二十歳の誕生日、俺はひとりで缶ビールを開けた。
人生初の合法アルコールは苦くてぬるくて、ちっともうまくなかった。祝ってくれる友達はいない。実家の母さんからは「おめでとう。野菜も食べなさい」とLINEが来た。それだけ。
有村湊、二十歳。大学二年。月に一度、年間パスポートで市立動物園に通い、オオアリクイ舎の前のベンチで、ハナコが一分間に舌を出し入れする回数を数えている。最高記録は百四十八回。誰かに話したことはない。話す相手もいない。
そんな夜に、そのメールは届いた。
件名:主人がオオアリクイに殺されてから二十年が過ぎました
……知ってる。これ、知ってるやつだ。
ネットで伝説になった、あの迷惑メールの系譜だ。夫をオオアリクイに殺された未亡人が、なぜか見ず知らずの相手に財産を譲りたがる、あれ。
しかも俺のところには、中学のころから毎年一通ずつ届いている。毎年、なぜか俺の誕生日の夜に。毎年、年数だけをきっちり一つ増やして。
十三年。十四年。十五年。
毎年消してきた。迷惑メールフォルダからゴミ箱へ、ゴミ箱から虚無へ。
ただ、最後の一行だけが毎年妙に丁寧だったのを覚えている。
『どうかお元気で』
今夜の俺は、ちょっと酔っていた。そして、ちょっと寂しかった。
だから、魔が差した。
『二十年もお疲れさまです。旦那さんのこと、大変でしたね。俺も今日誕生日なのに一人です。お互い元気出しましょう』
送信。
送ってから、何やってんだ俺、と頭を抱えた。これでアドレスが生きてるとバレた。明日から迷惑メールが倍になる。
残りのビールを流しに捨てて、寝た。
◆
翌朝、チャイムで起こされた。
ドアを開けると、メイドがいた。
比喩じゃない。黒のロングスカートに白いエプロン、頭にはホワイトブリム。銀色の髪を腰まで垂らした、現実感がないくらいの美人が、築四十年のアパートの外廊下に立っていた。手には菓子折りの紙袋を提げている。
「お迎えにあがりました」
彼女は深く頭を下げた。
「魔王様」
ドアを閉めた。
チャイムが鳴った。
開けた。
「お迎えにあがりました、魔王様」
「二回言わなくていいです」
「三回目も用意しております」
用意しなくていい。
◆
結局、部屋に上げてしまった。廊下で「魔王様」を連呼されるよりはマシだ。隣の浪人生に聞かれたら、俺はもうこのアパートで生きていけない。
リーゼロッテと名乗り、「リーゼで結構です」と付け加えたメイドは、六畳間の真ん中に正座して背筋を伸ばしていた。菓子折りの中身は、駅前の和菓子屋の栗羊羹だった。妙に地に足がついている。
「この二十年で、いただいた返信は約四万件です」
リーゼがスマホの画面を見せてきた。ひびの入った、何世代も前の機種だった。送信済みフォルダには同じ件名がずらりと並び、年数の数字だけが一つずつ増えていく。
「四万」
「ほとんどは『草』でした」
「だろうな」
「直接会いに来た方は二人おりました。一人は詐欺師で、手数料を払えば遺産を受け取ってやる、と」
「詐欺師が詐欺に食いついてる」
「もう一人は警察でした」
「それもだろうな」
「そして、魂の照合が一致したのは、四万件のうち一件だけです」
リーゼは、まっすぐに俺を見た。
「魔王様です」
あのメールの文面には、返信してきた者の魂を照合する術式が編み込まれている、と彼女は言った。俺の返信は、二十年前に死んだ彼女の主人の魂と、完全に一致したらしい。
「……いや、普通に人違いだと思いますけど」
「術式は外れません。それに」
リーゼは、ほんの少しだけ目を細めた。
「四万件のうち、私を気遣ってくださった返信は、ほんのわずかでした。その中でも、最後に『元気出しましょう』と書き添えてあったのは、あなたのものだけです」
酔った勢いで打った一行だった。
「主人も、届いた手紙には必ず返事を書く方でした。脅迫状にも、果たし状にも、勇者からの宣戦布告にも。必ず最後に『お元気で』と書き添えて」
「お人好しかよ、魔王」
「ええ。底抜けの」
あ、と思った。
毎年のメールの、最後の一行だ。
「お前のメールの『どうかお元気で』って」
「主人の口癖です。あれだけは、変えられませんでした」
◆
彼女の主人は、魔王ゼノ・グラン=フォルミカ。
こことは別の世界で、千万の蟻の軍勢を統べた〈蟻帝〉だ。その外殻はあらゆる刃を弾き、あらゆる魔法を退けた。勇者が三代かかっても傷ひとつ付けられなかった、文字どおりの最強。
「では、そんな最強の魔王が、なぜ死んだのか」
「件名に書いてあったけどな」
「二十年前のあの日、城の中庭に時空の裂け目が開きました。そこから、一頭の獣が迷い込んできたのです」
リーゼは静かに続けた。
「我々の世界には存在しない獣でした。長い鼻、長い舌、太い尾、そして鋭い爪。蟻族に対して、絶対的な特効を持つ獣です」
「特効って言うな。ゲームか」
「主人はその獣をご覧になって、こうおっしゃいました」
一拍。
「『かわいい』」
「…………」
「そして、抱きつきに行かれました」
「バカなの?」
「そして、爪で」
「バカなんだな?」
リーゼは否定しなかった。
「あの獣は、裂け目を通って帰っていきました。この世界のどこかに、まだいるはずです」
彼女の声が、少しだけ低くなった。
「……まさか、仇討ちとか考えてないよな」
「誓約を立てております。仇を討つか、誓いを捨てるか。そのどちらかまで、この剣は私から離れません」
「捨てる選択肢あるんだ」
「ございません」
即答だった。
「で、剣、どこにあんの」
リーゼは、自分のスカートに軽く手を置いた。
「ここに」
答えになっていない。
主人の魂が消える寸前、彼女は転生の秘術を使った。魂は、獣が帰っていった裂け目の向こう、つまりこの世界へと流れていった。分かったのは、主人が死んだのと同じ日に、この世界のどこかで生まれ直すということだけだった。
――だから毎年、俺の誕生日に届いてたのか。
「それ以外は、何も分かりませんでした。ですから、この世界の全員に送りました」
「発想がスパム業者なんだよ」
「文面は、この世界で最も多くの人間に届いている手紙を研究して決めました」
そこで、俺は気づいてしまった。
「……待って。まさか、お前が元祖なの?」
「一年目の手紙は、なぜか大変な評判になったようです」
「評判っていうか、ネタにされてたんだよ。何年も」
「存じております」
リーゼは、羊羹を切る手を止めなかった。
「笑われているのも、存じておりました」
ふと、スマホの画面の隅に目が行った。
『予約送信:1件』
「……来年の分、もう書いてあるのか」
「毎年、送った日の夜に、次の年の分を書きます」
俺は、何も言えなくなった。
◆
「それと、こちらを」
リーゼが差し出したのは、一冊の通帳だった。
「主人の遺産です。お受け取りください」
開いてみた。二千四百十二万円。
「……は?」
「魔界の財宝は、裂け目を越えられませんでした。ですので、こちらで用意いたしました」
通帳を差し出した指先は、ひどく荒れていた。ひび割れて、関節が赤い。メイド服にはまるで似合わない、毎日水と洗剤に触れてきた手だった。
「清掃と、ドラッグストアと、深夜の食品工場です」
「いやそれ遺産じゃなくてお前の貯金だろ!」
「主人のためのお金です。ですから、主人のものです」
俺は通帳を閉じて、押し返した。リーゼは受け取らなかった。通帳は、ちゃぶ台の真ん中に置かれたままになった。
「受け取れない。悪いけど、俺には魔王の記憶なんてひとつもない。ただの大学生だよ」
「術式は――」
「外れないんだろ。分かってる。でも本当に何も覚えてないんだ。ひとつも」
言ってから、ふと引っかかった。
ひとつも?
「……いや。心当たりが、ひとつだけある」
「なんでしょう」
「俺、オオアリクイが好きなんだよ。昔から。理由は分かんないけど、年パス買って、市立動物園のオオアリクイを月一で見に行ってる。舌の回数まで数えてる」
言いながら、自分で頭を抱えたくなった。前世で殺されてるのに、懲りてないのかよ、俺。
リーゼの顔から、表情が消えた。
「その獣は、どこに」
あ。
言っちゃいけないやつだった。ついさっき、仇討ちの話を聞いたばかりなのに。
◆
日曜の市立動物園は、家族連れで賑わっていた。
その中を、俺はメイド服の美女に腕を引かれて歩いている。すれ違う子どもが「メイドさんだ!」と指をさす。たぶん俺は、今日いちばん恥ずかしい二十歳だった。
オオアリクイ舎の前で、リーゼは足を止めた。
柵の向こうで、灰色の毛並みに黒い帯を走らせた老いたオオアリクイが、のんびりと餌皿に舌を伸ばしている。
リーゼの視線が、隣の解説板に移った。俺が何度も読んできた解説板だ。
『ハナコ(メス・推定二十四歳) 当園最高齢のオオアリクイ。二十年前、三日間だけ獣舎から姿を消し、無事に戻ってきたことで話題になりました』
「……三日間」
リーゼが呟いた。
次の瞬間、彼女はスカートの中から長剣を引き抜いていた。
本当に入ってたのか、そこに。
「下がってください、魔王様」
「待て待て待て待て!」
周囲から悲鳴が上がる。リーゼが柵に足をかけ、ハナコが顔を上げた。
俺は、考えるより先に柵を乗り越えていた。
リーゼとハナコのあいだに着地する。背後で、ハナコが後ろ脚で立ち上がる気配がした。振り向くと、老いたオオアリクイは両腕を大きく広げ、鉤爪をこちらに向けていた。
威嚇の姿勢だ。何度も見てきた。図鑑で。動画で。
――そして、もっとずっと前に。
膝が動かなくなった。
石畳の中庭。見上げるほど大きな獣。広げられた腕。その背中に、しがみつくようにして乗っている、小さな、小さな――
ああ。
そうか。
こいつ、あのとき、背中に子どもを乗せてたんだ。
知らない場所に放り出されて、怖くて、それでも子どもだけは守ろうとしていた。そこへ得体の知れない大男が「かわいい」とか言いながら両手を広げて突っ込んできたら、そりゃあ。
そりゃあ、爪も出る。
最期の瞬間に浮かんだ言葉まで、思い出した。
痛いとか、悔しいとかじゃなかった。
『そっか、子どもがいたのか。ごめんな』
『――いい母ちゃんだな』
俺はゆっくりとしゃがみこんだ。目線を下げて、両手を膝に置く。敵じゃないって、伝わるように。
「ごめんな」
二十年越しの、同じ言葉だった。
「あのときは、びっくりさせたよな」
ハナコはしばらく俺を見ていた。それからゆっくりと前脚を下ろし、ふん、と長い鼻を鳴らして、何事もなかったように餌皿へ戻っていった。
俺は、しゃがんだまま振り向いた。
リーゼは、柵の外で剣を構えたまま立っていた。切っ先は、まだハナコに向いている。
けれど、彼女が見ていたのはハナコではなかった。俺の顔だった。
「……その顔」
かすれた声だった。
「中庭で、最期に、主人がなさっていた顔です」
自分がどんな顔をしているのか、俺には分からなかった。
切っ先が、わずかに揺れた。
リーゼは目を閉じた。長い息をひとつ吐いて、ゆっくりと腕を下ろした。剣の先が地面に触れ、彼女の指が柄から離れた。
手放された長剣は、倒れるより先に、刃先から灰のようにほどけて、風にさらわれていった。
◆
駆けつけた警備員が見たのは、獣舎の中でしゃがみこんでいる大学生と、柵の外に立ち尽くすメイドだけだった。凶器は、どこにもなかった。
当然、俺は引きずり出され、事務所でたっぷり一時間怒られた。オオアリクイの爪はジャガーとも渡り合うんだぞ、死にたいのか、と。年間パスポートは没収され、一年間は再購入禁止になった。月に一度の楽しみが、ひとつ消えた。
怒っていたのは、白髪まじりの年配の飼育員だった。説教の最後に、その人は少しだけ声を落とした。
「ハナコは普段おとなしいんだ。でも、子育て中だけは本当に気が荒くてな。二十年前にいなくなったときなんか、生まれたばっかりのジロウを背中に乗せたままでさ。帰ってきてからも、何日もジロウを下ろさなかった」
隣で、リーゼが息を呑む気配がした。
「ジロウは今、よその園で元気にしてるよ。……もう二度とやるなよ、兄ちゃん」
◆
閉園間際のベンチで、リーゼはずっと黙っていた。
「主人は、笑っておられたのです」
ようやく口を開いたのは、夕焼けが観覧車を赤く染めたころだった。
「爪を受けたあとで。痛かったはずなのに。悔しかったはずなのに。私は二十年、それが分からなかった。分からないから、あの獣をずっと許せなかった」
「さっきは、分かってたの」
「いいえ」
リーゼは首を振った。
「分からないまま、下ろしました。……あなたが、同じ顔をしていたので」
「たぶん、いい母ちゃんだなって思ってたんだよ。あの人」
自分のことなのに、「あの人」と呼んでいた。そのほうがしっくりきた。
リーゼは何も言わなかった。荒れた両手を膝の上で握りしめて、オオアリクイ舎のほうを長いあいだ見ていた。手の甲に、ぽつりと一粒落ちた。
俺は、しばらく観覧車を眺めていた。
「なあ。お前の世界って、今どうなってんの」
「……主人が亡くなられた翌年、勇者様と和平が成立しました。今は議会による共和制です」
「めっちゃ平和になってんじゃん」
「はい。主人が望んでいたとおりに」
「じゃあ、もう戻らなくていいだろ。俺、魔王の記憶ほとんどないし。月曜一限あるし」
「……では、私は、どうすれば」
答えかけて、やめた。
それは、俺が決めていいことじゃない気がした。
「お前は、何がしたいの」
リーゼは口を開いて、閉じた。
もう一度開いて、また閉じた。
「……分かりません。そういうことを、考えたことがありませんでした」
俺は黙って待った。観覧車が一周するくらいのあいだ。
「ドラッグストアの店長に」
ぽつりと、リーゼが言った。
「三年前から、正社員にならないかと言われています」
「おお」
「ずっとお断りしてきました。主人を探す身でしたので」
「もう探さなくていいじゃん」
「……はい」
リーゼは、自分の荒れた手を見下ろした。
「では、来週、店長にお返事をしようと思います」
「お元気で、って書き添えて?」
「書き添えません」
リーゼは、少しだけ口の端を上げた。
「来週も会う方ですので」
俺はカバンから通帳を出して、彼女の膝に置いた。部屋を出るとき、ちゃぶ台から持ってきておいたのだ。
「これも、お前の二十年だろ。お前のために使えよ」
リーゼは通帳を両手で持って、長いこと表紙を眺めていた。
「では、ひとつだけ、もう使い道を決めてもよろしいでしょうか」
「俺に聞くなって」
「……はい。では、決めました」
何に使うのかは、教えてくれなかった。
それからリーゼはスマホを取り出して、予約送信の一件を開いた。来年の分の、あの一通だ。荒れた親指が、長いこと画面の上を行き来していた。
何を書き換えたのかは、見なかった。
「とりあえず、晩メシ食って帰るか。何がいい」
今度は、リーゼはすぐに答えた。
「回転寿司に、行ってみたいです」
「なんで回転寿司」
「バイト先の向かいにあるのです。お皿が回っているのを、ガラス越しに十二年見ておりました」
「入ったことは」
「一度も」
「……割り勘な」
「はい」
リーゼは、初めて笑った。
◆
一年後。
二十一歳の誕生日に、俺は年間パスポートを買い直した。
一年ぶりのベンチで、ハナコの舌を数えた。一分間に百十二回。去年より、ずいぶん遅くなった。
獣舎の横に、去年はなかった小さな銘板が増えていた。
『ハナコの動物サポーター リーゼロッテ様』
カタカナの、フルネームだった。
その夜、リーゼがうちに来た。自分で借りたアパートから、自転車で十五分。仕事帰りで、ドラッグストアの制服の胸には、まだ正社員の名札がついていた。
手土産は、一年前と同じ駅前の栗羊羹だった。ケーキより、こちらのほうが記念日らしいと思いまして、と彼女は言った。
夜九時。ちゃぶ台の上で、俺のスマホが震えた。
件名:主人がオオアリクイに殺されてから二十一年が過ぎました
一年前、動物園のベンチで、彼女が書き換えていた一通だった。
『探していた人が、見つかりました。長いあいだ、お騒がせいたしました。皆様も、どうかお元気で』
同じメールは、世界中に届いたらしい。その夜、トレンドの片隅に「#オオアリクイ完結」という文字が、少しのあいだだけ並んでいた。
差出人は今、俺の向かいで羊羹を切っている。
俺は、一年前のあの夜と同じように、返信を打った。
『二十一年、お疲れさまでした。俺も元気です。誕生日、今年は一人じゃないです』
送信。
ちゃぶ台の向こうで、リーゼのスマホが小さく鳴った。
〈了〉
主人がオオアリクイに殺されてから二十年が過ぎました
現代ファンタジー・コメディ・ボーイミーツガール
"迷惑メールが、二十年越しの「魔王」を呼び覚ます。日常と非日常が交錯する、奇妙で温かい転生譚。"
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。