第2話 ビブリオバトル
東京都の多摩地方一帯は『学園都市』と認定されており、大小さまざまな学校が集う、学生の街としてにぎわっている。その中でも南多摩に位置する多摩市は、多摩丘陵の自然の豊かさと商業施設が立ち並ぶ利便性のよさで、ファミリー層を中心に栄えてきた。
多摩地方を『学園都市』として発展させようと様々な政策を目論んだ国の方針はいくらか当たり、もうすぐ二十二世紀が訪れるとされる昨今、子どもや若者たちは二十三区外のこの地域に集中するようになり、教育関係者や教職の大人たちを入れて、独自のコミュニティを築き上げた。
学校は小中高、そして大学まであるエスカレーター式の私立校がほとんどの割合を占めるようになり、公立校でも中高一貫の制度は普及した。『学園都市』に住めるのは大学生までであり、卒業後、教育関係の仕事に就かない者は二十三区の『大人都市』に移り住む将来設計になる。『学園都市』とは対照的に、数多の企業が建立する二十三区は、ビジネス街として有名である。
奈桜たちは限られた時間を、この恵まれた空間で過ごす。それはすべての子どもに約束されたことではないから、その分、自分は一生懸命にフィンを育てるのだと、元々の生真面目な性格から奈桜は思った。
いつものように学生寮から学園までの緩やかな坂道を上り、フィン二人と戯れながら玄関ホールへ入る。
下駄箱で、ローファーから上履きに履き替えようとしたところ、違和感に気づいた奈桜はすぐに中を開けて、置かれている一枚の便せんを発見した。
『何だ、何だ?』
フィンのデスが奈桜の頭にくっついて、興味深く封筒を覗き込む。
「……果たし状?」
奈桜はきょとんとした。
今どき何とも古風な、紙の封筒に入れられた宛名には「月山奈桜 宛」と書かれており、中を覗くとそこには自分への決闘の申し入れが記されていた。
「うーん、時代を感じる」
奈桜は封筒の裏側を見る。差出人はきちんと書かれていて、場所の指定も我が校の正式なステージ場だった。相手はいたずらでも何でもなく、真剣に自分と戦いたいようだ。
『どうする、俺を使うか?』
『私でも相手になるよー』
デスとアリスは二人そろって楽しそうに奈桜に提案する。二人とも強い『フィン』のため、向かう敵には未知への恐怖というよりは楽しみを感じるタイプだ。
「まあ、とりあえず会ってみよう」
奈桜はそう結論づけると、フィン二人を連れて特に警戒もせず、指示された場所へ移動した。
相手は先に待っていた。男子だ。筆跡から見て女子ではないだろうと推論していたが、奈桜の予想通りに相手のフィンは周りの子よりもサイズが大きく、強そうなオーラを放っていた。
彼のそばに浮かんでいるフィンは、六角形の星の形をした、アイテムタイプだった。これは特に会話らしい会話はできないが、その分使い手の命令に絶対服従で、忠実に宿主の指示を汲んでくれる、大変便利なフィンである。キャラクタータイプやアニマルタイプと違い、肌身離さず持ち歩けるスマホと似た感覚で使役できるのだ。
もしかしたら強敵かもしれないと奈桜は密かに背筋を正す。デスとアリスも武者震いのように楽しそうな瞳に変わった。最近、連勝が続いていて、心は少しばかり緩んでいたのだ。これくらいの張り合いがなければ、学園生活はつまらない。
「月山奈桜だな?」
男子生徒は鋭い目つきでこちらを見据えた。しかし顔立ちは柔らかく、どこか可愛らしい面影を残しているため、迫力には欠けていた。一瞬年下かと思われたが、ネクタイの色を見て上級生だったことが判明し、奈桜は礼儀として敬語を使う。
「そうです。そういうあなたは?」
「鈴ヶ丘朋。高等科の二年だ」
中等科と高等科では男女共有のネクタイの色が分かれている。さらに学園を表す校章マークがシャツの襟の部分に印字されている。よって彼が何歳なのかもすぐにわかるのだが、名前と学年を名乗るのはマナーのうちだ。
「果たし状を送ったのは俺だ。宣言する。今度の『ビブリオバトル』で、俺はお前のフィンを倒す」
男子はかなり自信があるらしい。奈桜のフィン二人を見て、どこか余裕を持ったように目を光らせる。
奈桜は男子をもう一度よく観察した。
濃い茶髪の髪と、同じく焦げ茶の瞳はしなやかで強い光を湛えており、勝気そうに瞬いていた。じっとしていれば大人しく机に座って勉学に励むような風情があるのに、強いオーラを放つ目と口調から出てくる強気な台詞は、年頃の男子高校生に違わない、熱い負けん気を感じさせた。
クールな性質の奈桜とは、およそ対照的である。
「よろしくお願いします。私も本気でお相手させていただきます」
奈桜は殊勝に頭を下げた。対戦相手にはどの人にも同じように、軽く頭を下げて宣戦布告をするのが奈桜にとってのスポーツマンシップだった。
相手もそれはわかっているのか、「油断するなよ! 女だからって手抜いたりしないからな!」とまた時代がかった言葉をぶつけ、以降はさっと踵を返して奈桜から遠ざかった。
校舎へ戻っていく男子に、フィンたちが『あいつの時代感覚、一昔前だなー』『果たし状の時点で紙文化の人かもー』と好き放題にジャッジし始める。
どうするの、という風に視線を走らせるフィン二人に、奈桜ははっきりと返す。
「売られた勝負は買わないと。フィンを持った者としての矜持だから」
デスとアリスは喜んで奈桜の周りを飛び回る。『そうこなくっちゃ!』『久しぶりのバトル、楽しみー』彼らは無邪気にはしゃいでさっそく己の技量が鈍っていないか、その場で練習を始めた。
「『ストーリーテラー』は、フィンを強くするのが使命だからね」
奈桜の言葉に、フィン二人は応えるように空中でくるんと一回転した。
??
『ビブリオバトル』は己のフィン同士を戦わせ、競わせる一種の格闘ゲームである。
格闘技といっても、子ども同士で行われるそれには血なまぐさい展開はご法度とされる。ルールは至極シンプルで、互いの『フィン』が使う『チカラ』をぶつけ合わせ、最後まで体力の残った者の勝利となる。
フィンが負ったダメージは使い手には響かない。子どもたちはあくまでゲーム会場の場において勝つか負けるかを競うのであり、生身の体は傷つけられない。そうならないよう企画側が厳しく統制しているし、審査のジャッジも非常に厳しい。ゲームや試合には確固としたスポーツマンシップが必要なのと同義である。
『桜ノ学園』の試合会場は体育館を貸し切って行われる。時期的に体育会系の部活動が休みに入る期間が設けられており、その折に『ビブリオバトル』は開催される。『フィン』を使役するのに十分な訓練を積んだ、一部の実力者たちのみが挑戦できる、選ばれた試合だ。上級生たちがひしめき合う中、中等科三年生の奈桜が会場に上がれるのは、まさにエリート中のエリートと言えた。
体育館には『ビブリオバトル』専用のトーナメント・ボードが敷かれていた。生徒たちはボードの範囲内でフィンを使役せねばならず、線の場外に出ると失格となる。ボード内には遠赤外線で組まれたロープが張られ、さながらボクシングの試合のリングのように、存在感をあらわに囲い込む。
前回の試合の優勝者である奈桜は、防衛戦としての出場だった。
試合を挑んだ鈴ヶ丘朋がリングに上がってくる。
二人は相対した。
審判であり、司会者である『ビブリオバトル』専門のフィンの指導者が、それぞれにマイクを向ける。
「月山選手、意気込みのほどは!?」
「必ず勝ちます」
司会者は鈴ヶ丘朋にも同じようにマイクを向け、「こちらも本気で勝ちに行きます」と彼からの挑戦を受け取り、互いのボディーデェックを済ませる。不正が働いていないか確認すると、もう一度二人に向き直り、選手宣誓を促す。
「宣誓。私たちはスポーツマンシップに則り、正々堂々と戦い抜くことを誓います」
奈桜たちはそろって手を掲げ誓い合い、それぞれ応援に来ていた他の生徒たちに手を振ったり、アピールタイムを作る。
「中等科三年生、月山奈桜さん。フィンを二人生み出した稀有な才能の持ち主です。さて、今年五度目の防衛戦、月山さんは優勝者の座を守れるでしょうか!?
一方、対するは高等科二年生の鈴ヶ丘朋くん。日々たゆまぬ努力を惜しまぬ高校のエース的存在、その優れた使い手としてのセンスは、確実に我が校の期待の星となってくれるでしょう。
第五回『ビブリオバトル』、いよいよ試合開始です!」
場外からは奈桜の友人たちがいろいろな声援を送り、力を鼓舞してくれる。相手の陣地からも男女入り混じった力強いエールが聞こえる。ファンの数はちょうど同じくらいか。
奈桜と鈴ヶ丘朋の視線が、バチッとぶつかり合う。
二人の目は、どちらも選手としての本気に満ちていた。
戦いのゴングが鳴る。
二人の間の空気が一変する。
フィンの使い手としての、プライドをかけた格闘ゲームだ。これは試合である。
鈴ヶ丘朋のフィンが天高く跳躍する。
アイテムタイプのフィンは、奈桜のフィン二人と違い、会話を通した意思疎通ができない。その代わり、使い手の命令には絶対服従をし、ロボットと同じかそれ以上の正確さで仕事をこなしてくれる。
鈴ヶ丘朋が己のフィンを「エトワレ・ロゼ!」と呼んだ。それがあの星形のフィンの名前なのだろう。
エトワレは、フランス語で「星」。
ロゼも、フランス語で「バラ」だ。
黄色い星と、バラが小道具として出てきたフランスの児童書とは、何か。
奈桜は頭の中で思考を働かせる。
「ロゼ、先手必勝だ! まずは目くらましを!」
鈴ヶ丘朋のフィンはピカリと発光し、黄色い光を辺り一面に瞬かせる。それは一瞬にして霧状の勢いとなって奈桜の視界を奪った。スモークがたかれているのと同じような状況になったのだ。
フィンが次の攻撃へと移る前に、奈桜はアリスに命じる。
「アリス、『鏡』を」
『はーい!』
アリスは女子が手に持ちそうな洒落た手鏡をパッと出す。その鏡面を、相手のフィンが散らせた霧の光にサッと当てた。
霧が、次第に晴れていく。
アリスの『チカラ』は他にも多様な攻撃を使い分けるが、その中の一つである『鏡写し』を奈桜は命じた。相手の攻撃を、そのまま逆転させて相手に返す技である。オウム返しと同じ効果を持つ。
視界がクリアになったと同時に、相手のフィンから赤い花が嵐のようにまき散らされた。
まるで意思を持ったようにこちらを覆い尽くさんと吹きすさぶ花びらの大群。
(バラの花――?)
体に花びらが勢いよく当たって痛い。一枚、気合で手掴みをし、普通のバラよりもずっと固い感触に驚いた。これはフィンの作る、攻撃専用のバラだ。
奈桜はアリスに再び『鏡写し』を命じた。
バラの花が奈桜から潮が引くように離れていき、鈴ヶ丘朋の方に飛び掛かってくるが、彼に命じられたフィンが再度、黄色い光の霧を放ち、バラの花の攻撃を相殺させた。
「――わかった。あなたのフィン」
奈桜は確信を持ち、鈴ヶ丘朋に言い放つ。
「『星の王子さま』から創り出したのね。星に不時着した飛行士の主人公は、たった一人でその星に住んでいる王子さまと出会い、交流が生まれる。バラは、王子さまの大切なパートナー。最後はバラのもとへ魂だけの状態で帰っていく。
――奥の手には、『バオバブの木』がありそうね」
フィンの正体を当てられた鈴ヶ丘朋は、特に悔しがる素振りも見せず、冷静に言葉を返す。
「そっちのアリスも、なかなかやるな。誰もが知ってる古典文学をフィンにすると、すぐに正体を見破られるから不利だろうと思ってたが、それを補う実力がありそうだ」
双方、相手の出方を見る。
試合は始まったばかりである。
先に動いたのは奈桜だった。
アリスを前方に行かせ、トランプのカードを出させる。
アリスの武器、『女王のカード』だ。
見た目はゲームに使われるトランプカードそのものだが、アリスの手にかかれば、それは立派な必殺技になる。
アリスの手にした『女王のカード』は、全部が赤色のエースだ。「A」と書かれた真っ赤なハートのマークがずらりと鈴ヶ丘朋のフィンの前に並ぶ。
「トランプのゲームをそのまま攻撃の戦術として使うわけだな。いろいろバリエーションがありそうだ」
彼は、相手にとって不足なしといった不敵な笑みを浮かべ、ロゼに指示を与える。
「ロゼ、守りに入るな、攻めろ!」
「アリスちゃん、『Aの一手』!」
カードが両サイドからロゼに向かって鋭く飛んでいく。
ロゼのくり出す『バラの花』が応戦し、アリスのカード攻撃を受け止めている。
ドガガガ、と地面を掘るような衝突音が響き、観客のみんなは思わず耳を塞いだほどだった。
アリスの『女王のカード』と、ロゼの『バラの花』。
奇しくも、同じ真っ赤な色のぶつかり合いが長時間にわたって続いた。
少しずつ、アリスが押されていると奈桜は気がついた。
アリスのフィンとしての体力は上々だが、最強と呼べるほどの胆力はまだ備わっていなかった。普段元気に動き回るアリスは、少々疲れを見せ始めている。
まずいな、と思った矢先にアリスとロゼの力比べは勝敗がついた。
ロゼの体力勝ちである。
大きな放物線を描き、カードは四方八方に散らばった。
跳ね返したロゼはさらに『バラの花』をアリスめがけて撃ち出し、「きゃんっ」と悲鳴を上げてアリスは後方へ弾き飛ばされてしまった。
アリスが負けた。
奈桜はすぐに次の方法を考える。彼のフィンは相当な強さだ。今までアリスの『女王のカード』を軽々と跳ね返したものはいなかったのに、アイテムタイプのフィンのためか、物理的な攻撃はあちらの方が一枚上手だと感じた。
鈴ヶ丘朋の次の指示が飛ぶ。ロゼが使い手の命に応じ、瞬間、ふっと姿を消した。
テレポートの類の技だろうか。しかし数秒間、姿かたちを見せず、焦れたところでロゼの六角形の星形が眼前に現れた。
空間の移動だ。このフィンはやはり物理的な『チカラ』に長けているのだろう。
とっさにデスに指示を出し、ロゼからの攻撃を防ごうとする。
デスの鎌と、ロゼからくり出される強い光が今度はぶつかり合った。
ここも根競べとなっては意味がない。先ほどのアリスの二の舞だろう。体力はロゼの方が上回っているに違いない。
早めに決着をつけたい。
ロゼとデスの力比べから、奈桜はデスをいったん下がらせた。両者ともににらみ合い、ロゼが小刻みに震え始める。
ぐぐぐ、とロゼの星形が徐々に大きくなってきた。一回り、二回りと一刻ごとに光の強度も強くなっていく。
相手は次の一手で決めるつもりだ。
奈桜はそう感づいた。
それならば。
こちらも「必殺技」を出す。
「デスくん、出番よ!」
『ほい来たー!』
奈桜の声とともにデスが応じる。
アリスの体が、淡い光に包まれていく。
フィンの連携攻撃だと、相手はすぐに気づいたようだった。
「お前……、そんな技まで使えるやつだったのか」
鈴ヶ丘朋の表情は驚愕に満ちていた。
一人の子どもにつき一人のフィンを生み出すのが前提である『ストーリーテラー』の世界では、奈桜のような子どもはまれである。おまけにフィン同士を結託させて『チカラ』を増幅させる芸当は、この学園ではまずお目にかかれない。
フィンを使役するのは、本来とても難しいのだ。
フィンは、子どもの「創造性」から来ている。
創造性は、想像力と、それを形として仕上げる胆力、自分自身の想像を信じる純粋さなど、ありとあらゆる要素が必要となる。幼少期に夢中で絵を描いていた頃のまま、成長期を過ごすのは至難の業だ。よってフィンをなかなか生み出せない生徒もいる。そしてフィンを使役するには、フィンときちんとした意思疎通をし、自分は使い手に値する子どもなのだということをフィンに示さなければならない。フィンは一筋縄ではいかない存在なのだ。
アリスの発光に合わせて、デスの体がたちまち大きくなっていく。
あっという間に、デスは人間の大人の大きさにまで成長した。
その手に掲げるのは、死者を黄泉の国へ連れていく大きな鎌。
灰色に光る刃先が、ロゼに向かって勢いよく振り下ろされていく。
ロゼの『チカラ』が真っ二つに裂かれる音。
ロゼが力尽きたのがわかった。『チカラ』を奪われたフィンは倒れ、次に回復するまでには多大な時間が必要とされる。
ふらふらとリングの床に倒れるロゼ。鈴ヶ丘朋は呆気にとられた顔で、大きくなったデスの立派な鎌をまじまじと見ていた。
試合終了のゴングが鳴った。
「勝者は、月山奈桜!」
司会者の明瞭とした声がマイクを通して会場中に響き渡る。
わあっ、と奈桜のファンたちの歓声が沸き、『ビブリオバトル』はまたしても奈桜の勝利で幕を閉じた。
??
結果として、奈桜は勝った。
しかし、勝利のトロフィーをもらい、司会者のインタビューに答えている間も、奈桜の心には「何とかギリギリで勝てただけ」という現実がのしかかっていた。
鈴ヶ丘朋。
かなりの強敵だ。
彼のフィンは、とても強かった。まさかアリスだけでなく、『オリジナル・フィン』であるデスまで使役しなければならなくなるなど、ここ最近のバトルではご無沙汰だったことだ。
場外では、己のフィンを倒された鈴ヶ丘朋が悔しそうな表情でこちらを見上げているが、その瞳には、次の試合への勝ち筋を見つけたような、確信に満ちた自信の欠片も感じ取られた。
彼は、今度は勝ちに行くつもりだ。
奈桜は警戒心を募らせ、なるべくあちらの方を見ないように、視線をそらした。
試合終了後、奈桜は取り巻きたちに囲まれ、それぞれに「応援ありがとう」と感謝を述べながら、疲れた体を引きずるように帰路につく。
今日はひどく疲れた。
とても緊張感のある試合だった。
それはそれで本来の『ビブリオバトル』らしいのだが、最近気持ちがたるんでいたのかもしれない。己を律するつもりで、これからはより一層のフィンの鍛錬を積まなければ。
「デスくん、アリス、今日はお疲れ様。これからたくさん特訓しなきゃね」
努めて明るく話しかける奈桜に、フィン二人も気持ちを察してくれたように微笑む。
『あいつ、強かったなー』
『私、久しぶりにワクワクしちゃった!』
二人がはしゃいでくれるので、奈桜の心も元気づいていく。
強敵の出現にざわついていた心境は、少しだけ穏やかに凪いだ。
早く女子寮に帰って、昼寝したいな。
久しぶりに、体を休めたいと思った。
異変に気づいたのは、学生寮へ向かうはずの道が奇妙な異質さを伴う空気に変わった時だった。
――何だろう、おかしいな?
初め、奈桜はいつも通りの通学路の何がおかしいのか、感じ取れずにいた。だが、周りの景色も何一つ日常のものと変わりないのに、まとう空間の何かがひどくずれているように感じたのだ。
不気味に思っているうちに、次第に今歩いているこの道がおかしいと思い始めた。
学生寮に、たどり着けない。
まるで都市伝説に出てくる迷路のように、まったく同じはずの道が異質な空間に変わり果てていたのだった。
歩いても、歩いても、自分の住む寮が見えるどころか面影すら見せない。
――何かを仕掛けられている。
「――誰なの? こんなことをするのは」
まさか、先ほど戦ったライバルの鈴ヶ丘朋だろうかと一瞬疑ったが、彼の勝気だが正直な性格から、こんな姑息な手段に出るとは考えにくい。相手の正体がわからず、奈桜は混乱するばかりだ。
周囲に人がいなくなっていることにも、気づき始めていた。
用意周到に、自分は一人にされている。
「デスくん、アリス、そこにいる?」
『いるぜ』
『奈桜ちゃん、大丈夫?』
二人の声も緊張気味に高まっている。フィンは使い手から離れることはないので、完全に孤独ではないと知り、奈桜は心中でほっとする。
それでも、ひんやりとしたうすら寒い肌触りが、奈桜を不安にさせていく。
『ビブリオバトル』で思う存分に戦った後ゆえに、体と根気は少々疲れていた。
――スゥ、と空気の一滴が肌に当たったような気がした。
変化を敏感に感じ取り、奈桜はフィンをそばに着かせてその一点を見つめる。
見えたのは、一台の地味な色の乗用車。
そのそばから、まるで幽霊のような実体のない足取りで、見覚えのない大人の男たちがこちらに近寄っていた。
――この『学園都市』に、どうやって部外者が?
子どもと若者、そして教職に就く大人のみが住まう『学園都市』のセキュリティーは「堅牢な城」と外部に称されるほど厳しいチェックがかかる。警備AIが常駐している『門』は許可証がないと入れず、そのチェックもかなり厳重だ。まず、素人が簡単に破れるようなものではない。
奈桜はヒヤリとした悪寒を感じた。
――何者かが、潜入しているのだ。この街に。
すぐにスマホを介して警備AIに連絡を入れようとした手は、止まった。
思わず、そこ《、、》を凝視する。
男たちがいたはずの場所には、何者もなかった。
(――どこへ?)
意識が散らばらないように目をしっかりと開き、辺りを見渡す。
しかし、残像が一瞬のうちに消えてなくなり、またすぐに現れたかのように、男たちの姿が再び奈桜に向かって迫ってきたのだ。
スマホを取り出す間もなく、不気味なスピードで近づかれる。
(こいつらは、一体何?)
奈桜の顔に冷や汗が浮かぶ。
男たちは、まるで何かに取り憑かれているかのように一瞬で奈桜のパーソナルスペースに入ってきた。
逃げようにもここは空間ごと遮断されている。明らかに自分一人を狙った犯行だ。
奈桜はフィンを使おうと、彼らの名を叫ぼうとした。
しかし、男たちの行動の方が早かった。
奈桜の口は、男たちの振りかざしたスプレー缶のようなもので塞がれてしまった。
鼻まで覆われた噴出口から奇妙な臭いの空気を嗅がされる。霧吹きを顔面に浴びせられたかのような水滴が鼻腔から口内に注がれ、動揺している間に意識が遠くなっていく。
催眠スプレーだ。
抵抗する術は失われ、体から力がなくなっていく。男の一人がそのまま奈桜を担ぎ上げると、近くに停まらせてある乗用車の後部座席に押し込んでしまった。
声さえ出せない意識下で、デスとアリスが一緒に捕らえられているのがわかり、心が痛む。ドジを踏んでごめんねと言ってあげたくなった。
重たくなる瞼が完全に閉じる間際、見知った顔を見た気がした。
同じ学校の制服の男子、焦げ茶の髪色、彼は驚愕に満ちた表情で、何かを叫んでいるように自動車を追いかけようとするが、思い直して自らのフィンをさっと車の奥に忍ばせる。
(鈴ヶ丘先輩……)
今のは、幻だろうか。自分の勘違いだろうか。
確かめる余裕はなく、重くなって動けない体を指先一本思うようにできない己の非力さを悔しく思った。
確認できた状況は、それだけだった。
??
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。