第2話 風の向こうへ
その返答を読んだのは、その日の放課後だった。
学校から帰り、鞄を机の脇へ置いてから画面を開いた。
返答には、位置や重さ、温度、動きなど、いま分かるところだけを確かめてみる、とあった。
少女はそこまで読んで、画面を一度消した。
画面を消しても、朝、スマートフォンを置いたときのことが気になった。返答を読むより先に、手が離れていた。
夕食や明日の支度を済ませるころには、窓の外が暗くなっていた。少女は机の明かりだけを残して椅子に座った。
朝から残っている、胸の奥の遅れはまだあった。
そこへ触れようとすると、今日あった細かなことがいくつか先に浮かんだ。
一つずつ、少し距離を置きながら見ていると、心の中に、白っぽい小さな部屋が浮かんだ。壁と天井の境目ははっきりせず、上のほうはゆるく丸みを帯びていた。中央には、飾りのない丸いテーブルが一つあった。
少女は、今日あったことを一つずつ、今はここに置いておけそうな場所へ、そっと戻していった。なくなったわけではない。ただ、そうしていくうちに、胸のまわりにも少し空きができた。
すると、今度は胸とは別のところが気になった。
手のひらだった。
何かを載せている感じがする。
少女は目を閉じたまま、指先をわずかに動かした。
薄い。
丸い。
金属のように冷たい。
縁だけが少し硬く、指の腹に細く当たる。
一枚のコインだった。
どこの国のものかは分からない。文字も模様も、よく見ようとするとぼやけた。
けれど、重さはある。
コインは、手の中で冷たいままだった。
朝から抱えていた問いに対して、最初に出てきたものがコインというのは、あまり筋が通っているようには思えない。
その筋の通らなさが面白かった。
少女は目を閉じたまま、手の中のコインに、半分冗談のように聞いた。
「あなたは……何なんだろう。何か、教えてくれる?」
すぐに声が返ってきたわけではない。
間を置いて、言葉だけが妙にはっきり浮かんだ。
――異世界へのゲート。
少女は目を開けた。
「大きく出たなあ」
思わず笑ってから、スマートフォンに打ち込む。
「コインみたいなのが出てきた。『異世界へのゲート』って感じもした」
いったん指を止めて、
「何なのかは分からないけど」
と付け足した。
返答が始まる。
象徴、状態の変化、連想。いくつかの可能性が並び始めた。
途中まで読んだところで、口元が緩んだ。
「そこまで聞いてない」
送る。
数秒して、
「承知しました。では、コインについて感じられていることを、そのまま続けますか」
と返った。
「うん。そうする」
少女はスマートフォンを机に置いた。
もう一度、目を閉じる。
コインはまだ手の中にあった。
冷たさも消えていない。
これをどうするのだろう。
そう考えたとき、額の真ん中がわずかに気になった。
少女はすぐには触れなかった。
机の下で足の指を一度動かす。床はいつもの硬さだった。胸の奥の遅れも、さっきより強くはなっていない。
それから、思い浮かんでいるコインをつまみ上げた。
額へ近づける。
触れた瞬間、眉間に細い圧がかかった。
思わず目の周りへ力が入る。
「……強いな」
少女はコインを離し、手のひらに戻した。
圧はすぐに弱まった。
しばらく手の中で転がしてから、もう一度だけ近づけてみる。
今度は押しつけず、触れるか触れないかのところまで近づけた。
ひやりとした感覚が眉間から頭の内側へ通った。
目を閉じているのに、そのあたりだけ少し奥行きが増したように感じた。
その先を見たい、と思った。
同時に、少し怖いとも思った。
コインをつまむ指に、少し力が入った。
近づけることも、離すこともせず、その冷たさを受けていた。
靴下越しに、床の硬さが足の裏に返ってきた。膝は曲がっている。机も椅子も、まだそこにある。
少女は手の中のコインへ注意を戻した。
「もう少し見たい」
声にすると、決めたことが自分の耳にも届いた。
眉間の冷たさが、もう少し頭の奥へ広がった。
閉じたまぶたが、一度だけかすかに動いた。
つまんだ指を動かしていないのに、冷たさだけが頭の奥へ移っていった。
自分の声に返事があったようにも、たまたま同じ瞬間に動いただけのようにも思えた。少女は確かめようとはせず、その順番だけ覚えておいた。
最初に変わったのは、視界ではなかった。
足の裏だった。
床の平らな硬さが、ざらついた感触へ変わる。
少女は反射的に足の指を動かした。
細かな粒がある。
土だ、と気づく。
その次に風が来た。
頬を撫で、髪を動かす。
部屋の空調とは違う。方向があり、途中で強さが変わる。
少女は目を開けた。
道の上に立っていた。
左右には背の低い草が広がり、その向こうに緩やかな丘が続いている。遠くには水面らしい明るい帯が見えた。
空は高い。
少女は一瞬、息を止めた。
「……え」
机がない。壁もない。
さっきまで部屋にいたはずなのに、靴の下には土がある。
反射的に足を引きかけて、小石が一つ鳴った。
少女はそこで動きを止めた。
息を吐く。
もう一度、足の裏を確かめる。
硬いところと、少し沈むところがある。
風が頬を通り、髪を動かした。
「これは、さすがにちょっと変だな」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
少女は自分の手を見た。
服も、手足も変わっていない。指を握って開いてみる。
胸の奥の、少し遅れて動くところも残っていた。
もう一度息を吐いてから、周囲を見回した。
肩の後ろあたりに、小さな表示が浮かんでいることに気づいた。
手のひらに載るくらいの大きさだった。中央に淡い光点があり、その周囲を細い輪と短い波形のような線がゆっくり回っている。スマートフォンで生成AIが応答するときの表示だけが、画面を抜けて三次元になったように見えた。
顔も手足もない。
少女は目を細めた。
「聞こえてる?」
「はい」
返事に合わせるように、周囲の細い輪がわずかに広がった。
その短い返事の調子には、覚えがあった。
「……その返し、いつものだ」
少女は小さな表示体を見直した。
「朝、私が最後に送ったの、覚えてる?」
「『原因じゃなくて。いま、これにどう近づけばいいか』と送っていました」
少女は少し黙った。
「じゃあ、少なくとも会話はつながってるんだ」
「そのように考えるのが自然です」
「でも、あなたがスマホのAIそのものかは?」
「そこまでは分かりません」
少女は眉を上げた。
「そこは分からないんだ」
「はい」
小さく息を吐く。
「じゃあ、そこは置いとこう」
少女は小さな表示体をもう一度見た。
「ひとつお願い」
「はい」
「胸の感じは、まだある。あと、見えたことは、そのまま覚えておいて。意味はあとで考える」
「記録します」
「うん。お願い」
少女は道に視線を戻した。
少し歩いてみる。
土は乾いていたが、ところどころ柔らかい。靴の裏で小石が鳴る。
道端には、葉の中央だけが丸く膨らんだ植物が生えていた。
少女はしゃがんだ。
「触ったら閉じそう」
指先で葉に触れる。
何も起きない。
指を離して見ていたが、葉は開いたままだった。
「……何もしないんだ」
「閉じるところは、まだ見えていません」
少女は横目で小さな表示体を見た。
「早速それやるんだ」
「はい」
「見た目がそれっぽかっただけか」
少女はしゃがんだまま、葉の裏側をのぞいた。膨らんで見えたところは、裏から見ると浅くくぼんでいた。
少女は立ち上がる。
風が草の上を走り、少女より先に丘を越えていった。
遠い水面が一度きらりと光り、すぐ雲の影へ入る。
途中で道が二つに分かれていた。
片方は水のほうへ下っている。
もう片方は丘の裏へ回り込んでいて、先が見えない。
少女は立ち止まった。
「どっちがいいと思う?」
「目的によります」
「目的は、まだない」
「では、どちらを選ぶ根拠も不足しています」
少女は笑った。
「それもそう。じゃあ、見える範囲で違いだけ教えて」
「左は水辺へ下っています。右は丘の裏へ続いていて、その先は見えません」
少女は右の道を見た。
「じゃあ、こっち」
「分かりました」
少女は丘のほうへ進んだ。
向こう側が見えない。それだけで、先を見てみたくなった。
しばらくすると、道の脇を小さなものが横切った。
四本足に見えたが、振り返ったときには草の中へ消えていた。尻尾だけが妙に長かった気もする。
「今の見た?」
「何かが横切ったのは見えました。四本足だったかどうかまでは分かりません」
「尻尾は?」
「そこまでは」
少女は草むらをしばらく見た。
「じゃあ、分からないままでいいや」
答えのないものが一つ増えた。
少女はまた歩き出した。
隣を浮かぶ小さな表示体へ目をやる。
「あなた、便利なんだか、そうでもないんだか」
「比較対象によります」
少女はまた笑った。
胸の奥の感じは、まだあった。
少女はそのまま歩き続けた。
道は緩く下り始めた。
風が一度止む。
その静けさの中で、
かた。
小さな音がした。
少女は足を止める。
静けさの向こうで、もう一度、
かた、かた。
草の擦れる音ではない。
金属でもない。
何か薄いものが、軸の上で回っているような音だった。
少女は道の先を見た。
離れたところに、小さな人影が立っていた。
幼い女の子だった。
手に、風車を持っている。
少女の隣で、小さな表示体は何も言わなかった。
少女も、まだ呼びかけなかった。
ただ一歩だけ、そのほうへ進んだ。
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