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Return of sound

abejunichi

974 字

静謐な人間ドラマ/音楽小説

"その一音は、長い旅路の終わりと始まりを告げていた。"

調律師の掌編小説

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 中村は調律師だった。
 ピアノを弾かない調律師だ。鍵盤に触れることはある。音を確認するために、一音ずつ、丁寧に。しかしそれは演奏ではない。彼にとってピアノは、話しかける相手ではなく、聞き取る相手だった。
 ある朝、依頼で訪れたアパートの一室に、グランドピアノがあった。
 六畳に、グランドピアノ。家具は他に何もなかった。窓際に灰皿が一つ。それだけだった。住人の男は玄関で中村を迎え、作業中は外に出ていると言って、そのまま消えた。
 中村は蓋を開け、仕事を始めた。
 ピアノは酷い状態だった。長く放置されていたというより、長く使われすぎていた。弦の張力が均一でない。ハンマーのフェルトが偏って削れている。中音域のFからB♭にかけてが特に深く抉れていた。誰かが毎晩、同じ和音を叩き続けた手の形がそこに残っていた。ダンパーペダルのフェルトだけが新しかった。何度も自分で貼り替えたのだろう。音を止める部品にだけ、この男は手をかけていた。
 二時間かけて調律を終えた頃、男が戻ってきた。
 中村が帰り支度をしていると、男はコートも脱がずにピアノの前に座った。確認のつもりだったのかもしれない。一音鳴らした。それから、もう一音。
 中村は靴を履きながら、手を止めた。
 音が、部屋を変えた。
 六畳が六畳でなくなった。天井が上がったわけでも、壁が遠ざかったわけでもない。ただ、空気の密度が変わった。中村はこの感覚を知っていた。長年調律師をやっていると、稀に出会う。完璧に調律された楽器が、完璧な人間と出会った瞬間にだけ起きること。
 男は弾き続けた。
 中村は帰れなくなった。
 扉に手をかけたまま、動けなかった。音楽として成立しているのかどうかも分からなかった。メロディがあるのかどうかも。ただその音は、何かを知っていた。遠くまで行った人間が、戻ってきた音だった。どこまで行ったのかは分からない。でも戻ってきたことは、確かだった。
 十分ほど経って、男は弾くのをやめた。
 振り返りもせず、また灰皿に煙草を置いた。中村はようやく扉を開けた。階段を降りながら、自分が何を聴いたのかを言葉にしようとした。できなかった。
 できなかったが、一つだけ分かったことがあった。
 あの男には、帰る場所がある。
 音がそう言っていた。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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