第4話 夜の水をわたる
床に座っているうちに、胸の奥の同じあたりへ、今度は火照るような感じが集まってきた。
熱はしだいに温度を失い、代わりに重さを増していく。
床の平らな硬さが、足の裏から先に消えた。
その代わり、少し下から柔らかな感触が返ってきた。
顔を上げると、明るい部屋はもうなかった。
足元に、暗い赤色の道がある。
壁も同じ暗い赤だった。ところどころに柔らかな襞が重なり、表面は湿ったように光っている。巨大な内臓の内側へ入り込んだようだった。
少女は立ち上がった。道の奥へ目をやると、襞の重なりが行く手をふさいでいた。近づくにつれて、その手前に細い曲がり角が見えてきた。
曲がると、道は急に上った。登りきった先にも、同じ湿った赤が続いている。足元には、細い道だけが襞のあいだを曲がりながら続いていた。
胸が締めつけられる。
さっきまでの胸の奥の窮屈さとは違う。ここでは空間そのものが身体に近すぎた。
「……また変わった」
小さな表示体は斜め後ろに浮かんでいた。
「そう見えます」
「道、同じところ回ってない?」
小さな表示体は数秒黙った。
「似たところを何度か通っているようには見えます」
「だよね」
少女はまた歩き出した。
進みたいとは、あまり思わなかった。
けれど振り返っても、戻れそうな場所は見当たらない。立ち止まっているのも心細く、ほかに行きようもないまま、目の前の道をゆっくり進んだ。
しばらく歩いた。
曲がり角へ入る直前、言葉だけがふいに浮かんだ。
――君を待つ。
少女は足を止めた。
「……誰が?」
返事はなかった。
曲がり角の先に、バッグが置かれていた。しっかりした革でできていて、クリーム色のところどころに黄土色が入っている。暗い赤の道の上で、金具だけが妙にきちんと光っていた。
少女は数歩手前で止まった。
バッグが、びくりと震えた。
バッグから「嫌だ」という感じが伝わってきた。
続いて、もっとはっきりした声が来た。
「助けて」
少女は息を吸った。
「聞こえた?」
小さな表示体に尋ねた。
「私は聞き取れませんでした」
「そっか」
バッグへ一歩近づくと、胸が重くなった。バッグは動かなかった。
「ずっと、待ってたの?」
返事はない。
もう一歩近づくと、今度は怒っている感じがはっきり返ってきた。
「私に、怒ってる?」
「そうだよ。でも、もう大丈夫。ようやく来てくれたんだから」
少女はバッグの前にしゃがんだ。
「私、今日初めて来たんだけど」
言ってから、暗い道を振り返った。曲がり角の向こうは見えなかった。
バッグは小さく震えた。
「僕の中の苦しみ、全部吐き出してもいい?」
一瞬だけ考えた。
「うん。いいよ。ここにいるから」
言い終わる前に、バッグの口が開いた。
赤いものが噴き出した。
反射的に上半身を引いた。
血だった。
道へ落ち、壁へ飛び、バッグの周りへ広がっていく。その赤の中に、身体の一部のような形まで混じっていた。
少女は口元を押さえた。喉の奥がきゅっと狭くなり、息が一度だけ浅くなる。
「……こんなに」
赤い流れの中に身体の一部らしい形が見えるたび、目をそらしたくなった。
バッグは止まらない。
少女は口元を押さえたまま、そこにいた。
しばらくすると勢いが落ちた。
道はすっかり赤くなっている。
周囲を見た。
「これ、洗ったほうがよさそう」
どうやって、と考えたところで、遠くからエンジンの音がした。
暗い赤色の道を、ダンプカーがこちらへ来た。荷台から水をこぼしながら、バッグの手前で止まる。エンジンが止まっても、水面は荷台の中を行ったり来たりしていた。
「……来るんだ」
「来ました」
小さな表示体が言った。
「うん、それは見えてる」
運転席には誰もいない。少女は荷台をのぞき込んだ。水は透明だった。
「使っていいのかな」
返事はない。
バッグを見る。
「外だけ、少し水で流してみてもいい?」
バッグは小さく揺れた。
少女は近くにあったロープをバッグの持ち手に結び、もう一方の端を握った。荷台の横のレバーへ手をかけると、荷台がゆっくり傾いた。
水があふれ、バッグが横へずれた。ロープが手の中でぴんと張る。
少女は足を踏ん張った。道に広がった血は薄まり、赤い水になって向こうへ流れていった。バッグの表面にも水をかけると、革の色が少しずつ戻ってくる。
少女がロープを外そうとしたとき、バッグが言った。
「ごめんね」
「どうしたの?」
「まだまだあるけど、いいかな」
バッグを見る。
「うん。まだあるなら、出していいよ」
バッグの口がまた開いた。
今度はさっきより多かった。
「わ」
少女が後ろへ下がるより早く、血が滝のように落ち、道を打ち、壁へ跳ねた。ロープを離し、顔を腕でかばった。
離れたところに、傘が一本立てかけてある。
「なんで傘」
言いながら取りに走った。手の甲に血がかかる。傘をつかんで開くと、すぐ頭の上で重い音がした。柄を両手で握り、肩をすぼめて、その下へ入った。
「……でも、助かった」
傘の下からバッグを見る。
バッグはまだ吐き出している。
血が傘を打つ音だけが続いた。
やがて周囲の色まで変わり始めた。
道も壁も、さらに暗い赤へ沈んでいく。
胸が苦しくなった。
足元も見えにくい。傘を打つ音がやみ、少女は縁から顔を出した。傘を閉じても、暗くてバッグが見えなかった。
「もう少し明るければ……」
口にしたとき、前方にロウソクが一本立っているのに気づいた。
火をつけた。
小さな炎が揺れる。
暗さを追い払うほどの明るさではなかった。けれど、炎の近くだけ、道の縁とバッグの輪郭が見えた。壁にも、近いところだけ赤の濃淡が戻った。
道が狭くなり、赤い壁が近づいている。
もう、車が通れる幅はなかった。
後ろを見る。
ダンプカーのさらに向こうに、別の車が止まっていた。
放水車だった。
長いホースが積んである。
傘を置いた。
「あれ、使えるかも」
走ってホースを引いた。重い。曲がり角で引っかかり、いくら引いても来ない。
「ちょっと手伝える?」
小さな表示体へ振り向いた。
「たぶん無理です」
「だと思った」
少女は角まで戻り、ホースを持ち上げてずらした。もう一度先端を引く。今度はついてきた。
赤い空間へ向けて栓を開くと、水が噴き出した。腕ごと持っていかれそうになり、少女は片足を後ろへ引いた。
「強い!」
水が壁に当たり、赤い色が剥がれるように流れて道へ落ちた。少女は足を踏ん張ったままホースの角度を変え、バッグの周り、道、壁へ順に水を当てていく。
こびりついた赤は、水に押されて細い筋になり、道の低いほうへいくつも流れた。その後ろから、濡れた地面の色が戻ってきた。暗かった空間にも、輪郭が一つずつ戻った。
最後にホースを止めると、その場に座り込んだ。腕が疲れていた。赤い水が遠ざかっても、胸の下あたりに、熱い一点が残っていた。
そこへ手を当てる。温かいというには鋭すぎた。小さく、硬く、火のようだった。ホースを握っていた手にも、その熱が伝わる気がした。
「ここにいても、いいよ」
手を当てたまま、少女は顔を上げた。
空が青い。
いつの間にか壁も消えている。先には、さっきのロウソクが一本だけ、まだ細く燃えていた。
右のほうでは、さっきの水がまだ細かな粒になって落ちていた。その向こうに、淡い虹がかかっていた。少女が顔を少し動かすと、色の帯もわずかにずれた。境目は見えないまま、いくつかの色が重なっていた。
「……急だなあ」
少女は笑った。
バッグを見る。
水をかけた表面には、空の明るさが映っていた。口の内側は暗い。
そこだけ洗い残している気がして、少女はホースへ手を伸ばした。
「中も水を入れたら――」
「やめて!」
少女の手が止まった。
「やめて、やめて、それだけはやめて」
バッグの声は、さっきまでよりずっと強かった。
少女はホースから手を離した。
「分かった。入れない。ごめん」
バッグは震えている。
少女はホースから一歩離れた。
バッグの震えはすぐには止まらなかった。少女は、そのまま近づかなかった。
落ち着かない指をいったん握り込み、また開いた。両手を膝の上へ置いた。
やがて震えが小さくなり、バッグが言った。
「この中には、大切な宝物が詰まってるんだ」
少女はバッグの口を見る。
さっきまで血が出ていた場所だった。
「……見てもいい?」
「うん。いいよ」
バッグが開き、白いものがゆっくり出てきた。骨だった。全身の骸骨が、少女の前にまっすぐ立っていた。
少女は息を止めた。
頬のあたりが、うっすらしびれた。
胸を前から押されるような感じもした。
怖い、と言えば怖い。
けれど、骸骨は少女へ近づいてこなかった。
ただ、そこに立っている。
少女も動かなかった。
骨の白さだけが、青い空の下で妙にはっきり見えた。
「この人は……あなたにとって、どんな人なの?」
バッグが答えた。
「本来、入るはずだったもの」
少女は眉を寄せた。
「本来、入るはずだった……って、どういうこと?」
バッグは答えなかった。
少女は、立っている骨の形をしばらく見た。
自分の肩から胸元へ、一度だけ目を落とした。見慣れた自分の身体だった。それなのに、骨を見たあとでは、それもひとつの形として目に入った。
「男性なの?」
「うん」
さっきの「やめて」が耳に残っていた。少女はバッグの口から目を離し、胸の中心へそっと注意を向けた。心の奥へ釣り糸を垂らすように、問いを置いたまま耳を澄ませた。生成AIに問いかけて、言葉が現れるのを待つときと、どこか似ていた。
ふと浮かんだ言葉は、少女の理解の届かないものだった。ためらいながら、口にした。
「……あなたが私の霊のようなもので、この方が、本来入るはずだった身体……なの?」
バッグはほとんど間を置かなかった。
「当たり~」
少女は目を瞬いた。
「そこ、そんな軽く答えるんだ」
ひと呼吸置いて、バッグを見直した。
「……ほんとに?」
バッグはもう答えなかった。
骸骨の周りが明るくなり、バッグも光に包まれた。少女が目を細めているあいだに、骸骨はゆっくりバッグの中へ吸い込まれていった。
最後の骨が消えてから、ひと呼吸ぶん間があった。バッグの中から、衣を羽織った少年が出てきた。
少年は片手を裏返し、指を一本ずつ曲げていた。その手で衣の端をつかみ、空を見上げた。少女が顔を上げると、少年はこちらへ向き直った。
「それでは行きます。では」
「え……あ、はい」
少女が返事をする間に、少年は地面を離れ、空へ上がっていった。雲の厚いところは灰色のままで、日の当たる縁が黄金色に光っていた。少年の姿はその光を背に小さくなり、やがて雲に隠れた。
少女は、少年が消えた雲をしばらく見ていた。
胸の奥には、骸骨を見たときの圧が薄く残っていた。怖さだけではなかった。ずっと前にも、似た場所が身体の中にあった気がしたが、いつのことかまでは思い出せなかった。
視線を下ろすと、足元にバッグがあった。
少女は拾い上げた。
「これからは、一緒にいる?」
バッグは間を置いて答えた。
「いいえ。僕は旅に出ます。なくしたものを取り戻すために」
少女はバッグを抱きしめた。
思ったより強く、腕に力が入った。
革はまだ湿っていた。あれだけ吐き出したあとのバッグは、いま腕の中に収めると小さかった。
血に濡れたことも、傘を差したことも、「当たり~」と返されたことも、まだついさっきのことだった。旅に出る、と聞いた途端、その全部が遠ざかっていくように思えた。
「行かなくてもいいよ。もう、一人じゃないから」
バッグの角が腕に当たっていた。力を緩めても、まだ離しにくかった。
バッグは何も答えなかった。返事の代わりに、白い光の玉がバッグの中から浮かび上がった。
少女は腕を緩めた。
光はゆっくり少女へ近づく。
「入るの?」
光は、おへその少し下、身体の手前で止まった。
そのまま、近づいてこなかった。
少女は足の裏へ注意を向けた。地面の感触はまだあった。
ひと呼吸待った。
「……うん」
光の玉は、おへその少し下から身体の中へ入った。少女は息を呑んだ。
「わ」
身体の中がむずむずする。くすぐったいのとは違う。細かい泡のようなものが、光の入ったあたりからいったん下へ沈み、腰の奥へ集まっていく感じだった。
少女はバッグを足元へ下ろし、下腹部に手を当てた。
「そこにいる?」
明るい感じが返ってきた。
「これから、どうしたい?」
「あなたの側で力になります」
当てた手の下から、声がした。
「そっか。そばにいてくれるんだね。ありがとう」
腰の奥から押し上げられるように、背筋が伸びた。少女は試しに背伸びをした。身体の中に圧がかかった。
「お」
面白くなって、もう一度背伸びをする。圧は腰の奥からお腹、胸、首へと上がり、頭まで来たところで強くなり続けた。
「……ちょっと、強い」
頭の内側が押される。あと少し強くなれば、痛みに変わりそうだった。
少女は両足を地面につけ直し、息を吐いた。頭のてっぺんが、ふっと薄くなる。そこから白いものが細く抜け始めた。押し上げていた圧も、それを追うように上へ流れていく。
やがて頭の内側が静かになった。
少女は両肩をゆっくり回し、もう一度お腹に手を当てた。まだ温かかった。
「今は、これくらい」
ひと呼吸してから、手を離した。
小さな表示体は離れたところにいた。
何も言わなかった。
*
バッグは、地面に置かれていた。
さっきまで話していたものと同じなのか、抜け殻なのか、少女には分からない。
持ち上げてみる。
軽い。
いつの間にか、周囲は海辺になっていた。
波は穏やかだった。
沖では、小さな波が一つ崩れ、白い泡が横へ流れた。
砂浜へバッグを置く。
少女が海を見ていると、次の波が足元まで届いた。もう一度来た波は、足首を越えた。
振り返ると、砂浜がなかった。気づけば、周囲は夜になっていた。
暗い水の上に立っている。
少女は目を瞬いて、空を見る。
星が一面に出ていた。
左のほうに、欠けた月がある。
その光だけでは、足元はよく見えない。
少女はバッグを探した。砂浜へ置いたはずのあたりに、黒い影が浮いている。波に持ち上がった縁が、柔らかく曲がった。ゴムボートだった。
少女はボートを見て、口元をかすかに緩めた。
縁に手をかける。体重を預けても、沈まない。
「乗せてもらっていい?」
ボートが足元へ寄り、縁をこちらへ傾けた。
少女は傾いた縁に手を添え、ボートに乗った。腰を下ろすと、底が浅く沈んだ。水の動きが、薄い底を通して伝わってきた。
中にオールが一本置かれている。
周りを探すと、もう一本あった。
「自分で漕ぐんだね」
少女は左右のオールを持った。
ふと、ボートにも名前があるのだろうかと思った。
「あなたのこと、何て呼べばいい?」
すぐそばの水が、かすかに揺れた。
「歩みを止めないで。僕に言えるのはそれだけだ」
声は、すぐ下から聞こえた。少女が腰を浮かせると、ボートが傾いた。
「名前、聞いたんだけどな」
少女は座り直し、縁を一度撫でた。それから、オールを水に入れた。
引く。
ボートが動く。もう一度引くと、今度はまっすぐ進んだ。
腕が痛かった。さっきホースを引いたときと同じあたりに、また力がかかっていた。
少女はオールを膝に置いた。握っていた指を開くと、柄の跡が赤く残っていた。
船首がゆっくり横を向く。左に見えていた月が、正面へ寄った。
「少し休むね」
「オールだけ、中へ入れてくれる?」と、ボートが言った。
少女は縁からはみ出していたオールを、一本ずつ足元へ置いた。指を曲げ、また伸ばした。背中を預けると、柔らかな縁がへこんだ。波に押されて、ボートは横向きのまま流れていた。
夜風が頬を通った。
夕日を見た道の風より、ずっと静かだった。
岸も見えない。
少女は一度だけ後ろを見た。
何もない。
前を向く。
オールを水に入れる。
引く。
手元に水の重さがかかった。オールを上げると、しずくの落ちる音だけが遅れて続いた。
少女はもう一度、漕いだ。
*
次に目を開けたとき、部屋は暗かった。
少女は机の前の椅子に座ったままだった。
スマートフォンは机の上にある。画面は消えていた。
少女はすぐには立たなかった。
足の裏に床の冷たさがあり、お腹にはまだわずかな温かさが残っている。頭は静かだった。
時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。
「お腹すいた」
立ち上がるとふらつき、机に手をついた。
台所へ行って水を一杯飲み、母が焼いておいてくれた卵焼きを冷蔵庫から出した。母には、今日のことをまだ何も話していなかった。流しの水切りには洗った包丁が一本伏せてあり、まな板の隅がまだ濡れていた。容器の蓋の内側に、細かな水滴がついていた。箸で一切れつまむと、冷えた卵がへこんで戻った。少女はそのまま一口食べてから、残りを皿に移した。椅子に座って食べるあいだも、スマートフォンは机に置いたままだった。
食べ終えると、皿を洗い、水切りの包丁の隣へ伏せた。顔を洗って歯を磨き、ベッドに入った。横になると、身体の重さがそのままマットレスへ沈んだ。
少女は一度だけ深く息を吐いた。
その夜は、それ以上何もしなかった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。