或日の昼下がり、彼は精神病院へ向かふ為、地元の停留所からバスに乗つた。新車らしい小綺麗なバスは珍しく満員だつた。機械の清浄な空気の中に、人々の皮脂の臭ひや香水の匂ひが混り合つてゐた。
彼は前方にある出口の扉の方へ歩み寄ると、片手に警告色の黄いろい棒を掴んだ。さうして徐にスマートフォンをとり出すと、小説アプリをひらいて、愛読してゐる小説を読みはじめた。その小説は太宰治の『人間失格』だつた。それは対人恐怖を持つた主人公が道化を演じていろいろの人間と関つて行き、心中、薬物中毒などを経験し、たうたう常人ではない自分を受け容れると云ふやうな話だつた。彼はその小説の主人公に、どこか自分との共通点を見出さうとしてゐた。実際葉蔵は彼に似てゐない事もなかつた。けれども彼は葉蔵程生活に困つてゐる人間ではなかつた。そこで彼は、この自分と葉蔵との生活のズレを、小説上の脚色によるものだと解釈した。
新車のバスはエンジン音も余り立てず、辷るやうに走つてゐた。前面の窓には赤い車が映つてゐた。
ふと彼の耳に汚言症らしい猥雑な声がはひつて来た。彼は怪訝さうに顔をしかめながら、怯ず怯ず後ろの方を見廻した。見ると二人席を独占してゐる男が一人、口の端に泡を溜めながら、ぼんやり窓の外を眺めて、何やらもごもご口走つてゐた。
「死ね、……気違ひ、……クソ、……」
彼はその男の姿を見て、心の中に何か烈しい嫌悪が湧き上つて来るのを感じた。それは男が何の気なしに暴言を吐いてゐたからばかりではない。何より不快だつたのは、その猥雑な言葉以上に、自分と同じやうな灰色のパーカーを着てゐた事だつた。男の服は窓から差す曇つた空の光に照されて、妙に白く光つてゐた。
仕方なく彼は元のやうにスマートフォンに目を落して、成る可く人の声が耳にはひつて来ないやうに努めた。けれども小説の一節はなかなか頭にはひつて来ない。代りにはひつて来るのは、後ろからの猥雑な声ばかりだつた。彼は頭の中でいつか、その男に葉蔵以上の共通点を見出してゐる事を発見した。
愈興奮を抑へられなくなつた彼は、忽ち手もとのスマートフォンから小説アプリをとじて、持つてゐた鞄からイヤホンをとり出すと、それを耳へと押しこんだ。
頭の中に流れて来たのは『フラッシュバックアンビエンス』と云ふ曲だつた。それは結婚詐欺か何かを企んでゐた男が彼女に惚れこんでしまつたものの、事情をすべて知つてゐた彼女は男の目の前で自殺してしまひ、男はその事を後悔し続けると云ふやうな歌詞だつた。彼は偶然流れたその曲の主人公にも、やはりどこか己の影を重ねてゐた。
高校二年生の時、彼は、同級生の恋人と、近所の川で入水自殺を図つて逮捕された事があつた。別段彼は人生に疲れてはゐなかつた。が、恋人は快活の中にどこか闇を抱へてゐた。そんな恋人に従つてゐる内に、どうにも世の中が息苦しく感じた。どうせ苦しいなら水の中に沈んでしまひたいと思つた。生物は海から陸に上つたのだから、死ぬ時は海の中に沈むのが道理であらうなどと訳の分らない事を考へて、二年前の夏休みの明ける二日前の深夜に、彼は恋人と二人で入水したのである。
冷たい水が身体の節々に入りこむやうにして、彼の五臓六腑を冷し尽した。口の中は苔の匂ひに支配され、予想してゐた苦しみもなく、唯緑の底へ沈んで行つた。……
不幸にも彼女は死んで、彼一人が生き残つた。不思議と後悔はなかつた。が、恋人が死んだ事は、彼の心にそつと一滴の墨汁の雫を落した。それは徐々に、しかし確実に、彼の心を蝕んでゐた。
はつと何かに驚かされたやうに、彼は又あたりを見廻した。バスはもう四五駅を過ぎ、今は丁度高速道路の下の往来を走つてゐるやうであつた。窓からの光は陰になつて、電燈の光が、すつかり人の疎らになつた席と席との間の通路を照してゐた。が、パーカーの男はまだ二人席を独占してゐた。
その時急にバスが高速道路の下にある交差点を右に曲つて、電燈の光に代り、又窓からの曇つた白い光がぱつと男と青色の空いた席を照しはじめた。
するとどうであらう、パーカーの男の隣に、見知つた制服の少女の坐る姿が彼の目に映つたではないか。艶のある赤の混じつた黒髪、少し焼けた褐色肌、薄い桃色をした唇、──突然目の前に顕れた往年の想ひ人の姿に、思はず彼は胸を打たれ、目を擦つて見た。けれどもその白い光に照された恋人の長い髪は確かに、彼の目の前で、車内の揺れに合せて僅かに揺いでゐた。どうやら彼女はパーカーの男に頬笑みかけてゐるらしかつた。さうして何か仲良く喋つてゐるやうだつた。
隣にゐるパーカーの男は照れを隠すやうに、にやにやしながら、その白い顔を不相変窓の外へ向けてゐた。
「死ね、気違ひめ!」──急にそんな言葉が彼の脳裏を掠めた。
しかし目の前の男は、──数年前の彼の姿に相違なかつた。
「ありがたう、愛してるよ。」
不意に頭の中に彼女の最期の言葉が蘇つた。それは入水する直前に耳もとに洩らした震へる声だつた。泪に濡れる彼女の、精一杯の優しさだつた。──嗚呼、己れは何て事をしてしまつたんだらう……
「クソ!」
彼は今目の前で幸福さうに笑ふ二人の姿を眺めて、いつか目に泪を浮べてゐた。さうして彼は、それが誰の目にもわからないやうに上を向いて、泪が溢れ落ちないやうにしてゐた。が、嗚咽は洩れてゐた。
──ぼくは後ろにある二人席に独り坐り、バスの前の方の通路に立つてこちらを見つめる一人の男の影を横目に見ながら、そんな事をぼんやり妄想した。影?──その目もとは妙に歪んでゐるやうだつた。ぼくはそれを見て、無気味に思ふよりも、何か得体の知れない興奮が湧き上つて来るのを意識した。自然と口から、自分でも意味の分らない言葉が、涎と共にあふれ出て来た。さうして又窓の外を、──バスの横を走る赤い車へ視線を向けた。
不思議と口の中に拡がつた、薔薇の花の甘つたるい香りを感じながら。
薔薇の花
幻想文学、心理サスペンス
"甘美な狂気が咲き乱れる、バスの中の精神世界。"
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