあがいても、いつまでも「される」側の人間みたいで——そう思う自分はやはり欲張りなんだろう。
もう誰にもレオの心を殺させない。
自分にしてくれたみたいに、レオを守れるようになりたい。望んだことを叶えたい。もうなにも諦めないで。
一度殺したのは紛れもない自分だけど。
できれば、隣で笑っていて欲しいから。
(……れおくん、俺、ちゃんと歩けたよ)
でも、まだ全然足りない。
今日のところは一人で。ただそれだけ。
⭐︎
ブランド関係者やモデル、スタッフらへ短く挨拶を終え、泉はバックステージの着替えスペースで衣装を脱がせてもらっていた。すっかり汗だくの身体は、空気に触れて涼しさを感じた。
「せっ、瀬名くん〜!!」
泉のマネージャーもどきの男が騒がしくやってきた。
「……なぁに? 騒がしいんだけどぉ?」
「うわ!! 早く服ぐらい着てください……裸に抵抗ないんですか」
自身の手で目を覆う冴えないマネージャーもどきに泉は呆れる。そもそも覆う必要はあるのだろうか。
「はぁ……?」
裸に抵抗ないわけあるか。そんなの作曲に夢中になってるレオくらいだ。
「別の奴と間違えてない? 俺が誰だかわかってる? せ、な、い、ず、み。担当の名前もわかんないやつがいるって事務所に苦情入れてやろうかな」
「いえ、存じています」
周囲のスタッフから小さく笑いが漏れる。
プロデューサーはいないから、連れて行けと事務所からあてがわれたマネージャーもどきの男。MMの後、突然日本中心に活動すると言ったし、レオとの同居もやめた。事務所から動向を警戒されているのかもしれなかった。
泉は服を着始める。
黒のタンクトップを着て、首元がゆったりした白セーターを頭から着る。パンツに足を通し始めるとマネージャーもどきが話し始めた。
「もぉ胃が、どうなることかと……」
「小言は控室に行ってからにして」
マネージャーもどきにタオルをぶん投げる。
デザイナーが立場をはっきりさせたことで、ランウェイでのトラブル対応は概ね好意的な意見が多かった。だが、デザイナー側のスタッフがいるなかで問題発言でもされたら、こっちの胃がどうにかなりそうだ。
「ありがとうございました」
私服に着替え終えて、スタッフらに最後の挨拶をし、バックステージを後にする。
控室へ向かう人気のない廊下を歩いた。
コツコツと二人分の靴音が響く。耐え切れなくなったのかマネージャーもどきがぼやく。
「気難しいくせになんでファーストルックの瀬名くんと、キッズモデルを歩かせるかなぁ……」
「……さぁね。あの子リハは落ち着いてたし? 一応厳選はしたんじゃない?」
もう終わったことをどうこう言われても。
マネージャーもどきが控室のドアを開け、泉は室内へ入った。化粧前に直行し、椅子に座って早々に化粧を落としはじめる。
「デザイナーズブランドのデザイナーってなに考えてるのか全然わかりませんね。あ、私物、ボクが片してもいいですか?」
「ありがとう」
マネージャーもどきはせっせと泉の私物を整理し始めた。
「……俺見てると創造意欲が掻き立てられるらしいよぉ」
ややレオと通じるところはある。大胆な演出を好むのに寸分の狂いに敏感で、変なところで気難しい。いわゆる天才の類。単にその辺を歩いているだけでも天才に当たるのが芸能界と思いつつ、オーディションでの渉もあいまって、そういう人間たちとなにかしら縁がある気もしてくる。
「あ、変た……変人ですかぁ……瀬名くんを見ているとボクは胃がいくつあっても足りません……」
「別に事務所に帰って貰っていいんだけど。それより俺によく突っかかってくるフランス人のくそモデルの顔見た? ざまあみろってかんじ」
化粧を落とし終えて、スキンケアにはいる。化粧を拭き取ったコットンをゴミ箱に放り込む。
「また何か言われたんですね。所属事務所に苦情入れておきます。それで、瀬名くんが良ければなんだけど、キッズモデル親子が挨拶したいって」
化粧水をコットンに含ませ、ショーの高揚で熱を帯びた顔に優しく染み込ませる。肌にじわじわ馴染んでいく化粧水が気持ちいい。乳液に取りかかる。
「……別にもう会うこともないだろうから、挨拶しなくていいんだけど。気にしないで、って言っといてくれない?」
「え、それボクが言うんですか」
冷たい、などと呟く失礼なマネージャーもどきを無視する。
「あの子、ショーであんな風になっちゃうんだからモデルのお仕事なんてもうしない方がいいでしょ」
「……わかりました。断りの連絡入れますね」
「……」
スキンケアを終えて、くるくるに戻りつつあるいまいましい癖っ毛を弄りSNSのチェックを始めた。すでにショーの動画はいくつも投稿されていて、そのうちの一つを適当に押した。
「……」
思っていた以上に、泉の衣装の前面の刺繍は見えておらず、小さく舌打ちする。
「それ、フキハラですからね……」
「うるさい。あんたにしたんじゃないから」
もう一度動画を見返しはじめる。
観ているうちに、ショーの昂りが身体から引いてくる。身体は重く感じるし、じわじわと右腕が痛くなって、泉は無意識にさすっていた。
「はぁ〜あ。ありえないんだけどぉ。美しくなぁい」
「そこ、お偉いさんたちの評価高かったですけど……SNSも瀬名くんに肯定的っていうか」
スマートフォンに耳を当てながらマネージャーもどきは画面を覗き込んで言った。
「俺が美しくないって言ったら美しくないの……え?」
泉に抱きかかえられた子どもは、泉の言いつけを守って目にいっぱい涙を溜め前を向いている。ターンの前に小さく衣装の裾を広げて持ってもいて、モデルとして振る舞っていた。なんだか泉と子どもの衣装で光った刺繍が一つの絵に見えなくもない。背面の刺繍の見え具合はまあまあと言ったところ。
「……ねぇ、会ってもいいよぉ」
「……えっ!? あ、すいません取り消させてください。会います。はい。……はい、大丈夫です。……お待ちしてます……では」
断りの電話を入れていたはずのマネージャーもどきは慌てて訂正し、通話を切った。
「瀬名くん……! そのつもりだったならはじめから言ってください……!」
「うるさいなぁ。俺の気が変わって良かったでしょぉ」
頬杖をついてマネージャーもどきから目線を逸らす。
「……ツンデレって本当だったんだ……」
マネージャーもどきは失礼なことをぶつぶつ言うのだった。
「はい、瀬名くん水」
「ありがと。気が利くじゃん」
泉はマネージャーもどきからお気に入りのタンブラーを手渡される。タンブラー内のミネラルウォーターをストローで吸い上げた。
私物もまとまり、親子と挨拶したら帰るだけ。
動画を見れば見るほどいたらないところばかりが目についてくる。
「エゴサはほどほどにした方が……」
「角度が違うショーの動画漁ってただけでしょぉ」
「真面目ですね」
「そお?」
エゴサなどと言われて、ふと動画の評価数に目がいってしまう。
「……」
泉は動画アプリを閉じた。
動画は一区切りにしてメールチェックをすれば、大量のメッセージがきている。指ですいすいスクロールを繰り返すと、珍しく真からメッセージがきている。
「はわわ!? ゆうくん……♡」
テンション爆上がり。
メッセージを読む前に泉の右手からスマートフォンが滑り、テーブル上に落としてしまう。
「……大丈夫ですか。ところで、メガスフィア直帰でいいんでしたっけ。どこか寄りたいところありますか?」
「なるくんたちが食べたいって言ってたスイーツのお店に寄って欲しいんだけど……」
扉がノックされる。
マネージャーもどきが控室のドアを開けた。
開けて早々、母親が深々と頭を下げて謝罪する。
「このたびはご迷惑をおかけしました」
「……いいえ。お疲れ様でした」
(本当、チョ〜いい迷惑……)
泉は心のなかで毒を吐く。キッズモデルが泉に駆け寄ってきた。
「……おつかれさま。やるじゃん」
泉は床に膝をつくと手を差し出した。キッズモデルはそれに答えず、泉に抱きついた。
「……!? ちょっと、苦しいんだけどぉ……?」
ぎゅうぎゅう首を締めつけられて息がし辛い。泉の肩からセーターがずり落ちる。
「わ、わかったから、ちから、ゆるめてよねぇ……」
気持ち程度には力が緩まる。
マネージャーもどきと母親が慌てて近寄るが、泉はそれを止めた。キッズモデルは泉の首にくっついたまま話し始める。
「いずみみたいになる」
「……俺みたいって?」
「きれいでやさしい。ないつのときはかっこいいのに」
「へぇ、Knightsの俺も知ってるんだ」
「おれもいずみみたいなモデルになりたい」
幼い頃の真みたいで泉は自然と顔が緩んだ。
「……そう。ならもう、ランウェイじゃ泣けないね」
泉の意地悪な言葉に、素直にこくりと頷く子ども。きっとこの言葉の意味も重さも理解してない。
「なかない」
「うん」
子どもの背を柔らかくぽんぽん、と叩いた。
自分みたいにはならない方が良いんじゃない、とは思うけど。思うことは自由だから止めるなんてこと、泉にはできないのだった。
「……ずっとお利口さんだったのに。今日はどうしたの?」
「うしろのひとが、こわいかおがたくさんうかんでみてるって、おしえてくれた」
「……そう」
「へんなはなしかたで……」
「うしろのひと」、おそらくフランス人のモデルだろう。泉の頭は冷えていくばかりで、怒りすら湧かなかった。
静かに息を吐いた。
「……こわかった?」
子どもは首を振った。
「こわくないっていずみが教えてくれたから。ありがとう」
「う」
再度腕に力を込められる。きっと泉が想像する以上の恐怖を乗り越えたのだろう。こんな思い、自分と歩かなければしなくて済んだのに。
(……俺のせい……)
泉は唇を噛んだ。
「……ならいいの。そろそろ離してくれる? 息ができなくなっちゃう」
諭すように言って子どもの背を撫でる。
「あ、ごめんなさい」
子どもは慌てて泉から離れる。泉は乱れた髪を耳にかけた。
薄茶色の瞳がおずおずと見てくる。
「……きれい……いいにおい」
「ふふ、ありがとう。よく頑張ったね」
化粧を落としてしまった後で、すっぴん。汗もかいたし、髪もすっかりうねってるし。けれど、嘘のない言葉で綺麗と言われて悪い気はしない。
純粋な瞳にレオが重なる。子どもに笑いかけて、泉は立ち上がった。
「……ねぇ、もう一度、ここの人たちに同じ話できそう?」
子どもは泉を見上げてこくりと頷いた。
泉は視線でマネージャーもどきに促す。マネージャーもどきは頷き、電話をかけ、キッズモデルを母親のもとに誘導した。
親子が頭を下げる。
「ありがとうございました」
「ばいばい」
扉が閉まった。
「……瀬名くん」
マネージャーもどきが視線を彷徨わせる。泉を慮る一言を探しているようにも見える。
「あは、いい気味」
泉は笑った。
人生最後のランウェイ、最高に皮肉が利いている。
胸糞の悪さは消えない。
昔からひねくれもので、立ち振る舞いが下手くそで、敵が多くて、足を引っ張られるのも。
レオの曲を「武器」なんて言ってしまったことも、夢を叶えるために[[rb:友だち>レオ]] を使ってしまったことも。[[rb:天才 >レオ]]の隣に立ちたいと望んでしまったことも。
なにもかもが泉の歩んできた人生で起きたこと。
それでもこの道を歩いていく。
なんとなくKnightsのグループメッセージを開く。
“お腹空かせて待ってる♡”
“ありがとー”
”Parfaitも気になっています“
レオのメッセージはひとつもないが、既読はちゃんと全員分ついている。凛月からの写真でレオの尻尾毛がかろうじて見えた。背景はメガスフィアのKnights部屋。生きてはいるらしい。
「さっさとお土産買いに行こ〜?」
泉は自身のコートを掴んだ。
[newpage]
その後
嵐は躊躇っていた。
スマートフォンでSNSを開けばトレンドの上位に「瀬名泉」の名前がある。HiMERUも含めてすでにモデル仲間からいくつもメッセージが来ている。きっと泉関連だ。けれど、今日ばかりは本人が戻って来るまで情報は遮断しておきたい。
何があっても泉なら大丈夫、とは思うけれど。
メガスフィアのスターハウス、Knightsの部屋の窓から覗く空は濃紺。
嵐はスマートフォンを見るのをやめてソファにもたれかかった。
部屋には泉以外の全員が揃っている。各々仕事を終え、司は嵐の横にあるソファに座って本を読み、凛月はベッドに寝そべり、レオは床で静かに五線譜を撒き散らしていた。
当の泉は「地上で何か買ってくるものある?」なんて、緊張感のないメッセージをショーの前日に送ってきていた。
だからついメガスフィアでは売っていない、限定スイーツを皆で頼んでしまった。
「あ〜ん。スイーツ売り切れてないかしらァ」
嵐は落ち着かない気持ちが声となって出た。
「瀬名先輩は『ちゃぁんと予約したよぉ』って言っておられましたので、絶対に大丈夫です。ねっ、凛月先輩」
「残念でした〜『肥えたかさくんのぶんは絶対買わないからぁ』ってセッちゃん言ってたよ……ふぁあ」
ベッドでゴロゴロあくびしながら凛月は手を振った。
「もう、なんで二人して泉ちゃんの真似するのよぉ」
嵐は耐えきれず笑った。
「セッちゃん口真似しやすいっていうかぁ……」
全員がちらちらと隅の床に寝そべっているレオに視線を向ける。聞こえてるのか聞こえてないのか、五線譜に黙々とペンを走らせている。その横にはスマートフォンがあって——
「あら。レオくん、何見てるの」
「…………」
変わらず無反応のレオ。嵐はレオのそばまで歩き、しゃがみこんだ。レオの画面には遮断するはずだった泉のショーの動画が流れている。
「きゃぁ!?」
驚いてレオの背中に尻もちをつく。
「ぐあっ!?」
カエルの潰れたみたいな声がレオから搾り出される。
「やだァお巡りさんっ! 抜け駆けしてる子がいます!」
「!? や、やめろナルっ。おまえ意外と力強いんだっ死ぬ……!」
じたばた抵抗するレオを羽交い締めにしてやる。
「レオさん、見損ないました……」
「あーあ。月ぴ〜我慢できなかったんだ〜? 現時刻をもって現行犯逮捕する」
司も凛月もレオのそばに歩いて座る。
「どれどれ、押収品はこれかな。じっくり検証しなければいけませんなぁ。朱桜刑事に鳴上刑事」
とかなんとかレオのスマートフォンを相手に茶番を続ける凛月。
「えぇ? ……そうねェ……」
「検証いたしましょうか……」
「…………」
そうして全員で顔を見合わせて、レオのスマートフォンを囲んだ。司はレオの左横に行儀よく座り、嵐はレオの背の上に座ったまま。凛月はレオの右横にうつ伏せで転がる。
凛月が動画の再生ボタンを押した。
泉はキッズモデルと手を繋いでランウェイに登場したが、キッズモデルは立ち止まってしまった。泉は頭を撫でると抱き上げ、ランウェイを歩き出した。
嵐は息をのむ。
まさか懸念が現実になるとは。
泉からキッズモデルとファーストルックという話は聞いていた。それが不満だということも。
ブランド側に打診すれば良かったのに泉はそうしなかった。納得はしておらず、なにかあったらどう責任取ってもらおうか、なんて冗談にも本気にも思えるようなことを言っていた。
「……」
誰も喋ろうとせず画面を凝視している。
ショーのBGMとレオがペンを紙に走らせる乾いた音が混ざっているだけ。
ランウェイの先端で立ち止まる泉。バレエを思わせる、ゆっくりとしたターンで、泉の衣装の色彩が変化する。体幹はブレることなく泉の衣装も、キッズモデルの衣装のチュールも光を帯びた模様が鮮やかに浮かび上がった。
後ろ姿は子どもの重さで姿勢が崩れることなく、無駄な皺がない。刺繍の柄が絵のように美しく輝いている。
後続のモデルとすれ違い、そのままランウェイを歩き切り、ステージの裏へと消えていった。
ショーは何事もなかったかのように続々とモデルたちが現れては消え、流れていく。
「……非力なのによく持ち堪えたね。実際どーなのこれ」
凛月が嵐に向けて言う。
片腕でキッズモデルを抱き上げて、ウォーキングとして成立させていた。身体にかかった負荷は相当なものに違いない。
「聞かれても、アタシにも経験がないからわかんないわよ。その子が泣きたくなる気持ちはまぁわからないでもないけど」
嵐自身大人びていたとはいえ、大勢の大人の前で歩く、それだけで初めはわけがわからず緊張したし怖かった。そのうち気難しくて騒がしい泉や、神童なんて呼ばれる真がいたからそればかりじゃなかったけれど。
「ふぅん」
「デザイナー次第ってとこじゃない? 泉ちゃんに怪我がなくて良かった。もう、無茶ばかりするんだから」
「この顔、懐かしいですね。瀬名先輩が在学中、ほんのごくたまに私にもしてくださってました」
「ふふそれ、キッズ扱いされてるんだよス〜ちゃん」
「なっ!? 昔の話ですよ」
真っ赤になって即座に否定する司に嵐は笑った。
ショーはフィナーレを迎え、泉が再度登場した。今度は一人で。
「こうやってみると、普段が嘘みたいにセッちゃん綺麗だねぇ」
「そうなのよ……大きく見えるっていうか。身体の使い方をわかってる。努力の人って言葉そのものよ。このウォーキング、服の魅せ方が上手いわァ」
「瀬名先輩はどこにいらっしゃるんですかね……?」
一人混乱する司に、嵐は凛月と顔を見合わせて笑った。
「ずるいわ、その言い方」
「ね、月ぴ〜もそう思わない?」
画面を食い入るように見るレオ。
「…………痛い……」
レオにしては低い声で小さく呟いた。
どういう意味なのだろう。身体のこと、それとも——?
嵐は聞こうとするが、凛月に先手を打たれる。
「おーい、これで月ぴ〜何周目?」
まるで動画を初めてみたかのようなレオに呆れた凛月。レオの顔の前で手をひらひらさせたにも関わらず、返答はない。
「見えない」
凛月の手は早々にレオに避けられてしまった。
五線譜にびっしり書き込まれた音符たちは床が見えないくらいに積み重なっている。
画面を見れば、投稿されたのは四時間前。嵐が仕事で出かける前も、帰って来たあともレオはずっと同じ場所にいた気がするからご察し。
湧いた霊感はとどまることを知らないらしく、手探りで新たな五線譜を手繰り寄せては音符を書き込み、雑に放り投げている。なのに真剣な顔で画面をじっと見つめていて——。
「器用ねェ」
「不器用の間違いでしょ、ナッちゃん」
「あの様子ではじきになくなりますね。五線譜を取り寄せましょうか。……あ、事務所からのCallです。少し離れますね」
「忙しいねぇ〜」
「ありがとう司ちゃん」
司はぺこりと頭を下げると部屋から出ていった。
凛月が楽譜を拾い上げる。
「何これ、交響曲……? すごい量だと思ったらそういうこと……」
「重症ねェ」
結ったレオの髪が、楽譜にペンを走らせる動きに合わせてぴょこぴょこ揺れている。
なんとなくそれきり無言で、レオが作曲を続ける様子を二人で見つめた。
そのうちレオは手探りで新たな五線譜を探し始める。
「…………!? 紙がない、霊感が……」
床をバンバン叩き、お決まりのセリフを言おうとするレオを凛月が覗き込む。
「ねぇ、月ぴ〜? 五線譜はね、間に合わなかったけど、今ス〜ちゃんが取り寄せてるよ」
「……あれ、リッツ……?」
「お、ようやく目が合った。セッちゃん綺麗だねぇ」
レオのスマートフォンの画面に映る泉を凛月は見た。
「……うん」
「ここのターン、何度見ても泣けてきちゃうわァ」
「やけに身体が重いと思ったらナルか……」
「重いなんて失礼しちゃうんだから。ちょっとは休憩したら?」
「すまんすまん。つい時間を忘れたな」
「遅いわね、司ちゃん」
嵐はレオの背中から降りた。レオは上半身を起こして、胡座をかく。
「それでそれで? 何割できたの?」
「今第三楽章。四楽章構成にするから七割ってとこ」
「泉ちゃんどうだった?」
「見ての通り霊感しか湧かない」
レオは床に散らばった五線譜たちを、一枚一枚どこにあるかわかっていたかのように手際よく整理し始める。楽譜はあっという間に分厚いひとつの束になった。
「妬けちゃう……よりもちょっと引いちゃう量だこと……」
「愛が重いのは前からだよねぇ。ねえねえ、帰ってきたらセッちゃんのこと、『抱っこ』してあげるの?」
「抱っこ?」
レオは目が点になっている。
「フィレンツェでしてあげてたんじゃないの?」
「ああ、そういう。そうだな……」
レオは少し考えて、首を横に振った。
「いらないだろ」
「しないんだ」
凛月は思わず口に出たようだった。
それを聞いてバツが悪そうにレオは頭をひと掻きする。
「……世界に見つかっちゃうな、セナ」
短い眉を下げ、瞳の奥は翳っている。力なく口角を上げてレオは笑った。
「はい有罪。この男。言っておきながらこの顔ですよ」
凛月は寝転がったまま頬杖をつき、レオの頰をぶす、っと指で刺す。
「!? どんな顔だよ……」
「見つかって欲しかったんじゃないの? 男心は複雑なのねェ。『おれ天才⭐︎』とか『こんなもんか』とかなんとか言って調子くれていつもみたく煽ってなさいよぉ」
「えっ!? ナルのなかでおれ、そんな傲慢なやつだったのか……?」
みるみるレオの顔が青ざめていく。
「もののたとえよ」
嵐はレオの反対の頬をむにむに摘む。凛月に続き、泉をいちばんにしてやりたかった男の、あまりにも情け無い顔に追撃をくらわせてやった。
「レオくんはそんなやつ……だったかもしれないわねェ昔は」
「うう、どっちなんだ?」
からかいにしょんぼりするレオ。
「やだ、本気にしたの? 冗談よォ」
嵐はレオを叩く。レオは昔から仲間思いで底抜けに優しいのだけれど、言葉選びも、生きるのもなんだか下手くそ。
「かつての月ぴ〜は……どうだったかなぁ。まぁ、ス〜のすけはいないから、大人ぶらなくていいよ。ね、ナッちゃん」
「リッツまでっ」
「まァそうね。司ちゃんの前だとかっこつけたくなっちゃうものね」
二人でレオに寄り添ってみる。
MMでレオが泉にしてしまったことは消せない。
でもそれはきっかけにすぎず、きっとずっとあったレオと泉の問題が露呈しただけ。二人で解決すべきなのかもしれない。けれど、嵐も凛月もあの頃みたいに傍観者でいるのは嫌なのだ。
「……なんだそれ」
言ってみよ、と凛月はちょいちょいレオの足を指で刺す。嵐もそれに頷いた。レオは短い眉を下げ、喉の奥で笑った。
「…………おれ」
瞬間、部屋の扉が勢いよく開いた。
「ちょっとぉ! こいつ、廊下でお菓子食べてたんだけどぉ!?」
「ご、誤解ですっ瀬名先輩……!」
首根っこを掴まれた司が必死に否定している。その手元には五線譜の束……と、チョコレートの袋が握られていた。
「あら、泉ちゃん。お疲れ様」
「おい〜す」
「『お疲れ様』じゃないんだけどぉ? あんたに言われたスイーツ、予約したのにチョ〜並ばされたんだけどぉ!?」
泉の帰還で、室内は途端に騒がしくなる。
「これは違うんです……!」
「はい没収〜」
泉はチョコレートの袋をめぐって司と格闘している。コートやケーキの袋を抱えたままの泉。襟ぐりの大きく開いたセーターが肩からずり落ちていた。
「くまくん預かって」
「えぇ俺なのー? じゃあいただきまーす」
凛月は袋からチョコレートを一粒取ってぱくりと食べた。
「ああっ! ところで瀬名先輩。私のお土産スイーツは……」
「ばぁか。肥えたあんたにスイーツなんてあるわけないでしょぉ」
「あ、悪魔……!」
泉はテーブルの上にスイーツの箱を置く。
嵐は立ち上がって、テーブルへ向かった。司はレオに持っていた五線譜を押しつけて、早々にスイーツの箱を開け確認した。
「やーん。かわいい〜っ♡」
「……! 私の分もちゃんとあるじゃないですか。全く、素直じゃないんですから……」
苺がこれでもかと積み重なったケーキが三つに、ブルーベリーが数個乗った素朴な見た目のケーキが二つ。
「先輩にどの口聞いてんの? かさくんは俺と同じ、豆乳でできた低脂肪・低カロリーケーキだから」
「ええ!?」
「ひとつ百五十カロリー」
司は頬を膨らませた。
「絶対食べた気にならないじゃないですか」
「よく噛んで食べればいいでしょぉ」
泉と司はそれぞれわけのわからない自論を展開する。
「ははっ。じゃあ俺は美味しい紅茶でも淹れようかな〜」
寝そべって司のチョコを食べていた凛月も立ち上がる。レオは凛月に腕を引かれて立ち上がった。
「さっそくお皿に取り分けましょ」
早く食べたいだろう司が、そそくさと皿とフォークを取りに行く。
「先食べててよ。俺、着替えてくるから」
泉は肩からずり落ちたセーターを直し、奥へと消えた。
「ス〜ちゃん返してあげる。そのチョコ美味しかったけど、ほどほどにしなよね」
紅茶を準備する凛月がチョコレートの袋を司のポケットに戻す。
「凛月先輩……」
嵐は聞かなかったことにする。司が持ってきた皿たちに苺が山積みのショートケーキを形が崩れないようそっと取り分けていく。
立ち上がってぼんやりしていたレオは、ふらふらと二人がけのソファに座った。
「身体が凝った」
レオは起き抜けの猫みたくソファの上で腕と足を伸ばす。
「変な姿勢でずっと作曲してるからよ」
「……だってセナ、綺麗だったから。おれは見てるしかできないし」
奥に消えた泉の方に視線をやるレオの横顔からは、好きが漏れ出ている。けれどいつもと違って、ちょっとだけ大人びて見えた。
ローテーブルを囲んだソファに座り、四人でケーキを食べ始める。レオの隣が当たり前のように空いている。嵐は泉のケーキを空いた席の前に置いた。
「あれ、セッちゃん自分の分も買ってきたの? 珍しい」
「言われてみればそうねェ。自分へのご褒美ってやつかしら?」
「食べないんですか、レオさん」
「食欲ない」
泉が買ってきた苺たっぷりのケーキにはほとんど手をつけず、レオは紅茶をこくりと飲んでいる。
「……う〜っコーヒー飲みたい……」
レオは眉間に皺を寄せて目を閉じ、気怠そうに呟いた。
「月ぴ〜酷いなぁ。俺が淹れた紅茶、不味いっていうの?」
凛月が苺にフォークを刺しながら口を尖らせる。
「不味いなんて言ってないだろ」
「ん。いちご甘くて美味しいよ〜」
苺を食べた凛月はもうレオの反論を聞いていなかった。
「せっかく凛月ちゃんが淹れてくれたのに。コーヒーもお部屋にあるわよ。淹れてきたら?」
「うん」
空返事。フィレンツェなら泉が甲斐甲斐しく用意してくれていたのだろうけれど、あいにくここはメガスフィア。ケーキに夢中で誰もレオの要望など拾わないのだった。
レオはだるそうにケーキの皿を正面に座る司の方へすっと移動させる。
「おまえにやるよ」
「良いのですか!?」
「うぅ、スオ〜、声響くから叫ばないで……残りの音も抜けていきそう」
過集中した後で音に過敏になっているのだろうか。レオは耳を塞いだ。
「どぉ? 並んだ甲斐あった?」
泉がラフなパーカーに着替えて戻ってきた。
「……セナ」
レオは泉を見上げると、吸い寄せられるようにふらりとソファから立ち上がる。
「なぁに?」
きゅ、とレオが泉の服の袖を引いた。
「……おかえり、セナ」
見てていいやつかしら、なんて嵐は思いつつ様子をうかがう。凛月の澄まし顔が視界の隅に見える。よく見れば口角が上がり笑いを耐えているようだ。
「……どっかの返事しないやつの分も買ってきたんだから。感謝してよねぇ」
ふい、と泉はレオから視線を外す。
レオは眉を下げて傷ついた顔をした。と思いきやむっと大きな口を不満げに結んだ。そのまま泉の首にぎゅっと抱きつく。
「ちょっと……!?」
レオはぐりぐりと泉の肩口に頭を擦りつけている。
「……? こいつ、どうしたの。赤ちゃん返り?」
「さぁねぇ。マーキングじゃないかしら」
「はぁ?」
聞かれても、って感じ。目なんて逸らさずに見ていれば一目瞭然なのに。やけに静かだと凛月を見れば、笑い声も出せないくらいに腹を抱えて笑っていた。
「はいはい良かったわね泉ちゃん。『抱っこ』してもらえて」
「意味わかんない。俺が抱きつかれてるんだけどぉ?」
「あっそ」
心底わからないみたいな泉の顔に嵐はイラっとする。
けれど大体こういう時、泉はレオにくっつくなと騒ぎ立てるのに今日は言わないらしい。
(トラブルもあったし、泉ちゃんにも珍しく人肌恋しくなることもあるものなのかしら……?)
なんて。気にしたぶんだけ負けな気もして、嵐はケーキを口に含む。濃厚な生クリームとふわふわのスポンジが口の中でじゅわじゅわ溶けていく。苺の酸味と混ざって爽やかな味わい。フォークが止まらない。
「美味しい♡」
「なるくん。それひとつで四七八カロリーだから」
カロリー警察の泉はささやかな幸せ時間にまで水を差してくる。
「えっ、そんなに……?」
といいつつ手は止まらない。
「ふふ。美味しいね、ナッちゃん。ねぇセッちゃん、今日の話聞かせてよ。疲れたでしょ。座ったら?」
笑いがおさまったのか凛月が目元を拭いながら言った。
泉はレオにひっつかれたまま無理やりソファに腰掛ける。そのままレオも隣へ座らせた。
「アタシも聞きたい。腕とか身体、痛まない?」
「別に大丈夫だけど」
泉はツンと澄まし、素知らぬ顔で言う。
「そっかぁ。セッちゃんやたらトレーニングしてると思ってたら、いつのまにかマッチョになっちゃってたんだ」
そう言って凛月はクリームのついた苺を素知らぬ顔でパクリと食べた。そんなわけないと思っているのが凛月からは見てとれる。
いつもなら正論でぶち抜くか「またMelodramaが……」などと顔を顰めるはずの司は凛月の横でにこにこケーキを食べている。
「もぐもぐ……今日のファッションショー、世界観がセッちゃんにハマってたね……えーっとなんだっけテーマ……」
「ちょっとぉくまくん適当すぎ」
「『輪』よ。凛月ちゃん……」
適当な凛月に嵐は突っ込みを入れた。
泉が大丈夫ならそういうことにしておく体で緩く場は流れていく。
「それそれ綺麗だったね、セッちゃん」
「でしょでしょぉ〜? 俺が世界一綺麗で美しくてぇ〜生きる芸術でぇ〜億の顔で完璧なのは世の真理ってやつぅ? それより見てみて! ゆうくんからも褒められちゃったの♡速攻でスクショして永久保存したよぉ♡♡」
泉はふにゃふにゃした顔でスマートフォンの画面を嬉々として見せつけてくる。じっとその画面を見つめるレオの目は据わっていた。
「ぶはっ、笑わせないでよ〜。盛りすぎだよセッちゃん。俺は綺麗しか言ってないんだけど〜?」
啜っていた紅茶を吹き出しそうになる凛月。
「俺を綺麗の一言で済ませるなんて、くまくんの目、悪いんじゃない?」
泉はスマートフォンをポケットにしまい、片眉を上げて不思議そうに首を傾げる。凛月は腹を抱えて笑った。
「あ〜おもしろい。よかったね『ゆうくん』からも褒めてもらえて」
「うんっ♪」
泉は満面の笑みを浮かべる。
「もぉ……泉ちゃんらしいわァ」
図らずも綺麗の一言では済まされず、交響曲を書き連ねていた激重男が泉の首にぶら下がっているわけで。
凛月を見ればウインクされる。きっと同じことを思っているのだろう。
「瀬名先輩、低脂肪・低calorieでもこのCake美味しかったです。さすがSenseだけは良いですねっ! では、食欲の無いレオさんの分もいただき……」
「だぁめ」
泉は遮った。
「れおくん、かさくんが豚になっても良いと思ってるの? ちゃんと食べて」
「豚!?」
泉がレオの黄昏色をした尻尾毛を雑に引っ張る。レオは渋々泉から離れ、フォークを手に取った。
「くまくん、俺のケーキ、半分食べない?」
「食べる食べる。スイーツ作りの参考にしたい」
泉はフォークでケーキを切り取って凛月の皿に乗せた。
司とレオはその様子をじっと見つめている。
皿に乗せたケーキがぱたりと倒れた。
「ごめん、くまくん。綺麗によそえなかった」
「食べられればよいのだ。見た目など気にせぬ。ありがと、セッちゃん」
凛月は皿を取って自分の前に置いた。
「あんたの作るケーキ、見た目やばいもんね。美味しいのに」
司のじとりとした視線が凛月に向く。
「ス〜ちゃん見過ぎ。追加で七五カロリーいただきました〜」
凛月が司をからかう。
「……くぁあっ何故凛月先輩だけ……。私ももっと食べたいです!」
「……」
司を無視して泉は左手でティーカップを取り、紅茶を飲み始めた。
レオはぽつりと言う。
「……身体、本当に大丈夫か?」
「別に。なんともないけど」
泉は心配するレオをよそにまた紅茶を一口飲んだ。
「……あと、さっきの服なんだ? 風邪ひいちゃうだろ」
「はぁ? 俺のファッションにケチつけないでくれる? なに着ようが俺の勝手でしょぉ」
泉はティーカップをテーブルに置き、半分になったケーキをフォークで小さく切った。
何を言っても突っぱねる泉に、レオはむっと口を結んだ。泉は素知らぬ顔で、小さな口を開けてケーキを食べた。
「……あれ、あんたコーヒーじゃないの?」
「うん」
「淹れようか?」
泉はフォークを置き、立ちあがろうとする。レオが泉の右腕を引いた。
「……っ」
一瞬、泉の顔が引き攣る。多分、レオはワザとやっている。
「……いらない。紅茶でいい」
嵐に聞こえはしないが、続けてレオの口が動いた気がした。泉の目が見開く。
「……あっそ」
泉は黙ってしまった。
それきり泉は凛月の方を向き、今日のショーの話で盛り上がり始める。二人の話に混ざりたいけれど、もぐもぐ頬を膨らませ、静かにケーキを食べるレオを放ってもおけない。
「うまいな……」
ケーキを噛み締め、ぼそりとレオは呟いた。
ケーキを食べるだけでこんな深刻そうな顔ができるなんて呆れてしまう。黙ってれば気品のある顔立ち、そう言われるらしいけれど。翳のあるレオの顔に吸い込まれそうになってくる。こうやって世話焼き泉の気を引いて、散々甘やかされてきたのだろうか。
(コーヒー淹れて貰えばいいじゃない……。身体のこと、大丈夫って言うからみんな知らないふりしたのに。でも、それができないのがレオくんなのよねぇ……)
「レオくん、口にクリームついてるわよ」
「どこ?」
レオは舌をぺろりと出すがあいにく反対側。
「ここよ」
「こっち?」
頬を触るが全然違うところ。
「ああもうこっちよ」
嵐はまどろっこしくなって、レオの口を拭いてあげた。
「わは。ナルありがと」
うって変わってひと懐っこい笑顔のレオに、嵐は笑ってしまう。
ほんの一瞬、泉の瞳だけがレオに向く。嵐に気づくとすぐに向き直ってしまった。
(泉ちゃんもなんなのよぉ……)
嵐は見ているだけで胸焼けしそうになってきた。
「も〜意味わかんな〜い」
思わず口に出たと同時に、切実な司の声が重なる。
「うぅ……せめて一口ください」
レオの大きな口に消えていくケーキを司は見つめている。
「おまえにはやらん」
キッと理不尽なレオに睨まれる司。司は睨み返した。
「レオさんっ! 武士に二言は無いはずです……!」
「おれは武士じゃない」
レオは唸り声をあげる。
「噛まれちゃうわよォ司ちゃん。アタシの一口食べる?」
「!!」
司の顔が輝いた。
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