第5章 死の影/悪魔との戦い
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激しい眠りの中で、何かを失ってしまったことに気づく。手や足はなかなか思うように動かない。身体は冷えていて、呼吸は浅い。でもここはホテルのベッドの上だ。でも自分がたどり着いたと思った場所の先にも世界が広がっていて、自分が辿ってきた道にも世界が広がっていることを感じると、自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。ここはただのホテルのベッドの上だ。なんども自分自身に言い聞かせる。でも僕の身体には高い山に登ったという記憶が残っているだけで、力が入らない。
ベッドから抜け出し、隣室のソファに座るとコップに水を注ぎ、それを飲み干す。水が身体中を駆け巡る。でもまだ力が戻ってこない。
妻はまだ静かに眠っている。
音をたてないように米を研ぎ、米を炊く。身体が日本の米を求めている。自分が住む場所からはるか遠く離れると、自分の国が恋しくなるという話はよく聞くが、どうやら僕もそうだったらしい。
米を洗い終えると、米を炊き、静かに時間を待つ。
両手鍋で米を炊くのは初めてだった。でも炊飯器で米を炊いたことはあったし、それほどの違いはないだろうと見当をつける。インターネットで鍋で米を炊く方法を検索し、その手順に従って米を炊く。うまくいくかどうかはわからない。でも自分で米を炊きどうにか自分が食べたいものを食べなければ、自分の身体からはエネルギーが失われたままだと思う。
夢のせいだ。そう思う。でもそれはある意味では心の投影であり、巨大な世界の広がりの前で、打ちのめされているのだ。
ホームシックにかかったのかもしれない。そう自分を分析する。けれどどれだけ客観的に自分を見つめようとしても、求めているものが米であることには変わりはない。もしアメリカに住むことができたとしても米を求めるだろう。そう自分のことを理解する。
どこまで遠くへ行くことができたとしても、ある時には自分の原風景が自分に力を与える。そしてその原風景を忘れてしまった時には、もう自分はかつての自分ではなく別の人間になってしまっている。そういうことを悟る。自分でなくなってしまうこと。そんなことを望んでいたのだろうか
静かに米がぐつぐつと煮える音がする。水が蒸発し、米の中に水分が含まれ始めている。芯が残らないように米をたかなければならない。でもその加減がわからない。でも蓋を開けるわけにはいかない。
静かに米を炊きながら、自分の思考が静かに落ちついていくようにコントロールしようとする。
遠くまできて、自分が望んでいることが故郷への思いなのか、そのはるか先なのか、よくわからなくなっている。どこまでも遠くへ行きたいという思いはあっても、それがひとり険しい山を登ることならと考えるだけで身体が凍える。きっとたったひとりになりたいと思っているわけではない。
米はきっと自分のなかにある故郷への思いを顕している。自分が遠くへきて、ようやく理解することができた故郷への思いだ。でもそれと同時にここまでこなければ、自分はきっと何もわからなかっただろうと思う。おそらく旅が教えてくれるのは、自分のことであり、自分の故郷のことだ。
静かにカリフォルニアに雨が降りはじめる。その雨の音を聴く。カリフォルニアは雨季だ。今日はゆっくりホテルで過ごすことも悪くない。
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時刻はまだ5時前だったが、妻が起きてきて僕に言う。
「なんだか胃が痛いの」
僕は「その胃痛は精神的なものだろうか 肉体的なものだろうか」と言う。
妻は「わからない」と言う。
「今までに感じたことのある痛みなのか それとも今まで感じたことのない痛みなのか」
妻はかろうじて「たぶん、経験のある痛み」という。
ほっとする。今まで感じたことのない痛みなら、それは未知のもので対処法を自分で調べることは難しい。しかし今までに経験がある痛みなら、それがどういう種類の痛みでどう対処すればいいのか見当をつけることができる。
「どういう時に経験した痛みと似ている?」と尋ねる。
妻は「大学院を受験した後にこれと同じような痛みを感じたことがある。わたしは必死に勉強をして、大学院を受験した。でもその後で激しい胃痛に襲われてわたしは救急車を家族に呼んでもらった。でも医療では原因は不明だった。点滴を受けて、家に戻り、何日かゆっくりと過ごしていたら、いつの間にか胃痛は治った」
「とにかく休むことだよ。もしお腹が減ったなら僕は米でおかゆを作っておくから。きっと旅の疲労なんだ。とにかく今日はゆっくり休もう」
僕はそう言うと妻の手をひいて寝室へ行き彼女の眠りを待つ。
食中毒などの症状なら同じものを食べていたのだから僕にも症状があらわれてもおかしくはない。もし食中毒なら何らかの医療機関にかからなければならない。しかし精神的な胃痛ならとにかく休養をとることが必要だ。問題の原因を分析し、その対処を考える。それが今、僕にできる精一杯のことだ。
妻が精神的に頭痛や胃痛を訴えることはこれまでにもあった。だからいつものように休養することで症状が治る可能性もある。でももし何らかの症状がアメリカに来たことによるものならば、どうすれば問題を解決できるだろう?
冷静になろうと思う。とにかく肉体的なものか、精神的なものか問題を切り分けなければならない。肉体的なもの、ウイルスなどの感染が疑われる場合なら医療機関を受診する。精神的なものならなんらかの胃薬が必要になるかもしれない。そのふた通りのパターンの対処法を考え、それぞれの方法を実際的に調べる必要がある。
炊きたての米に水を注ぎ、再び沸騰させて、おかゆを作り始める。
彼女が次に起きた時にどういう状態になっているか?
その時にどう対応するか?
僕はその対処法についてインターネットを検索しはじめる。
調べていてわかったことは医療機関にかかるには莫大なお金がかかるということだった。でもこの金額は海外旅行保険に入っているから、大きな問題ではない。次に医療機関はサンフランシスコ国際空港の内部にあることがわかった。もし肉体的なトラブルなら車を走らせて海外旅行保険を使用し、医者にかかる。これが考えることができるひとつの方法だ。
次にアメリカは薬品を自分で購入することができるドラッグストアが発達していることがわかる。医師にかかることはとても大変なコストがかかる。しかし問題が大きな問題ではないと見立てることさえできれば、症状にあわせた薬を自分で購入し、妻のトラブルを解決することも不可能ではない。
アメリカという国は本当に個人主義的な国だと思う。日本では何かトラブルがおきたら、それが些細な問題であっても、まず医者へ行くことを誰もが口にする。しかしアメリカでは医者にかかることは稀で、多くの問題を自分で把握し、必要な薬を自分で手にしなければならない。
妻の病状が大きなトラブルなのか、そうでないのか見極める必要がある。言うなれば、自分たちの命を自分たちで背負っているのだ。
なにかずっしりと重いものを手渡されたような気持ちになる。でもそれは当然のことだ。僕が妻を守る。それは当たり前のことだとわかっている。
重い症状ではないケースを考え、胃痛の薬について調べる。インターネットは今ではあらゆる情報を教えてくれる。もしインターネットがなければこんなふうに事態に対応できただろうか? もしインターネットがなければ、英語があまり話せない僕にはたぶん多くの物事に対応できなかっただろうと思う。ある意味では情報こそがあらゆることの生死を握っている。
僕はインターネットを検索する。
妻に起きていることを冷静に分析し、あらゆる可能性について考える。その間におかゆはできあがる。おかゆを口にする。確かに米は本当に美味しい。自分たちがこれまで食べてきた味だと思う。そしてアメリカでも問題に対応することができると思う。しかし、もし妻が経験したことがない重大な病気にかかってしまったら?
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妻はベッドから起き上がると激しい胃痛を再び訴え、そしてバスルームで吐く。大きなトラブルの可能性がまだ残っていることを確認する。でも妻はこれまでもある時には嘔吐してきたのだ。
彼女はなぜ吐くのか? 妻は大学院の受験の際にも激しい胃痛に襲われたと話していた。
僕はある可能性について考える。胃は消化器官だと考えられている。実際に胃は食べ物を消化する。でも胃はただ食べ物を消化する器官なわけではない。胃は実際には感覚器官でもあるのだ。妻の胃は何かを感じ、感じた何かによって嘔吐という現象を起こしている。彼女が感じたのは疲労なのかもしれない。彼女が感じたのは僕の何らかの態度かもしれない。彼女の胃はとても敏感で、何かを察知し、何かを訴えている。
僕が夢の中で何かを失い、米を食べることを求めたように、彼女の中でも何かが変化している。
彼女は胃の中にあるものをすっかり吐いてキッチンにやってくる。僕は「おかゆを食べる」と妻に聞く。
妻は「いらない」と言う。
僕は「まだ胃は痛いのか」と聞く。
妻は「まだ痛い」と言う。
僕は少し考えてから「日本で飲んでいる薬はもう飲んだ?」と妻に聞く。
妻は「飲んだ」と言う。
もう1度妻に何か食べることを勧めようかと思ったが、それをしない。
彼女は激しい胃痛におそわれている。できることは彼女の胃痛をとりのぞく薬をアメリカのドラッグストアで購入することと、彼女の胃痛の本当の原因を探り当てることだ。
妻に「とにかくもう少し休んで。きっと疲労によって胃痛がおきている可能性もある」と言う。「身体のどこかが何かを訴えかけている場合、それは何かのトラブルなんだと思う。でも肉体的な問題ではなく、精神的な問題であれば、とにかく休むことが必要だ。しっかりと休んで、それでも問題が解決しないのであれば、それは何かのストレスがかかり続けているということの証なのかもしれない。でもしっかり休むことで問題が解決するなら、きっとストレスになっている原因を取り除けば問題は解決する。あるいは今すぐドラッグストアに行き、何らかの胃薬と精神的な薬を購入するべきなのかもしれない。アメリカでは自分たちで選択して薬を購入することができる。でも僕はこの方法はそれほど正しいと思っていない。日本で医者にかかり続けることが正しいとも思っていない。ある意味では身体のサインを受け入れ、そのサインに従って自分の身体の不調と向き合うことが本当に正しいことだと思っている。精神的なことに限って言えば、薬漬けになってまで困難に立ち向かうべきではない」
妻は「とにかく休むよ」と言う。僕は疲れている妻に言いすぎたと思う。話していることは確かに正論だ。でも誰もが自分が疲れていると知っていて、そして心底の休日を願っていたとしても、どうしようもない時もあるのだ。
「僕たちは旅の途中だ。でも時には旅を続けながら、ゆっくり休む必要がある。きっと誰もがそうだ。僕も今日はゆっくりするよ」
そう言って彼女を再びベッドまで連れていき、その手を握りながら、彼女が再び深い眠りに落ちるまで、ずっとそばにいる。
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ベッドの中で考え続ける。それは資本主義の歴史のことだ。18世紀や19世紀に確かに社会は著しく発達した。誰もがその富を享受できるようになった。もちろんその繁栄は世界の隅々まで行き渡っているわけではない。でも工場長が激しい叱責を部下たちに言い放ち、女性や子どもが工場で朝から晩まで働かされてきたことを知っている。国王がその自分の富を最大限増やそうと人々が働き続ける世界を作り上げたのだ。僕は富の拡大の良い面と悪い面について考える。ある意味では富の拡大は植民地支配を生み、国と国が激しく争うことでブロック経済圏を作り上げ、最後に世界大戦が起きた。僕はこの流れがとても当たり前だと思う。支配者たちは頂きはひとつあれば良いと思っていた。
でもローマがやがて分裂したように、一極支配を目指す世界の構図は明らかに変化していた。生物があらゆる姿にその魂を変容させながら生き続けるように、世界もあらゆる可能性を内包しなければならないことに誰かが気づいたのだ。あるひとつのシステムで世界をまわすわけにはいかない。電気ひとつですべてを管理させるわけにもいかない。多重性が必要であることはコンピュータのソースコードを調べても明らかだった。システムのセキュリティには冗長性が必要だ。ある時にはひとつの突出したものがあってもいい。でもその突出したものが滅べば、すべてが消えてしまうような世界はもう必要がない。
恐竜たちが絶滅した理由について考える。恐竜の肌は鱗で覆われている。たぶん恐竜たちが生きていた時代は高温の時代だったのだろう。爬虫類の生態を考えると、僕にはそういうことがわかる。確かに恐竜は栄えた。でも世界の環境の変化の中で滅びた。恐竜は寒さに耐えることができないよう神様が設計していたのだ。自分たち哺乳類はどうだろうか 寒い時には毛皮が皮膚を覆った。自分たちがネズミだった頃のことだ。気温の変化がまた暖かい時代になると毛皮は必要なくなった。自分たちが猿から人間になった瞬間だ。生命は環境に応じて自分たちのあり方をゆっくりと変容させていく。本当の神はあらゆる可能性を世界に与える。そしてその中から新しい何かが目覚める。
あらゆる生命が人類の友だ。でも僕たちはあらゆるものを食べる。僕たちは食べられることはないけれど、巨大な資本家のいいなりになって、薬漬けになっても働かされる。そしてそれが正しいことだと言われて育つ。でもそれが正しいことだろうか?
僕は、あるいは妻は、あらゆる人は、それぞれ自分にあったバランスを求めている。何もしたくないと言っているのではない。それぞれが生きる目的を求め、生きる意味を探し、この世界に何かを残したいと願っている。でもひとりひとりが自分の夢を持つことはこの世界ではあまり許されていない。それは支配者たちが最も嫌うことのひとつだ。彼らは薬漬けになりながらも自分たちのためのお金を運んでくる奴隷を必要としているのだ。
僕はこれが僕の中にある怒りだと自分で認める。あるいはこれは僕の心の中に怒りとともにある偏見なのかもしれない。でもこの怒りをどうしたいのだろう。誰もが自分の人生で何かを成し遂げて、そして幸せに生きることを望んでいる。
妻が隣で深く眠っている。彼女の胃痛は大丈夫だろうか? 僕は自分の心の中に怒りがありながらも、でもまだ彼女のことを心配することができる。ただ自分の怒りに自分を支配されてはならない。彼女を守り、自分を守り、それでも自分が求める世界を求めて動き続けなければならない。
アメリカにはアメリカの答えがある。日本には日本の答えがある。でもそこに住むひとりひとりの願いはいつ叶えられるのだろう? 僕は自分と同じように苦しむひとりひとりのことを思う。
僕は自分たちひとりひとりに知恵が、言葉が与えられた意味について考える。誰かと何かを話すことの意味について考える。たぶん言葉が与えられたことにも、話すことにも自分たちがまだ知らない意味がある。考えることもそうだ。
なんとか人類の歴史を辿りながら、人類はその全体としては幸福になってきていて、今後もさらに幸福になっていくという呪文を唱える。でもゴールデンゲートブリッジの建設で命を落とした人について考える。様々な戦争で死んだ人について考える。飢えで亡くなった人について考える。あらゆる死の元にこの世界があることについて考える。
ナーバスになっているのかもしれない。僕は妻のためにおかゆは作れる。けれど薬をつくることはできない。医師のように病の本質的な原因を見定めることはできない。
でも誰かがこの世界の病について何らかの解決方法を見つけなければならない。
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王政が終わり、資本主義の時代になった本当の理由を知っている。ダーウィンが進化論を著し、神が生命に対して行ったことを、真似たのだ。ある意味ではこの世界は生命の進化を模した世界だ。あらゆる企業が誕生し、生き残る企業と死ぬ企業に分かれている。生き残ったものが正しい。そう資本主義社会はあらゆる企業を市場原理にまかせている。根底にあるものがダーウィンによる進化論であることは間違いないだろう。もちろん王が支配するよりも、あらゆる企業体がそれぞれ頭脳を持ち、生存をかけて争うことにより社会は発展するのかもしれない。そしてその先にイノベーションという人類が産み出した社会の進化の方法によって、世界は少しずつ変容していくのかもしれない。
世界を支配する頭脳はいくつが都合が良いのだろうか?
その問いに対して、生き残ろうとする意思の数だけという答えを考え、社会に企業を複数つくり、競わせるようなシステムを作ったのは誰だろう?
日本社会においては渋沢栄一の名前は知られている。でも本当にこの世界を作ったのは誰か? それは日本人ではない。
ある意味では大航海時代、啓蒙思想の時代を経て、現代社会の礎が作られたことは疑いようがない。ヨーロッパ、そしてアメリカがこの現代社会を形成した。
でも現代社会にある闇を本当に解決し、そして新しい世界を生み出すイノベーションの震源地はシリコンバレーだ。ある意味では新しい啓蒙の時代が訪れ、インターネットという海を泳ぎきろうとする人々がいる。そのひとりひとりの血が流れた後に新しい時代がはじまるのだろう。
僕もまた橋をかけようとしながら死んでいくひとりなのかもしれないと思う。どれだけ未来を夢みても、できることは限られている。
自分が勇気と恐れの間にいることを知っている。妻を守りながら、それでも前を向かなければならない。でも自分にいったいどんな力があるだろう?
偉大な人たちの本を何冊か思い浮かべ、そのひとりひとりの人生を思いながら、静かに目を閉じる。
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誰かがこの世界の本質を見抜き、本を著し、世界の未来を後世に託した。それが誰かわからないけれど、世界はある意味では1冊の本によって生まれるのだと思う。例えばマルクスによって共産主義が生まれ、ソビエト連邦や中華人民共和国が誕生した。東西ドイツの分裂とその崩壊によって共産主義は否定されたと僕は考えている。でもその本に何もなかったなら、そういった国は生まれなかっただろう。ある意味では本はただの本だ。でもある時には国の、世界の礎にだってなれる。それが本というものの可能性だ。そして聖書は世界を根本的に支えている。はじめにことばありき。もちろん人類の歴史が言葉だけから成っているとは考えていない。言葉の前に歌があったかもしれない。言葉の前に手で道具を使ったかもしれない。でもこの世界は言葉によって生まれている。
何をどう分類するか。何をどう推測するか。そういう明確化は歴史の後でなされる。そして何かを言葉によって決められた後には、それが事実かどうかわからずに、でも事実として子どもたちに教える。
ある小説家は言っている。最後の最後まで考え抜くのだ。小説家は容易に判断をくださない。その言葉の意味がわかったような気がする。判断とはある意味では最後まで留保するものだ。きっと生きることの意味もそうだ。道を選択し、道を選択し、道を選択する。でもその道が間違っていたら全速力で正しい道をもう1度探す。
僕は昔、人工的に作られた迷路の中を歩いたことを思い出す。あらゆる選択を検証し、正しい道を探す。これが意識せずに子どもの頃の自分が行っていたことだ。たったひとつの正解をわけ知り顔で答えるのではなく、あらゆる道を選択し、残された道を歩いてゴールを目指す。ある意味では真実をみつける方法は、何度も間違うことだ。
もし列車に乗ってどこかへ行くことが正しいなら、列車に乗るだろう。でも列車に乗る前に誰がそれを正しいと判断したのだろう? ひとりひとりの人間は自分が列車に乗る意味を充分に考え、自分で選択したのだろうか?
もちろん自分で判断することは、自分で自分の人生に責任を持つことだ。そして自分で周囲の人間を守り、お互いに未来を目指すことだ。僕はそれが大人になることだと思う。そしてもし間違っていたら誰かに助けてもらうことも大人の判断だ。でもそれらを誰かの言われるがままにしてしまうことは自立した大人のすることではない。
日本社会が高度に洗練された文化であることを確認しながら、そこには大人が少ない理由がとてもよくわかる。ある意味では誰かが判断したことに意見を言わせない社会だ。ある意味では自分で自分の道を歩もうとする者を阻む社会だ。集団的であることを重んじる社会だ。ある意味でレールの上を満員電車に揺られながら、苦しむ社会だ。
でももちろんそこには正しさもある。日本はコンパクトで清潔で、人々は礼節を持っている。でもインターネットを少し調べれば、どれだけの個人が闇に苦しみ、悪意を持っているかわかるだろう。誰もがこの世界で穏やかに生きているわけではない。
アメリカのホテルは清潔でどこにも闇がない。でもそこにひとつ闇がある。僕自身のことだ。僕は旅の最中なのにとても疲れてしまって怒りを自分の中に持っている。
心を鎮めようと思う。また水を飲む。自分がまだ未熟であることを感じる。どうして誰をも、自分自身も、世界を肯定できないのか。
僕は知っている。時に妻が子どものように僕に甘えたがることを。そして僕が妻に子どものように甘えてきたことを。時に心を癒すのは厳しさではなく子どものように甘えることだ。
人は大人になることもできるし、子どもになることもできる。そして子どものようになっている時には、精神がとても疲れている時だ。子どものように過ごすことは、厳しい現実に直面し、本当に疲れた時に心が過去へ退行することだ。
子どもには成長へ向かうエネルギーが満ちている。自分がかつて子どもだったことを、誰かに守られながら生きていたことを思い出すことが、ある時には必要だ。自分の原風景がどれだけ自分に力を与えるか。僕はそういうことの意味を理解する。
僕は今も時の迷路を歩んでいる。
妻の中に何度も母親の姿をみて、その中で抱かれた。でも今度は僕が彼女の苦しみを救う時だ。
僕はそっと大人になる決心をする。
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iPhoneで目標のドラッグストアを設定し、ホテルの部屋のドアを開ける。エレベーターを降り、エントランスを通る。駐車場には白色のビートルが停まっている。ひとりでアメリカの道を運転したことはない。そして雨も降り続けている。日本で車を運転し、ドラッグストアへ向かうこととはわけが違う。道がわからないし、交通ルールが違う。フリーウェイは速度が違う。でもそんな言い訳は通用しない。妻が苦しんでいるのだ。自分の頭で判断して最適な答えを導きだし、そして行動しなければならない。どれくらい危険な道か判断し、その道を通ることができるかどうか考えなければならない。費用を考え、自分の財産と照らし合わせて考えなければならない。
インターネットで調べた薬のコストは10ドルから20ドル程度だ。ひとりで車を運転し、帰ってくることが難しいことが海外の恐ろしさだ。でも他に誰が薬を買ってくることができるだろう? もちろんアマゾンなどのネット通販で薬を購入することもできた。でも薬はすぐ届くわけではない。
エンジンをスタートさせると慎重に車を走らせはじめる。
フリーウェイを通らずにドラッグストアに行くことはできない。ホテルからフリーウェイの入り口までの道を水たまりをよけながら慎重に運転する。視界は雨のせいで悪く、何度もワイパーと方向指示機の操作を間違える。アメリカでの運転に、まだ馴染んでいるわけではない。
緊張しているせいかもしれない。でも事故を起こすことは最もあってはならないことだ。
フリーウェイを1区画だけ走って町へ降りる。見知らぬ町だ。雨の中で後ろからライトのパッシングを受ける。いや、たぶん気のせいだ。
iPhoneのナビゲートは正確だ。でも視界の悪さと周囲の車を察知してくれるわけではない。常に車線を変更し、曲がるところで曲がらなければ、目的の場所へ辿り着くまで何度も町を彷徨わなければならない。
なんだか物語の中で病気の母親の薬草を探しに森へ入った少年のような気分になる。大人になろうとして、なぜか子どものような気分になる。でも僕はある意味ではそれは正しいと思う。人を思いやる気持ちは、大人になってからでは身につかないのだ。あるいは年をとって人に対するやさしさを失ってきたのかもしれない。1日、1日、自分が過ごしていた暮らしの中で自分は形成されてきた。急に別の誰かになることはできない。
僕は初めての道をなんとか運転している。交差点でクラクションを鳴らされ、道に迷いながら。でもある時には走り始めたらもう迷ってはいけないのだ。
ようやくドラッグストアにたどり着き、目的の薬を探す。すべて英語の表記でどこに何があるのか、すぐにはわからない。でも店内で薬を探し続ける。
自分で薬をみつけることはできない。
店員を探し、iPhoneの画像をみせて「この薬が欲しいんだ」と英語で話す。文法も発音もめちゃくちゃだ。でも店員は僕の意思を理解し、薬のある場所へ連れていく。
薬の用法などを英語で説明されるが、その意味を聞きとることができない。もし正しい薬を購入できていなかったとしたら 不安を煽る声が再び響く。
ドラッグストアで販売されている薬が、飲んだだけで誰かを苦しめるようなことにはならないと自分に言い聞かせる。
でもここは日本ではない。食べ物は日本の食べ物よりもずっとファットな感じがする。きっと彼らの胃や腸は、日本人のものよりもずっと頑丈なのだろう。同じ人間だけれど、彼らは僕たちと別の暮らしをしてきたことにより、ある意味ではとても強いのだ。
もちろん自分の胃がそんなに弱いとは思っていない。でも妻の胃は繊細で時にとても敏感だ。この薬を購入することが本当に正しいのだろうか?
僕は悩むが、すぐに購入を決意する。
これは問題に対するひとつのアプローチだ。解決法かどうかわからなくても、購入すれば事態に対処する方法がひとつ増えることになる。
レジで薬を購入し、再びビートルに乗り込む。
後はホテルへ目的地を設定し、運転するだけだ。
でも僕は何を間違えたのか、空港の方へ車を走らせてしまう。
なんとかサンフランシスコ方面へのフリーウェイに乗り、ホテルへ向かわなければならない。
でもその時、iPhoneの充電が切れてしまう。もう誰もナビゲートする者はいない。
自分の経験から道を選択しなければならない。
iPhoneの暗い画面を信号待ちの間にみつめ、それを助手席へ放り投げる。
ナビゲートがない時、どう車を運転していただろうか? 僕はすぐに気づく。東西南北を確認し、大きな通りを把握する。標識に従い、もし道が間違っているなら引き返す。日本でなら簡単に道をみつけることができる。アメリカでも同じことだと思う。でもそれは同じではない。人々は大きく、車は左ハンドルで、フリーウェイの入り方はシンプルではない。まるで僕をこの場所に閉じ込めようとしているように道が入り組んでいる。
でも動かなければ帰ることができないということを知っている。雨は激しく降り、視界は悪い。道に慣れたドライバーたちは雨を気にせず道を疾走している。気に食わないことがあればすぐにクラクションが大きく鳴らされ、勇気をくじく。でも僕は運転しなければならない。
どれだけ心を蝕まれても、どれだけ迷っても、ある意味では僕が行うことはたったひとつだ。妻のいる場所へ帰ることだ。
標識を頼りに道をぐるぐる回り、なんとかフリーウェイに乗る。
車を運転することに恐怖を感じながら、それでもホテルへ辿りつく。
雨は降り続けている。でもホテルまでたどり着けば、雨が降っていることはもう少しも気にならない。
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ルームキーでホテルの部屋を開けるとまずリビングに入り、雨に濡れた衣類を脱いで寝室へ向かう。そして眠っている妻を起こす。
「ここにアメリカで買った薬がある。ドラッグストアで販売されているものだから、飲んでも問題はないと思う。日本で購入した薬は効かなかったんだよね? もし本当に胃の痛みがとまらなくて仕方ないのなら、この薬を飲んでみて欲しい。正しい薬を購入できたと思っている」
「危険はない?」
「わからない。アメリカの薬は効果がきついとインターネットで書かれている。おかしなところが販売した薬ではない。でも日本のものよりも効果があって、身体に負担がかかることはあると思う。ちゃんと副作用も確認した。問題はおそらくない」
妻は「おそらく」と僕に聞く。
僕は「すべてが確かと言うことは僕にはできない。薬を飲んでみるか、飲まないかの最終的な判断は君にまかせる。これはある意味ではどうしようもない時のオプションなんだ」
妻は少し迷っているようだった。そりゃそうだろう。躊躇なくアメリカで購入した薬を飲むことはできない。
「まず試しに僕が飲んでみてもいい。毒味ぐらいはできる」
妻は僕の言葉を聞くと「ううん。飲んでみる」と言う。
彼女は薬を飲む。僕は彼女に眠るように言う。
しばらく時間が経過する。彼女は目を閉じている。
1時間ぐらい経過した後で彼女は胸の痛みが激しくなってきたと言う。
薬が間違っていたのだろうか? 不安になる。
彼女は洗面所に行き、何かを吐き出す。
僕は間違ってしまったのかもしれないと思う。
彼女は吐くものがなくなるまで吐いた後、水を飲んで、もう1度ベッドに横たわる。僕が何を語りかけても何も答えない。
妻の手をとってみる。
温かい。血が通っている。
僕はきっと大丈夫だと思う。
しばらくして彼女はベッドから起き上がり、水を飲むと「お腹がすいた」と言う。
「もう胃は大丈夫なのか」と尋ねる。
「薬を飲んだ後、胃が焼けるように熱かった。そして、何かを吐いてしまった。でも今はとてもすっきりしている」
僕はその話を聴きながらおかゆを温めて彼女に渡す。
「もし食べることができるなら、全部食べたらいい。もちろん残してもいい。そしてもう少しだけ眠るんだ」
妻はおいしそうにおかゆを食べると、また少し眠りはじめる。
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大きな問題は解決しつつあるように思える。でもホテルを出て、海辺のほうへ歩く。雨はやみ、太陽はもうすぐ沈もうとしている。ホテルの周囲は何もなく、海は穏やかに岸辺に波をうちつけている。そしてショッピングモールの廃墟が変わらずにある。
まわりに闇が存在する気配がする。これまで感じてきたように。
そう、僕の中には悪魔がいる。
僕はその海辺でそう感じる。きっとずっと昔から僕の中にいて、時には僕を迷わせ、時には僕の勇気をくじいてきた悪魔だ。
僕は海辺でその悪魔と出会う。
彼は僕の形をしている。僕は僕の形をしている。
僕たちはひとりの人間だ。
「よう」
僕は僕にそう語りかける。
「気づいていたのか」彼は僕にそう語りかける。
「いや、俺は今まで何も気づいていなかった」
僕は僕にそう語りかける。
海辺は潮の匂いと雨が降った後の匂いが入り混じっている。僕は太陽がもうすぐ沈みそうになっていることを確認し、早く決着をつけなければならないと思う。
「自分の中に悪魔がいるなんてことには全然気がついていなかったよ」
僕はそう言う。「そして悪魔が実在するなんて思ってもいなかった」
僕は僕にそう語りかける。
「もし君がロサンゼルスに行っていたら大変だったろうね」
そう悪魔は話す。「彼女はそれを感じて旅がより困難になることを防いでくれたんだ」
そう彼は言う。
「そうなのかもしれない」と僕は言う。
悪魔は「僕は君の知らないことをいっぱい知っている」と言う。「君が世界について色々話してきたことのほとんどはこの僕のおかげなんだ」そう悪魔は言う。
確かに悪魔の言う通りかもしれない。僕は何を望んでこんなところまで来たのだろう。ひょっとするとこの悪魔に導かれるままここまで来たのかもしれない。
僕がそう思うと悪魔はそれは違うと言う。
「僕は君の影だ。君の意識の中にいる。君はあらゆる世界をみたいと思ってきた。だから僕は君の手助けをしてきたにすぎない」
僕はどうだろう と思う。
「ここまでやってきて、君はようやくわかったんだ。自分の身勝手さにね。そして自分自身の愚かな部分を悪魔として切り離そうとしている」
僕は「違う」と強く言う。
でも自分が怒りに身をまかせればまかせるほど彼の思う通りになってしまう。
「自分の中に悪があることを忘れてはいけない。それは君の心の醜さから生まれている。奥さんと出会って、君はずいぶんと自由になったはずだ。ある意味では君は喜びの中にいて、彼女とともにこんな遠くまでやってきた。でもこんな遠くまで来る必要があったのかな? 静かに社会を支えている人々のことを考えてみろよ。自分がどれだけ本を読んだりしたとしても、彼らを救うことなんてできないんだ」
そう僕の悪魔は言う。
「君がここへ来ることを望んだ。それでどうするつもりだい」
太陽は世界にもうかすかな光しか放っていない。闇夜が訪れようとしている。僕は自分が完全に不利な状況にいると悟っている。でも今、彼をなんとかしなければならない。そうだ。ある意味では僕は僕の為にここに来た。確かにこれは新婚旅行だ。妻との愛をしっかりとしたものにする為のものだ。でも僕は昔からこの場所へ来たかった。自分が描いている未来がアメリカにあると信じていたのだ。故郷を憎みながら。
でもどうだろう。
このホテルの周りは開発をすすめようとして失敗していて、企業が撤退し、ホテルだけが残されている町のように思える。ショッピングモールの廃墟があることもそういうことを裏づけている。そういう場所、つまり何かを間違ってしまった場所は、日本にもアメリカにもある。
ホテルの従業員たちは必死にホテルを守ろうとしている。でも大きな行政的な問題があって、この海辺にはある意味では海しかない。工業的で油の匂いのする海で、未来を探すことが難しい海だ。
かすかな光がふたつの影を生んでいる。ひとりは僕でひとりは悪魔だ。
僕は自分の手の中に鋭いナイフがあることを知っている。いつの間にナイフを握っていたのだろう? わからない。
僕はそのナイフをどう使えばいいのかわからない。僕はこんなナイフなんて握っているべきではない。
でも、僕はそのナイフを僕に鋭く刺す。
影はひとつになり、僕はひとりで海辺に残される。もう太陽は完全に闇に飲み込まれてしまう。僕は煙草を吸おうと思ったが、それをポケットの中に戻し、ホテルへ歩いていく。
悪魔を殺すことなんてできない。でも自分の中に闇があることに気づくことができた。
僕はそう思いながらホテルのエントランスをくぐりぬける。
ホテルのエントランスではマネージャーが慌ただしくチェックインする旅行客の相手をしている。僕はサービスのフリードリンクの中からコーヒーを選び、それを飲む。
とても温かい。
人間が生きている感じがする。彼らが守っているのは、たとえ何かを間違っていたとしても人として生きるその温かさなのだ。
その海辺に悪魔はいた。でもきっとそれは生きていない者だろう。
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妻はすっかり元気になっている。お風呂に入り、身体を温めてリラックスしている。僕は残っていたワインを少し飲むと、自分の中にいる悪魔のことを忘れて、彼女が早くお風呂から出てこないかなと思う。ひとりでアメリカの町を運転したことを話したかった。それがどんな冒険でどれだけ勇気が必要だったか。出会ったばかりの頃のように話したかった。結婚したからと言って急に何かが変わるわけではない。確かに僕が彼女を守り、彼女が僕を助ける部分もあるだろう。けれどその前に僕たちはお互いを認め合うひとりずつの人間なのだ。そしてお互いを深く認めているから夫婦になれたのだ。ふたりの間にある心の交流を抜きにして、お互いをお互いの奴隷にしてしまいたくない。そういう関係は本当に結婚というものの間違った方向だと思う。僕たちは結婚する前からお互いに惹かれていたし、結婚した後もそうだ。もし僕の中に悪魔がいたとしても、彼女ならきっとその悪魔だって手なづけてくれるだろう。僕はひとりでは深い闇の中に沈んでしまいそうなのだ。
彼女がいて良かった。そう心から思う。そしてそれは誰でもそうだろう。小さい頃には友人が、大人になってからは恋人や妻が、そしてもっと年をとれば家族が自分を本当の意味で支えてくれるのだ。
僕は思う。誰の心の中にも悪魔がいるのかもしれない。僕は間違った薬を選んで妻を苦しめたのかもしれない。そしてもし妻が苦しみ続けていたなら僕はどう思っただろう? その苦しみを自分のことのように思うことができただろうか? たぶんイエスだ。僕は妻の苦しみを自分のことのように思うことができる。多くの人の苦しみに対して自分のことのように思うことができる。自分が苦しむようなことを人に対してしたりしたくない。
僕は言葉を人と人とを結ぶ大切な橋だと思っている。もちろんアメリカに来て自分がうまくコミュニケーションがとれずに随分苦しんだ。彼らは違う人間なのではないかとも疑った。でももしまったく違う人間だったとしてもそこには橋が必要なのだ。最初に微笑みかけるその微笑みが必要なのだ。手を差し出して握手する最初の行為が大切なのだ。僕らはお互いを知らないままだったとしたら、永遠に空想の中にいる悪魔と対決しなければならない。そして悪魔は心の中でどんどん大きくなって、お互いがお互いであることを忘れさせてしまう。誰もが弱く、でも誰もがその自分の弱さを克服しようとしていると僕は信じている。
ある意味ではそういうひとりひとりの決意が未来を作っている。例え本によって新しい国が生まれるとしても、それが悪魔のように恐ろしい国になってしまってはならない。自分たちの誰もが夢見てきたような素晴らしい国。そして素晴らしい世界。僕たちはそこへ辿り着かなければならない。
妻はバスタオルで髪を拭きながら、何があったのという顔をして僕をみている。
「なんだか元気になったみたいだね」と僕は言う。
妻は「もう元気になったよ。ふたりで世界の果てまでだって行くことができそう」
そう彼女が言うと僕は笑う。彼女は元気になると本当に可愛らしいのだ。
ホテルのサービスの夕食とワインを味わい、ふたりで明日はどこへ行くことができるのか語り合う。夢の中ではきっとどこまでも行くことができる。もうひとりではない。もちろん僕たちは現実的に物事を判断しなければならない。でももしどこかへ行くことができるなら、僕はしっかりとハンドルを握って、彼女を連れていくだろう。
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