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awake

abejunichi

73,911 字

思索的紀行文学、私小説、ロードムービー

"ハンドルを握り、フリーウェイを走る。それは、世界の果てと、自己の根源へ向かう旅だった。"

2016年作のシリコンバレー新婚旅行小説

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第4章 太古の酒/果てなき道

   *

 僕たちは朝、目覚めると次はどこへ行くのかと話す。サンフランシスコを中心にシリコンバレーをめぐることが旅の目的だった。その続きはどこまで行動半径を広げることができるかにかかっていた。もし季節が夏なら、グランドキャニオンやヨセミテバレーに行って大自然を感じたい。でも宿泊の予約は空港近くの今滞在しているホテルにしてあったし、この場所を中心に行動しなければならない。もちろん旅に慣れることができれば、もっと遠くへ行くことができるだろう。でもまず100kmほど走ってみてから考えようと言う。そしてナパバレーへ向かうことにする。
 ナパバレーはサンフランシスコ・ベイエリアの北部に位置し、ワインの産地として有名だ。カリフォルニアワインとして親しまれているワインのうち、ナパとソノマのワインは格別だろう。
 ナパへ向かうにはルートがふたつある。サンフランシスコからゴールデンゲートブリッジを超えてサンフランシスコ湾の西側を通って北上するか、ベイブリッジを通ってオークランドを超え、サンフランシスコ湾の東側を通って北上するか。
 ベイブリッジを渡るほうが距離的には近い。しかしゴールデンゲートブリッジを渡ろうと思う。
 20世紀建築の記念碑的な橋でもあるゴールデンゲートブリッジは1937年に完成した。サンフランシスコ湾と太平洋が接続するゴールデンゲート海峡に架かっている。サンフランシスコと北にあるマリン郡方面へ抜ける唯一の道だ。霧が多く発生し、橋の途中で前がみえなくなることも考えられる。でもゴールデンゲートブリッジを渡ることが大切だと思う。
 ホテルで朝食を食べるとビートルに乗り、101にのって北上する。昨日よりももっと長い距離を運転しなければならない。ビートルを走らせることにも慣れてきた。でもサンフランシスコ市街を走り、ゴールデンゲートブリッジを渡ることは、今日の最初のチャレンジだ。どこへ向かうにしてもまず勇気が試されている。確かにシリコンバレーへ行き、少しはアメリカの道路にも慣れた。しかしまだ自由にアメリカを旅することができるわけではない。少しずつ経験を積み重ねるしか方法はない。
 101フリーウェイを北上すると、スマートフォンの音声ナビではなく妻にしっかりナビゲートしてもらう。車線をどう変更し分岐に備えるか、細かいナビゲートが必要だ。何より自分たちがその行動半径を広げていくために、妻もカリフォルニアの地理を理解する必要がある。
 ナビゲートに従ってバックミラーとリアミラーを確認しながら、車線変更を繰り返す。
 サンフランシスコの街が近づいてくる。巨大な都市だ。うねるようにフリーウェイが続いている。今日も晴天だ。サンフランシスコは夏は晴天が続くが、冬は雨季だ。青空が広がっているだけでも幸運だ。でも車線変更を間違って、サンフランシスコ市街へ降りてしまう。もちろん市街を通り抜けてもゴールデンゲートブリッジを通ることはできる。でも左ハンドルの車の運転をはじめてまだ3日目なのだ。ミスを悔やみながら、妻になんとか道を教えてくれと言う。
 サンフランシスコは車で走るとそれほど大きな街ではない。でも道をひとつ間違えると、街中をぐるぐるとまわることになる。上り下りの坂が続き、道の端には様々なメーカーの車が駐車している。市内の道は郊外と比べてそれほど広いわけではない。バスやケーブルカーが通っていて、交通は複雑だ。
 なんとかサンフランシスコの街中を正しく通り抜けて、ゴールデンゲートブリッジの入り口にさしかかる。
 赤い巨大な橋が目の前に広がっている。名物の霧は出ていない。橋をわたっている時に、ようやく窓からみえる景色を眺めることができる。
 道の両側に広がる海を超えて走っていく。海の上を走るという表現がしっくりくる。自分たちがまた新しい世界へ行くことができると感じる。ようやく歌を歌う余裕もできる。妻はその橋の美しさを残すために写真を撮影しはじめる。海も空も穏やかだ。赤い巨大な吊橋は美しく、とても安定している。もし橋がなければ、カリフォルニアの北部へ渡ることはとても困難だったろう。ある意味では、橋は世界と世界を結びつけている。もしいつか世界中の海に架かる橋ができたら それはとても素晴らしいものに違いない。あらゆる文化が世界中を繋げている。船や飛行機に乗って自由に行き来することもできる。多くの違いを超えていく橋が今もあって、そして人々は勇気さえあれば、この海を渡っていくことができる。

   *

 ゴールデンゲートブリッジを超えて101を走り続ける。僕たちは巨大な道がどこまでも続いていることに驚く。もちろんそれは荒野に伸びる1本の道をひたすら走り続けるというアメリカのイメージとは違う。車線の多いフリーウェイがどこまでも続いている。そういう風景は新しいアメリカのイメージになっていく。道はどこまでも続いている。その道を多くの車がとてつもないスピードで移動している。こういったフリーウェイやハイウェイを走ることができるドライバーは、時速100km以上の世界に慣れているドライバーだけだ。ゆっくりと走ることは許されない。
 変化が早い世界だ。どこまでも移動することができる世界だ。むしろそうあるべきだと誰かが囁いている。変化のスピードに慣れなければならない。
 でも少しずつ疲れてくる。運転に疲れたのかもしれない。あるいはそのスピードに身体がまだ慣れきっていないせいかもしれない。身体が緊張していて、どこかで緊張を緩めたい。次の道で一度、フリーウェイを降りてみようと妻に言う。
 名前も知らない場所でフリーウェイを降り、ゆっくりとスピードを緩める。しっかり呼吸をし、緊張をといていく。目の前に田園風景が広がる。後ろから追いかけてくる車もいない。道の両側に樹齢の長い樹が天高く生えている。その奥には教会のような建物がある。僕たちはそこに車を停める。
「原始林なのかな みたことがない樹だ」そう僕は言う。
 妻はゴールデンゲートブリッジでそうだったように樹の写真を撮りながら「この樹は、本当に誰も手を加えていない自然のままの形をしている」と言う。
 確かに樹の姿がこれまでにみてきた樹と違うのだ。幹は太く樹の肌は自然にさらされて荒れている。でも太い幹の根幹には力がある。幹は不思議な形に枝分かれしている。そしてどこまでも高く生い茂っている。冬だから生命力は弱っているのかもしれない。
「強くて、誰の力も借りずに自然とともにあるような樹」そう妻は言う。
 その樹をしばらくみている。
 しばらく後で101に戻り、ノバトの手前で37号線を経由してナパバレーへ向かう。車線は徐々に減少し、荒涼とした荒地や田園風景を通り過ぎゆく。それでも周囲の車のスピードは変わらないから、ゆっくりと景色を眺めるゆとりはない。でも随分サンフランシスコを離れたと思う。
 看板や店をみかけることはない。道はもの凄い速さで誰かがどこかへ向かっているだけ。通過されていくしかない場所なのかもしれない。でもそういう場所にこそ、都市化されていない本来のアメリカの姿がある。たぶんアメリカを走っているとその広大な大地のほとんどが自然のままなのだろうと感じられる。高層都市はむしろ日本の方が多いくらいだ。都市と都市の間はゆったりとした大地が広がっている。大陸的と呼ばれるものの一端を垣間見た気持ちになる。

   *

 ソノマに入ると広大なワイン畑が広がっている。穏やかな丘陵の間を曲がりくねりながら通り抜ける。道の右側にも左側にも葡萄畑が続いていてる。本当は鉄道に乗りワインを沢山飲んで酔いながら列車の景色をみたかった。でもナパバレーはサンフランシスコから列車に乗っていくには、片道3時間以上の時間がかかる。そして僕は鉄道が日本よりも安全ではないとわかっている。たとえ美味いワインが飲めるとしても、舞い上がって酔っ払い、注意がおろそかになって何かを失うことは耐えられない。ここは外国だ。最大限注意しながら、困難を乗り越えて旅をする必要がある。そしてさらに遠くへ行くには、このビートルにしっかりと慣れ、自由に旅することができるようにならなければならない。今日はナパバレーを周り、ワイナリーを見つけて美味しいワインを何本か買って帰り、ホテルで祝杯をあげることが目標だ。でも実際に広がるワイン畑をみて、その空気を感じ、そこで育った葡萄のことを思うと、どうしても列車での旅を思い浮かべてしまう。
 ナパバレーの景色は僕の中に広がるヨーロッパのイメージに近いものがある。そしてナパには実際に鉄道に乗り、食事とワインを楽しむワイントレインが走っている。ゆっくりと雄大な葡萄畑を列車に乗りながら旅をし、窓の景色をみながらワインを楽しむ。おそらくナパバレーにあるイメージの源流はヨーロッパのどこかなのだろう。フランス南西部のボルドーや東部のブルゴーニュが原点なのかもしれない。
「正確なことはわからないけれど、きっとナパバレーのようなワインの産地にも原型となる場所があるはずだ。20世紀型の都市の原型がニューヨークであるように」妻に語りかける。「様々な町や都市はきっとどこかに源流があり、世界中へ伝播していく。ワインの産地の源流がどこにあるのかわからない。ワインは紀元前何千年という昔から存在し、今もその歴史は続いているから」
 妻は僕をみると「ワインにはとても深い味わいがある。わたしにはどれが美味しいというような味の違いはわからない。たぶん何を飲んでも美味しいだろうから。でもそういうことと歴史に何か繋がりがあるの」
 僕は運転をしながら少し考える。
「ある意味ではワインは人類が産み出したひとつの奇跡だ。世界中に広がり、そして愛されている。けれどその秘密は味わいの深さにも顕れている。新しい味だと感じるものや深い味と感じるものには、それだけの理由がある。ずっと昔から続いているワインの味が、この世界の歴史の深さと繋がっていたとしてもおかしくないと思う」
 妻はしばらく考えると「その味は人類の表出でもあるわけね」と言う。
 「そう考えると楽しい」と言う。
 自然がずっと育んできたものを、人類はワインとして味わうことができる。誰がその奇跡を為したのか。そういうことはわからない。言葉として残っていないほど古い過去のことは、残されたものを手がかりに推測するしかない。歴史を知ることとはある意味では時の深さをひとつひとつ解き明かしていくことだと思う。
「人類の歴史が遺跡や古文書からだけしかわからないということはないと考えている。例えばワインもそうだ。ずっと古くから続いている文化の中に、今も生きている歴史が存在する。紀元前の世界を探るには、きっと文献を調べるだけではなく、ワインを飲むことが必要だ」
 妻は僕の言葉を聞き、そしてその深みのある味が自分の中に流れ込むことを望んでいるように、唾をごくりと飲む。
「前に京都や奈良の寺に行き、その古さを感じたことがある。建物をみながら、深くイメージを広げた。すると寺に色彩が宿り、遠く中国がみえた。仏教はさらに遠くインドから伝来した。険しい山をくぐり抜け、海を越えて。現代の旅と比べて、それはとても困難な旅であったはずだ。だからこそ自分たちのルーツが何か今も伝わる。日本に存在するひとつひとつの寺の造形は、中国のものや朝鮮半島のものと深く繋がっている。そしてそのまま残されているからこそ、原型がインドや中国と繋がっていることを教えてくれる。はるか昔、寺がある町は人々が行き交う国際的な都市だった。もちろんそれは今では文化遺産として生き残り、その価値を未来へ伝えている。でも寺を中心とした町が、現代のニューヨークやサンフランシスコのように光り輝き、栄えていた時代があったということを感じる。そしていつか未来では、僕たちの暮らしがそのまま人類の遺産になっていると思う。ある意味では、歴史という長い時間の中にこそ、そのまま過去が存在し、未来も存在する」
 そう言うと妻はその言葉の意味を深く考えはじめたようだ。そして僕に尋ねる。「あなたは何を知ろうとしているの」
 僕は「言葉にしてしまうと、それは限定されてしまう。目的が定まってしまうと、それ以外の考えが排除されてしまう。だから僕は自由にあなたと言葉が生まれるのを待っていて、そして時がくれば話すだけだよ」

   *

 ナパはとても小さな町だ。人口は7万人程度。広大なぶどう畑を通り抜けるとその町にたどり着く。建物はディズニーランドやで感じるような古き良き時代のアメリカを感じさせる。出窓がついている暖色のカラフルな建物が人形たちの家のように並んでいる。ナパのマッキンストリーストリートに立ち並ぶ建物は、住宅建築を少しアレンジして店舗にしたというさりげないものだ。
 サンフランシスコで駐車場を確保することは難しい。でもシリコンバレーやナパバレーのような郊外では駐車場に悩むことはない。僕たちはナパのオックスボウパブリックマーケットの駐車場にビートルを停め、店内を歩く。
 様々な店舗が賑わいを生み出している。清潔な小店舗が市場のように並び、人々が笑顔で買い物をしている。店内を歩いている人々の服装はカジュアルだけれどセンスが良く、買い物をすることの楽しさを思い出させてくれる。
 僕はスシバーを覗き「寿司が凄く高いね」と言う。
 妻は「そりゃ高いわよ。ここはアメリカなのだから」と言う。
 何か昼食を求めて店内をまわっているとどれもとても美味しそうだ。ランチやディナーを楽しむことができる店が集積していて、さらにワインなどが販売されている。屋根がある屋台や市場といった雰囲気で、賑わっている。普通のアメリカ人が普通にランチを楽しんだり、買い物をしている。ひとり15ドルほど支払えば、店内にあるどんなものも大抵は食べることができる。
 僕たちは奥にあるシーフードレストランに入る。
 アメリカのご飯は美味しくないという通説が日本にはあるように思える。何度か料理はヨーロッパが美味しいという話も聞いた。でも僕にはそういうことが信じられなかった。まさか本当にアメリカ人がマクドナルドのハンバーガーだけを食べて生きているはずがない。
 もちろん実際には本当にパンに何かを挟んで食べている。確かにどこのスーパーへ行ってもカジュアルに食べることができるのはサンドイッチだ。もちろんサンドイッチは本当に美味しい。それは日本で食べるサンドイッチとは別の種類のものだ。また本当に古くからある観光地で美味しいものを食べようとすれば、フィッシャーマンズワーフでそうであったように、割高であまり美味しくないものを食べさせられることになる。そういう困難に会いながらも、どこか普通のアメリカに住む人がカジュアルに食べているランチを探し続けていた。ナパに辿り着き、その中のある店舗でようやく本当のアメリカの食事を楽しむことができると感じる。
 従業員たちは必要以上に愛想をふりまかない。でも僕たちが必要だと感じている時にはすぐに席まで来てくれる。店内はとても洒落ていて、ちゃんと必要なだけの音量で音楽が流れている。窓からは太陽の光が差し込み、ナパ河が季節の移り変わりを伝えてくれている。メニューをみるとどれも美味しそうで、何を食べるべきか本当に悩んでしまう。僕は自分がわかる単語をたよりに妻のぶんもあわせて注文をする。ドリンクを頼むように強制されることもない。本当にさり気ない気遣いがある。
 金髪のウエイトレスが運んできてくれたものは、新鮮なムール貝が入った魔法のように赤いパスタと、色彩豊かなライスだ。メニューをみてイメージしていたものとまるで違う料理がでてくることに驚く。僕や妻のイメージはまだ日本で食べたことがあるもので、本当にはどんなメニューが出てくるかわかっていなかった。
 それぞれの料理をシェアし、ひと口ずつ食べる。
 パスタはパスタではない。ライスはライスではない。もちろんパスタだし、ライスだけれど、これまでに食べたことがあるどのパスタよりもライスよりも美味しい。
 パスタとムール貝はひとつになることが自然であるように調理されている。ライスは地元の野菜類と鶏肉が不思議なハーブによって炒められていて、食べたことのない食感で舌に迫ってくる。でもとてもさっぱりとした絶妙な味だ。
「日本食でもとても美味しいものがあることを知っている。和食の真髄には、新鮮であることや、醤油とみりんとだしによるヴァリエーションがあり、本当に美味しい店では身体が震えるようなご飯を食べることができる。でもここにある料理の秘密は、僕にはわからない。料理にも場所や時間を超えて受け継がれている長い歴史がある。でもこの店の料理は、現代アメリカの新しさを感じる。源流と源流が混じり合って溶け合っている。きっと日本の食材を大切にする文化も混じっている。でもきっとシェフに強いインスピレーションがあって、これまでにない新しい味にチャレンジしているように思える。そしてそれを言葉にすることは難しい」
 妻は「本当に美味しい」と言う。
「でも僕には信じられないんだ。この味が。まさかナパでこんな美味しい料理に出会えるなんて」
 不思議なパスタを食べ、不思議なライスを味わう。理性がどこかへいってしまいそうになる。素晴らしい音楽を聴いた時にそうであるように、時に深い感動を感じる料理がある。未知の体験には人を揺さぶる何かがある。

   *

 ランチの後で、ナパを歩き回り、ワイントレインの駅を散策する。でも本当の目的はワイナリーでテイスティングをし、自分たちが飲むワインを手にいれることだ。ナパに来るまでにいくつも葡萄畑があった。だから車をナパとソノマ一帯へ向けて走らせる。
 葡萄畑がどこまでも広がっている。しかしテイスティングができるワイナリーがどこにあるのかわからない。そもそも優れたワイナリーがどういう建物で、どんな風にテイスティングができるか、わからないままここまで来たのだ。
 車を走らせながら、自分たちが何度も同じ場所を通過していることに気づく。車を走らせてソノマへ向かおうとしているのに、気づいたらまたナパへ戻っている。方向感覚というものが失われている。明確な目的地を設定せずにビートルを走らせると、なぜか同じところをぐるぐるまわってしまう。
 でも何度もある1軒の家を通り過ぎていることに気づく。緑が溢れた庭があり、古くから残っていた家を改装してできたようなレンガ造りの1軒家だ。まわりには葡萄畑が広がっている。あまりにも何度もその場所を通りすぎていたから、僕たちはそこが目的の場所であることになかなか気づかない。
 ある意味では目的の場所は、自分の目の前にある。でもそこが目的の場所であることに人はなかなか気づかない。目的の場所には目印もないし、またここが目的の場所だと気づかせるものも少ない。人は何度もその場所を通りすぎながら、目的の場所がどこにあるのかわからないというふうに同じ場所をぐるぐるまわっている。
 でもある時にふっと気づく。同じ場所をさまよっているのだと。そしてある時に、自分の目的が何で、そしてその場所を今まで何度も通り過ぎていたことに気づくのだ。
 1時間ほど彷徨った後で、そこが目的の場所であることに気づく。ある意味では僕たちが他のワイナリーへ行くことは許されていない。あなたがどこへ行こうとしていても、ここがあなたの目的の場所だと語りかけている。誰がそう語りかけているのかはわからない。でもそういう場所は存在する。魔法のように。
 緑に囲まれた庭の一角にビートルを停める。どこかからやって来た人々が庭でワインを味わっている。そして古い一軒家は静かに建っている。看板もない。魔女が住んでいるみたいだと思う。妻が「入ってみましょうよ」と言う。
 静かにその家に入る。中もレンガ造りの内装だ。暖炉に火が入っていて人々を温めている。白人の婦人がカウンターの向こうで微笑んでいる。妻がここはワイナリーなの? と尋ねる。彼女はそうよと言う。婦人はどんなワインが飲みたい? と妻に言う。まるで自分の中にあるイメージを尋ねるように。
 そう。彼女は僕たちにしっかりとイメージ抱くことが大切だと言う。何を求めているのか。彼女はただそこにあるものを出すのではない。
「求めているものがあれば、それは与えられます」そう婦人は言う。
 僕は妻に言う。「僕はテイスティングができない。運転があるから。だから君が求めているものを伝えるといい。時の流れのように深いものか、あるいは空高く舞い上がるような軽いものか。あるいはどこまでも透明な青い海のようなものか。しっかりと大地の味わいを感じることができるものか」
 そう言うと、妻は「あなたのイメージの中から選ぶわ」と言って、そのひとつひとつを英語にして婦人に伝える。
 婦人はもうひとつイメージが必要だと言う。
 妻はどんなイメージがある と僕に聞く。
 僕はカウンターの奥にあるワイン倉庫を見つめながらイメージを膨らませる。
「自分の中の何かが目覚めるようなもの」と妻に言う。
 妻は婦人にそれを英語で伝える。
 婦人は静かにワイン倉庫の奥へ消えていく。僕たちのイメージが伝わったのかわからない。でも日本語で思い浮かべたイメージは、きっと英語で思い浮かべることができるイメージと、その深いところで繋がっているはずだ。
 やがて婦人がカウンターに5つの透明なグラスを並べ、そこにひとつひとつワインを注ぐ。とても美しく優雅にワインは注がれる。
 赤が2つ、白が2つ、そしてロゼがひとつ。
 どのワインがどのイメージと繋がっているのか、わからない。そして僕は試飲をすることができない。
 妻は婦人と話しながら、そのひとつひとつのワインを味わうと、自分の中にあるイメージを膨らませる。
「とても素晴らしい。どの味わいも自分の中に広がってくる。でもどれが本当に美味しいワインなのか選ぶことができない。どれも本当に素晴らしいから」
 そう妻は言う。
 僕は「すべてのワインを買うことはできない。お金もかかるし、きっと飲みきることはできない。今日持って帰るワインはひとつにしよう。それがどのイメージから生まれたものか、味わいながら考えるから」
 妻は「あなたはどのイメージがいいの」と僕に聞く。
 僕は「ただ味わって選んでくれればいい」と言う。
 妻は慎重にひとつひとつのワインを味わっていく。ひとつロゼがあるだけで後はとても深みのある赤色と透明な白色だ。そして外見だけでは見極めることができない。
「すべて独特の味がして選ぶことが難しい。どの味も素晴らしいから。でも私はその中からひとつ選ばなければならないのね」妻はそう言う。
「きっと直感に従う必要があるんだよ」と言う。
 婦人はその5つのグラスに優先順位をつけることはしない。ただ僕たちがそこからひとつのグラスを選ぶことを待っている。
 妻は充分に吟味した後で、ひとつの赤を選ぶ。それがどんなものか僕にはわからない。1本のボトルを手にワイナリーを後にする。

   *

 ホテルへ帰るルートを、サンフランシスコまでのもうひとつの橋、ベイブリッジを渡るルートを選択する。妻はオークランドにも行ってみたいと話す。でもオークランドに着く頃には暗くなってしまって危ないのではないかと僕は言う。まずベイブリッジへ向かうことにし、ナビゲーションをにまかせて車を走らせる。大陸を南下し、80号線を通り、ベイブリッジを渡る。
 太陽は冬にも関わらず強い日差しで輝いている。道はどこまでも続いていてその果てがない。帰り道といっても来た道と同じではない。だからどこかへ帰るというよりも、まだ新しい世界を走り続けているという感覚がある。
 車を走らせながら、僕はアメリカの都市構造を考える。町と町は、日本のように細い道が網目のように広がっていて、さらに高速道路が、どこかへ行くためのオプションとして存在しているわけではない。アメリカではフリーウェイこそが町と町を結んでいる。もちろん鉄道も町と町を結んでいるだろう。でも車を持たない人は、きっとある意味ではその場所にとどまらなければならない。日本のように自転車か原付自動車があれば、どこまでも行くことができる世界ではない。
 また日本とは違って道路の両脇に店の看板がどこまでも続いているような道ではない。純粋に道が続いている。もちろん町の中心部へ近づけば、様々なマーケットが、あるいは道の両脇にあるのかもしれない。でも走り続けている道はどこまでも道として純粋だ。
 僕たちはただ走り続けている。いつの間にか数多くの町を通りすぎていく。そして中心へ近づいて行けば、町の規模が大きくなっていく。
 でも町のひとつひとつは、日本の町ほど巨大ではない。高層建築は少ないし、空がどこまでも見渡す限り広がっている。
 通りすぎていく町に住む人々のことを想像する。きっと彼らは普段は自分の町で仕事を行い、広い家でくつろぎ、新鮮なワインを飲んでいる。ホリデーシーズンには子どもを連れてサンフランシスコへ向かうのかもしれない。でもそういう繰り返しにも飽きると、きっとどこまでも車を走らせて巨大な大陸を走り続けるのだろう。
 ある意味では彼らは僕たちとそれほどの違いはないのだ。料理の味が違う。太陽の光が違う。肌の色が違う。言葉が違う。でもきっと彼らのなかの誰かは、いつか海を渡り、空を飛んで、どこか遠い世界へ行くことを夢みている。
 もし日本に来たら、彼らはどう思うだろう コンパクトで清潔で都会的な街並みが広がっている。鉄道には闇がない。街中を歩くと誰もが漆黒の髪を持ちながら不思議な言語を話している。人々はスマートフォンを手にし、情報を自在に操りながら、でも多くの不満を抱えている。
 きっと誰もみなある意味では同じなのだ。
 世界のどこへ行っても、自分が自分であることは変わらない。生きるために必要なことも変わらない。そして愛を求めていることも。
 自分が長い間、夢をみていたその向こうの世界へ辿り着き、どこまでも車を走らせていると、自分の住む世界がどれほど恵まれたものであるのかということに気づく。自由に話すことができる言葉があり、自分を愛してくれる妻がそばにいる。自分を育ててくれた大地があり、自分を育んできた自然がある。そして家がある。アメリカの家のように大きな空間があるわけではない。どこまでも見晴らしのいい庭があるわけでもない。でも箱庭のような小さな庭があり、四季の彩りをみることができる。雨が降れば、雨粒がそっと葉から地面へ落ちることも感じられる。そして自分は帰ることができるのだと感じる。
 きっと誰にも故郷がある。自分が生まれた家があり、懐かしいと思い浮かべる天井がある。あるいは子どもの頃には、窓から外を眺め、ずっと遠くにある世界の広がりを感じ続けていたかもしれない。でも遠く故郷を離れると、思い浮かべるのはあの小さかった頃の自分なのだ。
 僕はどこまで来たのだろう そしてどこへ行くのだろう
 まだ道は続いていて、そう簡単には家へ帰ることができない。でも隣の席には妻がいて、目を閉じながらうつらうつらとしている。ある意味では、彼女こそが僕の新しい家であり、帰る場所なのだ。
 だからただ感傷に浸るのではなく、自分たちが歩むべき道を探し続けている。父や母が生んだ世界は、父や母のものだ。ある意味では、父や母が年老いていくたびに、その世界も古くなっていく。僕たちはその中から自分が受け継ぐものと、自分で生み出していくもののどちらもを大切にしなければならない。あるいはそういうことの連続の果てに、大いなる人類の未来があるのか。どういう変化が訪れるのかわからない。でもその先がわからなくても道はずっと続いている。

   *

 夕方になる前にベイ・ブリッジを渡りサンフランシスコ市街を通り過ぎていく。結局オークランドへ寄ることはできない。そして陽が沈む前にホテルへ辿り着くことができたことは幸運だと思う。見知らぬ土地で闇の中を走るにはあまりにも経験が足りない。日本ではどこまでも車で旅をすることができる。でも海の向こうでは経験がリセットされ、またはじめて車を走らせた時のように、車を走らせることの高揚と、リスクが同時に存在する。誰もが自由にどこまでも走り続けることができるわけではない。世界中を旅することができた人だって、いつかは自分の家へ帰っていく。たとえそれがどんな場所であっても。でも僕たちはまだ旅の途中だ。まだどこかへ行くことができる。明日はどこへ行こうという話をしながら、ホテルへ辿り着く。
 妻は夕食の準備をはじめ、僕はソファに寝転がっている。
「ロサンゼルスは東京から大阪ぐらいの距離にある。もし予約しているこのホテルを1泊キャンセルして、ロサンゼルスに1泊すれば、カリフォルニアをより理解できるかもしれない。あるいはモントレーの辺りまで行って、カリフォルニアの海を眺めるのもいい。もちろんロサンゼルスやモントレーまで行くことはとても大変だと思うけれど」
 そう妻に言うと彼女が何か言葉を話すことを待った。でも彼女は不思議なことにそれについては何も言わず、今日の夕食について話はじめる。
「パスタや米やパンが食材としてある。その他には鶏肉とソーセージが少し。今日はワインを購入したのだから、やっぱりディナーはパスタにするのがいいよね」
 不思議に思ったけれど「そうだね。パスタと一緒にワインを飲もう」と言う。
 ソファに座り、彼女がパスタを茹でている後ろ姿をちらりと見ながら、テレビをつけて画面を見ている。チャンネルを変えると派手な車の宣伝や、ニュース番組、コメディ番組などが次々と表示される。リモコンを操作し、テレビの画面に英語字幕を表示させる。リスニングで理解はできないが、文字を追うとテレビが伝えようとしていることがなんとなく理解できる。テレビが明日の天気は雨だと伝えている。iPhoneでサンフランシスコの週間天気予報を調べる。僕たちの滞在は1月5日までだ。でも1月3日から5日まで雨の予報が続いている。
「明日からはサンフランシスコは雨らしい。雨の中は遠出はできないね」と言う。
 妻はパスタを茹でソースを温め、簡単なサラダを作りながら「天気によってはこれ以上遠くへ行くことはできないかもしれない。もし大雨が降ったらどうしよう」と尋ねる。
「雨が降ったら僕たちはその雨の中でもどこかへ行くか、ここにとどまるか選択をしなければならないだろうね」と言う。
 そう話しながら思った以上に疲れていることに気づく。長い距離をひとりで運転したのだ。少しばかり疲れていたとしても仕方ない。心の中では自分はもっと遠くへ行くことができると感じている。でも身体は疲れていて、鏡をみると目が少し充血している。
 目の前のテーブルにパスタが出された時、とてもお腹が減っていることに気づく。身体が栄養を欲している。けれどワインは今、飲むべきじゃないと思う。
「ワインはまた今度飲もう。なんだかワインを飲んでしまうと深く眠ってしまいそうだ。せっかくのワインだし、これは記念としていつか自分たちがこのワインを飲むことがふさわしいと思えた時に飲もう。思ったよりも疲れていて、せっかくのワインを楽しむこともできない」
 そう言うと妻は「そうね。わたしも少し疲れているかもしれない」と言う。
 フォークでパスタをゆっくりと絡めて、そして口へ運ぶ。ナパで食べたパスタよりは家庭的な味だ。でもこの味がとても美味しいと思う。
「とにかく今日は眠ろう。もし明日、雨が降ったなら1日ゆっくりベッドで眠っていてもいい。ホテルにはプールもあるし、フィットネスマシーンもある。自分たちがどこかへ行くことができる時と、あるいはじっと身体を休めて次のチャンスを待つ時と、人生には両方の局面がある」
 妻はパスタをとても丁寧に食べている。彼女の食事をする時の動作の美しさは本当に優雅だ。
「それ本当の話? もし静かな時間を過ごすことができたら遠くへ行くことができるの」
 僕は「さあ。この言葉の本当の意味はよくわからない。静かな時間を過ごすことによって、遠くへ行くことができるというのは、頭で考えればとても変な感じがする。でももし心の中に静けさが訪れたなら、自分が望んでいる場所がみえたりするのかもしれない。どこまで遠くへ行くことができたとしても、もしそれが望んでいない場所だったなら、きっとその旅を自分たちで誇りに思うことができないだろう。それは人類の旅でも同じなんじゃないかな? 祖先がもし未来へやって来て、この世界を素晴らしい世界だと思うか、あるいは地獄だと思うか。そういうことってわからないよね ひょっとすると僕たちの世界は感じる人によっては天国にも地獄にもなりうるのかもしれない。でももし義務でどこかへ行こうとするのではなく、とても満ち足りた静けさの中で未来を選択することができれば、きっとそれは素晴らしい世界だと思う」
 そう言うとパスタを最後まで食べる。
 妻は僕のためにバスタブにお湯をはってくれる。僕は食器を洗いながら、今日はゆっくり眠ろうと思う。もし明日、雨が降るならその時にまた明日のことを考えよう。旅の最初の山を超えて眠りにつく。でも世界には無数の山があって、ある意味ではひとつの山を登ったにすぎないのだ。

   *

 夢の中で岸壁にしがみついている。とてつもない高さを登ろうとしていて、足を踏み外せば、死が顔をのぞかせている。でもこの山はいつか誰かが登り、征服した山だ。どうすればこの山を登ることができるかは明らかにされていない。時代が異なったり、季節が異なったりする中で、山を登るにはその時、その時、登る人間の知恵が必要になる。誰かが登ったからといってそう簡単に自分も山を登ることができるわけではない。
 岸壁にしがみつきながら、次に手をかける場所を探す。どこにとっかかりがあってどうすればより高い場所へ行くことができるか、わからない。でもなんとか態勢を維持し、しがみつき続けている。鳥が頭上で不気味な声で鳴く。まるで僕が墜落し、その死体の手や足をついばもうとしているかのように。僕の中に少しずつ悪魔が顔をのぞかせはじめる。それは死という顔をしている。
 神に祈る。次に手をかける場所を、頂上へ辿り着く道を教えてくれるように。でも心の中では、これは君が自分で選んだ道だという声が聞こえるだけだ。
 ある時には自分で山にしがみつき、自然の巨大さの中で己の無力を感じなければならない。自分には何もなく、次にどうすればいいか風にさらされなければならない。
 なんとか足場を確保し、次に手をかける場所を探し求める。
 長い時間が経過する。僕が歩むことができているのは、その長い時間の中でほんのわずかだ。そして墜落してしまえば、生きていたということは時の中で消えてしまう。
 涙を流す。自分がもうじき死んでしまうことを思う。なんて無謀だったのだ。自分で自分がどこまで行けるか試そうなんて自分を過信していたことの愚かさに気づく。
 でも涙を流した後で、死の影が急に薄らいでいくことに気づく。はるか頭上で太陽が僕を照らしてくれている。霧が晴れ、太陽の光が現れたのだ。
 僕は理解する。あの光こそが神なのだと。ただその光に導かれるように無心に山を登りはじめる。
 最後の力だと思っていた力は、最後の力ではない。自分の中に、そのまだ底に光を求める力があって、その真実に気づいた時、力は与えられる。
 険しい山の頂上に手をかけ、なんとかその山の頂きに身体を投げ出す。
 激しい呼吸が止まらない。自分が生きていることの奇跡にまた涙がこぼれおちる。
 死んでいたかもしれない。そう思えば思うほど身体が熱くなり、震えが止まらなくなる。そして僕は頭上を見上げる。
 山の頂きは、世界の頂きではない。山は遠く連なり、どこまでも広い世界を僕にみせている。これはこの地球の広さだ。直感的にそう思う。果てしない大地がどこまでも続いている。そしてはるか頭上には太陽が輝いている。誰も到達したことのない場所。そのすべての輝き。
 天と地の狭間にあって、自分がその自分の成した世界からその果てしない世界をみているにすぎないと思う。
 その中でさらに深く眠る。

── 第4章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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