1
いつも25歳の誕生日を想像してきた。なぜかはわからない。とてつもない幸運が訪れるような気もしていたし、大災害が起きて、あっけなく死んでしまうかもしれない。ただ25歳の誕生日だろうということがわかっている。日にちだけが心の中で予言されている。そういうことが人生にあることは、特別なことだ。人生はその日を境に、良いほうにだって、あるいは悪いほうにだって変わる。けれどそのままの自分ではいられない。そしてこのままの自分ではいたくない。だから人生のひとつの契機としてその日を夢みている。
その日、たとえ何がおきたとしても、僕は以前よりも、もっと素晴らしい自分になる。そう決めている。どんな困難も、その日まで乗り越えようと思ってきた。そういう思いはひとつの信仰のようなものと言えるようになっている。夜、眠るときにみる夢は、時々は25歳の誕生日に起きる何かの示唆をあたえてくれる。けれど、目が覚めるとそういう夢の内容を少しも思い出すことができない。ただその日、とてつもなく幸せな思いをする感触だけが目覚めるといつも残っている。
我にかえると、結局、25歳の誕生日には何も起きなくて、ただそういう幸福を夢みているにすぎないと、時々は自分の予感を疑う。誰にもそういうことを話さなかったけれど、もし誰かに話したら、たちまちばかにされてしまうことはわかっている。きっとこの世の中では未来のことを話すことができるのは、よほど優れた学者か、あるいは、誰かをだますことが平気な占い師みたいな人々か、純粋な子どもだけだ。
だから黙っている。自分の25歳という年齢の到来に、とても重要なことがあることを人々に隠している。確信はあっても、無関係な人々にとって未来は本当にやってくるまでは、わからないことだからだ。
自分の25歳の誕生日の3ヶ月も前から、会社に休暇を願い出ている。その前日と、翌日に休みを申請した。25歳の誕生日といっても、それは深夜の0時からはじまり、次の日の深夜0時で終わるわけではないかもしれない。念には念をいれておく必要がある。それまでこれといった休みをとってきたわけではないし、会社にいなければならない仕事は、入念にその3日間をさけてスケジュール調整してきた。だから何も問題はない。
3日間の休暇の前夜、グラスに買っておいたシャンパンを注ぎ、誕生日のイブのはじまりを祝う。時刻は22時36分をさしている。今日眠ってから、朝、目覚めると、ずっと前から動いていたカウントダウンが、本当に現実のものになる。そして特別な日の前日にかつて僕だったことを、もう一度取り戻そうと思う。けれどそう考えているうちに眠りこんでしまう。
夢はいつもより鮮明に描かれる。地下鉄を乗り継いでひとりの女性を探している。彼女の後ろ姿を見かけたと思ったら、彼女は駅のホームに降りて、反対方向の車両に乗り込む。僕は追いかけている。大勢の人の波にぶつかりながら、彼女の後ろ姿を見失わないように。彼女の次の行動を予測する。すると彼女が海を見たがっていることがわかる。夢の中では言葉なく思いが伝わる。いつしか僕らはともに海辺にいる。冬の寒い海風の中で、彼女の髪が舞い上がる。その瞬間に、眠っているのに瞼を閉じる。まだ彼女の顔を知りたくない。そう夢の中で思っている。
あるいは深い森の中で、彼女は木々に寄りかかっている。冬の木々は、雪がつもり、雪の美しい華が咲いている。彼女はとても寒いというようなことを言っている。彼女に目隠しされる。そしてその目隠しがとれる。すると辺り一面の景色が変わる。けれどやはり自分で目を閉じてしまう。たとえ夢の中でも、ものごとが実際に起きるその瞬間までは、何もみたくない。
僕はドアを開け、ドアを開け、ドアを開ける。部屋という部屋は、どこまでも続いていて、ベッドや、リビングや、ソファなんかが、きっと誰かが住んでいるみたいに、生活の中に溶け込んでいる。けれど人は誰もいない。僕は部屋を開けてまわり、彼女の姿を探す。幾つものドアを開けると、一番奥には寝室がある。とても大きなサイズのベッドがあって、彼女はそこに横たわっている。美しい音楽が響いている。その音楽の中で、彼女の寝息は聴こえない。でも、そのまま彼女の目覚めを待っている。
そして僕は目覚める。そしてこれまでとは違って、夢が、ある女性との出会いについてだと知る。誰かと出会うのだ。それはきっと間違いない。
目が覚めるとノートパソコンを開いていくつかのメールをチェックする。特に大した用件はない。そのまま、いつものようにニュースサイトの記事をピックアップする。テーブルの上のトースターにパンをセットし、コーヒーをいれる。そしてお気に入りのプレイリストを再生する。音楽はシャッフルされて、次に何の曲がかかるかわからない。フレーズは覚えているけれど、曲名まで覚えてない曲を聴きながら、パンをかじり、ニュースチェックを続ける。
次にシャワーを浴びる。夜はいつも寝てしまうから、寝ぐせを直すのに、朝、シャワーを浴びることは都合が良い。そしてドライヤーで髪を乾かす。ワックスをつける。お気に入りのロングTシャツを着る。ジーパンをはく。フードの付いたコートをはおる。そしてイヤフォンをする。スマートフォンでさっきのプレイリストの続きを聴く。
まず、街へ向かおうと思う。特別な用事はない。かつてしていたことを同じようにしようと思っているだけだ。
駅までの道。空は晴れ。風は冷たいけれど、身体の芯まで凍えるというほどではない。完璧な空というわけではないが、冬にしては暖かい。電信柱がなくなった街を想像しながら、駅まで歩く。まだそういうコードのない街になるまでは100年ぐらいかかるのかもしれない。もう電波が色んなものを繋いでいるにも関わらず。
2
鉄道は旧世界の産物だと思う。もし、新しい世界がはじまっているのなら、鉄道はもう主役ではない。駅の古びた階段を上りながら、19世紀にイギリスで走っていた黒い蒸気機関車のことを考える。傘をさしてビクトリア朝時代の人みたいな格好をした古い人々が鉄の塊に乗ることを夢みている。満員電車にのることにうんざりした通勤列車にならぶ僕らがそのなれの果てだ。毎朝のラッシュを思い出して、嫌な気持ちになる。いったいこの先、何年、こういう思いをしなければならないのか。テロリストが狙う地下鉄なんて、きっと古い世界に飽き飽きした僕たちの無意識の産物だ。昔からある世界が、きっともう終わろうとしていて、だから古く寂びれていくものを憎むのだ。
それでも音楽は電車にまつわる嫌な思考を吹き飛ばす。絡み合うリズムと美しい旋律に、窓の外の景色が美しいものに変わる。通りすぎていく町。光の射す田畑。小さな池と森。あぜ道を歩く少年。そしてトンネル。昔、夢中になってみた電車の外の移り変わる光景。僕は、今また動く美術館にいるのだ。
時刻は昼過ぎで、平日だからローカル線は人がそれほど多くない。がら空きの電車内で、ちょっとステップを踏んでみる。音楽はあらゆる場所をダンスフロアに変える。日差しが軽やかに角度によって光と影の模様を変化させる。人に気づかれないようにリズムをとる。自然に身体が動く。手を大きく広げたくなる。頭の中では、クラブで踊っているように周囲にいる人々を愛おしく思う。彼はどこから来てどこへいくのだろう? ちょっと急いで電車に乗り込んだみたいだけれど、恋人との待ち合わせでもあるのだろうか? おばあさんは深くシルバーシートに眠り込んでいる。お孫さんの夢でもみているのだろうか? あるいは少女だったことを思いかえしているのか。
そして彼女が電車の中に乗り込んでくる。電車内を見渡し、空いている席を見つけて座る。そしてイヤフォンをして心地良さそうな微笑を浮かべる。もしここがダンスフロアなら、僕らは同じリズムに揺られ続ける仲間だ。ちょっとした笑顔の交わしあいで、話をはじめ、恋に落ちることができる。うまくお互いを尊重しあうことができれば、永遠の恋人になれるかもしれない。そして夢をみ続けるのだ。覚めることのない夢を。
けれど彼女はひとつかふたつの駅を通り過ぎると、深く眠り込んでしまう。彼女の眠る姿を、そっと頭の中でスケッチする。髪の毛と輪郭と微笑がうまく書けたところで、彼女は目覚める。そして、ふとしたひょうしに、何かに気づいたのか、思い出したように駅の、その発車間際の電車から降りてしまう。瞼の奥に、彼女の髪の毛と輪郭と微笑だけが残る。僕は仲間がいなくなってしまったことをさみしく思う。たとえ違う場所からやってきたとしても、目的地が同じなら、もっと心を通い合わせるチャンスがあったのに。
昔そうしていたみたいにレコードショップに行って、音楽を試聴しよう。いくつか気に入った曲があったら、サイトからダウンロードするのもいい。服屋を覗き、良い音楽が流れている店で服を久しぶりに買おう。洋書のある本屋に行って、デザインの本を眺めよう。そういうことを思い浮かべる。
駅の階段を降りる。改札をくぐり抜ける。迷路のような地下街を歩く。あちらこちらにブランド店がある。若い女性たちが買い物をしている。客のいない店では、店員が店内のディスプレイをチェックし続けている。僕は客のいる店といない店の違いについて考える。そのそばを彼女が通り過ぎていく。地下街を歩き慣れた足どりで歩いていく。思わずふりかえる。高いヒールの音がフロアに響きわたる。清潔で人工的な地下通路を歩いていく女性。その後ろ姿が小さくなっていく。僕にはたいした目的はない。けれど、彼女には明確な目的があるだろう。足どりから、それは感じられる。次に行くべき場所があり、会う相手がいる。いろんなことが違う。僕は地下通路の壁にもたれかかる。そして行き交う人々の歩くスピードの速さに、戸惑う。
旅行鞄を持った女性。ジャージ姿の高校生の集団。白いマスクをした男。赤い傘をもった女性。そういえば、天気予報は晴れだっただろうか。検索し、降水確率を調べる。くもり時々晴れ。降水確率20パーセント。何も問題はない。そして晴れの日に赤い傘を持ち歩く女性についてしばらく考える。赤い傘は彼女のお気に入りなのだろう。けれど本当のことはわからない。凄く天候に用心深い可能性だってある。通り過ぎていく誰のこともわからない。誰も僕のことを知らないように。
地上への階段はすぐに見つかる。光の射す方へ一歩、一歩とのぼっていく。街のどこにでるかはわからない。地下と地上が頭のなかで完全にリンクしていない。外に出ると強い風が吹いている。人々が身体を小さくして歩いている。空は周囲をビルに囲まれてとても遠くにある。ドラッグストアの看板と、コンビニエンスストアの看板。いたるところに看板がある。道路では、渋滞にイライラしているドライバーがいる。太陽の光は建物に遮られてここまでは届かない。横断歩道の信号が変わるのを待ち、そして交差点をわたる。停車している車の運転者と目が合う。信号が青になる間際で走りだしそうだ。僕は足早く、交差点をわたりきる。
行き交う人の群れ。すれ違い続ける人々。狭い空。都市は人で溢れている。
裏路地にあるレコードショップで電子音に浸りきる。何枚かレコードを試聴する。太いベース音。リバーブのかかったドラム。艶やかな声。驚くような展開。徐々にうねりをあげていく。鼓動が早くなる。手が汗ばむ。ビートがはやくなっていく。目を閉じると、ここはどこか遠い世界のような気がする。あやしい香りが立ち込めていて、闇の中で人々が踊っている。僕たちは、夜に囲まれながら、火を囲み、踊る仲間だ。僕もそのうちのひとり。目を閉じながら身体をリズムにまかせる。軽くトリップしたような気持ちになる。けれど、それは一瞬のことで、目をあければターンテーブルが規則正しく回転している。秩序だった世界がある。刻まれた溝がデータとして記録されていて、それを再生することで音を奏でているだけだ。でも、どこか遠くへ連れて行ってくれる音楽がこの世界には存在する。
レコードジャケットのデザインの絵柄も気に入る。だから、プレイヤーを持っていないのに、そのレコードを買う。音楽はダウンロードすればいい。けれど、このコレクトする感覚は、なかなかやめることができない。
ビニールのバッグに入ったレコードを店員から受け取ると、また街の中へと戻っていく。店を出た後は、少しだけ何か世界が変わったような気がする。
服をみようと、ガラス張りのビルに入る。その建築様式に惹かれる。イヤフォンをはずし、どこか、いい音が鳴っている服屋を探す。センスが感じられる店じゃないと服を選ぶ楽しみもない。簡単な方法として、趣味がいいと感じられる音楽が流れている店を探す。音楽をひとつのものさしにしている。
いくつかの店では悪くない音が流れている。けれど心に響かない。店員の、バイヤーの、経営者の哲学や愛が音楽から感じられない。2F、3F、4Fと次々と店を巡っていく。建物は磨き上げられている。フロアというフロアが光を放っている。誰が磨いているのだろう?
どの店でも感じの良さそうな店員が、にこやかに微笑んでいる。雰囲気の良い音楽が流れている。けれどどこまでも人工的だ。その迷路を歩くように上へとのぼっていく。
いちばん上のフロアまで上っても、何もみつからない。磨き上げられたフロアとガラスがどこまでも続いているだけだ。向かいのビルのガラスには、日差しが反射してきらきらと輝いている。しばらく高層で、息を深く吸い、ゆっくりと吐く。外の世界を見下ろす。人々がとても小さくみえる。
まだ陽が上っている間に地下鉄に乗り、小規模店舗が並ぶ街の通りへ向かおうと思う。お気に入りの洋書屋はそこにある。また地下へ降りていく。エスカレーターに乗る。長い、長いエスカレーターだ。空気が薄くなっていくような気さえする。人工的な光だけが、世界を照らしている。いちばん下まで降りると、どこまでも暗い巨大な穴が線路とともに続いている。どこか遠くで地下鉄が闇の中を走り抜ける音がする。プラットフォームには、まばらに人がいるだけだ。その穴に吸い込まれそうな気がする。けれど、その時、いくつものアナウンスの中に、名前を呼ぶ声が聴こえる。
「……様。お連れ様がお呼びです。駅のカウンターまでお越しください」
自分の名前が呼ばれているとわかったのはずいぶん後だ。地下を走り抜ける列車の音が耳の奥で響いている。間には、次の電車が機械的なトラブルのため、予定より10分ほど遅れるというアナウンスも混ざっている。けれど間違いなく、現実的に誰かが呼んでいる。それは最初、どこか他人の名前のようにも思える。けれど、何回か繰り返されるアナウンスを聴いていると、それは間違いなく僕を呼ぶ声だと思う。
3
地下鉄の構内にアナウンスが繰り返し響いている。僕の名前を呼ぶアナウンスは、電車のトラブルのアナウンスの間に、2、3回繰り返されているだけだ。心当たりはない。僕は都市でひとりきりだ。連れはいない。しかし誰かが呼んでいる。
僕はまた長いエスカレーターを上る。
駅の改札口で名前を言うと、駅員は、やっときたというような、ほっとしたような安堵の表情をうかべる。
「お連れ様は、お疲れのようで、この地図に書かれているカフェで待っているとのことです。とにかく取り乱されているので、お声かけしてください」
そういって地図をわたす。誰かと勘違いしているのではないだろうか?
「急にひとりになったようで、ひどく心細そうでした。本来は駅の構内アナウンスはあまり頻繁には使用しないのです。けれど、あまりにひどく取り乱されていたので」
「本当に僕の名前を呼んでいたのですか? 心あたりはないのですが」
「確かにレコードを持った男性とおっしゃっていたので、間違いはないと思います」
そう駅員は言うと、僕に地図をわたす。その場所へ行ってみることにする。
「お連れ様なんですよね? 赤い傘を持っている女性だったのですが」
カフェはビルの一階の大通りに面してある。仕事を抜け出したビジネスマンや、御婦人が、ひとりで、あるいはふたり連れぐらいでキャラメル・ラテやカフェオレを飲んでいる。スマートフォンやノートPCに夢中になっている人もいる。僕は店内で赤い傘を持った女性を探す。
ひとり、うつむいて泣いているようにみえる女性がいる。彼女のテーブルの脇には、赤い傘がある。彼女に見覚えはない。けれど、声をかけてみようと思う。コーヒーを注文し、テーブルの前に立つ。「相席いいですか?」
彼女はうつむいたまま、うなずく。
「駅の構内アナウンスで名前を呼ばれたんです。駅員に聞くと、ここで待っていると言っていました。同姓同名の方でもいるのかな? とにかく呼ばれた気がしたので、こちらに来てみたのですが」
そう言ってみる。彼女は黙っている。僕は地図を差し出す。
「この地図、わかりやすかったですよ。すぐにここの場所がわかりました」
彼女は地図を受けとる。そしてキャラメル・ラテか何かを飲む。若い女性だ。
顔をようやくあげると、彼女は静かに話をはじめる。少し泣いていたのかもしれない。
「わたしが呼んだ人は、別の人だったのかもしれません。けれど、ここにあなたが来たということが真実です」
僕は、彼女が何を言っているのかわからない。彼女は話しはじめる。
「わたしはあなたと出会いました。決まったことを受け入れましょう。難しいことです。けれど、あなたを受け入れようと思います」
「ちょっと待ってください。確かにあなたは僕と同じ名前の誰かを呼んでいたのかもしれない。でも、あなたは今、はじめて出会った僕の何を受け入れるというのですか?」
彼女はしばらく黙った後、静かに言う。
「あなたはいつも、ひとりの女性を思い浮かべていたでしょう? それがどんな女性なのかは、わからない。けれど、いつかあなたは出会うと思っていたのでしょう?」
僕は少し考える。しかし思ったことを話す。「誰だって誰かと出会うことを考えます。ひとりでずっと生きていたら、ぬくもりを共有することだって、冬の寒い日には思い浮かべます。けれど心というものがあるし、あなたにだって心があります」
彼女は言う。「けれど、もう決まったことなのです。受け入れましょう」
その気になれば、すぐに席を立ってカフェを離れることもできた。けれど、心の中で思い描いていたことが、本当に現実として存在し、その偶然が、いささか奇妙な形とはいえ目の前にある以上、運命のようなものに抗うことの難しさを感じる。
コーヒーを飲む。そして今朝みた夢の話をする。
「誰かと出会う夢をみました。地下鉄で、彼女を追いかけて、そして、次の瞬間には、海辺にいました。けれど、それがあなただとは限らない。そして、何より、ぼくらはお互いのことを何も知らないのです」
彼女は言う。「心が強く求めることは、現実になります。それがどういうものであれ。わたしも、あなたを呼んでいた。あなたもわたしを呼んでいた。もちろんそれは誰かを求めるという意味においてです。そして願いは、時には奇妙な偶然を装ってあらわれる。地下の世界でわたしたちは繋がっています。誰かが呼ぶ声を、誰かががみつけてくれたなら、それを決まったこととして、受け入れようと思うのです」
「誰かが呼んでいると思ったんです。夢は望んでいることの投影で、ただの夢だと思っていました。けれど、それだけではないということですね?」
「わかりません。けれど、わたしは誰かを呼んでいた。そしてあなたがあらわれた。どのような気持ちであなたがここにきたのかもわかりません。でも偶然だとしても、もし、時間が許すのなら、わたしたちはお互いのことを、知る時間を持ってもいいとは思いませんか? とてもおかしなことを言っているとは思います。でも、なぜかとても大切なことのように思えるのです」
彼女の言葉からは真剣さが感じられられる。奇妙な偶然。不思議な出会い。僕は今、そういう場所にいる。
「少し外を歩きませんか?」
彼女は微笑む。
並んで夕方の街を歩きはじめる。偶然が僕たちを引き合わせた。その偶然を信じはじめる。僕は話しだす。
「自分が自由に解放される世界を夢みてきました。そしてわかちあうことを。日々の仕事のことや、人々とのささやかな行き違いや、暗く考えてしまう未来のことを忘れて、心のままに誰かと話をしてみたかった」
彼女は微笑みを浮かべながら話す。
「話をすればいいのです。わたしはその話を受け入れます。もちろん、普段は、誰かが話すことを、自由に受けとめるということは難しいことです。話す人間も、聴く相手のことを考えます。だから自由に話しているようでも、わたしたちは常に自由ではない。人間がふたりいれば、自由に話すことも難しい」
「自由にといっても、まったくの自由を望んではいません。あなたの心を考え、望んでいることを想像します。そして、最適な言葉をみつけようと努力します。きっと自由に生きるということは、誰のことも気にしない、そういうことではないのだと思います。何より、わかちあいたいと思える人がいるとしたら、言葉は、自然にあふれてくる」
彼女は言う。「自然に、言葉があふれるなら、ずっとわたしは話を聴いています。きっと楽しい話だから」
彼女はひとつひとつの言葉の真意をくみとるように話をきく。だから僕は、自然にこれまでのことを話す。過去のひとつひとつの出来事が、そっと静かな意味をもって立ち上がる。
けれど、そうしたこれまでの人生のことは、お互いのことを知ることには繋がっても、未来には辿り着かない。何より、僕たちは別の世界にいて、別のことを考え、別の人たちに囲まれて生きてきたのだから。
僕は言う。「夢について、話をしませんか?」
「夢?」と、彼女は聴き返す。僕は言う。「そう。夢についてです」
最初は、彼女が夢について話す。僕はその夢をきく。
「人には、想像する自由があります。どんなことでも。もちろん、幼い夢だってある。たとえばわたしは小さい頃、鳥のように空を飛んでみたかった。森の緑の一枚の葉っぱになって、雨露を身体であびたいと思っていました。そういう自然なものになることを望んでいました。自分が生きていると感じられる時は、そういう自然なものに触れた時です。そうではない時は、わたしはただ泣いているひとりの女の子にすぎません」
僕は言う。「けれどあなたはただの泣いている女の子じゃありません。あなたは何かを知っていて、そして赤い傘を持っています」
彼女の持つその赤い傘は、何かを伝えようとしている。雨が降る気配はない。天気予報も、今夜は晴れだと言っている。誰も雨のことは話していない。「僕にはわかりません。こんな晴れた日に傘を持つことの意味が。今日、ふたりも傘を持つ女性を見ました。二人とも赤い傘を持っていて、そのことが心に何か残っています」
彼女は言う。
「今日、自然に傘を手にしました。とても自然に」
彼女は、そう言うと、すこし立ち止まり、並木道の木をみる。夕暮れが、彼女と都市と街路樹を照らしている。僕はその光景にふと足をとめる。
「僕の話をします。音楽が好きです。音楽家が一人で作っているレコードも、何人かで作っているレコードも好きです。ひとりで作っているレコードには、ひとりの人間が持つことができる、喜びや哀しみの限りがあらわれているような気がします。音楽を聴きながら、彼と同じ気持ちになっています。それは新しい服を着ることに似ています。僕は服を買いにでかけて、しょっちゅう、音楽を買ってきてしまいます」
そういうと彼女は笑う。
僕は話を続ける。
「何人かで演奏している音楽は、その中にある調和に憧れます。すべてが彼らのようにひとつになれたならと思います。彼らは同じ夢をみています。誰にも役割があり、美しい世界を作り上げています。それはこの現実の中では奇跡のように思える響きがあります。お互いが、独立した人間なのに、彼らは、音楽のことになると、それぞれが手の役目をしたり、足の役目をしたりします。それは生きています。呼吸をしています。魂が宿っています。そしてひとつの音楽を奏でています。僕はその音を聴いています」
「そういう夢の響きを聴いているのですね」
僕は言う。「そうかもしれない」
僕は彼女の言葉にうなづく。
4
時刻が夜に近づくと、あらゆる新しい建物の裏側で、古くなってさびれてしまった都市の汚れが隠されて、輝く街が出現する。醜く、汚いものは夜の闇に紛れ、そっと息を潜めている。大昔に輝いていたであろう通りも、そのほころびが隠れ、新しい息吹が吹き込まれたように変貌する。けれど、それは光が作り出す幻想だ。騒がしい中を、僕らはできるだけ静かで新しい場所を求めて歩く。
多くの光に誘われて、街にやってきた人々。その真実の中で身動きができずにとまどっていた人々も、夜になると、みずからの場所を探し求めはじめる。僕らも、きっと同じだ。
彼女が指さしたのは、奇妙な料理店だ。ドアを開けると、スペースとスペースに赤いカーテンがかかった空間が広がっている。ウエイターがうやうやしく一礼すると、僕らを奥の空間に案内する。カーテンをくぐり抜けてウエイターが出ていってしまうと、僕らはふたりきりになる。静かな音楽が、そっと流れている。
僕たちは、夕食をともにする。落ちついた暗い照明に彼女は馴染んだようだ。僕はシャンディ・ガフを飲む。彼女は、シャンパングラスをゆっくり傾ける。
彼女の受け入れるという言葉には、魔法のような響きがある。その言葉を聴いてから、ずいぶん自由になったと思う。はじめて会った人なのに、懐かしい感じがしている。子どもの頃に戻ったように、彼女を親密な存在として感じている。僕は心を開く。彼女はそっと話に耳を傾ける。世界の未来について問いかけ、心の真実について語り、歴史の変化について考えをのべる。どこか遠い場所で考えてきたことが、彼女を前にすると、実際の言葉になる。彼女はそういう話のひとつひとつに耳を澄ませてくれている。ずいぶん話をしたような気がする。
「ずっと思っていました。僕はいつまでも同じ場所にいて、同じ過ちを繰り返し続けるのではないかと」そう言う。「誰と出会っても、何かを伝えようとしても、同じ場所で衝突し、関係をだめにしてしまい、ひとりになってしまうのではないかと思っていました」
僕は本心を語る。少しお酒がまわってきたのかもしれない。
「でも、ようやく違うのだということがわかってきました。歴史は繰り返すというように、人生も同じ場所で間違い続けるのだと思っていたのです。けれど、違うのです。僕が自分の過ちを繰り返さずにいれるように、歴史も過ちを繰り返さない。そう思うようになってきました。傾向として、また同じところでつまづくのかもしれない。それは修復しきれない心の傷が、何度も同じ過ちへ誘っているからです。でも、あなたが受け入れると言ってくれた時に、自分をめぐる因果から少し逃れて、過ちを繰り返さない道へ一歩、踏み出したという気がしています」
彼女はその話を静かに聴いてくれている。とても小さく音楽が流れている。僕たちはふたりで静かな世界にいる。
「何かを間違ったとします。しかし、そのことを戒めるのは、本当は時間が必要なのだと思います。自分が同じ場所で何度も同じ過ちを繰り返していることに、もし気づくことができたとしても、自分だけでは確信を持つことができません。僕たちは、生まれた時には万能感を持って生まれてきます。しかし、父や母という他者を理解するとともに、苦しみも生まれます。生きていることの本能的な感覚として。人と人の間にある隔たりは、自分が自分であるということを知れば知るほど深まっていきます。でも、確かに苦しみは必要なのです。痛みがなければ、あちこちにぶつかってしまって傷だらけになってしまう。痛みがあるからこそ、痛みを逃れることを学びます。苦しみも同じです。いつか苦しみを逃れる方法をみつけることができる。ある意味では、誰もが、苦しみから逃れるために生きているのです」
彼女は話をずっと聴いている。そして必要だと彼女が思った時に言葉をかえす。
「何か苦しいことがあったのですね」
そう彼女が言った時、苦しかったことを自然と思い返す。確かに苦しかった。静かに苦しんでいて、そのことを言葉にせずに、やり過ごしてきた。世の中の人が正しいと言うことに沈黙してきた。人のことを考えて、できるだけ良いことができるように行動してきた。誰かの笑顔を願ってきた。その中でささやかな個人的な幸せがあった。そういう時にだけ自由に心を解放することができた。心の中に穏やかな音楽をいつも思い浮かべた。すべてを言葉にすると自分自身も、傷つけてしまうと思った。
「苦しい時、静かな音楽を思い浮かべます。心が苦しみに飲み込まれてしまわないように。そして、それもいつか終わります。苦しみを知ることは、その苦しみを逃れることを知ることだから」
「わたしにできることはありますか?」と彼女は言う。彼女は見抜いている。そしてわかちあおうとしている。そう感じる。
僕は言う。「もし、僕がうまく言葉にできなくて、黙ってしまっても、気にしないでください。あまり言葉にすることができないんです」
「無理に話すことはありません。もし、あなたがうまく話せないことがあるのなら、その沈黙を受けとめます。心は、言葉にするその前からあるのです。沈黙を共有しましょう」
彼女がそう言うと、とても静かな音楽だけが、僕たちを包む。静けさが、その空間に音楽が流れていたことを思い出させる。音楽は徐々に小さくなっていく。その消えさりそうな一音一音に、耳を傾ける。そして、音楽は消えていく。それは降り続けていた雨が、そっとあがるように、やさしく消える。心の中に、その一音一音の響きだけが残っている。しばらくその音に耳を澄ます。いくつもの苦しみが、その音とともに消えていったような気がする。それはささやかな心の変化だ。でも、何かが終わり、もうすぐ新しい何かがはじまろうとしている。
やがて僕は正直に打ち明ける。「明日、何かが起きると思っています。あなたの赤い傘のように、未来はひとつの夢として、そっと提示されています。ずっとそのことを感じています。これまで苦しいことが沢山ありました。死にたいと思うこともありましたし、生きていてもしょうがないと思うことだってありました。けれどもし、あなたが夢にあらわれた女性なら、夢がひとつ現実になった。僕は自分を信じることができる」
「わたしにも何か役立てることがあるのね?」
僕はうなづく。
彼女の言葉を超えた微笑みが心を満たす。
過去のすべては、どこか遠くで起きたことだという気がする。何か物語のなかだけで語られ、その意味を自由に手にとることができるように、片隅にある。だから自由にその意味だけを考えることができる。因果から解き放たれて、今、あたらしく生まれようとしている子どものように、世界を感じはじめる。
すべては生まれ変わろうとしている。僕はそう思う。
赤いカーテンが開かれ、ウエイターが静かに傍らに立つ。そして手慣れた手つきでグラスにワインを注ぐ。そして静かにカーテンの向こうへ消えていく。僕と彼女は、はじめてグラスを重ねる。一対のワイングラスが触れ合う。静かな音が響く。何かの儀式みたいだと思う。口にグラスを持っていく。赤い液体がほのかに香る。雫の一滴一滴が喉を潤す。彼女もそっとグラスを口に重ねる。
やがて店のあちらこちらから、歓声があがる。隔てられた空間が突如、開かれたように。誰かが、ハッピーバースディと言う。多くの人が、ハッピーバースディという。拍手が鳴り響き、店は、急にちょっとしたお祭りのようになる。僕は何が起きたのだと思う。きっと誰かが誕生日を迎えたのだろう。けれどその言葉は、誰か知らない人のためではなく、僕のために向けられた言葉なのかもしれない。わたしたちは地下の世界で繋がっている。もう、ひとりではないのだ。
しばらくすると騒ぎが収まり、再び音楽が響きはじめる。祭りは終わり、平穏が訪れる。彼女はワインを飲むと、とても素敵な笑顔で囁く。
「ハッピーバースディ」
時刻は、深夜0時を少しすぎたところだ。
目覚めるとすぐそばには彼女がいて、もう僕がひとりではないことを教えてくれている。もし、長い人生のうねりの中で、大雨が降ってきたなら、きっと彼女はその赤い傘を差しだして、その雨が通り過ぎることを一緒に待ってくれるだろう。古くなってしまった過去は、やがてはるか遠くに消えさり、その痕跡も消えてしまう。そして新しい日々がはじまる。それは日常のなかに、たとえ凍えるような冬のさなかでも、あたたかな日差しのように待ってくれている。誰かを求めているのなら、いつか誰かがそっと手を差し伸べてくれるように。
これはささやかなはじまりにすぎない。でもいつか苦しみを逃れて、誰もが誰かを愛するようになるだろう。
「海を見に行こう」
眠っている彼女にそう語りかける。
海辺では僕らは寄せては返す時の波間を、未来へ、また一歩、一歩と、ともに歩いている。水辺で人々はあらゆる苦しみから逃れて、その本来の姿を取り戻している。穏やかな自然がある。澄みきって広い空や、大地がある。子どもたちの笑い声がある。その場所では魂が触れ合っている。そして波音は美しい音楽のように響き続けている。
We should fall in love
都市の孤独と出会いを描く幻想的恋愛小説
"その日、世界は僕を呼び出した。赤い傘の君と出会うために。"
2013年作品。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。