1945年5月8日午後。
ラジオから流れる非常放送が敗戦を告げている。通りでは誰かが怒鳴り、誰かが走っていた。なにもかも、ただの燻りにすぎなかった。
スカートの裾を払って膝を乗せ、体重を掛ける。それでもトランクは閉じなかった。一度中身を出して缶詰の場所を変えようか。
彼が持っていた非常蝋燭の光が揺れて、紫煙が流れてくる。
「もういい。君一人で行け。」
彼は扉にもたれたままそう言った。
「荷物を減らせ、最低限まで。持って行ける物もそうありはしないが。」
二口目を吸って、ゆっくり吐く。この一本は当たりだ。こんな時だが、僕は運が良い。細い煙が窓から外へ逃げて行く。本来人間もこれくらい自由であるべきだなと思う。
「それでは、あなたはどうするのです。」
聡い彼女にしては珍しい。分かり切った事を聞くなんて。
「構わなくて良い。僕の顔は連合側にも知られているだろうから一緒にいるのはリスクだ。君一人なら誰も気にしない。荷物も軽くなる。早く。」
「しかし、私は妻としてお側にいなければ、」
妻、そうだ、彼女は妻だ。僕の側に立ち、支え、家を守らなければならない。そういう約束を、数年前にした。
お互い家の為だった。
顔を合わせ書面にサインし、家を買い、式は挙げず、ただ同じ家で暮らした。
彼女はいつも僕より先に起きて、朝食を作っていた。僕に皺のない軍服を着せ、襟を整え送り出す。手を振ることも、いってらっしゃいと言うこともなかったが、玄関前まで見送りに来ない時はなかった。
帰ってくると夕食の匂いがしていて、僕は上着を脱いで席に着いた。向かい合って食事をとりながら、一日について軽く報告する。彼女はただ静かに聞く。その後は風呂に入って、別々のベッドで眠る。そしてまた、彼女より後に目覚める。
「君は役目を十分に果たした。」
灰皿に煙草を押し付ける。
「これをもって契約を破棄する。エレオノーレ、君とは離婚だ。もう僕に構うな。」
ただ自由になってほしかった。僕と契約を捨ててほしかった。彼女ならこの混乱もなんとかなる。危険のない場所を見極めるだろう。できるだけ高く指輪を売るだろう。何も問題ない。だから早くここを出てってくれ。
彼女はトランクの前に座り込んだままだ。蓋は閉じない。僕の分の缶詰のせいだ。白い指は左手の指輪にかかっている。少しの沈黙の後、庇の影に隠れて見えないはずの僕の顔を見上げて言った。
「それは、受け入れられません。」
彼に口答えしたのは、初めてだと思う。でも言わなければいけなかった。このような契約破棄が認められるはずがない。このような、一方的で独善的な決断は、決して認められない。
「私の意向も確認しないままに宣言するなんて。」
これまで懸命に支えてきたのだ。これぐらいの我儘は許されないと困る。
「私はあなたのお隣にいたいのに。」
やっとトランクが閉じた。立ち上がって、裾をはたいて、彼の襟を直す。
「一緒に逃げましょう。それで、きちんと式を挙げるのよ。」
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