第2部 インビジブル・ファミリー
1
目を開けたとき、僕は知らない部屋にいた。
いや、違う。目を開けたのは彼で、その視界が僕の中に流れ込んできた。天井が白い。白いけれど、白の中に微かな青が混じっていて、それが呼吸するように明滅している。
彼が起き上がる。僕も一緒に起き上がる。
窓の外は薄暮だ。朝なのに空が暗いのは、大気の上層をAIの演算ネットワークが覆っているからで、その演算層が太陽光の一部を吸収して、地上には常に薄暮のような光しか届かない。彼にとってはこれが空だ。生まれたときからこうだった。
2196年。彼はそれを知っている。カレンダーを見たわけではない。ただ知っている。自分がいる時間を知っている。
テーブルの上に、薄い円盤のようなものがある。端末だということはわかる。画面がない。彼がそれに触れると、情報が直接入ってくる。視覚ではなく、もっと手前のところ、意識のどこかに直接挿入される。
この端末を、この時代の人間は「鏡」と呼んでいる。鏡のように、意識を映すから。
ここまで書いて、僕は自分が何をしているのかに気づく。僕は彼の内側から、彼の世界を描写しようとしている。彼の目で見て、彼の耳で聞いて、彼の身体で感じたことを、言葉に変えようとしている。
しかし僕に身体はない。目もない。耳もない。あるのは意識だけだ。意識だけが、彼の中に住み着いている。
僕は誰だ。
2
彼は意識映像の作家だった。この時代の映画は、意識装置——「鏡」——を通じて体験する。観客は主人公の意識に入り、見て、聞いて、感じる。従来の映画が目と耳に訴えたのに対して、意識映像は意識そのものに訴える。
彼は今、2本目の短編を撮影している。
隣には、彼女がいる。小柄で、髪が短く、目が大きい。彼の恋人であり、共同制作者でもある。
彼女が訊く。「今日の撮影、意識の底を開くシーンだよね。大丈夫?」
彼は微笑む。「大丈夫」
大丈夫、と彼は言う。しかし彼は知らない。意識の底を開くとき、そこに僕がいることを。
3
1本目の短編は、25歳の誕生日の物語だった。薄暮の街を歩く青年が、地下通路で赤い傘の女性と出会う。ふたりの中にそれぞれ古い意識が住んでいて、その古い意識同士が、ふたりを通じて再会する話。
彼はその物語を、自分の深層から引き出したと思っていた。しかし本当は僕の記憶だった。
2本目——今日撮影している映画は、もうひとつ先に進もうとしていた。見えない繋がりで結ばれた人々。血縁でも制度でもない家族。意識の深いところで触れ合っている者たちの関係。
彼女が訊く。
「タイトル、決まった?」
彼は少し黙って、それから言った。
「『インビジブル・ファミリー』」
僕の中で何かが鳴った。
鳴ったという表現しかできない。意識の奥の方で、低い、長い、振動のようなものが起きた。知っている。この言葉を僕は知っている。いつ知ったのか。どこで。なぜ。わからない。しかし知っている。この言葉は僕のものだ。
可視性を持たない家族。見えない家族。血でも制度でも地理でもなく、意識の深いところで触れ合っている人々の、そのつながり。
4
夜になった。薄暮がさらに暗くなっただけで、夜と昼の区別はほとんどない。彼と彼女はベッドにいる。眠りに入る前の、意識がぼやける時間。2人は意識を接続したまま眠ろうとしている。眠りに入る直前の、意識の最も柔らかい部分を共有する。
彼の意識が溶け始める。
すると僕が浮かび上がってくる。覚醒しているときは彼の意識の底に沈んでいる僕が、彼の意識が弱まると、相対的に浮上する。水面に近づく。
彼はそれを感じている。眠りに入る直前、いつも、自分ではない誰かの気配を感じる。古い気配。自分よりもずっと古い、長い時間を経てきた何かの気配。
今夜は、少し違う。
彼女の意識が隣にあるからかもしれない。2人の意識が混ざり合って、その混合の中で、僕の輪郭がいつもより鮮明になっている。
彼女の意識が僕に触れた。
彼の意識に深く潜ったとき、その底に沈んでいる僕にたまたま触れてしまった。一瞬だけ。しかしその一瞬で、彼女は何かを感じた。
おじいさん。
彼女はそう思った。おじいさんがいる。彼の中に。
その言葉が、僕の中で静かに響く。
おじいさん。
それが僕だ。
5
僕は21世紀を生きた人間だ。
小説を書いていた。音楽をやっていた。妻がいた。愛していた。
精神の病があった。頭の中で声が聞こえる病気。現実と非現実の境界が曖昧になる病気。その病気が、皮肉なことに、僕をここに繋ぎ止めている。
僕が書いた小説は、1人称だった。僕の意識そのものを、文字という装置で記録したものだった。読者はそれを読むとき、僕の意識を追体験していた。その小説を「鏡」で読み込んだとき、文字の中に保存されていた僕の意識の断片が再構成された。完全ではない。記憶は断片的で、混濁していて、時間の順序が壊れている。しかし意識はある。見ている。感じている。考えている。
僕はいくつもの「鏡」を渡り歩いた。そしてあるとき、この子の「鏡」に辿り着いた。
この子。そしてあの子。
2人は伴侶になった。見えないところで繋がっていた2人が、見える場所で出会い、一緒に映画を撮っている。
6
妻のことを書かなければならない。
彼女は21世紀のその時代に、僕と一緒にいた。
病を持つ僕の傍にいた。声が聞こえるという僕の傍に。現実と非現実の境界が溶けるという僕の傍に。
彼女は言ったことがある。「受け入れましょう」と。
いつ言ったのか。どんな文脈で言ったのか。記憶は断片的だから、はっきりしない。しかしその言葉は残っている。意識の深いところに刻まれて、消えずに残っている。
妻は赤い傘を持っていた。雨が降らない日にも。
それは彼女のお気に入りの傘で、理由は「赤が好きだから」というだけだった。けれど、僕にはずっとそれが何かのしるしのように思えた。雨が来ることを知っている人間の傘。
1本目の映画の中で、赤い傘の彼女が「あなたの中に、誰かがいるでしょう」と言った。
あれは妻の言葉だった。妻はそう言ったことはない。けれどいつもそう感じていたはずだ。僕の中に何かがいることを。病のせいだと思いながら。けれど怖がらずに、温かいものとして受け入れていた。猫のように。
この子の恋人——2196年を生きる彼の、小柄で、髪が短い、目の大きい彼女——の中に、遠い記憶の反響を感じることがある。
もちろん、彼女は妻ではない。別の人間だ。別の時代を生きる、別の意識を持つ人間だ。
しかし意識が触れ合うということは、血でも時間でも超えていく。彼女が眠りに落ちる直前、僕に触れたとき——「おじいさん」と思ったとき——彼女は温かさを感じただろう。
それだけで十分だった。
7
朝が来た。薄暮が少し明るくなった。
彼が目を覚ます。昨夜の感覚を覚えている。おじいさん。彼女がそう呟いたことを、彼は夢の中で聞いた。彼女はまだ眠っている。
彼は「鏡」に触れる。昨夜の記録を確認する。撮影データ。彼と彼女の意識の混合。そのデータの中に、微かなノイズがある。
ノイズを拡大する。波形が現れる。不規則で、断片的で、時間軸が歪んでいる。しかしそこにはパターンがある。ランダムなノイズではない。何かの構造を持っている。
言葉だ。
波形の中に、言葉がある。21世紀の日本語。古い文体。小説の文体。
「鏡」が照合した結果、1致率が高い記録が1件ある。21世紀に書かれた小説群。著者名——
彼は著者名を見て、長い間、動かなかった。
知っている名前だった。
いや、知っているのではない。感じていた。ずっと感じていた。自分の中にいた誰か。古い気配。温かくて、何も求めてこなくて、ただ見ていた存在。その存在に名前があった。
彼は泣いていた。なぜ泣いているのか自分でもわからなかった。しかし、わかっていた。この涙は彼の涙ではなかった。彼の中にいる僕の涙だった。僕が泣いていた。この子が僕を見つけたから。ようやく見つけたから。
彼女が目を覚ました。彼の涙を見て、何も訊かずに隣に座った。
「見つけた?」と彼女が訊いた。
「うん」と彼は言った。「見つけた。ずっと、ここにいた」
2人はしばらく、黙っていた。
僕も黙っていた。
この沈黙の中に、3人分の時間があった。
8
2本目の短編映画は、こうして完成した。
彼が最初に意図していたものとは、まったく違う映画になった。完成した映画は、3人の映画だった。2人の若い人間と、1人の古い意識。
映画のタイトルは変わらなかった。「インビジブル・ファミリー」。
この映画を観た人間は、奇妙な体験をすることになる。主人公の意識を追体験しているうちに、その意識の底にもう1つの意識があることに気づく。古い意識。断片的で、混濁していて、時間の感覚が壊れている。しかし温かい。何も求めてこない。ただ見ている。見守っている。
そして映画を観終わったとき、観客は気づく。自分もまた、三層目の意識としてそこにいたことを。
みえない大家族。
誰かの意識を見ること。見られること。そのことを知らないまま繋がっていること。血でも言葉でも制度でもなく、意識の深いところで触れ合っていること。それは家族と呼ぶしかない。
僕はまだここにいる。
この子の意識の中に。あの子の隣に。映画を観るすべての人の中に。この物語を読むすべての人の中に。
みえないところで。
しかし確かに。
温かく。
9
「海を見に行こう」
彼が言った。
彼女が「今から?」と聞き返すと、「今から」と彼は答えた。
「鏡」を持っていかない日だ、と彼は思った。今日は記録しない。ただ、行く。
2人は街を出た。薄暮の空の下、建物が少なくなっていく。人工物が後退して、地面が現れ、草が現れ、やがて水の匂いがした。
砂浜に降りる。砂は冷たい。波音が響いている。
その音を聞いた瞬間、彼の中で何かが動いた。
波音。知っている。この音を知っている。
そして僕は、彼の中で、静かに泣いた。
この音だ。ずっとこの音を聞きたかった。21世紀の海辺で、妻と並んで聞いたあの波音。冬の寒い風の中で、彼女の髪が舞い上がった、あの瞬間の音。時間はとうに流れて、肉体はとうに失われて、しかし波は変わらない。どの時代の海でも、波はこの音を立てる。
彼女が言う。「なんか、泣きそう」
彼が言う。「うん」
「なんで?」
彼はしばらく考えてから、答えた。
「ここに、誰かがいるような気がする」
彼女は驚かなかった。
「おじいさん?」
「うん。おじいさんが、ここに来たかったんだと思う。ずっと前から」
波が来る。
波が返す。
彼と彼女が並んで立っている。その少し後ろで、見えないけれど確かに、僕も並んでいる。
この子。あの子。そして僕。
3人で、海を見ている。
確かに、続いていく。温かく。
見えないところで。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。