第2部
男は赤ん坊を抱いていた。
生まれたばかりだ。毛布から出た手が、人差し指を握っている。
男は泣いていた。
正面のモニターの数字が、八十七から八十九になった。
「何ですか、あれ」母親が尋ねた。
「幸福指数です」
技師が答えた。
「幸せが、数字で?」
「彼については」
母親は黙ってモニターを見た。
男が赤ん坊の手を妻に見せている。何か言った。妻が笑った。笑い返した。
「音は?」母親が聞く。
「必要でしたら」
「聞かせてください」
技師が端末に触れた。
「小さいなあ」
男の声がした。
それだけだった。
母親の右手が、ダイヤルから離れた。
「先生」
「はい」
「この人ですよね」
隣の弁護士に訊いた。
「はい?」
「娘を殺した人」
「はい」
母親は赤ん坊を抱く男を見た。
「幸せそうですね」
弁護士は答えなかった。
机の中央には、銀色のダイヤルが一つあった。
中央に白い線。右側が赤、左側が青。
「足りないと思われた場合は右です」
技師が言った。
「何が?」
「刑罰です」
「左は?」
「過剰だと思われた場合です」
「死刑より軽くする?」
「そう考えていただいて構いません」
母親は笑った。
「死刑より重い刑もあるんですか」
誰も答えなかった。
「死んだら終わりなのに」
*
男は娘を育てた。
仮想世界では、時間だけがひどく速かった。
三歳。
五歳。
六歳。
娘の入学式の日、幸福指数は九十四になった。
父親と手をつないで校門の前に立っていた。ランドセルの方が娘より大きく見えた。
運動会では転んだ。
男は立ち上がった。
「頑張れ」
娘は泣きながら走った。
最下位だった。
それでもゴールした。父親の所には来なかった。
九十六。
「右にしてください」
母親が言った。
「ご自身で操作してください」
「私が?」
「そのための制度です」
母親はダイヤルを一目盛り右へ回した。
「何ですか」
「いえ」
「止めた方がいい?」
「それを私が決めることはできません」
「便利ですね」母親の声のトーンがやや硬い。
「何がですか」
「弁護士って」
弁護士は答えなかった。
「私も今日は便利ですよね」母親は自嘲ぎみに言う。
「……」
「被害者遺族だから」
母親はダイヤルから手を離した。
「どこまで回しても、悲しいから仕方ないって言ってもらえる」
*
十七歳になると、娘は父親を嫌った。
一緒に歩きたくないと言った。
洗濯物を別にしてくれと言った。
男が学校のことを訊くだけで、うるさいと言った。
幸福指数は六十台まで落ちた。
「随分下がりましたね」
「一時的な変動です」
「戻りますか」
「分かりません」
母親は少し考えた。
「もっと幸せにしてください」
弁護士がこちらを向いた。
「いいんですか」
「何が」
「あなたは刑罰を重くしたいんでしょう」
「だからです」
母親は言った。
「もっと幸せだった方が、なくしたものが多いでしょう」
弁護士は何も言えなかった。
二十三歳。娘も社会人三年目である。
男性を家に連れてきた。
男は不機嫌だった。
妻が笑った。
娘が怒った。
夕食の終わりには四人とも笑っていた。
その夜、寝室で男が言った。
「嫁に行くのかな」
「行くでしょうね」
「嫌だな」
「馬鹿ね」
妻が笑った。
幸福指数は九十八。
「もうかなり高い」
弁護士が言った。
「百は?」
母親が訊いた。
「ありません」
技師が答えた。
「どうして」
「将来への期待が幸福反応に含まれるからです。明日がある限り、完全な値にはなりません」
「じゃあ」
母親はダイヤルを右へ回した。
「もう少し」
*
その日、
娘は帰ってこなかった。
午後十一時。
男が電話した。
出なかった。
十一時半。
もう一度。
出なかった。
妻が警察へ電話した。
男は大丈夫だと言った。
二十三だぞ、と妻に言った。
子供じゃないんだから。
午前一時。
男は玄関に座った。
午前三時。
娘へ電話した。
朝になった。
コーヒーを淹れた。
飲まなかった。
午前九時過ぎ、
電話が鳴った。
「はい」
男の顔が変わった。
「娘ですか」
立ち上がった。
「娘なんですね」
妻も立ち上がった。
「生きてますよね」
母親の手がダイヤルの上で止まった。
「生きてるんですよね」
「止めて」
世界が停止した。
男の口が半分開いたまま止まっている。
「どうしました」
母親は画面を見なかった。
「この先は知ってます」
弁護士が母親を見る。
「私も、こういう電話でした」
*
娘の匂いの部屋は、そのまま残った。
読みかけの本。
化粧水。
片方だけ落ちたイヤリング。
冷蔵庫には娘の買った飲み物が一本あった。
賞味期限が切れた。
男は捨てなかった。
犯人が逮捕された。
裁判が始まった。
男は毎回傍聴した。
娘を殺した若い男の後頭部を、何時間も見ていた。
なぜ生きている。
娘は死んでいる。
こいつは生きている。
昼になれば飯を食う。
夜になれば眠る。
夢だって見る。
おかしい。
何かが、決定的におかしい。
検察官が死刑を求めた。
男は俯いた。
両手を組んでいた。
祈っているように見えた。
判決の日。
死刑。
男は何も言わなかった。
家へ帰った。
娘の部屋のドアを開けた。
ベッドに座った。
その晩、
男は朝まで眠った。
「止めて」
母親が言った。
画面が静止した。
「先生」
「はい」
「私も眠れたんです」
「いつです」
「判決の日」
母親は眠っている男を見ていた。
「十年ぶりでした」
弁護士は何も言わなかった。
「人が死ぬって決まったのにね」
「……」
「よく眠れました」
しばらくして母親は言った。
「この人も同じなんですね」
それから小さく、
「同じ顔してる」
と言った。
*
仮想世界で二十年が過ぎた。
妻が先に死んだ。
男は一人になった。
娘の部屋だけは最後まで片づけなかった。
ある春の日、
男は故郷へ帰った。
小さな駅。
古い家。
庭には一本の木が残っていた。
草が伸びていた。
男はその上に寝転がった。
どこかから古い歌が聞こえた。
子供のころ、父親が車でよく流していた歌だった。
男は目を閉じた。
「お父さん」
目を開けた。
娘が立っていた。
二十三歳のままだった。
「遅いよ」
男は起き上がった。
「お前」
「帰ろう」
娘が言った。
男は泣いた。
「ごめんな」
「何が?」
「守れなくて」
娘は答えなかった。
ただ手を出した。
「帰ろう」
男はその手を握った。
幸福指数は九十九になった。
母親がダイヤルを握った。
「今ですか」
弁護士が訊いた。
「はい」
「最も幸福だから?」
「違います」
「では」
「もう十分だから」
「刑罰が?」
母親は首を振った。
「この人が」
男は娘と並んで歩いている。
「もう十分、娘のお父さんをやったから」
ダイヤルを回した。
*
風が消えた。
木が消えた。
家が消えた。
緑が消えた。
最後に、
娘が消えた。
*
男が目を開けた。
灰色の天井だった。
しばらく動かなかった。
自分の手を見た。
裏返した。
もう一度見た。
「娘は?」
刑務官が立っていた。
弁護士もいた。
「娘はどこです」
「あなたに娘はいません」
男が笑った。
「何言ってるんです」
「仮想執行は終了しました」
「妻は」
「いません」
「家は」
「ありません」
「じゃあ、娘は?」
「存在しません」
男の笑顔が消えた。
「娘を殺した男は」
「存在しません」
「裁判は」
「ありません」
「死刑判決は?」
「ありません」
「じゃあ」
男は弁護士を見た。
「俺が、あいつ死ねばいいって思ったのも?」
「仮想世界での経験です」
「判決が出て眠れたのも」
「そうです」
「娘の部屋も」
「はい」
「冷蔵庫のジュースも」
「はい」
男は俯いた。
音楽だけが流れていた。
古い歌。
故郷の緑を歌った曲だった。
男はしばらく聴いた。
「この歌」
「知っているんですか」
「親父が好きだった」
沈黙した。
「先生」
「はい」
「俺が殺した人のお母さんも」
男は言った。
「俺に死刑になってほしかったですか」
「はい」
「俺が死ぬって決まった晩」
そこで言葉を切った。
「眠れました?」
弁護士は答えなかった。
スピーカーから声がした。
「眠れたよ」
男が顔を上げた。
「十年ぶりに」
母親の声だった。
「あなたが死ぬって決まったから」
男は目を閉じた。
長い間、
誰も話さなかった。
「そうか」
男が言った。
それから、
「俺より」
声が止まった。
「何がです」
「俺が娘にしたかったこと」
「……」
「あなたもしたかったんですね」
母親は、
「今でも」
と言った。
男は頷いた。
「そうですよね」
沈黙した。
「もっとか」
呟いた。
刑務官が時計を見た。
「時間です」
男は立った。
扉まで歩いた。
「先生」 振り返った。
「はい」
「俺、変ですか」
「何がです」
「いないって分かってるのに」
「……」
「娘に会いたい」
弁護士は答えなかった。
「会いたいんです」
「はい」
男は笑った。
「よかった」
「何がです」
「それだけは、なくならなかった」
扉が開いた。
二歩進んだ。
男がもう一度振り返った。
「先生」
「はい」
「もし娘が帰ってきたら」
弁護士は黙っていた。
「おかえりって、言ってやってください」
「……はい」
男は向こうへ歩いた。
扉が閉まった。
*
母親はダイヤルから手を離した。
しばらく手のひらを見ていた。
「先生」
「はい」
「私、今、あの人を可哀想だと思いました」
弁護士は答えなかった。
「変でしょう」
「いいえ」
「殺してほしいのに」
「はい」
「今でも」
「はい」
「なのに、可哀想なんです」
弁護士は、
「そうですか」
とだけ言った。
「人間って、面倒ですね」
「そうですね」
母親は立ち上がった。
扉へ向かった。
そこで振り返った。
「先生」
「はい」
「娘を殺したときも、あの人には人権があったんですよね」
「ありました」
「今も」
「あります」
母親はしばらく考えた。
「よく分かりません」
「私もです」
母親は少し驚いた顔をした。
「先生でも?」
「はい」
母親は笑った。
「よかった」
「何がですか」
「先生が分からないなら
扉を開けた。
「私が分からなくてもいい気がします」
*
外は朝だった。
夜のあいだに雨が降ったらしい。
中庭を横切ったところで、
母親は足を止めた。
芝生が濡れていた。
朝の光を受けている。
娘にも、
帰ってくるはずだった夜があった。
あの男にも、
存在しない娘を待つ夜があった。
同じではない。
同じにしてはいけない。
そう思った。
それでも、
男が電話口で言った声だけは、
まだ耳に残っていた。
生きてますよね。
母親は芝生を見た。
死刑が正しいのか、
間違っているのか、
もう考えなかった。
今夜は眠れるだろうかと思った。
眠れたらそれでいいとも思った。
一歩踏み出した。
靴の裏で、
濡れた草が沈んだ。
思っていたより柔らかかった。
母親は振り返らなかった。
草は、 ひどく緑だった。
答えを持たないまま、承認の一票を投じようとしていた。
その一票は、誰かの責任を明らかにするのか。それとも、責任という言葉で、別の誰かの苦痛を覆い隠すのか。
「承認多数」
吉田の声がした。
佐藤が記録に署名した。
中原は最後まで、男の写真から目を離さなかった。
そこにあった事件名は
「会社員男女放火殺人事件」とあった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。