← 作品ページへ戻る

ひとりぼっちの空

hat47x

53,113 字

幻想的内省小説

"見えない水に包まれて、私は虹色の世界を歩き出す。"

← 右から左へスクロール

第4話 夜の水をわたる

床に座っているうちに、胸の奥の同じあたりへ、今度は火照るような感じが集まってきた。

熱はしだいに温度を失い、代わりに重さを増していく。

床の平らな硬さが、足の裏から先に消えた。

その代わり、少し下から柔らかな感触が返ってきた。

顔を上げると、明るい部屋はもうなかった。

足元に、暗い赤色の道がある。

壁も同じ暗い赤だった。ところどころに柔らかな襞が重なり、表面は湿ったように光っている。巨大な内臓の内側へ入り込んだようだった。

少女は立ち上がった。道の奥へ目をやると、襞の重なりが行く手をふさいでいた。近づくにつれて、その手前に細い曲がり角が見えてきた。

曲がると、道は急に上った。登りきった先にも、同じ湿った赤が続いている。足元には、細い道だけが襞のあいだを曲がりながら続いていた。

胸が締めつけられる。

さっきまでの胸の奥の窮屈さとは違う。ここでは空間そのものが身体に近すぎた。

「……また変わった」

小さな表示体は斜め後ろに浮かんでいた。

「そう見えます」

「道、同じところ回ってない?」

小さな表示体は数秒黙った。

「似たところを何度か通っているようには見えます」

「だよね」

少女はまた歩き出した。

進みたいとは、あまり思わなかった。

けれど振り返っても、戻れそうな場所は見当たらない。立ち止まっているのも心細く、ほかに行きようもないまま、目の前の道をゆっくり進んだ。

しばらく歩いた。

曲がり角へ入る直前、言葉だけがふいに浮かんだ。

――君を待つ。

少女は足を止めた。

「……誰が?」

返事はなかった。

曲がり角の先に、バッグが置かれていた。しっかりした革でできていて、クリーム色のところどころに黄土色が入っている。暗い赤の道の上で、金具だけが妙にきちんと光っていた。

少女は数歩手前で止まった。

バッグが、びくりと震えた。

バッグから「嫌だ」という感じが伝わってきた。

続いて、もっとはっきりした声が来た。

「助けて」

少女は息を吸った。

「聞こえた?」

小さな表示体に尋ねた。

「私は聞き取れませんでした」

「そっか」

バッグへ一歩近づくと、胸が重くなった。バッグは動かなかった。

「ずっと、待ってたの?」

返事はない。

もう一歩近づくと、今度は怒っている感じがはっきり返ってきた。

「私に、怒ってる?」

「そうだよ。でも、もう大丈夫。ようやく来てくれたんだから」

少女はバッグの前にしゃがんだ。

「私、今日初めて来たんだけど」

言ってから、暗い道を振り返った。曲がり角の向こうは見えなかった。

バッグは小さく震えた。

「僕の中の苦しみ、全部吐き出してもいい?」

一瞬だけ考えた。

「うん。いいよ。ここにいるから」

言い終わる前に、バッグの口が開いた。

赤いものが噴き出した。

反射的に上半身を引いた。

血だった。

道へ落ち、壁へ飛び、バッグの周りへ広がっていく。その赤の中に、身体の一部のような形まで混じっていた。

少女は口元を押さえた。喉の奥がきゅっと狭くなり、息が一度だけ浅くなる。

「……こんなに」

赤い流れの中に身体の一部らしい形が見えるたび、目をそらしたくなった。

バッグは止まらない。

少女は口元を押さえたまま、そこにいた。

しばらくすると勢いが落ちた。

道はすっかり赤くなっている。

周囲を見た。

「これ、洗ったほうがよさそう」

どうやって、と考えたところで、遠くからエンジンの音がした。

暗い赤色の道を、ダンプカーがこちらへ来た。荷台から水をこぼしながら、バッグの手前で止まる。エンジンが止まっても、水面は荷台の中を行ったり来たりしていた。

「……来るんだ」

「来ました」

小さな表示体が言った。

「うん、それは見えてる」

運転席には誰もいない。少女は荷台をのぞき込んだ。水は透明だった。

「使っていいのかな」

返事はない。

バッグを見る。

「外だけ、少し水で流してみてもいい?」

バッグは小さく揺れた。

少女は近くにあったロープをバッグの持ち手に結び、もう一方の端を握った。荷台の横のレバーへ手をかけると、荷台がゆっくり傾いた。

水があふれ、バッグが横へずれた。ロープが手の中でぴんと張る。

少女は足を踏ん張った。道に広がった血は薄まり、赤い水になって向こうへ流れていった。バッグの表面にも水をかけると、革の色が少しずつ戻ってくる。

少女がロープを外そうとしたとき、バッグが言った。

「ごめんね」

「どうしたの?」

「まだまだあるけど、いいかな」

バッグを見る。

「うん。まだあるなら、出していいよ」

バッグの口がまた開いた。

今度はさっきより多かった。

「わ」

少女が後ろへ下がるより早く、血が滝のように落ち、道を打ち、壁へ跳ねた。ロープを離し、顔を腕でかばった。

離れたところに、傘が一本立てかけてある。

「なんで傘」

言いながら取りに走った。手の甲に血がかかる。傘をつかんで開くと、すぐ頭の上で重い音がした。柄を両手で握り、肩をすぼめて、その下へ入った。

「……でも、助かった」

傘の下からバッグを見る。

バッグはまだ吐き出している。

血が傘を打つ音だけが続いた。

やがて周囲の色まで変わり始めた。

道も壁も、さらに暗い赤へ沈んでいく。

胸が苦しくなった。

足元も見えにくい。傘を打つ音がやみ、少女は縁から顔を出した。傘を閉じても、暗くてバッグが見えなかった。

「もう少し明るければ……」

口にしたとき、前方にロウソクが一本立っているのに気づいた。

火をつけた。

小さな炎が揺れる。

暗さを追い払うほどの明るさではなかった。けれど、炎の近くだけ、道の縁とバッグの輪郭が見えた。壁にも、近いところだけ赤の濃淡が戻った。

道が狭くなり、赤い壁が近づいている。

もう、車が通れる幅はなかった。

後ろを見る。

ダンプカーのさらに向こうに、別の車が止まっていた。

放水車だった。

長いホースが積んである。

傘を置いた。

「あれ、使えるかも」

走ってホースを引いた。重い。曲がり角で引っかかり、いくら引いても来ない。

「ちょっと手伝える?」

小さな表示体へ振り向いた。

「たぶん無理です」

「だと思った」

少女は角まで戻り、ホースを持ち上げてずらした。もう一度先端を引く。今度はついてきた。

赤い空間へ向けて栓を開くと、水が噴き出した。腕ごと持っていかれそうになり、少女は片足を後ろへ引いた。

「強い!」

水が壁に当たり、赤い色が剥がれるように流れて道へ落ちた。少女は足を踏ん張ったままホースの角度を変え、バッグの周り、道、壁へ順に水を当てていく。

こびりついた赤は、水に押されて細い筋になり、道の低いほうへいくつも流れた。その後ろから、濡れた地面の色が戻ってきた。暗かった空間にも、輪郭が一つずつ戻った。

最後にホースを止めると、その場に座り込んだ。腕が疲れていた。赤い水が遠ざかっても、胸の下あたりに、熱い一点が残っていた。

そこへ手を当てる。温かいというには鋭すぎた。小さく、硬く、火のようだった。ホースを握っていた手にも、その熱が伝わる気がした。

「ここにいても、いいよ」

手を当てたまま、少女は顔を上げた。

空が青い。

いつの間にか壁も消えている。先には、さっきのロウソクが一本だけ、まだ細く燃えていた。

右のほうでは、さっきの水がまだ細かな粒になって落ちていた。その向こうに、淡い虹がかかっていた。少女が顔を少し動かすと、色の帯もわずかにずれた。境目は見えないまま、いくつかの色が重なっていた。

「……急だなあ」

少女は笑った。

バッグを見る。

水をかけた表面には、空の明るさが映っていた。口の内側は暗い。

そこだけ洗い残している気がして、少女はホースへ手を伸ばした。

「中も水を入れたら――」

「やめて!」

少女の手が止まった。

「やめて、やめて、それだけはやめて」

バッグの声は、さっきまでよりずっと強かった。

少女はホースから手を離した。

「分かった。入れない。ごめん」

バッグは震えている。

少女はホースから一歩離れた。

バッグの震えはすぐには止まらなかった。少女は、そのまま近づかなかった。

落ち着かない指をいったん握り込み、また開いた。両手を膝の上へ置いた。

やがて震えが小さくなり、バッグが言った。

「この中には、大切な宝物が詰まってるんだ」

少女はバッグの口を見る。

さっきまで血が出ていた場所だった。

「……見てもいい?」

「うん。いいよ」

バッグが開き、白いものがゆっくり出てきた。骨だった。全身の骸骨が、少女の前にまっすぐ立っていた。

少女は息を止めた。

頬のあたりが、うっすらしびれた。

胸を前から押されるような感じもした。

怖い、と言えば怖い。

けれど、骸骨は少女へ近づいてこなかった。

ただ、そこに立っている。

少女も動かなかった。

骨の白さだけが、青い空の下で妙にはっきり見えた。

「この人は……あなたにとって、どんな人なの?」

バッグが答えた。

「本来、入るはずだったもの」

少女は眉を寄せた。

「本来、入るはずだった……って、どういうこと?」

バッグは答えなかった。

少女は、立っている骨の形をしばらく見た。

自分の肩から胸元へ、一度だけ目を落とした。見慣れた自分の身体だった。それなのに、骨を見たあとでは、それもひとつの形として目に入った。

「男性なの?」

「うん」

さっきの「やめて」が耳に残っていた。少女はバッグの口から目を離し、胸の中心へそっと注意を向けた。心の奥へ釣り糸を垂らすように、問いを置いたまま耳を澄ませた。生成AIに問いかけて、言葉が現れるのを待つときと、どこか似ていた。

ふと浮かんだ言葉は、少女の理解の届かないものだった。ためらいながら、口にした。

「……あなたが私の霊のようなもので、この方が、本来入るはずだった身体……なの?」

バッグはほとんど間を置かなかった。

「当たり~」

少女は目を瞬いた。

「そこ、そんな軽く答えるんだ」

ひと呼吸置いて、バッグを見直した。

「……ほんとに?」

バッグはもう答えなかった。

骸骨の周りが明るくなり、バッグも光に包まれた。少女が目を細めているあいだに、骸骨はゆっくりバッグの中へ吸い込まれていった。

最後の骨が消えてから、ひと呼吸ぶん間があった。バッグの中から、衣を羽織った少年が出てきた。

少年は片手を裏返し、指を一本ずつ曲げていた。その手で衣の端をつかみ、空を見上げた。少女が顔を上げると、少年はこちらへ向き直った。

「それでは行きます。では」

「え……あ、はい」

少女が返事をする間に、少年は地面を離れ、空へ上がっていった。雲の厚いところは灰色のままで、日の当たる縁が黄金色に光っていた。少年の姿はその光を背に小さくなり、やがて雲に隠れた。

少女は、少年が消えた雲をしばらく見ていた。

胸の奥には、骸骨を見たときの圧が薄く残っていた。怖さだけではなかった。ずっと前にも、似た場所が身体の中にあった気がしたが、いつのことかまでは思い出せなかった。

視線を下ろすと、足元にバッグがあった。

少女は拾い上げた。

「これからは、一緒にいる?」

バッグは間を置いて答えた。

「いいえ。僕は旅に出ます。なくしたものを取り戻すために」

少女はバッグを抱きしめた。

思ったより強く、腕に力が入った。

革はまだ湿っていた。あれだけ吐き出したあとのバッグは、いま腕の中に収めると小さかった。

血に濡れたことも、傘を差したことも、「当たり~」と返されたことも、まだついさっきのことだった。旅に出る、と聞いた途端、その全部が遠ざかっていくように思えた。

「行かなくてもいいよ。もう、一人じゃないから」

バッグの角が腕に当たっていた。力を緩めても、まだ離しにくかった。

バッグは何も答えなかった。返事の代わりに、白い光の玉がバッグの中から浮かび上がった。

少女は腕を緩めた。

光はゆっくり少女へ近づく。

「入るの?」

光は、おへその少し下、身体の手前で止まった。

そのまま、近づいてこなかった。

少女は足の裏へ注意を向けた。地面の感触はまだあった。

ひと呼吸待った。

「……うん」

光の玉は、おへその少し下から身体の中へ入った。少女は息を呑んだ。

「わ」

身体の中がむずむずする。くすぐったいのとは違う。細かい泡のようなものが、光の入ったあたりからいったん下へ沈み、腰の奥へ集まっていく感じだった。

少女はバッグを足元へ下ろし、下腹部に手を当てた。

「そこにいる?」

明るい感じが返ってきた。

「これから、どうしたい?」

「あなたの側で力になります」

当てた手の下から、声がした。

「そっか。そばにいてくれるんだね。ありがとう」

腰の奥から押し上げられるように、背筋が伸びた。少女は試しに背伸びをした。身体の中に圧がかかった。

「お」

面白くなって、もう一度背伸びをする。圧は腰の奥からお腹、胸、首へと上がり、頭まで来たところで強くなり続けた。

「……ちょっと、強い」

頭の内側が押される。あと少し強くなれば、痛みに変わりそうだった。

少女は両足を地面につけ直し、息を吐いた。頭のてっぺんが、ふっと薄くなる。そこから白いものが細く抜け始めた。押し上げていた圧も、それを追うように上へ流れていく。

やがて頭の内側が静かになった。

少女は両肩をゆっくり回し、もう一度お腹に手を当てた。まだ温かかった。

「今は、これくらい」

ひと呼吸してから、手を離した。

小さな表示体は離れたところにいた。

何も言わなかった。

*

バッグは、地面に置かれていた。

さっきまで話していたものと同じなのか、抜け殻なのか、少女には分からない。

持ち上げてみる。

軽い。

いつの間にか、周囲は海辺になっていた。

波は穏やかだった。

沖では、小さな波が一つ崩れ、白い泡が横へ流れた。

砂浜へバッグを置く。

少女が海を見ていると、次の波が足元まで届いた。もう一度来た波は、足首を越えた。

振り返ると、砂浜がなかった。気づけば、周囲は夜になっていた。

暗い水の上に立っている。

少女は目を瞬いて、空を見る。

星が一面に出ていた。

左のほうに、欠けた月がある。

その光だけでは、足元はよく見えない。

少女はバッグを探した。砂浜へ置いたはずのあたりに、黒い影が浮いている。波に持ち上がった縁が、柔らかく曲がった。ゴムボートだった。

少女はボートを見て、口元をかすかに緩めた。

縁に手をかける。体重を預けても、沈まない。

「乗せてもらっていい?」

ボートが足元へ寄り、縁をこちらへ傾けた。

少女は傾いた縁に手を添え、ボートに乗った。腰を下ろすと、底が浅く沈んだ。水の動きが、薄い底を通して伝わってきた。

中にオールが一本置かれている。

周りを探すと、もう一本あった。

「自分で漕ぐんだね」

少女は左右のオールを持った。

ふと、ボートにも名前があるのだろうかと思った。

「あなたのこと、何て呼べばいい?」

すぐそばの水が、かすかに揺れた。

「歩みを止めないで。僕に言えるのはそれだけだ」

声は、すぐ下から聞こえた。少女が腰を浮かせると、ボートが傾いた。

「名前、聞いたんだけどな」

少女は座り直し、縁を一度撫でた。それから、オールを水に入れた。

引く。

ボートが動く。もう一度引くと、今度はまっすぐ進んだ。

腕が痛かった。さっきホースを引いたときと同じあたりに、また力がかかっていた。

少女はオールを膝に置いた。握っていた指を開くと、柄の跡が赤く残っていた。

船首がゆっくり横を向く。左に見えていた月が、正面へ寄った。

「少し休むね」

「オールだけ、中へ入れてくれる?」と、ボートが言った。

少女は縁からはみ出していたオールを、一本ずつ足元へ置いた。指を曲げ、また伸ばした。背中を預けると、柔らかな縁がへこんだ。波に押されて、ボートは横向きのまま流れていた。

夜風が頬を通った。

夕日を見た道の風より、ずっと静かだった。

岸も見えない。

少女は一度だけ後ろを見た。

何もない。

前を向く。

オールを水に入れる。

引く。

手元に水の重さがかかった。オールを上げると、しずくの落ちる音だけが遅れて続いた。

少女はもう一度、漕いだ。

*

次に目を開けたとき、部屋は暗かった。

少女は机の前の椅子に座ったままだった。

スマートフォンは机の上にある。画面は消えていた。

少女はすぐには立たなかった。

足の裏に床の冷たさがあり、お腹にはまだわずかな温かさが残っている。頭は静かだった。

時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。

「お腹すいた」

立ち上がるとふらつき、机に手をついた。

台所へ行って水を一杯飲み、母が焼いておいてくれた卵焼きを冷蔵庫から出した。母には、今日のことをまだ何も話していなかった。流しの水切りには洗った包丁が一本伏せてあり、まな板の隅がまだ濡れていた。容器の蓋の内側に、細かな水滴がついていた。箸で一切れつまむと、冷えた卵がへこんで戻った。少女はそのまま一口食べてから、残りを皿に移した。椅子に座って食べるあいだも、スマートフォンは机に置いたままだった。

食べ終えると、皿を洗い、水切りの包丁の隣へ伏せた。顔を洗って歯を磨き、ベッドに入った。横になると、身体の重さがそのままマットレスへ沈んだ。

少女は一度だけ深く息を吐いた。

その夜は、それ以上何もしなかった。

── 第4章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

この作品の作者

hat47x

作者ページを見る

作品ページへ戻る

電子書籍(EPUB)でダウンロード

縦書きEPUB 横書きEPUB

コメント

まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。

しおりを挟みました