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バズった死神

シャボン

9,371 字

現代社会の病理を描くダーク・ファンタジー

"承認欲求という名の火が、命の画面を焼き尽くす。"

借金に追われ、歩道橋から身を投げようとしていた青年・燈喰夜澄は、くたびれたスーツ姿の死神と出会う。 死神は夜澄に、人の生死を見分ける方法を教えた。 病人の足元に死神がいれば助かる。頭側にいれば、もう助からない。 その力を使い、夜澄は“奇跡の治療師”としてSNSで名を上げていく。 救える命を救い、救えない命を見送り、彼は人々から先生と呼ばれるようになった。 だがある日、夜澄は死神との約束を破る。 救ってはならない命を、救ってしまう。 そして彼は、無数の寿命が灯る暗い場所へ連れていかれる。 古典落語『死神』を現代SNSホラーとして再構成した短編。

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 燈喰夜澄が死のうと思ったのは、午前二時の歩道橋の上だった。

 終電はとうに過ぎていた。
 眼下の国道を、貨物トラックが水のように流れていく。湿った夜風が吹くたびに、コンビニで買った安い缶チューハイの匂いが、夜澄の喉の奥から戻ってきた。

 借金があった。

 大きな額ではない。
 少なくとも、世の中にはもっとひどい人間がいる。ニュースを見れば、会社を潰した社長も、投資詐欺に遭った老人も、家族ごと路頭に迷った者もいる。夜澄の借金など、そういう人間たちに比べれば、ただのかすり傷みたいなものだった。

 だが、かすり傷でも腐ることはある。

 動画編集の仕事は減った。
 配信者になろうとして失敗した。
 恋人には振られた。
 母親には電話を切られた。
 友人たちは、いつの間にか家庭や仕事を持ち、夜澄の愚痴を聞くには少し忙しすぎる人間になっていた。

 スマホの画面には、未払い通知が並んでいる。
 赤い数字。
 赤い警告。
 赤い人生。

「……終わりか」

 夜澄は笑った。

 笑うしかなかった。
 何も持っていない人間は、最後に笑い方まで雑になる。

 手すりを越えようとした、その時だった。

「やめときなよ」

 背後から声がした。

 振り返ると、そこに男が立っていた。

 黒いスーツを着ていた。けれど、葬儀屋のようなきちんとした黒ではなかった。くたびれた会社員の黒だった。ネクタイは緩み、革靴は汚れ、片手にはコンビニの紙コップコーヒーを持っている。

 年齢はわからない。
 二十代にも、五十代にも見えた。

「誰だよ」

「死神」

 男は、当たり前のように言った。

 夜澄はしばらく黙って、それから噴き出した。

「はは……死神? もっとマシな嘘つけよ」

「嘘じゃないよ。君、今から死ぬつもりだっただろ」

「見りゃわかるだろ」

「見てもわからない人間の方が多い。みんな、自分が死にたい顔をしていることに気づかない」

 死神と名乗った男は、手すりにもたれた。

 その仕草は妙に人間臭かった。
 あの世から来た存在というより、終電を逃したサラリーマンのようだった。

「燈喰夜澄。二十八歳。動画編集者。今はほぼ無職。借金は百四十七万。母親とは不仲。最後に検索した言葉は、“楽に死ぬ方法”」

 夜澄の笑いが止まった。

「……スマホ見たのか」

「見なくてもわかる。そういう仕事だから」

 死神は紙コップのコーヒーを啜った。

「でもさ、君はまだ死ななくていい」

「は?」

「君みたいな人間は、死ぬには中途半端なんだよ。絶望しきれてない。どこかでまだ、誰かに見つけてほしいと思ってる」

 胸の奥を、冷たい指でなぞられた気がした。

 夜澄は言い返そうとした。
 けれど言葉が出なかった。

 死神は続けた。

「だから、ひとつ仕事をあげる」

「仕事?」

「人を助ける仕事だ」

 死神が笑った。

 その笑顔は優しそうで、ひどく不吉だった。

「人が死ぬ前には、俺たちがそばにいる。枕元にね。ただし、座る場所が違う」

 死神は手すりの上に紙コップを置いた。

「病人の足元に死神がいるなら、その人間はまだ助かる。名前を呼んで、足首に触れて、“帰れ”と言えばいい。死神は席を立つ。病人は回復する」

「……馬鹿馬鹿しい」

「でも、頭の方に死神がいるなら駄目だ」

 死神の声が、少しだけ低くなった。

「その命はもう終わってる。触るな。救おうとするな。席順を変えるな。死はね、雑に扱うと怒るんだ」

 夜澄は喉を鳴らした。

「なんで俺にそんなこと教えるんだよ」

「君がちょうどよかったから」

「何が」

「金に困ってて、承認に飢えてて、でも最初から悪人というほど器用じゃない」

 死神は夜澄を見た。

「壊れるには、いい形をしてる」

 その言葉の意味を、夜澄はその時わからなかった。

 ただ、手すりを越える気だけは失せていた。

 死神は背を向けた。

「試してみなよ。君のスマホに、明日、依頼が来る」

「依頼?」

「昔の知り合いから。父親が危ないって」

「そんな都合よく――」

 言いかけた瞬間、スマホが震えた。

 画面には、大学時代の友人の名前が表示されていた。三年は連絡を取っていない相手だった。

 メッセージは短かった。

『急にごめん。父さんが危ない。お前、動画で怪しい占い師とか取材してたよな? 誰か知らないか。もう何でもいいんだ』

 夜澄が顔を上げた時、死神はいなかった。

 紙コップだけが手すりの上に残っていた。
 中身は空だった。

     *

 最初の奇跡は、古びた一軒家の六畳間で起きた。

 友人の父親は、布団の上で浅い呼吸を繰り返していた。
 医者には、もう長くないと言われたらしい。親族は泣き疲れた顔で座り込み、仏壇には線香が上がっていた。

 夜澄は部屋に入った瞬間、それを見た。

 布団の足元に、黒いスーツの女が座っていた。

 顔は見えない。
 長い髪が垂れ、膝の上で両手を揃えている。
 そこだけ、部屋の明かりが届いていないように暗かった。

 死神だ。

 夜澄は膝が震えるのを感じた。

 だが、足元にいる。

 助かる。

 夜澄は言われた通りにした。
 老人の名前を呼び、痩せた足首に触れ、小さく言った。

「帰れ」

 黒い女が、ゆっくり顔を上げた。

 目はなかった。
 口もなかった。
 けれど、笑った気がした。

 次の瞬間、女は消えていた。

 老人の呼吸が変わった。
 浅く切れていた息が、深く、静かなものになる。

 親族の一人が叫んだ。
 友人が泣きながら夜澄の肩を掴んだ。
 奇跡だ、と誰かが言った。

 夜澄は何も答えられなかった。

 ただ、胸の奥で何かが灯った。

 それは善意ではなかった。
 人を救えた喜びとも、少し違った。

 もっと熱く、もっと汚く、もっと甘いもの。

 見られた。
 求められた。
 自分が、必要とされた。

 その感覚は、安い酒よりもずっと強く、夜澄の体を内側から酔わせた。

     *

 二週間後、夜澄の名前はネットに上がった。

『父を救ってくれた人がいます』
『医者に見放されたのに回復』
『本物の奇跡を見た』

 最初は小さな投稿だった。

 だが、人間は奇跡が好きだ。
 特に、自分の不幸に説明が欲しい人間ほど、奇跡に飢えている。

 夜澄は、動画を出した。

 顔は半分だけ映した。
 黒い服を着て、暗い部屋で、静かな声で話した。

「私は、命の影を見ることができます」

 嘘ではなかった。

 死神が見える。
 それを“命の影”と呼んだだけだ。

 動画は伸びた。

 最初は数千回。
 次は数万回。
 三本目で百万回を超えた。

 コメント欄には、病人を抱えた家族の声が溢れた。

『母を助けてください』
『医者はもう無理と言います。でも信じられません』
『先生だけが希望です』
『病院は金儲けしか考えてない』
『本物の力がある人を潰そうとする世の中がおかしい』

 先生。

 その呼び名を見た時、夜澄は笑った。

 馬鹿馬鹿しいと思った。
 けれど、悪くなかった。

 予約フォームを作った。
 相談料を設定した。
 交通費を請求した。
 緊急対応には追加料金をつけた。
 やがてオンラインサロンまで作った。

 死神は病室のあちこちにいた。

 足元にいる死神なら、夜澄は救った。
 頭側にいる死神なら、夜澄は首を振った。

「魂の扉が閉じています」

 そう言えば、家族は泣いた。
 泣いて、納得した。

 夜澄は、神ではなかった。
 ただ、助かる者を助け、死ぬ者を死なせているだけだった。

 だが世間は違う見方をした。

 彼は“選ぶ人”になった。

 救われた家族は彼を崇めた。
 救われなかった家族も、彼の前では怒れなかった。
 なぜなら彼は、最後の希望として現れた人間だったからだ。

 やがて、夜澄は自分でもそう思うようになった。

 自分は特別なのだと。

 死神に選ばれたのだと。

 誰にも見向きされなかった燈喰夜澄は、死の淵に立つ人々から、神様のように名前を呼ばれるようになった。

 その頃から、動画の中の夜澄は変わった。

 声がゆっくりになった。
 目線が柔らかくなった。
 言葉が曖昧になった。

「現代医療を否定するつもりはありません。ですが、医療だけでは届かない領域があります」

 そう言いながら、彼は医者への不信を煽った。

「薬ではなく、祈りが必要な時もあります」

 そう言いながら、彼は祈りに値段をつけた。

「私は救える命しか救えません」

 そう言いながら、彼は救えなかった命の責任から逃げた。

 フォロワーは増え続けた。

 金も増えた。

 部屋は広くなり、服は高くなり、食べるものも変わった。

 けれど夜になると、夜澄は時々、あの歩道橋を思い出した。

 死神の声。

 壊れるには、いい形をしてる。

 その言葉だけが、耳の奥に貼りついていた。

     *

 ある日、夜澄のもとに一件の依頼が来た。

 有名な実業家の母親だった。

 美容医療、健康食品、オンライン診療、自己啓発。
 何にでも顔を出し、何でも金に変える男だった。
 夜澄の動画にも何度か言及し、「本物の才能」と持ち上げていた。

 提示された金額は、三千万円。

 成功すれば、さらにテレビ出演の話もつけるという。

 夜澄は迷わなかった。

 都内の高層マンション。
 最上階の寝室は、病室のように改造されていた。最新の医療機器が並び、白い壁には高価な絵画が掛けられている。

 ベッドの上に、老女が横たわっていた。

 そして。

 死神は、頭側に座っていた。

 黒いスーツの女ではない。
 あの歩道橋で会った、くたびれた男だった。

 死神はベッドの枕元に腰かけ、紙コップのコーヒーを持っていた。

「駄目だよ」

 死神は言った。

 夜澄にだけ聞こえる声だった。

「これは終わってる」

 実業家が詰め寄る。

「先生、母は助かりますよね?」

 夜澄は答えなかった。

 死神は穏やかに続けた。

「帰りな。金は諦めろ。これは君の仕事じゃない」

 夜澄の手が汗ばむ。

 三千万円。
 テレビ出演。
 さらに伸びるフォロワー。
 完全な成功。

 ここで「無理です」と言えばどうなる。

 期待外れ。
 偽物。
 結局、救えないのか。
 コメント欄に並ぶ失望。
 アンチの嘲笑。
 切り抜き動画。
 暴露配信。

 夜澄は、もう元の生活には戻れなかった。

 無名の、貧乏な、誰にも必要とされない男には戻れなかった。

「……ベッドを」

 夜澄は言った。

「ベッドを反対にしてください」

 死神の目が細くなった。

「おい」

 夜澄は死神を見なかった。

「儀式に必要です。頭の向きを変えます」

 実業家はすぐにスタッフを呼んだ。
 電動ベッドのロックが外される。
 機器のコードが動かされる。
 寝室の家具がずらされる。

 ベッドが、ゆっくりと百八十度回転した。

 死神は動かなかった。

 部屋の中での位置は同じ。
 けれど、老女の体から見れば、死神は足元にいる形になった。

 死神が低く笑った。

「やったね、夜澄」

 その声は、怒っていなかった。

 それが、かえって恐ろしかった。

「君、ついにこっち側の理屈を、自分の都合で使った」

 夜澄は老女の足首を掴んだ。

「帰れ」

 声が震えた。

 死神は立ち上がった。

 そして、消えた。

 老女の呼吸が戻った。

 部屋中が歓声に包まれた。
 実業家が泣きながら夜澄の手を握った。
 スタッフが叫び、家族が膝から崩れた。

 その夜、夜澄の名前は爆発した。

『奇跡の治療師、本物だった』
『医者が諦めた命を救う』
『燈喰先生、テレビ出演決定か』
『現代医療の限界を超えた男』

 フォロワーは一晩で百万人増えた。

 夜澄は高級ホテルの部屋で、シャンパンを開けた。
 窓の外には東京の夜景が広がっていた。

 まるで、無数の命の灯のようだった。

 その時、部屋のインターホンが鳴った。

 こんな時間に誰だ。

 夜澄は酔った足取りで扉を開けた。

 そこに、死神が立っていた。

 くたびれた黒いスーツ。
 緩んだネクタイ。
 片手には、コンビニの紙コップコーヒー。

「迎えに来たよ」

 死神は言った。

「何の話だよ」

「席順を変えただろ」

 夜澄の酔いが、一瞬で冷めた。

「でも助かった。俺は救ったんだ」

「うん。救った」

 死神はうなずいた。

「だから、その分だけずれた」

「ずれた?」

「命は、空席を嫌う」

 死神は夜澄の肩に手を置いた。

 冷たくはなかった。
 むしろ、人肌のように温かかった。

 それが嫌だった。

「君があの老婆を列から抜いた。だから、代わりがいる」

「ふざけるな」

「ふざけてないよ。最初に言っただろ。頭の方にいる死神を動かすなって」

「俺は……俺は選ばれたんだろ!」

 夜澄は叫んだ。

「お前が俺に教えたんだ! 俺にやらせたんだ!」

「そうだね」

 死神はあっさり認めた。

「だから見届けに来た」

 視界が歪んだ。

 ホテルの廊下が遠ざかる。
 足元が抜ける。
 スマホが床に落ち、画面が割れる音がした。

 次の瞬間、夜澄は暗い場所に立っていた。

     *

 そこは、地下駐車場のようだった。

 天井は低く、コンクリートの壁がどこまでも続いている。
 けれど車は一台もなかった。

 代わりに、無数のスマホが並んでいた。

 床一面に、棚一面に、壁一面に。

 古い機種も、新しい機種もあった。
 画面はすべて点いている。

 そこに映っているのは、蝋燭だった。

 長い蝋燭。
 短い蝋燭。
 太い蝋燭。
 今にも消えそうな蝋燭。

 画面の中で、火が揺れていた。

「これ……何だよ」

「寿命」

 死神は歩き出した。

「昔は本物の蝋燭だったんだけどね。最近は管理が面倒で。人間もスマホの方が見慣れてるだろ」

 夜澄は棚の間を歩いた。

 画面の中の火は、それぞれ違う揺れ方をしていた。
 強く燃えるもの。
 静かに細るもの。
 一瞬だけ大きくなり、すぐに小さくなるもの。

 その一つ一つが、人間の命。

 棚の端に、電源の落ちたスマホがいくつも並んでいた。

 画面は真っ黒だった。
 蝋燭も映っていない。
 ただ、充電切れの端末のように、何も返してこない。

「……これは?」

 夜澄が尋ねると、死神は足を止めずに答えた。

「過労死」

 声に感情はなかった。

「燃えてる最中に、先に器の方が駄目になる。火は残ってた。でも、灯す場所が壊れた。よくある」

 夜澄は息を呑んだ。

 その隣には、画面の割れたスマホがあった。
 蜘蛛の巣のようにひびが走り、その下で蝋燭の火が押し潰されたように消えている。

「事故死」

 死神は淡々と言った。

「落下、衝突、巻き込み、急な破損。火の長さとは関係なく、画面が先に割れる」

 さらに奥に、小さな端末があった。

 子供用のキッズケータイだった。

 黄色いカバー。
 防犯ブザーの紐。
 丸くて、安っぽくて、どこか頼りない機械。

 その画面が、割れていた。

 ひびの奥に、短い蝋燭の燃え残りが見えた。
 まだ火が灯るはずだった形だけが、黒く潰れている。

 夜澄は、喉の奥が詰まるのを感じた。

「……それは」

「虐待死」

 死神は、やはり同じ調子で言った。

「本来なら、まだしばらく燃えた。短くても、明るい火だった。でも、割られた。外から」

 夜澄は何も言えなかった。

 棚の上で、キッズケータイは黙っていた。
 通知も鳴らない。
 着信もない。
 誰かを呼ぶための防犯ブザーだけが、ちぎれた紐を垂らしている。

「君たちは勘違いする」

 死神は、コーヒーを啜った。

「寿命っていうのは、必ず最後まで燃えるものじゃない。途中で消される火もある。踏まれる火もある。見て見ぬふりをされて、空気だけ先に奪われる火もある」

 夜澄は、割れた小さな画面から目を逸らした。

 けれど、逸らした先にも、同じような端末がいくつも並んでいた。

 充電の切れたスマホ。
 割れたスマホ。
 水没したスマホ。
 焼け焦げたスマホ。
 誰にも回収されなかったスマホ。

 それらはすべて、かつて誰かの命だった。

「怖い?」

 死神が聞いた。

 夜澄は答えられなかった。

「怖がるだけなら簡単だよ」

 死神は、ほんの少しだけ笑った。

「でも君は、それを金にした」

 夜澄は吐き気を覚えた。

 死神は、ある棚の前で止まった。

「これが君」

 そこには、古いスマホが置かれていた。

 画面はひび割れている。
 その中で、小さな蝋燭が燃えていた。

 芯はほとんど残っていなかった。
 火は青白く、頼りなく震えている。

「嘘だ」

「本当」

「だって、俺はまだ二十八だぞ」

「年齢は関係ないよ。君のぶんは、さっき使った」

 夜澄は膝から崩れそうになった。

「助けろ」

「無理」

「お前、死神だろ。何とかできるだろ!」

「できなくはない」

 死神は、隣の棚を指差した。

 そこには、長い蝋燭が映ったスマホがあった。
 太く、明るく、まだ何十年も燃えそうな火。

「火を移せばいい」

 夜澄は顔を上げた。

「移す?」

「君の火が消える前に、他の火を少しもらう。うまくいけば、君はまだ生きられる」

「やる。やるよ」

「ただし」

 死神は笑った。

「手が震えなければね」

 夜澄は自分のスマホを拾い上げた。
 画面の中の火は、今にも消えそうだった。

 隣の長い蝋燭の画面に近づける。

 すると、不思議なことに、画面と画面の間で火が本物のように揺れた。

 移せる。

 夜澄は息を止めた。

 だが、手が震えた。

 恐怖で。
 後悔で。
 いや、違う。

 スマホが震えていた。

 通知だった。

 割れた画面に、コメントが流れ込んでくる。

『先生、次の予約いつですか?』
『母を助けてください』
『本当に奇跡です』
『アンチに負けないで』
『先生は神』
『先生だけが希望』
『先生、先生、先生』

 通知は止まらなかった。

 震える。
 震える。
 震える。

 夜澄の指先から、力が抜ける。

「止まれ……止まれよ……!」

 彼はスマホを握りしめた。
 けれど通知は増え続けた。

『ライブまだ?』
『先生が救えなかった人は、信心が足りなかったんですか?』
『医者より先生を信じます』
『先生、逃げないで』
『次は誰を救うんですか?』

 違う。

 俺は神じゃない。
 俺はただ、死神の座る場所を見ていただけだ。
 助かる人間を助けただけだ。
 死ぬ人間を死なせただけだ。

 そう言いたかった。

 だが、言えなかった。

 なぜなら、その誤解を一番欲しがっていたのは、夜澄自身だったからだ。

 長い蝋燭の火が近づく。

 自分の火が揺れる。

 あと少し。

 あと少しで移る。

 その時、死神が耳元で囁いた。

「見つけてほしかったんだろ?」

 夜澄の手が大きく震えた。

 火が、ずれた。

「あ」

 小さな声が漏れた。

 画面の中で、夜澄の蝋燭が倒れた。

 火は一瞬だけ大きく燃えた。
 まるで、バズった動画の再生数みたいに。

 そして、消えた。

     *

 翌朝、ニュースサイトに小さな記事が出た。

『奇跡の治療師・燈喰夜澄さん、都内ホテルで死亡』

 死因は急性心不全と報じられた。

 コメント欄は荒れた。

『陰謀だ』
『医療業界に消された』
『力を使いすぎたんだ』
『先生は最後まで人を救った』
『本物の聖人だった』

 数日後、彼の切り抜き動画が伸びた。

 死後、登録者数はさらに増えた。

 誰かが言った。

 先生は今も、見えないところで私たちを救ってくれている。

 その言葉に、何万人もが「いいね」を押した。

 画面の向こうで、死神が笑った。

 くたびれた黒いスーツの男は、コンビニの紙コップコーヒーを片手に、次の歩道橋へ向かっていた。

 そこにはまた一人、手すりの向こうを見つめる若者がいた。

 死神は言った。

「やめときなよ」

 夜の国道を、車のライトが流れていく。

 それは遠くから見ると、無数の蝋燭の火に似ていた。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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