# ワーズワースの魔法
黙って前を行く先輩作業員の背中の向こうで、魔法角灯の炎が揺れている。遺跡の壁には、細かい幾何学模様と、文字——古代文明で使われていたとされる文字が、大きく刻まれていた。橙色の光が、文字をよく照らす。白い塗料で書かれていることがわかった。所々消えかけているものの、解読すればこの形になるだろう。
【LG3】
もうひとつ上の階層は、「LG2」。数字の部分は解読できる。だから、ここは三階層目。実際の遺跡の階層とも合う。あとの文字は何を示すかわからないが、そのうち古代言語学者が読み解くはずだ。おれの仕事は、それではない。
二人分の作業用靴の足音だけが鳴っている。奥には、機械仕掛けの階段と箱舟が鎮座していた。今では瓦礫とがらくたに囲まれているが、かつてこの場所——バーミンガム遺跡の王だったことは容易に想像できる。
「あ——」
魔法角灯の炎が徐々に弱まり、そのうち消える。上層の吹き抜けから月の光だけが差し、材質のわからないつるつるの床が静かに輝いていた。先輩作業員が抜けた声を出し、それから舌打ちする。ゆっくりとこちらを振り返って、角灯を揺らした。
「悪いな、小僧。ここの夜間作業は初めてか? こっちの区画はあんまりまともな道具も回ってこなくてな」
先輩作業員は、顎を包む白い髭を片手でいじっている。明かりは背の方向にある月光だけだが、それを頼りに、所々破れて機械油汚れの目立つ作業着がよく見えた。おれはしゃがんで、角灯を眺めて、それから軽く突いてみる。どうやら雷の術で動いているものではない。魔法角灯は、旧式の簡素なものだった。ブリキ製で、窓は動物の角を薄く透けるまで加工しているもの。専用の油だけが入っていて、それを魔力の媒体にして火の術を安定させ、長時間燃焼し炎を維持させる仕組みだ。うちの家にも同じ仕組みの角灯がある。
「これなら、おれ、再点火できますよ」
そう伝えると、先輩作業員は目を丸くした。
「魔法使えるのか? 悪いが、そうは見えない」
「少しだけですが……」
窓に指を当て、小さく息を吐く。白くなって、天井に向かって立ち上がってすぐ溶ける。
「ファイアドットテキスト——」
呪文を唱えると、先ほどより赤い炎が角灯の中に現れた。壁と床を赤く、しっかりと照らす。
「へえ。ファイ——? なんだって?」
「ファイア・ドット・テキストです」
「ふうん、ま、助かった。これで上にどやされず済む。が、魔法の安売りは感心しないな、魔術師様。世俗に下りて修行の旅途中か? どこかで女に騙されたか、こんな出稼ぎしなくても、もっとまともな所があるだろうに」
先輩作業員が角灯を持ち上げ、鼻を鳴らす。前を向きなおして、再び歩き出した。大きく伸びた影が、複数の光源に当てられて一瞬迷う。おれはその嫌味に答えなかった。
昼間の発掘作業では、入り組んだ通路の奥を調査するためだけに、角灯を持つことはほとんどない。小さな火の魔法を手元に灯して向かうから、おれのような殆ど形だけの魔法使いがちらほらと参加する。だが、彼はその事情もよく知らないのだろう。なんでも言わせておけばいい。
「——っ!」
ふいに何かに足を取られ、転びかけた。靴の音が激しく鳴り響く。足元には、太く硬い紐のようなものが、進路を邪魔するように横へ伸びていた。
「気をつけろよ。頭良くてもあんよは下手か、手繋いでやろうか? ハハハ……」
「大丈夫です、すみません」
先輩作業員は振り返らずに声をあげて笑った。影が大きく動き、魔物のようにも見える。冷たい空気に音はよく伸びて、床を跳ね回る。大きな広間にある吹き抜けの下まで近づくと、月光だけではなく、細かい雪が落ちてきていた。まだ積もるような重い雪ではないが、今年も厳しい冬がやってきそうだ。積雪が進めば、遺跡調査は春まで待つことになる。
機械階段は、上の階層から確認した通り、途中で崩壊している。下へ続く階段はない。ここが最下層なのだろう。その瓦礫が階段の裏に積みあがっている。電気の箱舟は叩いてみると、向こうへ響くような感覚があるが、動く様子はない。
「下へ行くほど不気味だ。相変わらず、鼠一匹も見ない」
「鼠がいる理由もないんじゃないですか。食べ物、齧るものなんて何もないし」
壊れた機械や、石を加工したような天井や床の破片。看板と思しきもの、古代文字が書かれた、ある程度規格化されているような透明の板ばかりが転がっている。生物が暮らしている痕跡はない。雑草のひと房も、虫の一匹も見当たらない。第1階層と第2階層は損傷が激しかったが、この階層は比較的ましだ。地上から第3階層まで降りてくるのには数時間かかったはずだが、第3階層へ入ってから、この奥の広間にある機械階段までは十数分でたどり着くことができた。
角灯を床に置いて、先輩作業員は、肩にかけている革のかばんから木製の計器を取り出す。そばに寄って覗いてみる。複数の硝子の管が木の板の中に嵌められていて、管の中には水銀が入っている。木の板には目盛が書かれていて、それを読む。
「うわ、今時、水銀の計器ですか。まともな道具が回ってこないって、本当らしいですね。こんなので取った記録、役に立つのかな?」
昼間の調査では赤液の計器を使っている。木の代わりに金属の板に同じような管がたくさんあって、板についているつまみを捻ると、雷の魔法が起動して赤液が伸び、そこ一帯の気温や湿度、空気に含まれる魔力量を数分で測ることができる。水銀のものは魔法で起動しない。しばらく測量地点に設置して、環境に馴染ませなければならない。しかも、それをしたとして、取れる数値は参考になるかどうかすらわからない。
管の中の水銀が、それぞれゆっくりと伸びたり下がったりする。壊れているんじゃないのか? これがよく使われていたのって、おれの子どものころだと思うし、製造されたのはそれより前だろう。先輩作業員は胡坐をかいて座ると、膝に計器を置き、水筒から水を飲む。かばんに下げていた懐中時計の蓋を開けた。
「計測が終わるまで二十分くらいかかる。帰りは急ぎで行くから、今のうちに少し休んでおけよ」
計器を見ているだけではつまらない。せっかく少人数の夜間調査に来たのだから、少し自由に見てまわりたいな——。広場の右奥、左奥には、かつて市場のあった名残がある。真後ろには慰霊碑にも思える、なめらかな石の彫刻。近づいてみると、地図だろうか? 淡い色合いで、この階層の絵が描かれている。上の階層には、大きな宗教画が飾られるような機械の額縁があったが、この石の彫刻にも、それの小さいものが備えられていた。枠の中、その表面に触れると、床よりも石よりもつるつるしていた。指先で押すと、黒い面の内側に淡い色が滲む。指の下で油膜のような模様がじわりと広がる。指を離すと、それもゆっくり消えた。たいへん興味深い。この石と額縁は何でできているんだ? 遺跡の発掘作業員になった理由は高尚なものでないが、古代文明を直に目の前にしていると、深夜の時間帯や空気もあって、高揚感がますます湧いてくる。
「おい、話聞いてたか? 休まず戻る。へばっても途中で置いていくぞ」
「そこまで疲れていないので。それくらいには戻ってきますから。おれは魔法もあるし、心配しなくてもいいですよ」
「変な所触って怪我すんなよ」
おれはその言葉を背に受けながら、市場跡地のひとつに近づいてみた。天井から古代文字の立体的な石塊が下がっている。いくつかは落下していて、足元に落ちている。くすみや塗装の剥げがあるが、夏に咲く花のような彩度があったことを簡単に推測できる。
【Ev n Cycle 】
接客に使うような台の奥には、金属の棚がいくつも横倒しになっていた。
ファイアドットテキストを唱えて、指先に火を灯す。細かい瓦礫を乗り越えて、棚の中を照らしてみる。透明の袋に入った、機械部品が散乱している。同じ色のものが十個ほど、さらにまた違う色のものが数個。形状から用途はわからないが、同じ使い方をするように見える。
その中のひとつを手に取ってみた。太い紐が丸められていて、数字の意匠のある飾りがついている。先ほど足を躓かせた硬い紐よりは小さいが、似た材質だという印象を受けた。おれが来る前にも調査は何度も入っているだろうから、残されているものはすぐには不要とされて、回収を後回しにされているに違いない。だから、ひとつくらい無くなってもいいだろう。袋を自分のかばんに入れようとすると、大きな足音がして振り返った。先輩作業員だ。
「怪我するような所に一人で行くな。誰の責任になるか、わかってんだろうな」
先輩作業員はおれの手に握られた袋を取り上げると、床に戻した。
「餓鬼はこれだから、目を離したらろくなことしない。別に珍しいもんでもないぞ、昔から、いくらでも出てる」
「なんですかこれ?」
「さあ? そんなこと俺は知らん」
おれは少し落胆しながらも、再び店の奥に目をやる。最奥部には、硝子板と金属の網が大量に折り重なっている。その間から、車輪がひとつはみ出していることに気付いた。火を灯しているから、片手しか動かせない。持ち上げようにも難しい——。まごつく様子を先輩作業員はしばらく見ていたが、ため息をつきながら車輪を掴んで引っ張り、硝子板と金属網の山から出してくれた。車輪の大きさは自分の腰より少し低いくらい。小さいが、馬車に使われているものと機構は変わらないように思える。床に乱雑に投げられ、円を数回描いて動きを止めた。
「ほら、大したものねえよ。せっかく見るんなら他にしたほうがいいんじゃないか」
先輩作業員は、黒く汚れた手のひらを作業服で拭った。たしかに、小さな車輪をひとつ見つけたところで大発見にはならない。こんなものを持って帰っても、余計な労働と手間が増えるだけだ。
「そうですね——」
ふと、視界の隅で輝くものが見えた。金属網の下に、紺色の細い金属部品がある。火を灯している手を近づけると、湖畔に沈む夕日のような色合いを見せる。機械の一部だろうか、規模はそこそこの大きさに見えた。
「それな。棒だろ。先に言っておくと、これもよくわからん。わからないし沢山見つかるから、溶かして別の金属にするくらいだ」
「たくさん?」
「あぁ、遺跡の外、入り口のほうで。発掘が始まった二十年前くらいには山のように積みあがってて、もう見慣れた。この、金属の棒みたいなやつ。色はけっこう種類があるが、形状はどれもそこまで変わらない。わざわざ掃除して持っていくものでは、まったくない」
しかし、おれにとっては初めて目にするものだった。だったら、これこそ持っていってもいいのでは。明かりがないと一人の作業は難しそうだ。角灯を持ってこよう。おれは店から出ていくと、先輩作業員が後をついてくる。広間に置きっぱなしだった角灯を手に取って走る。「くそ餓鬼!」と、罵倒する声がおれをさらに追い立てた。
角灯を店の奥まで持ってきて、床に置いた。火を灯していた指先を払うように動かすと、ファイアドットテキストの火は跡形もなく消える。金属網は見た目の印象と違って、軽い。一枚ずつ持ち上げて横の壁に立てかける。三枚退かしたところで、先輩作業員が追いついて、大股で倒れた棚と瓦礫を避けながら店に入ってくる。
「俺は魔法使えないんだぞ——!」
四枚目の金属網を持ち上げると同時に、作業着の後ろ襟を掴まれ、子猫みたいに引っ張られた。がしゃんと大きな音を立てて金属網が落ちる。夢中で動いていたせいでよく見えていなかったが、紺色の金属部品が何なのかよく見えてきた。さっき見つけた車輪とほぼ同じ車輪。しかしそれはばらけているのではなく、何本かの細い金属部品が車輪を繋いでいる。
「なんだ? 変だな」
先輩作業員はおれの作業着から手を放すと、金属網に手をかけた。車輪と金属部品が完全に露わになる。硝子板、そして小さな瓦礫を手際よく撤去していく。おれが呆気に取られている間に、その機械は全体像を現した。車輪は前と後ろにひとつずつ。機体は紺色と銀色の棒状金属で組まれている。紐のように細い部品もあるし、中心部分は棒と言うよりはしっかりした板に近い形状だ。そこには白い古代文字が刻まれている。
【YAMAHA】
どこかで見たような文字列だったが、はっきりとは思い出せない。古代文字は遺跡でいくらでも見るし、いちいち識別できるわけでもない。
ちょうど、持ち手になりそうな部分がある。馬の頭、それから伸びる手綱に見立てたようなもの。握りやすいようにか、わざわざ金属の上に覆いがついているではないか。先輩作業員は覆いと中央の金属部品に触れ、持ち上げた。からから軽い音が鳴って、中央についている小さな円状の部品が回る。左右に短い金属の柄があり、その先に板がついている。操舵装置に近い印象を受けたが、板のついた奇妙な取っ手のような仕組みが気になる。これを掴んで装置が回るように見えるが、こちらは金属そのままで、覆いはついていない。この部分は機械で自動的に動くように思えた。詳しくどう稼働して、どう動くのかは、すぐに思いつかない。馬の頭に見立てた部分こそが、全体的な形状や意匠から察するに、人間が握って操作するところだろう。
中央の板の部分の上部には鞍のような部分。握りの反対、後輪上部にも鞍に見える部品がある。しかし中央のものとは素材が違う。中央はなめした革に近いのではと見えた。後輪のほうは、本体と同じ金属で組まれたものだ。なるほど、これはきっと馬と馬車の役割を重ねた機械なのではないだろうか? 後輪上部は、荷台に見えなくはない。まあ、紐で括り付けるなどすれば、何か乗せられそうだ。
高さも、おれや先輩作業員が一人で楽に跨がれるほどだ。重さに関しては、おれはまだ触れていないが、わりと軽く持ち上げたように見受けられたので、それほどでもないのだろう。
「それは……?」
何か知っているのではと声をかけてみたものの、先輩作業員は驚き戸惑う——というよりは、むしろ少し焦燥していた。
「わからない、見たことがない」
「金属の棒はよく見つかるんですよね? 車輪も」
「そうだ——が、もしかしたら、今まで見つかった棒はすべて、元々こういう形をしていて——」
「ううん? だとしても、ちょっと変じゃないですか?」
「何がだ?」
機体の全体を見渡す。人ひとりが跨がるだけなら、足で地面を蹴りながら均衡を取ることもできるかもしれない。しかし後輪の上には、荷台らしきものがある。荷を乗せて使うなら、前輪と後輪、このふたつの車輪だけではあまりに不安定だ。だから、これは完全なものではない。どこかに欠損部品があるはずだ。そう、後輪の左右にもうひとつずつ車輪があれば、ずっと安定して、走りながらも自立するだろう。重くなるぶん移動の速さは落ちそうだが、人間が操作して何かを運搬するという役割はしっかりこなせる。だとしても不思議な機械ではある。明らかに馬を意識した意匠なのだから、古代文明にも馬はいたのだ。これが、馬が走れない悪路を進めるようにも思えないが。
どかした金属網や瓦礫の近くを見て回ってみるが、欠損部品らしきものは見つからなかった。この店にあったのかもしれないが、もう引き上げられて遺跡の外に持っていかれたのか。しかし、非常に良い状態で残っている機械なのは間違いない。おれの推論をこの人に話しても仕方がないということは、これまでのやりとりで十分わかっている。
「ああいや、何でもないです。すごいですね、持って帰れないかな」
「賞与が出るかもしれない。が、今から持って帰るとなると、難しいな。どちらかが明かりを持って行かないといけない。機械は一人で運ぶことになる。朝からの調査にここの計測結果と踏破記録が必要なんだろ。俺にはよくわからないが」
「おれが朝まで待って、ゆっくり持って行きましょうか。先輩は先に行ってもらって」
「だめだ、抜け駆けする気だろう?」
「そんなこと——」
ついさっき、透明の袋を盗もうとしていたことを思い出した。信じてもらえるはずがない。思わず眉間に皺を寄せる。あんなばかなこと、しなければよかった。
「……とはいえ、悩んでいる時間もありませんよね。だからといって、全て譲る気はないですが。おれが見つけなければ、この機械は、まだしばらく瓦礫の下だったんでしょうし」
おれが口を尖らせながらそう言うと、先輩作業員も苦い薬を噛んだような顔をする。
「戻そう」
「え⁉」
予想外の答えに、おれは声をあげた。先輩作業員は機械を再び寝かせ、金属網を上に乗せていく。止めようとするが、強い力で振り払われた。
「元に戻しておけば見つからない。調査の死角になっていたんだ。今報告したら、昼組の手柄にされるかもしれない。運ぶ時間もないし、急いで隠して、また後で落ち合って運ぼう。小僧、今どこに住んでいる?」
「べつに、このアストンですけれど」
「そうか、俺も、アストンの下町だよ。計画を立てる。今日以降で一番早く、自由に動ける時間は?」
「ええと、このまま日中の調査にも出ます。だからいちばん早くても今日の夕方かな。でもすこし休みたい気もします。ひと眠りして明日なら、いつでも」
「じゃあ明日の夕方、遺跡前にいる。ぼやぼやしてるとあっという間に積雪で、遺跡まで気楽に来られなくなる」
どかした金属網と硝子板、瓦礫はすっかり元に戻された。後で二人で取りに戻るのは賛成だが、向こうの予定や都合が完全にわからないのでかなり不平等に感じる。おれが寝ている間に報酬を総取りされたら? 名簿を確認して抗議くらいはできるかもしれないけれど、他に何かいい方法はないものか?
角灯を持って店を出て、広場の水銀の計器を回収した。先輩作業員が目盛を見て、用紙に数値を記入していく。
おれの表情に不満が滲み出ていたのか、先輩作業員は口角を上げてにやにや笑っていた。
「お前みたいなガキ騙すほど、人生切羽詰まっちゃいねえよ」
その言葉こそ信じられない。唇の奥に見える黄色い歯は欠けている。黒い皮脂の詰まった鼻と、目の下のだらしなくたるんだ皮膚。日々を真面目に過ごしていれば、老いたとしてもこうはならないだろう? が——手癖の悪い若者という側面しか見せていないおれも、信用度は同じようなものか。
「賞与の量によっては、一生追い回しますよ。いいや、墓まで暴いて痰と小便をひっかけてやる」
「そんなことにはならないから、安心だな。お前も、さっきみたいな妙な真似するなよ。この取引は、俺がお前を信じないといけないんだよ」
先輩作業員は呆れたと言いたげに、両手を広げて肩をすくめた。つい先ほどまでは軽い粉だった雪は、少し質量を増していた。
薄い朝の光を受けて、青白く輝く雪に辺りは囲まれている。大粒の雨をそのまま白く凍らせたような雪が、先輩作業員の肩に落ちていく。正面入り口にある調査監督所へ、計測結果を書き込んだ記録帳を提出した。計測結果を受け取った遺跡調査員は、顔の下半分を襟巻で隠していた。記録帳の革紐を解いて、結果を確認する。自分の吐く息で目の前が白く染まっているらしい。遺跡調査員は襟巻を指で引いて緩め、目を細めている。その間、先輩作業員は、計器や懐中時計、角灯といった貸付の道具をどんどんと机に置いて返却していく。
「おや? この記録は、妙ですね? 最近あまり見ない値だ」
遺跡調査員は人差し指で記録部分をなぞる。気温、三度。湿度、九十一。気圧、九百八十八。ここまでは特に問題ない。冬のバーミンガム遺跡なら、第一階層から第二階層でよく見られる値。おれは初めて三階層まで来たが、吹き抜けがあるのだから、そこまで各層で変わりはないだろう。遺跡調査員の人差し指が魔力の値で止まる。
魔力、四十八バイト。
「警戒する値というほどでもないけど、少し高い。どうしてだろう? ただまあ、三階層は生きている機械もわりとあるしな。ああ、計器は水銀なのか……」
空気に含まれる魔力は、地下に潜るほど少しずつ高くなるが、それでも三十から四十バイトほどが平均だろうか。警戒値は六十四バイトからと設定されている。
「昼間の記録は、赤液で三十二バイトね——」
遺跡調査員は記録帳の前の頁をめくり、首を捻った。先輩作業員はわざとらしく舌打ちする。
「学者先生の独り言に、長々と付き合ってられねえよ。問題あってもなくても、俺たちの調査は終わり。早く帰してくれ」
「そうでした。おつかれさまでした。ではこちらを」
革袋を先輩作業員が受け取ると、中身を確認している。おれにも同じ革袋が手渡された。今週分まとめて十八シリング六ペンス。夜番券一枚。先輩作業員は「確かに」と答え、足早に、手を振りながら去っていった。
「四十……八バイトって、どれくらい危ないんですか?」
「いや、危なくはないですよ? このくらいの数値だって、赤液でまれに見るし。六十バイトでやっと、僕らが焦るくらい。人が立ち入っても平気。正常な値として扱うのなら、多分、今夜は大きめの機械、階段と箱舟の調子がいいんじゃないかなあ。息苦しいとか、どこか痛いとか、異変はなかったんですよね、もちろん。だとしたら、大騒ぎでしょ?」
遺跡調査員は大あくびをする。空気はむしろ良かったような気がする。おれは深く頷いた。
「じゃあ、ゆっくり休んでね。他の計測値は問題ないし、この水銀計器の不具合だと思う。今年最後の調査の時期だからさ、重要度の低そうなところには赤液は回ってこない日があるんだよ。心配しないでいいからね」
目を擦り、遺跡調査員は軽く微笑んだ。彼も夜通し仕事をしているのだ。おれは軽く頭を下げ、監督所を出た。
遺跡からアストンの町までは徒歩で十数分ほど。日は昇っているが、灰雲の奥に隠れている。朝から雪が降っているためか、喫茶店の客入りは少ない。窓際と壁際に木の卓が並ぶ。そのうちのひとつに腰かけた。店奥の暖炉の前で、濡れた外套を乾かしている客がいる。店の看板娘が、気だるそうに注文を取りに来た。
「おはよう。何にする?」
「えっと、今日はこれ」
おれは革袋から夜番券を取り出した。看板娘は長く息を吐いた。室内でも、微かに白い息が上がる。
「券あるなら、先出しといてくれる?」
「ごめん——お茶にする。お茶と甘い麦焼き、ああいや、干し葡萄のお菓子にしようかな?」
「夜番券だけだとお菓子は出せないよ。でも暖炉の火を見てくれたら、あたしから出してもいいよ。今朝急に冷えたよね……。昼には火を強めてもらう予定だけど、それまでせめてもたせてくれない?」
看板娘は、自分の体を抱えるように背中を丸める。横目で暖炉の前の客を見る。ついでに、ちょっと迷惑だから退かしてくれと言っているのだろう。
「いいよ。今見る」
席を立とうとすると、看板娘は額に拳を当てて目を強く絞った。「いてて……」と、小声で呟く。
「頭痛?」
「そう、天気悪いでしょ。昔から雨とか雪で痛くなる」
「部屋温めたら痛みがひどくなるかもしれないけど、いい?」
「寒いよりまし。用意できたら置いておくから、よろしくね」
調子はかなり悪いのか、いつもの愛想のいい接客も、笑顔も鳴りを潜めている。おれは改めて席を立ち、暖炉へ向かった。外套を乾かしている客にそっと近づく。
「冷えますね。火を強めてもいいですか?」
声をかけると、客が振り返る。振り返りきる前に、その顔は驚きの表情を浮かべていた。
「ダーウェン? ダーウェンじゃないか!」
白髪の混じる、べたついた茶髪の、痩せた中年男性。肌もからからに乾いている。あまりの様変わりに気がつかなかった。しかし、声だけは変わっていない。優しくて低い、でも妙に通りのいい声。
「えっ、もしかして、ジョンおじさん?」
ジョンおじさんの姿は、おれの最後の記憶とは全く違っていた。孤児になったおれの親や兄代わりに面倒を見てくれていた、ジョンおじさん。アストンの町で文具商を営んでいた。数年前に事業拡大するといって町を出たときは、上品に身綺麗にしていて、むしろ少しふくよかだったはずなのに。
「おどろいた。元気だったか?」
外套を床に放り出しておれの肩を掴んで揺らし、ジョンおじさんは少し泣きそうになっている。薄汚れた服の袖から見える手と腕は骨ばっていて、皮膚の下に生々しく血管が浮かんでいた。
「おじさんこそ——」
「俺のことは気にするなよ。なんだ、結局、魔法技師やってるの?」
「ううん。前に言ったとおり、遺跡の発掘作業員。暖炉は、まあ。見られるから、頼まれて」
「先やってしまいな」
おれは外套を拾って、ジョンおじさんに手渡した。「ああ悪い」と苦笑いしながら受け取り、暖炉の前から退く。おれはしゃがんで暖炉の火をよく見た。術の質とか、そういうのは全くわからないし、感じられない。ただ、確かにこの店の規模、今日の寒さに耐えるには頼りない火だった。指先を向けて、しっかりと唱える。
「ファイア・ドット・テキスト!」
暖炉の火が反応して、ふた回り大きく燃え上がった。ジョンおじさんは、隣で髪を搔いている。汗と垢の臭いが薄らと漂ってくる。
看板娘が、錫の盆に紅茶の入った陶杯と焼き菓子を乗せて近づき、暖炉をおれの後ろから覗いた。
「ああそれ、ここにお願い」
ジョンおじさんのいた卓を示すと、看板娘はおれの注文を置いていき、ジョンおじさんが使っていたであろう空いた食器を下げる。
「ねえ、珈琲一杯、追加で」
看板娘に耳打ちした。小さく頷き、店奥の台所へ戻っていった。おれはジョンおじさんが座るのを待って、席に着いた。外套は椅子にかけて、暖炉の前に置いておくことにしたようだ。おれも自分の外套を脱いで、自分の椅子にかけた。湯気の立つ紅茶の香りで、おじさんが纏う臭いをすっかり忘れていく。看板娘はすぐに戻ってきて、ジョンおじさんの前に陶杯を置く。煤を煮詰めたような珈琲が、白い陶杯の内側に黒い跡を残しながら揺れていた。
「ん? 俺は違うよ」
「おれから」
ジョンおじさんは目を丸くしながらも、すぐに穏やかな顔に戻って、「ありがとう」と言った。
「珈琲代は、あたしのつけじゃないからね。一ペンス、おあがり」
看板娘は片目をぱちりとつぶってみせた。しかし、すぐに表情は崩れて頭を抱える。少し心配だ。天気が良くなるといいけれど——窓の向こうでは、ますます雪足が強まっている。
紅茶を軽く啜り、焼き菓子を割った。空気を含んだふわふわの生地の中に、干し葡萄が埋まっている。紅茶と珈琲から湯気が上がっているが、焼き菓子からも微かに上っていた。
「俺のことは気にするなってさあ、そんなこと思えないよ。いったい、何があったの?」
おれがそう尋ねると、ジョンおじさんは首を大きく捻る。そして気まずさを払拭するように、陶杯に口を付けた。
「おれもう大人だよ。困ってるなら、少しくらい助けられると思う」
「そこまで心配しなくてもいいさ。今の状況を端的に話すと——アストンの店は売っちゃって、新しく始めた事業は潰した。ただまあ、俺にはまだ『ここ』があるし」
ジョンおじさんが自分の頭を指差す。おれは焼き菓子を齧った。干し葡萄が歯で割れて、舌に甘みが染み出してくる。
「慣れた土地で、またいちから始めようと思って。今朝ちょうど、馬車で戻ってきたところ。やっぱり、戻ってきたらまずはこの店が良くってね。昔もよく二人で来たな!」
「そうなんだ。故郷で宿代払うなんて、ばからしいでしょ。ねえ、またふたりで暮らそうよ。今度はおれの家で」
「いいの?」
「悪いわけない。ゆっくりしたら、一緒に帰ろう。部屋空けるからさ……」
ジョンおじさんは、おれの胸元を見ていた。それに釣られておれも見る。革紐で下げている、手のひらの半分ほどの大きさの金属部品。円い金属板の中央から、短い金属の柄が突き出している。柄は三つの位置で止まるようになっていた。止まる位置に、【LOW】【MID】【HIGH】の形の古代文字刻印がある。
「それまだ持ってたの?」
おれは金属部品を摘まんで持ち上げた。暖炉の炎、窓からの薄い朝日、店の照明がそれぞれ当たって、三つの光はそれぞれわずかに違う色を金属に残している。
「おじさんからもらった大切なものだよ」
「子供のおもちゃのつもりであげたんだけど」
遺跡研究員だった父親が事故で死亡したあと、現場から回収された遺物のひとつらしい。ジョンおじさんがうまく研究員たちを言いくるめて、一番状態が良く、美しいものをひとつだけ譲ってもらったそうだ。ジョンおじさんは、父からの贈り物だと言って幼いおれに渡してくれた。当時はただ、その言葉通り、父が遺した変わっていておもしろいおもちゃなのだと思っていた。これが本物の古代遺物だと知ったのは、発掘作業員になってから。
紐を通して持ち歩きだしたのは、さらにここ最近の話だ。父の話をちらほら聞くことが増えた。事故死した父の遺体は損傷が激しく、幼い自分には見せられなかったし、詳細を知らせることもできなかったらしい。最期まで古代文明の謎に立ち向かった高潔たるその魂が、おれのことを天から守ってくれるような気がして、同じ現場へ入るのならぜひ身に着けたいと思い紐を通した。
ぐるりと回して眺め、ジョンおじさんにも見せるようにする。普段はあまり見ない裏面の、薄い刻印が、昨夜見た白い古代文字と重なった。
【YAMAHA】
地下の馬の機械に刻まれていた刻印と、同じだ。文字の意匠も、まったく同じだ。心臓を直接ぎゅっと握られたような感覚、呼吸が浅くなり、手のひらがどんどん汗でべたつく。暖炉の燃える音、ジョンおじさんが鼻を啜る音、ほかの客の湿った唇が離れる音さえ、それぞれがむしろ調和して、秩序のもとに合わさった結果、鮮明に聞こえてくる。
馬の機械には欠損部品があるのではないかと考えていた。自立しそうにないからだ。これは自立させる、ということには役に立たないだろうが、それでも、あの機械の欠損部品のひとつなのではないだろうか。父が残した遺物の、手がかり。遺跡発掘作業員になった理由のひとつ。探したい、とまで思っていたわけではないけれど。遺跡を見続けた父の目線で世界を見てみたい、と思っていたくらいだけれど。
馬の機械は、明日の夕方に持ち出す予定だった。賞与をもらうだけでは惜しい。せめて、もう少し自分の手で調べてから持って行ってもらいたい。盗むまでいかなくても、いちど一人で持ち出し、夕方までに戻すことができれば、あの先輩作業員には怪しまれずに済むか? いや、面倒だ。盗んで、隠して少し逃げ回って——。ううん、とりあえず持ち出してから、後のことは考えよう。日中の作業中に、怪しまれないようこっそりと、上層の通り道にある瓦礫をできるだけどかす。それから、盗みの実行は深夜。人の少ない時を狙って動く。それがいい。
「——ダーウェン?」
ジョンおじさんの声で、機械部品以外のぼやけていた視界が戻ってきた。
「あっごめん。おれ深夜作業から戻ってきたばかりで、少し疲れてるかも」
「じゃあ今日は、昔の友達のところを訪ねてみるよ。片づけるとか暮らす暮らさないとかは、おまえが元気で、時間あるときに。今度は酒場で麦酒でもやりながらさ……」
眠気は興奮と決意、さらに紅茶の効果もあってか、すっかり払拭されている。盗むまでに、他にどのような準備をして計画を立てればいいのか? ジョンおじさんが何やら話しているが、内容が耳から耳に抜けていって、脳にほとんど残らない。悪いけれど、今はそれほど重要でない情報の数々。言葉が音としてしか残ることができない。
「——ダーウェン、ちょっと? 本当に、平気なんだろうね?」
「ああ、うん……」
「熱でもあるんじゃないか?」
ジョンおじさんがおれの額に手を当てる。指の節が軽く触れ、骨ばった硬さが額に伝わった。昔の、ふくふくとした腸詰めのような指ではない。
「すこし熱いか……。あん……り外にいない……暖か……し……寝て……。今日は……急に……」
「ああうん、うん。そうだね」
「家……ろう」
目を閉じることを忘れている。そのことまで忘れているから、瞬きができない。少し間を置いて思い出している。眼球が乾く。小さな埃が表面に貼りつく。それでも気にしないでいる。早く行こう。何かやっていないとかえってよくない。
「いいよいいよ……」
残った焼き菓子を口に放り込み、紅茶で流し込んだ。
「ごめん先帰るよ。用事。またねおじさん。おれ、仕事の時間決まってるわけじゃないから、連絡はここへ伝言してくれる?」
「わかった。珈琲ご馳走様——」
おれは席を立つと、珈琲代だけ支払って店を出た。
喫茶店を出て、アストンの魔法図書館に走って向かった。走る必要はないし、そのせいで滑って何度か転けたが、そうせざるを得ないほど気が高まっていた。結局、司書が開けてくれるまで入り口前の石階段で座って待つことになった。着こんでいた外套の中はじっとり汗ばんでいるから、足を止めると汗が冷えていっそう寒い。正面にある噴水は凍結しているし、見ているだけでも余計に凍えそうだ。
この魔法図書館は昔、小貴族が住んでいた城を国が買い上げて図書館に作り替えたと聞いたことがあるが、庭の美意識は公共施設らしからず、なんだか小洒落ている。図書館なら偉大な魔法使いの銅像のひとつやふたつ並んでいそうなものだが、玄関扉を守るのは、旧城主家の紋章である、双頭の獅子を題材にした合成獣の像だった。翼を広げ、蛇の尾を石台へ巻きつけている。
庭を視線だけで見回っていると、そのうち、雪空の向こうで、教会の時計塔の鐘が九回響いた。鐘の音は——白と黒、その雑な濃淡だけで描かれた、下手な絵画のような石の町と空に消えていく。図書館の鍵が開いて、重そうな両開きの扉の中へ飛び込んだ。高い天井の前室を抜け、記帳台に案内係の女性がついている。
「おはようございます。ご用件は?」
「えっと、その。レディ・クリスタベルはこちらに?」
「レディ・クリスタベル・セアラ・コールリッジでしたら、ここの司書をやっておりますけども……」
「いま、面会できますか?」
案内係の女性は、おれの姿をまじまじと見る。頭から、靴の先まで。濡れた外套と汚れた作業着。しまった、一度帰ってもう少し綺麗な服に着替えて来ればよかった。女性はしばらく考え込み、眉を顰めながら「勤務中の私的な面会はお取り次ぎしておりません」と言った。ああくそ、めんどうな立場になりやがって——。
「では、書付を渡してもらうことは?」
「それくらいでしたら……」
女性が、紙を留めた筆記板と、少し短い鉛筆をこちらに差し出した。
——クリスタベルへ。
急ぎの用事。詳細はあまり書けない。
前後にひとつずつ車輪がある、馬と馬車を模した古代機械と、YAMAHAという古代文字について、資料を集めておいてほしい。
できても、できてなくても、明日の朝八時に図書館の裏手で会おう。
ダーウェン・クックソン
女性に書付を渡す。破らずに渡してくれるといいけれど。魔法大学出身の知り合いは、あのがり勉女のクリスタベルくらいしかいない。しかも都合のいいことに、今年の春卒業して司書になった。ちょっとした疑問を投げれば数時間は考え、それからさらに数時間を書庫で過ごす性分の女。多少めんどうでも、この幼馴染という縁故を使わないわけにはいかない。
少し眠れるくらいの時間はあるが、すぐに寝付けるか不安だ。それに、昼の調査をうっかり寝過ごしてしまってはまずい。本来、今日は、喫茶店で朝食をとって休憩、昼食もどこかの食堂でとって、日中の調査に参加する予定だった。帰宅後、夜は早めに休もうと思っていた。計画をなるべく円滑に進めたい。いちいち何度も町に戻って食事をしてはいられないか。日中の調査を終えたら監督所の休憩室でも借りて眠り、深夜に起きよう。
図書館前の石階段を駆け降り、市場で麦焼きや干し肉を買ってかばんに詰めた。一度家に帰って、寝台から敷布をはぎ取った。あの馬の機械を包むには十分な大きさがある。今使っている革の肩掛けかばんの中身を全て出して、父が使っていた——らしい、古い背嚢へ詰め替える。これなら、犯行に使う道具は全て入る。魔法角灯も物置から出して、玄関前に置いておく。背嚢に括り付けて持っていけば、両手が開いて動きやすい。
家の奥にある台所で、火にかけていた珈琲壺がかたかた大きな音を立てている。沸騰しすぎている。急いで向かい、珈琲壺の柄に手を伸ばした。木製だから素手で持てるはずだが、長く火に掛けていたせいで、肌が直接触れるのをためらうほどの熱を帯びている。それでも柄を掴み、すぐに鍋敷きの上へ移した。冷めるのを待つ。相変わらず寒いので、火掻き棒で灰を寄せ、熾火を中央へ集めた。石炭で点けた燃料火の色は黄色い。石炭の炎は黄から橙へ揺れ、火床では熾火が緋色に光っていた。灰を被ったところだけ、赤が鈍く、彩度を落としている。
大きな水筒を用意して、少し冷めた珈琲を注いだ。戸棚から砂糖壺を出して、砂糖塊をてきとうな深さのある皿に取る。匙の先と背で軽く砕き、水筒の中に入れておいた。まあ、家や町でできる準備としては、これくらいでいい。背嚢を持っている自分の姿が、居間の壁掛け鏡に映る。真面目な労働者というよりは、旅人や貧乏な商人に見えて、ややおかしくはある。だが、このアストンの町では、人ひとりひとりにいちいち注目して生きるほど、皆暇ではないはずだ。髪はいつにも増してぼさぼさだが、これから明日までは、整えないほうがよりそれらしいだろう。
昼の集合時刻より早く遺跡へ戻り、バーミンガム遺跡調査院を訪ねた。本格的な積雪を前にした「仕事じまい」の時期だからか、朝から忙しなく研究員たちが動いている。小さな人混みをかき分けて進む。入口脇の机には、帳面と鍵束を前にした男性の事務員が座っていた。乱れた服装の研究員や汚れた作業着の調査員たちと違い、しわのない襯衣を着て、髪をきっちり七三に分けて、この環境では清潔感が逆に悪目立ちしている。
「あのすみません。過去の調査記録とか、見つかった機械の資料って、ここで見ることができますか?」
「……所属は?」
細い金属縁の眼鏡越しに、事務員がこちらを見た。
「あ……、西部区域の発掘作業員ですが……」
「誰かの使い? 西部からの届け出はありませんけど。閲覧許可証とか、何か持っています?」
「な、ないです……」
あまり期待はしていなかったが、やはりだめか——。一介の発掘作業員が急に来て、しかもこんな若造に見せてもらえるわけがないか。
「急ぎ?」
「ああ、まあ、そうですね……」
「今の時期、よくいるんですよね。こういう、うっかりでぎりぎりまで仕事しない、困った教授やら研究員が。ちょっと聞いてきますよ、私の一存で決められることではないのでね。名前だけ、聞いても?」
見た目に反して、妙な頼み事にも融通を利かせる人格類型らしい。
「ダーウェン・クックソンです」
事務員が軽く会釈して席を立ち、奥の部屋に消えていく。その隙に帳面を覗いてみるが、予定の走り書きばかりで、役に立ちそうなことは何も書いていなかった。
そのうち事務員が初老の男性を連れて戻ってきた。濃灰色の上等な長上着に焦茶の胴衣を着ていて、襟元の白布まできちんと整っている。胴衣の胸元から伸びる懐中時計の鎖だけを見るなら役人にも見える。しかし、袖の先には黒い機械油の染みが残っており、筆記具も何本か胸に差している。軽そうな木の一本杖を手にしているが、背はしっかりと伸び、足も悪そうには見えない。歩行の補助というよりは、中流階級以上の紳士が洒落で持つ、流行りの服飾道具のひとつであろう。
「ブレイク主任、こちらの方です」
おれは名乗り、頭を下げた。
「……おや? なるほど。ぼくは、調査主任のアルフレッド・ブレイクです。ちょうど手が空いていて良かった。ぼくの資料室に案内するよ」
事務員は机につき直し、おれはブレイク主任について狭い廊下を行った。木の床が鳴る心地よい抑揚、軽い足音がしていたが、すぐにその軽さをめちゃくちゃに打ち消す重い音がする。正面から慌てた研究員が一人走ってくる。「失礼します!」と大きく叫びながら、一瞬横歩きをしてすれ違い、再び走り去っていった。
「ごめんね、きみとはもう少しゆっくり話したかったんだけれど……」
「もしかして、父をご存じですか?」
「うん。ご両親に、よくお世話になった。おふたりどちらにも、よく似ているね」
「母もですか。おれ……、あ、私は、全く覚えていなくて」
「楽にしていいよ」
「すみません……」
案内された部屋は、城館の大広間ほどもある部屋だった。クリスタベルと遊んだコールリッジ邸の食堂にも負けないだろう。しかし、そこには、調度品や絵画が飾られているわけではない。壁中を埋め尽くす高い本棚、それだけではなく、中央部にも本棚が背中合わせに並んでいる。小さな卓と椅子が数組だけある。柔らかい安楽椅子なんて置く場所がない。ゆっくりと読書するための部屋ではないのだ。
「フレイム・ドット・リッチテキスト——」
ブレイク主任が卓上の洋灯に向かって杖先を向けて、呪文を唱える。淡紫の炎が細く灯った。窓から入る光は天気のせいで頼りない。火は全く揺れず、火というよりは、まるで洋灯の先につけた羽飾りのようだ。
「さて何をお探しかな。ここにきみの目当てがあるといいが」
機械を、遺物を盗む、ということを考えなければならない。ばか正直に、この人を信じてなんでもかんでも話すことはできない。おれの家族と深い関わりがあるようだから、情とか、そういうのに語り掛ければ助けになってくれるのかもしれないが。
「ええと。遺跡の事故について調べたいですね。おれが何を言いたいのか、先生ならきっと、一語一句すべて、わかってしまうんだと思いますけれど——」
くく、とブレイク主任は喉を鳴らした。
「遺跡内で死亡事故は一度も起きたことがないよ」
?
え? どういうことだ? おれが口を開き、頭の中で言葉を組み立て、声を絞る前に、ブレイク主任は続ける。
「何があったのか、まったくわからない。そこに残された痕跡から憶測するしかないんだが、それでも狂った妄想に近い非現実的な要素を取り入れることでしか、成立しない」
本棚のひとつへ近づき、迷いなく手を伸ばす。革の表紙の帳簿を開く。めくらない。目当ての頁をぴったりと開くことができる。彼にとって、たとえば何十年も鋏を握った床屋の、散髪の手順のようになっているのではないか。ブレイク主任の影が、本棚を超えて天井まで伸びる。対しておれの影は、小さく弱く、大悪魔に向かって許しを嘆願するしかない子供に見える。
「まずは、きみの父の遺体が発見された、数日前の記録から追って見ていこうか?」
渡された帳簿には十五年前の冬の記録がある。当時は第2階層までしか記録がとられていなかったようだ。軽い雪、気温は三度。魔力量は一階層が三十六バイトで、二階層は三十二バイト。
おかしい——。差は四バイトと軽微ではあるが、魔力は地下にいくほど多くなるのがふつうだ。三階層は荒れておらず、今でも生きている機械があるという話だったし、十五年前ならなおさらそうなんだろう。
次の頁には、詳細記録がつけられているようだった。記入担当者はアルフレッド・ブレイク。荒れた筆跡だが、特に目立つことは書いていない。何が見つかったとか、何が起きたとか、誰かが死ぬだの生きるだのなんて、そんなことが起きたと思えるようなこと、何も。いや、頁の末尾に小さく、細い字で追記がしてあった。
【西側外周部 一時推定値 六十四バイト】
外に特殊な、大量の魔力を放つ機械があった? その機械事故で亡くなったから、「遺跡内で死亡事故は起きていない」? これだけでは何もわからない。それでも、おれは何とか、少しずつ喉から音を出した。
「……おれのやろうとしていることは、他の人に危害を及ぼす危険があると、思いますか?」
「いいや」
「本当に?」
「ああ、きみの父は、きみ以外に迷惑をかけずに亡くなった」
ブレイク主任はおれの手から帳簿を取り上げた。
「残したのは、人ひとりに与えられた時間では到底解き明かせない謎。近づけば魅了されて、狂ってしまうほどの憧憬……」
取り上げられた帳簿は、元の場所に仕舞われる。この人の手を取ってはならない。どれだけ有能な研究者であろうとも、親を亡くした子どもに対して取っていい態度ではない。自分が何に魅了され、どこまで近づけば危険なのかを、この人は完全に理解していて、あえて踏み込んでいる。
「あなたはちっとも狂ってなんかいない……」
おれを絡めとるために狂人を演じている、常人に見える。心神を喪失した人間にそんな演技はできない。自然の摂理に従うだけの羽虫なら、冬に飛び回りはしない。火へ寄って、翅を焦がす虫を見る季節ではない。この人は羽虫のような小さな脳を持っているわけではない。
「そうだね——」
ブレイク主任は、おれの放った言葉に戸惑うことはなかった。その視線と、口元の歪みは、ただの——悪友のしでかした悪戯を目の前にしているかのようだった。
「どう他に、見たいものは?」
「少しだけ一人にしてもらうことはできますか?」
「できないよ。今日だって、いろんな状況が嚙み合って、偶然この場が成立している。こんな機会、もうないよ。きみは存分に活かすべきだ。よくよく、準備して臨むべきだ」
「昔からずっと、そういうものを、観察せずにはいられないんですね」
「ぼくの目の前でなら、いくらでもひっくり返してくれてもいいのに?」
「それこそ、できません。あなたにもう何も、与えたくはないと思いました」
ブレイク主任は杖を振り上げた。洋灯の火は消える。ブレイク主任の背後、部屋と壁に落ちていた巨大な影も薄れた。残った光源は、今日の雪空を透して窓からかろうじて差す日光だけとなった。杖がカツンと鳴った。まるでここは法廷だとでも言いたげだ。それは、罪の意識からなのか? いや、誰の罪だ?
おれは仕舞われた帳簿に焦点を合わせる。背表紙が強く擦れているので、しっかり判別できる。人差し指をそこに向けた。この人が十五年間宝物みたいに眺めてきたものを、これ以上眺めさせたくなかった。
「ファイア・ドット——」
おれの指まで杖先が伸びて、軽くはじいた。
「その火の術式はよくない。雑すぎる。本棚ひとつ燃えてしまう」
「っ……」
ここで、もう何もできない。おれはブレイク主任を視界から外さないまま、資料室を出た。扉が閉じられて、その前にブレイク主任は立ったまま動かなかった。
「遺跡が封鎖されたら、ぼくはアストンの図書館に戻るよ。ぼくは古代言語学者でもあるから。もし何かおもしろいことがあったら、遊びにおいで。一緒に考えよう。きみならいつでも歓迎する」
「はい、どうも、ありがとうございました」
おれは再び頭を下げた。ブレイク主任は、ただやわらかくわらっている。大きな手を開き、胸の前まで上げて、軽く左右に振っている。
遺跡調査院を出て、やっと息ができるようになった感覚があった。冷たい地面に膝をついて、何度かゆっくり瞬きをした。
あんなこと、やるべきではなかった。言うべきではなかった。おれは何がしたかったのか、理解しなおさなければならない。若いから甘えさせてくれる大人ばかりではなく、あの人——ブレイク主任は、おれを、好敵手か協力者みたいに扱った。それが、善悪の両極で言い表せるわけではないことも。
(でも残った。残すことができた「やりたいこと」は、「しなければならないこと」ではないが、もうすでに両者に変わりがない)
目がよく冴えて、かえって頭がまわるというのも、厄介なものだ。寒さで体が冷えて、どくどく脈打ち膨らんだ血管が、少しずつ冷静な形へ戻っていく。もう遺跡前に集まっていい時間だ。
バーミンガム遺跡内、第二階層で二人組んでの調査が開始になった。何組かに分かれて、火の魔法や小型魔法角灯を使って瓦礫の間、細い通路を見ていく。今日担当の区画は市場跡近く、洞窟のようになった場所だった。自分の腰に縄を括り付け、入り口手前にいる研究員の腰にも同じようにしてもらう。現場担当だからか、遺跡調査院にいたような人たちの平均よりは体格がよい、若い男性研究員と組になった。
内部には、白い陶器でできた腰掛けがある。薄い板壁でひとつずつ仕切られて、小部屋になっている。だが奇妙なくらい数が多い。十基ほどあるだろうか? これはどうやら機械ではない。共同便所ではないか、という推測はすんなり立ったが、貯水槽も鎖も見当たらない。また、小部屋内に設置されている腰掛けと同じ素材だが、小部屋の外にわざわざ置いてある、器を縦にして壁へ貼り付けたような置物がある。成人男性が立ったとき、腰の前あたりに来る高さだ。座る場所がない。では立ったまま使う。
形状から用途を考えるうち、謎が浮かび上がってくる。なんで、これは外に置いてあるんだろう——? 用を足すためのもの、ということはよくわかる。形状が揃っているのも、まあ大量生産されたんだろうから、意匠をそろえること自体の意味はわからないが、同じ指示で作られたものならこうなるのはそこまで変ではない。ただ、用を足すときは小部屋に入り、無防備さや羞恥をできるだけ軽減しようという発想はあるのに、わざわざふたつの形を作って、片方は小部屋の外に並べているのは明らかにおかしいだろう。小部屋のほうの形を採用し、それだけ使っておけばいいのでは?
「大丈夫ですか? 何かありました?」
洞窟の外から、組の研究員が呼んでいる。声が妙な響き方をしている。おれは入り口まで戻ってきた。
「いや多分、何もないんですけど……」
「そう? でも、引っかかりがあるなら、何でも教えてください」
「この洞窟、中見たことありますか?」
「うん、何度も。ちょっと、僕も見直そうか」
お互いを繋ぐ縄を持ち上げ、研究員は洞窟を覗いた。
「どこが気になった?」
「どこがって、この、便所。全部、変でしょう!」
「ああよく便所ってわかったね」
「それくらいはまあ、見ればわかりますよ。なんか、古代人って大きな機械とか作って、魔法もあって、でも便所は見たところあんまり機械化されていないようじゃないですか。高い科学的知識があって、技術もあった。でも、その、ここってちょっと、論理的じゃなさすぎる。今のおれの考えで整理するなら、古代人共通の変な嗜好だとしか思えないんですが、やっぱりそれもおかしいし——」
研究員は、微笑を浮かべながら、顎に手を当てていた。
「きみ、若い発掘作業員なのに、いちいちそんなこと考えてやってるの?」
「だってあまりにも、あまりにすぎるので」
「じゃあもっと変なの見ようよ。きみの見解が聞いてみたい」
おれの腰に繋がった縄が浮く。ほとんど引っ張られるようにして、洞窟内に再び二人で入った。
「いいんですか? 危ないから、こうしてるんじゃあ?」
縄を両手で掴んだ。洞窟の壁は所々ひび割れて軽く崩れて、内部の灰色石が見えている。天井は綺麗で、滑らかだ。丸い機械が等間隔で貼り付けられている。すぐ落ちてくるようには感じないが、それでももしものことはあるだろう。
「ばれないよ」
研究員は一番手前の小部屋に入った。小部屋を仕切る壁には、板状の機械がこれも貼りついていた。そこには、服の合わせ目や開きを閉じる留め具に似たもの、しかしそれぞれ色と意匠、書かれた古代文字が違う——がある。全体は白く、留め具のような部分は淡い花の色調だった。
「パルス・ドット・ドキュメント」
壁の機械に向かって、研究員が呪文を唱える。低いが軽い空気の震えがある。指が機械に触れて、押し込まれる。数秒すると、どこからか、流水のようではあるが、ばかな嘘みたいな音がしてきた。洞窟内に音は奇妙に響く作りだからますます嘘みたいで、理解に苦しむ。
「はあ——?」
おれの思わず出た腑抜けた声が沈む。腰かけの中を見ても、どこにも水は流れていない。小部屋の外にも、どこにも。
研究員に手招きされて、入り口近くまで戻る。瓦礫の奥に、大股開きで入っていく。また違う陶器製の器だが、まあこれは用を足すものではない。少しかがんで、手や顔、持ち物を洗うためのものだ。違和感はない。
研究員が指差した先に、奇妙な箱状の機械があった。白を基調とした機体で、こちらは腰くらいの高さ。二基設置してある。天板になるところは開いているが、物を入れておくには細い。「パルス・ドット・ドキュメント」が再び唱えられる。それから、研究員が機体に手を入れると、ごおと大きめの音が鳴る。風音か?
「え……? なんですか?」
おれが尋ねると、研究員がおれの手を優しく引いて、そっと機体に入れた。同じ音が鳴り、手の甲に、温くて強い風が吹きつける。
「なっ、なんで? 雷の術式で、風の術を起動させているんですか、この機械は?」
「あ、ごめん、ややこしいね。雷の術式で風を起こしてるんじゃない。機械そのものに、動くための活力を与えてるんだ。こういう小さい機械は数が多いから、少しずつ術式を調整して動かせるようになった。いくつか壊したけどね。さっきの音の機械も同じ」
「しかも、えっ? この風って魔法で起こすほどでもなさすぎる。この温度の風、に意味があるんでしょうか? なんの役に——? いやこれはまだ、わかるんですが、水音はほんとうになんなんですか?」
用を足す、という用途には機械を使わず、辺りに嘘の水音を流し、なんともいえない温度の風を吹かせるためには機械を使うのか?
「うん、わからない。だからもしよかったら、きみの見解を聞かせてよ」
おれは歯を食いしばった。機械から手を抜くと、風は止まって音も消える。静粛だけが存在する。ああそうか、ここはもともと静かである、ということが大事なのだ。落ち着いて用を足すために、静かな洞窟の作りである、と。
「単純に考えると、用便の音をかき消すためだと思うんです。小水のほうの」
「うん、水の音だものね。それで?」
研究員は腰に手を当てる。おれを軽く見下ろすが、威圧感はまるでなかった。
「でもだったとしたら、この、外の便所がどう考えたっておかしい。出すものによって使う道具を変えるんですよね。なら、こちらに流水音をかける機械をつけたほうがいいんですが、でも壁がないから、機械だけをつけたって羞恥に対する答えにはならない。というかそもそも、水道管があるから、水洗の仕組みですよね? じゃあ、わざわざ機械で嘘の音を流さず、水を流して本物の流水音を立てればいい。わざわざ妙な機械音を鳴らす、ということに文化的な意味合いがあったのかな——」
苦しいが、心地のいい苦しさだ。頭の中が、それこそ雷の術式が起動したような不思議な感覚の下にある。
「用便の道具が完全な機械式でないのは、魔法と機械に頼らず、直接人の手で物理的に起動させて、使用する人間をなるべく選ばないためなんだと思います。非常時でも、水があれば最低限動くようになっている。だから羞恥の部分は、古代人にとって重要ではあったけど、発展途中だったのか、複雑な事情が絡むとしか」
「へえ——」
「その、事情に関しては、おれはさっぱり。これは言語学者とか人類学者とかに考えてもらったほうがいいですよね」
研究員は頷いている。
「きみどこの魔法大学出?」
「初等学校しか出てません。アストンの」
「そうか、確かに。ドキュメント術式を扱うには、か弱いバイトだ」
腰の綱が引っ張られる。研究員が瓦礫の向こうに行った。
「春から、勤務表にきみの名前があったら優先的に組んでもらうことにするよ。よし、そろそろ、今年最後の仕事といくか!」
発掘道具がばら撒かれている床から、研究員は鋤簾を選んで肩に担いだ。赤液の計器が足元に立てかけられている。おれはそこまで近づいて、しゃがんで数値を読んだ。
魔力、三十八バイト。研究員が眉を上げておれを見つめていた。
「どうかした?」
「魔法って、使ってすぐ、計器に出るのかなあと思いまして」
「ないよ、ないない。ひとりふたりがテキストやドキュメント術を使っても、その計器には一バイトも影響が出ない。大魔法使いが十人ぞろぞろやってきて、一斉にリッチテキスト術を使うのでやっと十バイト動くくらいだと思うよ?」
「そうですか……」
「ああ、僕にとっては最後の仕事だけど、きみにはまだ勤務があったりする?」
おれはその声を聞き流しながら計器の目盛をなぞった。赤液は微動だにしない。
昼間の調査が終わった。調査監督所に数脚ある安楽椅子を借りて、目を瞑る。瞼の上に腕を乗せて、明かりをなるべく防ぐようにした。犯行経路をざっくり確認はできたが、その上の瓦礫に触れることは叶わなかった。うまくいくだろうか?
夕方を過ぎるころにはすっかり周りは静かになった。数人の研究者が居残って、書類の片付けをしていた。紙が捲れる音、指に紙が擦れる音が、耳奥を直接ゆりかごに運ぶような穏やかさの世界を成立させている。気は落ち着いていたものの、眠れない。目を瞑るだけでも、外部からの情報を遮断して休むことに繋がると聞くが、今のおれはますます思考の湖底に放り込まれる。
昔から不眠の性質があった。そうだ、父が亡くなる少し前に、炎の呪文と共に教えてくれた、入眠の呪文——。
「羊がいっぴき……、羊が……、いや、シィプ・ドット・テキスト……?」
何も起きなかった。思い出そうにもはっきり思い出せない。教わった記憶はあるのに、炎の呪文は覚えていられたのに?
安楽椅子に沈んだ体を起こす。休憩室には小さい本棚があって、大衆小説が入っていた。「ディケンズの降誕祭の歌」が目に入る。もともとここの蔵書は少ないのか、本棚の中で本同士がもたれあって傾いていた。子どもがここで待機するためだろう、絵本と児童書も多く収まっている。暇つぶしでも、今更こんなもの読む気にはならないな。
本棚から目を逸らした。棚と壁で影になっているところ、そばに脇机が置かれている。その上には、薄く埃を被った古い盤上遊戯が佇んでいる。木製で、黒と白に塗られた駒は、一般的なものと少し意匠が違っていた。特に「騎士」の駒——馬の頭を模したものは、首の根に小さな翼がついている。天馬だ! 目の部分には明るい緑の石が埋め込まれている。
おもしろい! もしかしたら、弄っていたら魔法が起動したりして? 今朝、父の遺物に対してそうしたみたいに、持ち上げて回す。盤に向かってわざと音を立てて置いてみるとか? 思いつくままに天馬の駒を手で遊ばせてみる。何も起きなかった。じゃあ、ただの室内装飾品だろうか。高価に見えるのに、子どもも出入りするように整えられている場所に、どうして埃が被って置いてあるんだろう?
なんだか、今日は変なところに余計に目が向く。いつもなら気にも留めない、日常風景のひとつなのに、どうして? なぜ? が止まらない。
(まあ全能なる神の作りたもうたもの、全て全てが人に対して直接必要な意味を持たされているわけではないか。薄い因果が巡って捻じれる。運命の糸になって接続して構成されている。日と月と空、人間と動物と植物、呪文と機械と法律。大小のバイト。ただ太いだけの網、ほとんど質量のない細い蜘蛛の糸、奴隷に繋げる重い鎖。おれの五感が絶えずに認知するから、見えるもの読めるもの聞こえるもの全て全てがおれ個人の人生に意味が、関係あるように思えるが——)
扉の閉じる音がして、至高の思考時間が強制終了する。脳を草原と青空が一瞬よぎる。旅に出る前の初期状態に戻る。
監督所に残る研究員は一人だけだ。書き物机に細身の男性研究員がついている。珈琲の匂いが漂っている。紺色に色付けされた陶杯へ人差し指を通して、その手の小指は立っている。
「ああ、起こしちゃいましたか?」
「いえ」
「休めました? 帰るのにはちょっと、もう雪深くて暗いですけれど。いっそ、朝まで待ってはどうですか、毛布でも出しましょうか?」
「いえ、帰れますよ」
窓の外を見る。窓枠に沿って雪が積もっている。部屋の奥にはそこそこの大きさの暖炉があるが、その手前には携帯用の軽量焜炉が置いてあった。珈琲壺の蓋が、少しだけずれて開いている。
「帰りに眠くなってしまうといけないし、体を温めたほうがいいから、一杯どうぞ」
細身の研究員が、戸棚から陶杯を出す。珈琲が注がれる。机にあった、かわいい花の絵付けがしてある小壺に匙を入れた。
「どれくらいにしますか?」
「ああ……、うん、ふつうで」
ひと匙ぶんの、細かい砂糖が珈琲の中に落ちていく。雪の結晶よりも細かい粒が、時折銀の匙より強く光っている。匙を数回珈琲の中で回した後、細身の研究員が、書き物机の向かい側に陶杯を置いた。木だけで組まれた簡素な椅子に案内される。静かな室内を乱したくなくて、なるべくそっと座った。珈琲は回転運動を動力とした黒い波紋を少しだけ残したあと、沈黙した。
夜の遺跡内に忍び込むのは、たいして難しくない。深夜の計測は広場になった数か所だけ。日付が変わる寸前に入り、順調に事が進めば誰ともすれ違わずにすむ。一人で移動するから、三階層の馬の機械まで、かえって短い時間でたどり着いた。重ねなおした金属網の奥に、紺色の機体が残っていた。重なりの様子も、まったく変わっていないように思える。金属網を持ち上げ撤去し、機体の握りを掴み、支えて立たせた。想像していたより、少し重かった。穀物や石炭の入った、そこそこ大きな袋ひとつぶんほどか。だが、重量が分散していて、持ち上げるとするなら、重心が素直ではない。これは思った通りだ。中央部分の板の中に何かがぎゅっと詰まっているようだし、前輪が勝手に回る。足元の機械操作部分が脛に当たって歩きにくい。
魔法角灯の持ち手を握りにひっかける。三階層はそこまで荒れていないから、前輪と後輪を転がして持っていけるだろう。そこから上の階層では、車輪を守るためにほとんど持ち上げて移動する。角灯が揺れて危ないが、もし消えても再点火すれば良い。石造りの床に火は広がりにくい。最悪、持ってきた敷布を使えば消火できる。足元と怪我にさえ気を付ければ——。
まだ、そこまでよくないことをしているわけではない。少し借りて、返すだけだ。誰にも知られなければ、むしろ、まずはおれの中に「良かったこと」として、積みあがる。数年たてば水の中に沈殿して、たまにしか思い出さなくなること。悪い事象が起こる可能性の道をそれこそ今から行くのだが、同時に良い事象が起こる可能性も重なっている。
ブレイク主任の顔が浮かぶ。あの人には絶対に会いたくない。いや、あの人ならば、おれを止めたり、おれから機械を無理に奪ったりはしないだろう。どうなるか隠れて観察する。どうせ、すぐあの人の手に渡るものだ。だからこそおれが、限られた時間でなるべくたくさんの「父の痕跡」を見なければならない。時折休みながら、水筒の珈琲を口に含みながら進んだ。
遺跡外には、作業靴の底が半分埋まるほどの雪が積もっている。ここからは車輪に触れないよう上から敷布を被せ、再び転がして持っていく。魔法角灯はさすがにもう使えない。「ファイア・ドット・テキスト」の呪文で点けた炎は、術者の視線と指で簡単に止めることができる。少し遠方に見える遺跡調査院は、まだ明かりが点いていた。それを頼りにアストンの町へ近づこう。
振り返ると、雪に車輪の跡がしっかり残っている。靴の跡と、一本にしかなれない車輪の跡は、異様で奇妙だ。こればっかりは、今の条件に対して、十分な効果を見込めるような「すばらしい」隠ぺい方法が思いつかない。かえって怪しまれる。
外へ出てしばらくすると、寒気に晒された手が強くかじかんだ。片方ずつ手を振って、指先に血液を送るようにする。手袋を用意すれば良かった。準備不足だ。環境もそこまで良くはないが、ほんの少しだけおれに味方してくれている。「仕事じまい」前の火の明かり。火も今のところ、おれの味方であってくれている。
遺跡調査院に近づくのは心情的にもたいへん憚られるが、贅沢を言ってられない。裏手の壁に機体をもたれさせて、角灯に火をつけた。大きな火の下で、小さい火を隠しておけば誰も気が付かないだろう。ここで明け方まで凌いで、目立たないよう下町を抜けて図書館まで——いやだめ、あの先輩調査員は下町で暮らしていると言っていたから。アストンの外周をぐるっと回りこんで森側から入るか。大変だが、そうしよう。あとはクリスタベルに書付が渡されていれば、あいつなら仕事をやってくれるはず。落ち着いた後で、お礼にお菓子でも持っていこう。
角灯の火に手を近づけた。あたたかい。だいじょうぶ。赤い火が時折風で揺らされるが、消えるまではいかない。だいじょうぶ。
「おや、偶然だ」
白い雪に、黒い影が伸びる。おれの背ではなく、おれの目の前の向こう側に。風が止まり、そこだけは雪が落ちていかなくなる。
杖の音は聞こえなかったが、いやでもわかる。
「ぼくの助けを乞いにきたのか、それとも、きみが半端に思慮浅いおかげの、偶然に次ぐ偶然の果ての運命なのか?」
「どうも——」
おれはただそれだけ言った。ブレイク主任のよく磨かれた革靴が、強烈に光を放っている。顔をあげることすらできなくて、火は小さいのに、あの資料室の問答の構図よりも煉獄的だ。それすら察されてしまったのか、ブレイク主任は雪の中に膝を折って、視界に顔を入れてくる。おだやかにわらっている。
「寒いだろう。それに疲れが見える。部屋に入ってはどうかな?」
ブレイク主任は、おれに手を差し出した。
「ぜひ、ぼくに手伝わせてくれないか?」
人差し指、中指、薬指。それぞれの指の腹、その真ん中を軸に、指紋がいくつもの輪を描いている。まるで製図器で量産されたみたいな輪。真円なんてこの物質世界にあるはずがないのに、真円に見える。柔らかい、人の手のはずが、無機質に感じる。
「あの日みたいな、甘美なバイトがここにある。でも、ほんの少しだけ違う。きみの術式の炎は雑だが、それでも、良い若々しさと表現することもできる。壮年になって描いた精密画より、同じ人物が十五年前、大きな絵筆で筆跡を強く残して描いた荒々しい画のほうが、離れて見れば美しかったときのように。ヘルメス・トリスメギストスに見立てるなら、ひとりぶん足りないが、三本の矢をひもで纏めて一度に放たなければならないという、決まりはない。二本目がどこまで飛ぶのか見届けてから、最後の矢を番えても遅くはない。それぞれ放った矢が折れても、世界には必ず痕跡を残す。小さなつぶ、バイトの動きが、後世に観測される。雪の上でも、より強く。ダーウェン、きみでもわかるようになっている——だろう?」
なんだ? 半分くらいわからない。激しい比喩——何かの術式か?
おれの目を逃さないようにしていたブレイク主任の視線が、一瞬だけ、背後へ滑った。
「……断っても、ついてくるんでしょう……」
答えられる部分にだけ、答えを投げた。
「ああそうだよ。ありがたい雪だな。ぼくらを理想郷に閉じ込めた。その地ごと車輪をつけて走ってくれるときた」
「おれが、あなたからの信頼と期待を取り戻すなら、ただ見せるだけでは足りないんですね……」
「人間の自尊心は、学習の障害にされることばかりだ。知性が高くなるほど芽生え、知性がさらに高まると低くなる、可笑しなもの」
おれはブレイク主任の手を取った。そのまま、おれの重さなんて感じていないみたいに引き起こされた。
帰る道とも、これから行く道ともつかない道のりを歓迎するかのように、雪は弱まっていった。ブレイク主任は、自ら進んで機体を運んだ。敷布の上から、間違いなく宝物を持つ手つきで機体の操縦桿を握り、慎重に向きを変えた。布を、めくることはしなかった。おれが少し俯瞰して見ることで、握りのある、ここ。これがつまり「操縦桿」だという認識がやっと出てきた。「馬の頭と手綱」ではない。その語彙はすでに持っていたはずなのに、正しく当て嵌めることができなかった。
おれは魔法角灯と、ブレイク主任の杖を代わりに持っていた。アストンの町に行くまでに、計画の全てを話した。これから町を迂回して、森を経由して図書館に向かおうと思っていたこと。図書館では幼馴染のクリスタベルに調査を頼んでいて、合流してできるだけ調査を進める予定だったこと。馬の機械を発見した経緯、先輩作業員との本来の計画、そのために夕方前には機体を再び運んで元の場所に戻すから、調査に時間をかけられないこと。「なるほど」「いいね」「正しい判断」と、全て好意的に受け止めてくれたが、どうしても居心地の悪さが払拭されない。声色からは悪意も、演技も感じられないのに。
ブレイク主任は、話を一通り聞いてから、「ぼくから、機械を発見した二人に謝礼を出す」「それぞれ十ギニー」と言った。おれたちのような下っ端作業員が、二か月半——いや、三か月近く働いてようやく得る額だ。あの先輩作業員も、これだけ貰えるのなら、持ち出しがあったって文句は言えないだろう。おれが一番困ることをすぐに理解して、解決させてしまった。でも、一度夕方に遺跡前へは向かわなければならない。妙な疑いをできるだけ減らしたほうがいい。使いを走らせてもいいが、実行犯本人と現物を、「元々の犯行を計画した彼」の前に置いてあげるべきだ。ブレイク主任のその考えに、おれはおおいに賛成した。
森の迂回経路は使わなかった。馬車も通る、町で一番大きな通りを使った。ブレイク主任が自然にそこを行ってしまったから、おれはついていくだけだ。ちらほらと、集合住宅の窓に明かりが灯りだしていた。堂々と胸を張って歩いたほうがいい。だって、もうまったく後ろめたいわけじゃない。金なんかどうでも良い。
図書館の裏手に到着する。ゆっくり歩いてきたはずなのに、約束の時間より、一時間以上早い。ブレイク主任は一度機体をおれに預けると、図書館の裏口の鍵を開けた。すぐに赤液の簡易計器を持って戻ってくる。先端に細いひもが付いていて、硝子の管が一本だけ、おそらく魔力を測るだけのもの。ブレイク主任が、まだ敷布の被せられた機体に計器を近づける。赤液がぐんぐん伸びる。確かめるみたいに数秒だけ止まっている。赤液が止まる、その時間的瞬間をはかって、わざと瞬きを遅らせて捕らえる。
二十四、三十二、四十、四十八、五十六、六十四まで。おれの頭の中で、八時の鐘が早まって鳴る。
(……あ、八進法だ)
(魔力警戒値の「六十四バイト」って、なんか半端だと思っていたけど、八進法に直すと「百」で)
(たぶんそれって、魔法使いにとってはすごく綺麗で、危険だけどうつくしく見える、そういう規則の数字だったんだろうなあ)
(今のおれにはちょっとだけわかるぞ)
馬の機械が凭れる壁に、背を付けた。赤液は、六十四バイトを示して止まった。背をつけたまま、腰を下ろす。城壁の硬い感覚、外套が当たって、かりかり音が鳴る。魂が削れていく音がする。息を吐くと喫煙具もないのにそのようになる。六十四という数字ひとつで、体が自分の体重以上に沈んでいく。規則を理解した喜びもつかの間、残ったのはほとんど悪い託宣だった。
怒りさえ感じられる力強さが、扉が開く勢いだけで伝わってくる。同時に、教会の鐘が鳴りだす。細い金縁の、横長楕円眼鏡の奥で、少し小さくなった目がこちらを睨んでいた。教会の鐘が八回。
「ダーウェン、あんた、なんで本当に居るの?」
「……そりゃ、おれが呼んだんだから約束通りにいるだろ」
「悪い冗談だったらどれほど良かったか! 最悪、最悪、全部最悪で、ありえない」
クリスタベルが歯を剥いている。目の下には隈がはっきり表れていた。きらびやかな眼鏡の縁に囲われているせいで、よく目立つ。黒い髪が汗でべたつき、雨に濡れたようになっている。いつもなら、黒髪が朝日で天使の輪のように輝くとでも言えるのだろうが、今の惨状は、油を被せられた哀れな犬の被毛にしか見えない。
「おはよう、レディ・クリスタベル。ご機嫌はいかがかな?」
ブレイク主任がおれの背後から前へ出て、クリスタベルの目の前まで歩いた。
「えっ、先生? なぜここに? え、ダーウェンと? あっ、やだ、わたし、先生がいらっしゃるなら紅くらい引き直してきたのに……」
「知り合い?」
おれはそう言いながら立ち上がった。クリスタベルのつむじが見える。鎖骨の上に細い金属の鎖の首飾り。蓋付きの小さな肖像入れだ。春に会ったときは、こんなわざとらしい上流階級の装身具、つけていなかったような。そもそも、装身具をつけたり、化粧をする人柄というわけでもなかった。ちょっとした文芸復興みたいだが、クリスタベルに復興前の黄金時代なんてあっただろうか。
「師匠と呼ぶのも、却って失礼ですね。先生には、論文を見てもらっていたの。同郷だし、父のご友人でもあったから、そのご縁もあって。その節はたいへん、お世話になりました」
クリスタベルの視線が、おれとブレイク主任の間で細かく行き交う。
「ああ、エム・ピー・スリー術式の、普遍性が主題だった。オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダをやっていたね。おもしろかったよ」
「なんですか? それ……? オビ——?」
おれはその言葉について少し考えてみたが、まったく意味がわからなかった。どう分解すればいいのかわからないし、そもそも意味が存在するのか? クリスタベルが、得意げに笑った。おれの目の前に人差し指を立てる。
「オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ。わたし、大学でエム・ピー・スリー術式を専門にやっていたの。今では失われた術式。それの、叙情派といったところ? オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ問題とも言われている、有名な未解決問題がある。案外、わからない音の並びに隣接する文脈から、語用論的な働きは推測できるんだけど。辞書的意味や文化的由来までは確定できない。というかそういうところを取り上げる時代ってもうとっくの昔に終わっていて。いまは『ブラ』の部分が一番の問題とされていて……」
「はあ……、そう……」
クリスタベルの唾もかかってきて、さらに興味で噛みつく気も失せた。うんざりだ。魔法学生って、そんなことをやっているのか。最初のとっかかりがないと、興味の持ちようがない。これが教養の差、ってやつか?
「だからね、ダーウェン。わたし機械って専門じゃない。あんな雑に仕事投げられたって、どうしようもない。わたし、叙情派ではあるんだけど、まだ卒業して一年も経ってないの。『フルシチョフからケネディまで』って言われてもわかんないの。ねえそれってどういう比喩なの? 『ダーウェンとクリスタベル』でも成立させられるんだと思う?」
「あー、む、無理なんじゃない?」
クリスタベルが顔をますます近づけてくる。彼女の脳内では圧倒的に筋の通った論理として組み上がっているのだろうが、この瞬間のおれには理解しにくかった。ブレイク主任がわざと咳ばらいをした。
「うん、後からいくらでも文句は言えます、言わせてもらう。で、頼まれごとだけど。わたしひとりでできる範囲の、最善を尽くしたと思うんだけど——」
おれはクリスタベルの話を最後まで聞かずに、馬の機械に近づいて、敷布を取った。紺色の機体。白の塗料で【YAMAHA】の刻印。
「う——。そう、そう来た? でもわたし本当によくやった。先生ならわかっていただけるはず……」
ブレイク主任が、声も上げず、機体に指を触れた。中央の板、その重みのある部分。驚いたり、目を輝かせたりするものだと思ったが、落ち着きはらっていた。
「先生がご一緒してくれて、よかったです。こんなの、二人で、どっちも素人で取り掛かるものではない。——えっでもそもそも、じゃあ、もしかして調査許可取らずに一人で持ってきて、わたしに全部投げようと思っていたわけ?」
「まあ、その通りだけど」
喉の奥から鳴る、低い声がする。さらに、歯をすり潰すような音。クリスタベルの顔が、見たことのないくらい歪んでいる。もともと、涼しい顔でなんでもこなすような人物でもなかったが。
「そんなわけないですよね、先生、さすがに——?」
クリスタベルの鼻に、濃い皺が寄っている。眉を上げたり下げたりしながらクリスタベルは上ずった声で、無理矢理身に着けたみたいな淑女らしい笑顔へ、自分の表情を落とし込めようとする。
「ぼくも別に許可とってないよ」
ブレイク主任の溢した言葉に、クリスタベルが自分の髪を掴み、引きちぎらんばかりに引っ張った。空に大きな、母音だけの叫び声が響き渡る。冬空は、すばらしいくらい晴れ渡っている。
クリスタベルの研究小室に、馬の機械を運び込んだ。応接風の机と長椅子に、いくつかの本棚。奥には大きめの書き物机がある。書類や本が山積みにされている。卒業したての若い女の司書に与えられるような部屋ではないと思えたが、大学出の魔法使いの常識なんて、何が出てきても、もう驚かない。そういうもの、で押し通される。おれがあきらめるべきだ。
「キンドル・ドット・ドキュメント」
天井から下がる、大きな枝付きの吊り灯へ、クリスタベルが腰に下げていた短い杖を取って向けた。青い火が順番に円を描いて点く。火が青? なんて、初めて見た。すると、クリスタベルの耳が赤くなっているのが見えた。ブレイク主任が、自制がきくはずの微笑を浮かべている。
「ごめんなさい、わたし……」
「いい、いい。そういうこともあるだろう。どんな資料を集めた? 見せてほしい」
なんだ? バイトの冗句? わからない。
クリスタベルは、書き物机の資料の山から、半分ほどを持ち上げて応接机に乗せた。ブレイク主任が長椅子に腰を下ろす。応接机を挟んだ向かいに、おれ、クリスタベルの順で座った。
山の一番上にあったのは、鮮やかな青い表紙の冊子だった。【YAMAHA】の文字が大きく入っている。その文字の下に、機械の精巧な絵が描いてある。おれが見つけた機械と少し似ているが、もっと重そうで、複雑なつくりだ。文字の意匠は、馬の機械、それからおれの外套の中、首元で眠る金属部品に入っているものとまったく同じだった。
【1992年 東京モーターショー】
ほかに古代文字で何やら書いてはいるが、おれが読めて認識できる文字は、これだけだった。読むことはできるが、意味がとらえられない。ただ「モーターショー」は、おれたちが名前や地名に使う文字と同じだった。「モーターショー」さんか。変わった名前……。いや、「モーター・ショー」か? そのほうが名前らしい。
「この古代文字、これはバイク・カタログと読むと思うんですが、先生は?」
「ぼくもそう読む」
クリスタベルは、少しだけ安堵の表情を浮かべたあと、そのまま続ける。
「ヤマハ……、は、単純に製造販売会社の名前。で、由来は家名ですね、先生?」
ブレイク主任が静かに頷きながら、冊子をめくる。様々な機械の精密画が現れる。なぜか、絵は全体的に青っぽい。おれは天井を見た。青い火が灯っているが、火に当てられるものの色を変えるほどの強さと距離の近さではない。ああ、そういう古代文明の画風とか、流行技法なのか? もともとは、そんなに青くないものに見える。わざと青く描いてあるように感じられる。この古代文明では、青がとくに美しいとされていたとか、機械は青で描く決まりがあったとか?
ブレイク主任がゆっくりと口を開きだした。
「バイ・サイクルか。まだわかりやすくて良かったね、ふたつの輪、ふたつの円環。数が絡むと途端にわかりやすくなる。としたら、機構の複雑さを比べると……。ダーウェンくんが見つけたバイ・サイクルは、この見本誌より時代が下るんだろうね」
「ええと……。とはいえ、古代文明は新しい機械を作ったら単純にどんどん『乗り換える』わけでもないんですよね。もともとの型はそうだと思うんですが、この機体自体の製造年代を特定するっていうのは、やはりかなり難しそう……」
この機体の名は、バイ・サイクル。おれはふと疑問が湧いて、ブレイク主任に声をかけた。
「数が絡むとわかりやすい、って? なぜですか?」
「ああ、数というのは、概念として極めて普遍的なんだ。言語が違っても、三つあるものは三つある。そして数量表現は、多くの時代、多くの種類の文書に現れる。資料を照らし合わせれば、この語形はこの数に対応する、という推理が立てやすい。たとえば『トリスメギストス』は、そう、三という数に対応する。ただの『三』ではなくて、『三たび』『三重に』という働きをする。その解釈によっては、『三倍』と読むこともある」
クリスタベルが間に入ってくる。
「数というより、量とか大小の感覚は、音楽にも少し関連付けられるのではないかと——長い時代を越えて、そして人間だけではなくて、動物にさえ共通するというか。全てがそうだとは、全てを調査できるわけでもないから、断言できないんだけれどね。それでも広い範囲で、動物は増えようとして、より良いもの、多いもの、大きいものを選ぶ傾向が見られる。そして警告や威嚇では、体が大きいことを示すような低い音が使われる例も多い」
二人が気を遣って、おれに理解しやすい言葉を使ってくれているのはわかる。だが、その親切が逆におれの先に大きな壁を建てていることに、気が付いているのだろうか? ふたりには、それに気が付くための高い知性があるはずなんだろう?
ブレイク主任が頁をめくっていくと、バイ・サイクルが実際に使用されている絵が現れた。人が奇妙な外套と大兜を身に着け、バイ・サイクルに跨っている。工業的で平坦な道を、バイ・サイクルが進んでいるようす。
その絵を見ていると、気付くことがあった。あ、このバイ・サイクル。ふたつの・輪という意味があるのなら、前輪と後輪のふたつで完成されているわけだ。四輪でなくていい。そして、荷を運んでいる感じが無いから、絵のバイ・サイクルは、通常の運用では荷を運ばない。であれば、荷を積んで置いておくものではなく、人が跨って動かすものなら、機械だけで自立する必要はないのか。走っているあいだは、人間が均衡を補助する。絵を見ながら、実際にバイ・サイクルが動いているところを想像する。車輪が回り続けて、それを人間が少し補助すれば、ふたつの・輪——バイ・サイクルで絵の通りに走る。なら、人間の力を加える部分は、車輪を回す仕組みに繋がっているはずだ。一度運動させれば、それをきっかけに長時間回るような仕組み? 魔法角灯の火を、専用の油で長時間維持させるような?
おれが見つけたバイ・サイクルと、絵のバイ・サイクルでは、大きく違うところがある。足元の機構が簡略されている。どちらにも、足を引っかける、または置く、というような発想が見える。おれのバイ・サイクルの足の機構は、からから回る。わりと、簡単な力で。そう、バイ・サイクルとは、ふたつの輪、ふたつの円環という意味であるから。では、手よりもはるかに強い、足からの力で、機構を運動させれば? 二種類の回転が連動して、人間の体力が続く限り、前へ進ませることができるのではないか。
ただ、絵のバイ・サイクルがどう動いているのかについては、明確な答えが出なかった。こっちは足元に回る円環がないんだから、じゃあ、これ、『バイ・いち・サイクル』なんじゃないのかよ? もう少しひねりが必要なようだ……。ああ、いや、『トリスメギストス・サイクル』? ……おれのほうが明らかにおかしい。散らかった思考がまとまらない……。
「……ダーウェンあんた、ほんと、先生がいてくれてよかった。よく連れてこられたね?」
二輪の操作はむずかしそうだ。こんな、視界の邪魔にさえなりそうな大兜を装備するんだから、危険なのだろう。人が跨って動く、その状態で均衡を保つなら、わりとけっこうな速さが求められそうだぞ? そうしたら、転びやすくて、頭も打つはずだ。たしかに、かなり危ない! なんでただ移動のために、そんなことをしなければならない? 死ぬだろ! しかもこれでは、移動中に休憩も取り辛い。馬車、乗れよ!
しかしおれの記憶の中から、バーミンガム遺跡洞窟の便所、絶望的に意味不明の音の機械が現れた。古代文明に、おれたちの価値観や憶測だけで完璧な審判を下すことはできない。魔法使いよりおかしい人間が、常識だったというわけか。くそ、やってられない。
「ダーウェン?」
クリスタベルがおれの顔をまじまじと見ていた。おれははっとして、それから頭を抱える。
……つらい……。おれの父って、こういうことばかりやっていたわけか。
ブレイク主任が冊子を閉じて、他の冊子を手にする。冊子の山が少し崩れて、クリスタベルが慌てて手で支えた。たくさんの機械の冊子、資料の山。
「これは、今はあまり関係がないかな?」
「とりあえず、ヤマハっていうから、もうできるだけ関連しそうなものを探してみたんですけれどね。バイ・サイクルと繋がりそうに見えないし、こちらはまた後回しでもよさそう」
二人がそう話している。冊子に描いてある絵は、てんで何なのかわからない。【YAMAHA】の古代文字だけは、バイ・サイクルと同じだ。機体にはたくさんのつまみ、小さな色のつぶ。眺めていると、小さな古代文字の刻印がひっかかった。三つのつまみに、それぞれ刻印がある。
【HIGH】
【MID】
【LOW】
ひっ、と、喉が鳴った。ブレイク主任の手にあった冊子を押さえつけて、自分の外套の中から、首に下げている機械部品を出した。機械の形は違うが、でも、同じ刻印、同じ【YAMAHA】のもの。これに関連する機械か——。
ブレイク主任の顔が明らかに青くなった。下唇の皮を指で引っ張りはじめる。数分、そうしている。クリスタベルだけが、よくわかっていないようだった。
「……よし、ぼくに強い心当たりがある。ここまで見えたらもう、行くしかないだろう。少し待っていて、すぐに戻るから」
ブレイク主任は少しの焦り、いや興奮を隠しきれていない。むしろていねいに長椅子から立ち、研究小室を出た。
「クリスタベル? これ何に使うんだかわかるか?」
おれは冊子の絵を指差した。自分でも嫌になるほど、その指先が震えている。
「……まあ。わたしの領域に触れるところでもあるし。これは『ミキサー』といって、音を複数混ぜて曲にまとめて、他の機械に渡すような機械、っていうのが、ダーウェンにもわかりやすいかな。ふつうは、一人ひとつずつ楽器を持って、演奏するでしょ? それぞれの音の大きさとかを調整してから、音を鳴らす専用の機械に流す。……とされている。詳しい操作とか、そういうのはわからない」
クリスタベルにおれの機械部品を見せると、彼女はまじまじと見てから、首を捻った。
「同じ文字。上から、高・中・低の意味だけど、ミキサーのものは独立した操作部。これは、つまみがひとつで——?」
かち、と軽い音が鳴った。クリスタベルが、つまみをいじっている。【MID】から、【HIGH】になったが、何も起きない。わかっている、幼いころから触ってきたおもちゃだ。クリスタベルが唇を噛み、何か痛みに耐えたような顔を一瞬だけした。
「——これ、父の形見なんだ」
「ダーウェンのお父様?」
「そう」
クリスタベルが、小さく「なるほど」とつぶやいた。ブレイク主任によく似たしぐさ、よく似た声色で。
「何か知っているのか?」
「あっ……いや、わたしは、本当のことは、何も……」
「本当かどうか、わからないことは?」
「……大学ではすこしだけ有名な話で、現代で、秘術を使った人間がいるんじゃないかって。ピー・ディー・エフの術式。今残っているとされている魔法の形式は、まとめてワードと呼ばれている。『マイクロソフト』という学術集団が形式を定めて、一般化したんだけれど。だからわたしたちの使っている魔法って、正式名称は『マイクロソフト・ワード』っていうんだけれどね? あ、でもね、ピー・ディー・エフは、厳密にはワードとは別系統なの。『アドビ』という別の学術集団が形式を定めた、とされている。けれどワードとの相互変換があまりにも多く残っているから、現代ではまとめてワードとして扱うことが多い」
クリスタベルが、眼鏡のつるを指でつまんで、持ち上げた。呼吸を整えるかのように。おれは目を細める。早口に理解がついていかない。なんて言っていた? 声が聞こえたのかも、過去のことは確かめられないから、一瞬前の記憶を手繰り寄せるが、その操作にたくさんの知らない固有名詞がなだれ込む。
「ピー・ディー・エフは、たくさんのワード、それを補う図や画、それから配置まで、ひとつの完成した形にまとめて扱う術式だったの。見る人や出力する場所が変わっても、同じものとして理解できるように。エム・ピー・スリーみたいに、消失したわけではない。そこにある。ただ、かなり難しいわけ。たくさんのバイトが必要。現代で、そんなバイトを持っている術士はいない。その、わたしが集めた資料だって、ほとんどピー・ディー・エフの形式で成立してて、あー。……こんなもの、ひとりの頭で正確に扱えると思う?」
「……いや……」
「ピー・ディー・エフ術に、ダーウェンのお父様がちょっと関係してるんじゃないか、って話。それだけ」
研究小室に近づいてくる足音がある。ブレイク主任が戻ってきた。手には、クリスタベルが集めた冊子より何倍も薄いものが一冊だけあった。
「クリスタベル、『ワーズワース』の術書を用意してくれるかな。許可はあとで、ぼくが。ぼくとダーウェンは、『自転車』を外に出しておこう。きみも後から出てくれ、図書館の裏で、続きはやろう」
クリスタベルは、ブレイク主任の目を見て、それから外し、再び見た。おれも同じようにした。ブレイク主任の目は、明るい緑色をしていた。
バイ・サイクルを再び外に出した。地面には少しだけ雪が残っている。先ほど引き回したバイ・サイクルの薄い車輪跡、おれたちの行き交った跡が残っている。クリスタベルが、古そうな本——指示通りであれば、『ワーズワース』とやらの術書——を抱えて後からやってきた。ふたりは神妙な顔をしていて、おれも全て理解できているわけではないが、それでも何かに到達しそうな、確かな高揚をこの場そのものから感じ取ることができる。
ブレイク主任の冊子を、三人で見る。表紙にはバイ・サイクルの簡略された絵が描かれている。黒と、白と、灰色のみで。濃淡があるが、繊細ではない色。おれに読めた文字は——。
【持出厳禁】
【YAMAHA】
【パス ブレイス】
【取扱説明書】
【注意 この自転車は一般用として設計されています。新聞配達などの業務用としてご使用にならないようお願いします】
【仕様変更などによりイラストと内容が一部実車と異なる場合があります。安全のため、ヘルメットの着用をおすすめします】
ブレイク主任が、冊子を手早く捲っていく。そして、「自転車本体各部の名称」という頁で止まった。
「ダーウェンくん、自転車に乗ろう」
「え——!」
有無を言わせず、ブレイク主任はバイ・サイクル——自転車を支えて、おれの目の前に持ってくる。
「危ないんじゃ……、ないんですか?」
おれが戸惑っていると、ブレイク主任が首を横に振った。
「だいじょうぶ、一旦、基本の駆動ができるかどうか見よう」
絵をよく見ると、実物の自転車と冊子の絵はけっこう違うが、ほんとうに平気だろうか。おれはブレイク主任から自転車を受け取った。馬に跨るみたいにして、右足を機構の踏み板に置き、左足だけで立つ。その様子を、おれも含めて全員が、もはや冷徹に見ている。
「ここだけ確認しよう」
ブレイク主任が、自転車の握りに触れ、冊子の絵をおれに示す。
「前輪ブレーキレバーと、後輪ブレーキレバー。同時に操作する、こうだね」
「ブレーキ?」
「自転車の減速と停止だ。ここを握ると、前輪と後輪が止まる」
おれの手の上から、ブレーキレバーに触れる。それからふたつの車輪をそれぞれ確認した。
「この操作だけは必ず覚えて、いいか?」
「あっ、はい」
「均衡を保って、ペダルを踏んでみて。まずゆっくり」
冊子の絵をもう一度見る。足の踏み板はペダルと呼ぶ、と。言われた通りにすると、ペダルを踏むと同時に車輪が回った。少しだけ進められたが、なかなか感覚がむずかしく、大きな音を立てて転ける。
「機構はしっかり生きているな。問題はこのタイヤ内の気圧か——。ダーウェンくん、もうしばらく試していてくれ。少し走ったらブレーキだ」
ブレイク主任は、おれの背に触れ、そのまま前に進め、と解釈できるような軽い力をかけてくる。クリスタベルはまだほんの少しだけ、不安を覗かせた顔をしている。いや、逆に、気持ちの整理をつけはじめている証拠だと思った。口を強く堅く結んでいる。こちらを見つめていたクリスタベルにブレイク主任が近づき、何やらふたりだけで話を始めている。
おれは自転車のペダルに再び足をかけた。地面はそれなりに慣らされているはずだが、なんだかがたつく。数回転けたところで、こつを掴んだ。十回ほど転けたころには、図書館裏を一周できるようになった。ブレーキをかけると、車輪はしっかり止まった。
しかしまあ、まるで爽快感がない。絵のバイ・サイクルは気持ちよさそうだったのに、わざわざこんな不便なものに乗って移動するのか? 思っていたより力がいるし。やはり車輪の劣化が激しいようだ。遺跡に何年も放置されていたわけだし、仕方がないのか……。
ブレイク主任とクリスタベルが、おれの元に近づいてくる。ブレイク主任は、懐から赤液の簡易計器を取り出し、そのまま読み上げる。
「百二十八バイト」
「嘘、道理でおかしいと思った! というか最初から妙ではあったんですよ? 昂揚的な気持ち、というか。壊れているんじゃ、でも——」
「いや。合っている」
ブレイク主任の口調、纏う雰囲気、いや、バイトか——? それらが段々違ってきている。最初に出会ったときに感じた、上品な初老の紳士の面影はもうなかった。少年のような顔つきでもない。人間の頭が一番よく回り、体も動く時期の顔だった。クリスタベルも驚いたが、やがて階調を変えただけの、ブレイク主任と似た表情に戻る。決意とか、そんな色の濃さが一瞬うかがえたが、すぐにそれも消えていった。
「ダーウェンくん、どうだ?」
「ええ、まあ、動きますし、ブレーキもかかりますが……」
「首にかけていた部品を、もう一度見せてくれないか?」
おれは外套の中から再び、機械部品を出した。つまみは【HIGH】になっている。ブレイク主任の手に渡る。しばらく観察したあと、つまみを【MID】に戻した。
自転車の操縦桿、おれの右手側に、妙な部位がある。ブレイク主任は、そこを指で軽く叩く。ミキサーの機械に少しだけ似ている。そこには【LOW】【HIGH】の二つ、刻印があった。
「電気で、人間の負担が軽くなる自転車」
ブレイク主任が呟いた。おれとクリスタベル、どちらに伝える気も感じられなかった。自身に、あるいはもっと別のものに語り掛けている。
「はあ、負担が完全に無くなるわけではなくて? 軽く? そんなの、車輪を変えたらもう十分な感じですが……」
おれは、今度はしがみつくように、食い気味にそう言った。
「そのままではね——」
太陽は高く昇っている。ブレイク主任は太陽を見ている。帰ってきた言葉は、おれに対応していたものの、また、こちらに向けたものではなかった。おれは軽く背伸びして、無理やり視線に割り込もうとする。
「カレント・ドット・リッチテキスト」
ブレイク主任の杖だけが自転車に向けられる。青白い光が自転車の中央部まで伸びる。雷というにはあまりに細く、糸のようだった。けれど途切れない。そのうち、羽虫の翅が細かく震えているみたいな音が、自転車から起きた。右手側の、ミキサーに少し似た機械に黒い表示が出ているが、これは何を意味するのだろう? しいていえば、樽、の絵に見える。
「こんなんじゃないんだ。絶対に、こんなものではない」
機械部品が空中に放り投げられる。そのまま落下し、ブレイク主任の手の中に納まる。その繰り返し。
「それが何か、わかるんですか?」
「わからないよ——」
おれたちは沈黙するしかなかった。彼がわからないなら、ここまで来られたのにわからないなら、どうしたらいい? クリスタベルが、胸に抱いていた術書をさらに強く抱えて、唇を震わせて声を漏らす。おれたちが、いつもしていることをする。
「刻印から読み取れるのは、何かの出力を操作、制御するものだということ。それから、製造は【YAMAHA】ということだけ……ね」
「あと、百二十八バイトの魔力もある……」
おれはその情報をこの場に突き出すようにした。百二十八バイトに縄をかけて、絞首台にかける。六十四の二倍、美しくおぞましい数字が、見ている。見つめ返されている。おれたちのバイトは、処刑人のバイトである。これから、おれたちはどうなっていくべきなのか、いや、おれはどうなりたいのか。おれとブレイク主任は、同じ方向を見られるのか。
おれは、空中の機械部品を横から奪った。取り戻した。
「……先生は、手助けだけです。おれに足りないバイトを」
機械部品につけていた革紐を引っ張る。強く、何度か引くと、千切れた。革紐をかけていたところ——背部の輪になっている、短い金属帯のところに、つまめる大きな螺子がある。回すと、輪の部分がゆるんで外れて、輪ではなくなる。自転車の左の握り、そのすぐ内側の金属棒に装着した。螺子を逆方向に回すと、硬く締まり、固定される。おもちゃだと思って触っていた時に見つけた機構。
「計器はどうなっています?」
冷たくそう言った。
「いまは、すこし下がって百八だ」
ブレイク主任が答える。汚い数字。計器は見ていなかった。クリスタベルは静かに術書を開いた。
「ピー・ディー・エフ術をやる。ダーウェン、あなたの力も使う」
「本当に、できるのか?」
「できるっていうかね、試すなら今、この条件。たぶん、みんなわかっていて、どうなるかもなんとなく予測がつくんでしょう? 先生はもちろんだけど、ダーウェンも。わたしたちは人類の礎になってもいいんだって覚悟なんてものなくって。ただ自分が高い場所から景色を見たかっただけで、いざとなったら試さずにはいられない質で。でもああもちろん、失敗する前提でものは言ってない。できるし、やれるって、そういう理由のない自信も湧いてきちゃって……。わたしなんて一番、この件には部外者なのに、何にもわからないのに、でもいちおうそこまで、そんなことはないんだ、けど——」
クリスタベルは顔を引きつらせていたが、恐怖で引きつっているのではなかった。瞼が細かく痙攣している。睡眠不足、それから単純に疲労の蓄積。眼輪筋が勝手に収縮しているだけ。
「ダーウェンあのね、ワーズワースの魔法について教えてあげる。たぶんきっと知らないんだろうから。だって知っていたら、そんな顔する余裕なんてあるわけない。わたしもこの狂気の、仲間なんだって、その気持ちを少しでも知ってほしかったから」
ブレイク主任が、クリスタベルから術書を受け取った。彼女の目の前に、ページを開く。
「ワーズワースは、ワードが成立する前の人物で、大魔法使いなの。現代に伝わっている魔法使いで、一番すごい魔法使い、近代魔法の父と言われている。一般の魔法教育を受けている魔法使いは、全員彼の影響下にある。その名前は『言葉の価値』と解釈されている。自然の美しさ、ありかた、に強く接続している。この世界が、汚れる前の世界を、ワーズワースは一番正しく言葉にすることができていた。ここから、ピー・ディー・エフ術式ができた、ってこと。しかしもう、彼の血筋は残っていない。でも、まだ希望は捨てちゃいけなくてね? ワーズワースと一緒に詩を書いた人がいて、それが、親友のコールリッジで……、わたしは……」
レディ・クリスタベル・セアラ・コールリッジ。もとから美しい自然を再現するような顔ではないし、繊細さもないだろう。
「憧憬だ」
ブレイク主任はそう言う。
「憧憬という概念を最も正しく解釈し、言語化した」
ブレイク主任の瞼も、細かく震えている。おれは言われたことを覚えている。父は憧憬に誘われて死んだのだと。おれのこれまでの人生や経験、父へ抱いていた思いまで、ブレイク主任の言った『憧憬』という、たった一言に正しく言語化され、丸められた。おれはそれを受け入れてしまった。あの瞬間から、おれはこの人に敗北し続けていた。
「だめだ。そんなもの。おれは……、そんな綺麗な言葉なんかで収まってしまうほど、単純な感情で生きてはいない。だって詩は人に聞かせるためのもので、美しさの甘さで包まれている。それをそのまま受け入れてはぜったいにいけないんだ。くだらない、何が……、言語化だよ? そんなので完璧に支配されて心地よくなって、満足するほど、おれたちは工業化されていないだろう……。認めてはいけないんだ……。現実の汚いところを削り取った魔法の短い言葉が、憧憬だなんてぜったいあり得ない……」
この場の全員が、限界だった。目が血走り、バイトの影響でより赤くなる。クリスタベルの鼻から血が垂れる。おれの唇に鉄の味が乗る。ブレイク主任の胴衣に真新しい血の跡が増えていく。
「魔法が存在してしまう以上はさ、言葉でよりそれらしい世界ができてしまうのなら、毎秒世界は唱えられ直している可能性から逃れることができない。あなたのその思想も揺らぎでしかなくて、次の瞬間には治されてしまうかも——」
クリスタベルは鼻を手で拭い、術書に血まみれの指を伸ばして、文字をていねいに追っている。
「じゃあ考古学も、文学も同じで、さらに意味がないって言いたいのか?」
「違う。むしろ、世界がそうであってほしいと思う。だって完全な偶然の重なりなんだったら、わからないことがわからないままでつらいから。わずかでも人の意思の沁みを読み取れるほうがいい。わたしたち人間に理解されやすいようにできていたほうが、優しいもの。ダーウェン、言語化だってそこまで悪いものじゃない。道具のひとつだって思えばいいだけ、魔法だってそうなんだから……」
おれは二つの機械を操作する。【HIGH】と【HIGH】へ。
ブレイク主任も、ワーズワースの術書に向けて、赤くはじけるバイトを展開する。
うつくしさとおなじほどの、恐れに育まれて
谷を越え、丘を越え、高く浮かぶ雲、のように、ひとり
長い詠唱が終わる。ドット・ピー・ディー・エフまで。自転車の機体がふわりと持ち上がる。誰もそれには、疑問をもつことがない。唱えた詩の通り、である。
「ベンゼンの匂いがする病室にいたこと、その視界が忘れられない、ということがある——」
ブレイク主任がそう言う。おれはその顔を見ていて、少しずつ上と下で距離が離れる。見下されていたおれが、上に。ブレイク主任が下に。
「は——?」
意味がまったくわからなかった。
「ぼくは、そこにいたことがない」
笑ってもないし、泣いてもいない。しかし、そこに何もないとは、どうしても思えなかった。
ブレイク主任は太陽から緑の目を守るように手で屋根を作る。クリスタベルも同じくそうする。おれの視界は半分ほど赤い。全員そのはずだ。
「これから、彼の見る世界は、どれほどフラクタルなのだろう?」
「それ、正しいんですか?」
「では、ヴァルタリ!」
「そのほうが、合っているのかもしれませんね……」
雲と共に泳いでいる、空の下ではなく、たぶん中ごろ。ただ自転車は日を目指して飛んでいる。湖に空が映って、空に挟まれているようだった。よく見える。おれの、おれたちの暮すアストンの町、おれたちを狂わせるバーミンガム遺跡。遠くには魔法大学が見える。図書館と似ているが、ずっと立派で歴史に名が残るもの。
おれの持つバイトは少ないけれど、もう少しお金を貯めて大学に行けないかな——。そうだ、あの、ブレイク主任の報酬。十ギニーは、いい足しになる。ジョンおじさんがまたいちから商売を始めるなら、おれにも手伝えることはあるし——。
おれは空を見上げる。冬空の、すこし霞がかった、空。視界が、侵食する血の赤で染まりきってしまう前に、見て覚えて、帰る。雲が遠くに浮かんでいる。その上、ずっと上。もっと上が見たい。
口を開けていないと息ができない。はく、はく、と、魚のように息をする。強い頭痛で、操縦桿を握る手に力が入らなくなってくる。まだ、上、太陽の向こうまで。ワーズワースは見たわけではないだろう。
たぶん——太陽の裏側、には? おれたちが見えないはずの、地球のような惑星があってもおかしくないだろう。お互いを絶対に観測しない。だが、たしかにお互い太陽系にいる。そのようなことが、たぶん、ブレイク主任の『ベンゼン』への、答えであろう。おれは『太陽の裏側』を出す。おれの勝ち、だ、ろう。
上空の風に抵抗して強く操縦桿を握る。感じられなくなっていた強烈な寒さを忘れていた、ことを思い出すことを、忘れている?
おれの思考と肉体の限界を感じた。それから、いまのおれの、それからブレイクとクリスタベルのバイトでは、ここが、たどり着ける最高度。と、判断する。まだ意識があるうちに、ブレーキをかける。
ドゥン! という機械音がした。なんだ? どこから? 頭の中に響く、無機質で、強い嫌悪感を抱かせる警告音。本能に直接語り掛けてくる。自転車、それに装着されている機械からではない。頭、ではない。もっと上から。ブレーキをかけるたびに、繰り返し鳴る。
止まらないのだ、車輪で動いているわけではないから、止まることがない。右手を離して、左側の機械へ手をやった。【HIGH】を、切り替えて【LOW】にすれば、おれの見た事実が正しいのなら。
ドゥン! ドゥン! ドゥン!
【いいえ】【いいえ】【いいえ】
(な——)
自転車はどんどん上昇する。口を開けて息を吸っているのに、何も入ってこない。
ドゥン!
【いいえ】
力が抜けて、自転車から手を離した。体が強く煽られて飛んでいく。自転車は太陽に向かっていく。頭が下になって、地上が少しだけ見える。
アストンの町は、真っ黒い湖の上に浮かんでいる。いや、あれは湖ではない。地平線の向こうまで続く、ただ黒いだけの領域。言葉通り、この世界には、言葉の限界があった。ここには、文字の外には、何もない、ということがわかった。世界の底が見えてしまった、父は——。
<了>
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