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拍手

黒羽たかまる

1,911 字

幻想小説、内省文学

"孤独な魂に、壁から届く拍手。"

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 右手に、ぱんぱんに膨れた買い物袋の重さを感じつつ、夕飯の献立を考えながら暮れの住宅街を歩いていると、前方に側溝を覗き込んでいるランドセルの子供たちが見えてきた。
 鉄の格子状の蓋の下に何かあるらしい。ザリガニでもいたのだろうか。
 普段なら通り過ぎているところだったのだが、側を横切る折に、助けを求めるような眼差しと目が合ってしまって、私は仕方なく足を止めた。
 指人形を落としてしまったとのことだった。幸いにも水の流れは浅くて、暗がりの底に引っかかっているのが見える。
 私は、数ヶ月に一度、男衆がやっている川浚いを思い出して、溝蓋を開けてみようと思った。
 かなり重かったが、溝蓋は持ち上がった。私が肩で息をしながら溝蓋をアスファルトの上に引き上げると、1人がためらわずに側溝の底に手を伸ばした。
 子供たちはばらばらにお礼を言うと駆け足で去っていった。
 私は、先ほどまで格子の食い込んでいた指を見ているうちに、ふと昔の記憶を思い出していた。

 幼少期、私の前にはたびたび「手」が現れた。それは、私が1人でお手洗いにいけるようになった時には既にいて、便器に腰下ろしている私の目の前のドアに生えていて、私に拍手をしてくれた。白くて細い、女性らしい手だったと思う。右手に引きつった痕があり、それは私が火傷というものを学んだ時期と一致する。
 ある時、私は母から宿題をしろと言われる予感がして、その前に自分で、リビングのテーブルの上に教科書とノートを開いた。母から「今日は自分から宿題をやるんだ。えらいね」と褒めてもらうつもりだった。だが、キッチンで夕飯の支度をしていた母は、私に気づかず、あるいは気づいた上でそれを当たり前のことだと思ったのか、結局一言も声をかけてくれなかった。私は泣きそうになりながら宿題を進めた。すると、にわかに手を叩く音が聞こえてきた。振り返ると、壁から生えた2本の「手」が私に向けて拍手をしていた。
 そんな風に、それは当たり前のように私の日常に姿を現したから、私はそれがおかしいことだとは全く思わずに育った。しかしながら、それは私が成長するにつれて次第に姿を見せなくなっていった。
 最後に見たのは高校の水泳の時間だったと思う。水泳の授業の総括として50メートルのタイムを測ることになった。当時の私は、自分が日陰者であることにコンプレックスを抱いていた。おしゃべりが上手かったり、部活動が上手くいっていたりするクラスメイトに引け目を感じていた。そんな私だが、幼稚園から小学校に上がる数年の間にスイミングスクールに通っていたから、バスケ部や陸上部のクラスメイトが「私は40秒だった」とか、タイムを比べあっているのを耳にすると、とうとう彼女らに自分が優っているところを認めさせる時が来たと思った。
 私の番が来た。先生の鋭いホイッスルの音と共に、私は指先から水面に飛び込んだ。真夏のプールの水は冷たく、その冷たさが懐かしかった。私は必死にーーいや、水を得た魚のように、まるでそこが始めから私の居場所であったかのように、伸び伸びと泳いだ。32秒。現役の水泳部には及ばないが、他の水泳を習っていない運動部には確実に勝っているぐらいのタイム。プールから上がった私は、バスケ部や陸上部のクラスメイトから声をかけられるのを期待して、彼女たちの側に近づいた。
 しかし、いくら待っても、私に話しかける者は1人もいなかった。私の名前を挙げる者さえいなかった。誰も私の泳ぎを見ておらず、周囲には私のことを気に留めている者は1人もいなかった。
 私は落胆しながら、更衣室に向かうクラスメイトの集団に混じっている。その耳に、ふと手を叩く音が届いた。
 シャワーがあるところの、陽の光をたっぷり含んだベージュの壁に、ひっそりと2本の「手」が生えていた。日光でかすんだ中に細い腕が拍手をしているその光景。それが、「手」との最後の思い出だったと思う。

 大学時代のある夏休み、実家に帰省した私は家族とともにある親戚と会うことになった。どういう続柄かは忘れてしまったが、母からは、彼はお金の無心をしに来ているのだから、祖父が別荘を持っていることは秘密にしておいてくれと念を押された。
 その折に、私は他の親戚についても尋ねてみた。そこで初めて、母には私が産まれる直前に首を括ってしまったいとこがいることを知った。私は閃いて、彼女の右手には火傷の痕がなかったかと聞いてみた。すると母は、
「いや、ないけど。どうして?」
 と怪訝そうな顔をした。
 その後、他の親戚についても尋ねてみたが、火傷をした者は1人もいなかった。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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