第5話 大きくなる船
翌朝、少女は鏡の前で、二枚のシャツを順に胸へ当ててみた。今日は袖口に刺繍のあるほうを選んだ。腕を通しかけたとき、白い骨の形が浮かんだ。
バッグが言った「本来、入るはずだったもの」が、まだ耳に残っていた。
男性だったことより、「本来」という言葉のほうが引っかかっていた。
少女は袖から出した腕を見た。手首を返し、指を一度開いた。掌の線が伸び、また元に戻った。
最初に浮かんだのは、まだ自分を子どもだと思っていたころのことだった。
身体の輪郭が少しずつ変わり始めた。鏡を見るのが嫌だった記憶はない。ただ、変わっていく身体に自分の感覚が追いつくまで、少し時間がかかった。身体のほうが先に進み、自分はあとからそこへ追いついていくような感じがしていた。
でも、昨日のことは、それだけでは説明できない気がした。
昔読んだ本の言葉が、いくつか浮かんだ。身体は魂の器だという話。心も身体の働きから切り離せないという話。どちらにも、そうかもしれないと思ったことがある。でも、昨日のことをどちらか一つで説明する気にはならなかった。
子どもの自分がいなくなって、大人の自分に入れ替わるわけではない。もしかすると、同じ身体の中へ、まだ知らない自分が少しずつやってくるのかもしれない。そう考えると、あのときふいに浮かんだ「君を待つ」という言葉が、昨日より少しだけ近くなった。
それでも、誰が誰を待っていたのかは分からない。
「本来」という言葉も、まだ引っかかったままだった。
一つに決めると、どこかが違う気がした。
少女は鏡へ目を戻した。袖を通しかけた自分の姿は、いつもと変わらなかった。
じゃあ、この身体は。
シャツのボタンを留めずに、机へ戻った。ノートを開く。前のほうには、日付の下に短い問いだけを書いたページがいくつか残っていた。ノートを替えたとき、まだ気になっていたものだけを前のノートから写してきたページもある。
ページを一枚戻すと、何をきっかけに書いたのか、すぐには思い出せない問いがあった。しばらく見ていると、そのときの机と窓の位置だけが先に戻ってきた。少女は答えを書かず、そのページをそのまま閉じた。
新しいページに、昨日の自分の言葉を思い出しながら書いた。
「……あなたが私の霊のようなもので、この方が、本来入るはずだった身体……なの?」
最後の「なの?」を書いたところで、手が止まった。
バッグの「当たり~」という声は、伸び方まで覚えていた。
少女は一行あけて、「当たり~」と書いた。
机に置いた腕の下で、袖の布が折れ重なっていた。布をずらすと、皮膚に薄い筋が残った。
少女はボタンを一つ留めた。次のボタンへ指をかけたまま、もう一度ノートを見た。
それからノートを閉じ、残りのボタンを留めた。
問いと「当たり~」のあいだには、一行ぶんの空白が残っていた。そのまま、数日たった。朝はまた時間割で始まり、放課後には教科書とノートが机の上へ戻ってきた。おへその下には、かすかな温かさが残ることがあった。休みの日には、読みかけの本を遅くまで開いた。
ある日の帰り道、足元へ薄いものが回りながら落ちてきた。回るたび、薄い面が一度だけ明るくなり、また影になった。
地面に落ちると、それは動かなくなった。少女はその横を二歩だけ進んだ。
足が止まった。
さっき明るくなった面を、もう一度見たかった。
戻ってしゃがむと、片側だけに薄い羽がついていた。指でつまみ、持ち上げた。女の子が道の端で掲げていた風車を思い出した。
指を開くと、羽は一度傾いてから回り始めた。少女は落ちたところまで追いかけ、もう一度拾った。
家に帰って、撮った写真をAIに見せると、「カエデの仲間の種かもしれません」と答えた。その名前を手がかりに図鑑を開くと、薄い羽をつけた種が載っていた。
種の写真より、葉の写真のほうが大きく載っていた。少女は自分の手を開いて見てから、ページへ目を戻した。
ページをめくると、枝を広げた一本の木が載っていた。幹には細い管が差し込まれ、透明な液が管の先で丸くふくらんでいた。
説明によると、春先、夜に冷え、昼に気温が上がるころには、カエデの仲間から樹液が採れるという。
少女は、管の先の一滴をしばらく見ていた。地面へ落ちる種ばかり見ていたのに、同じ木の中では、別の速さで別のものが動いている。
次の写真では、その液を煮詰めた琥珀色のシロップが、スプーンの先から細く垂れていた。
少女は写真の中の管を指先でたどり、それから手元の種へ目を戻した。薄い羽は机の灯りを透かし、硬い根元だけが小さな影を落としていた。
少女は手元の種をつまんだ。薄い羽の根元が、指に硬く触れた。
種が落ちるところを撮った動画も探し、自分で撮ったものと見比べた。
片側に薄い羽がついた種の形をまねて紙を切り、同じ高さから落としてみた。
その週は、探究の授業で中間発表の練習をした。
教室では、スライドを映す人も、ポスターを広げる人もいた。先生は「どこでそう思ったの?」「その前は?」と、結論に至るまでの道筋もよく聞いた。
前の人の発表が終わると、先生が少女のほうを見た。
「次、お願いします」
「はい」
少女は模型を入れた箱を両手で持って立ち上がった。椅子の脚が床を短く鳴らした。
前へ出て、種と紙の模型を机に置いた。撮ってきた動画を映す。
画面の中で、種はくるくると回りながら落ちていった。次の動画では、紙の模型が一度ひっくり返り、そのまま床へ落ちた。
「実物と同じ形に作ったつもりだったんですが、最初の模型はうまく回りませんでした」
少女は笑った。机の上に模型を並べた。羽の幅を変えたものや、先を折ったものがあった。
「実物の種は、落ち始めてすぐではなく、このあたりから回り始めています」
元の動画に戻して、途中で止めた。指先から離れた種が、まだ斜めになっている。薄い羽の縁はわずかにぶれ、硬い根元だけがはっきりしていた。
「もう一回、流してもいいですか」
先生が時計を見た。
「そこまでにしようか。続きは来週ね」
「あ、はい」
少女は動画を止め、模型を箱へ戻した。一つだけ机の下へ滑り込み、次の人がしゃがんで拾ってくれた。
席へ戻ると、友人が小さく親指を立てた。少女も笑い返した。前へ出ているあいだ上がっていた肩が、そこでようやく下がった。
ノートに次の人の発表テーマを書こうとして、シャープペンシルを握る指がかすかに震えているのに気づいた。
シャープペンシルを机に置いた。ノートの余白に、さっき動画を止めたところの種の傾きを、あとで描いておこうと思った。
家では、紙の模型の根元に、小さなクリップをつけてみた。
落とすと、羽が半回転した。もう一度落とすと、今度はくるくると回った。
「回った」
撮れているか確かめようとスマートフォンへ手を伸ばし、まだ録画を始めていなかったことに気づいた。
少女は床に落ちた模型を拾った。
窓の外は暗くなりかけていた。机の灯りを壁へ向け、スマートフォンを本に立てかける。模型の羽に小さな黒丸を描いた。白い壁の前で落とすと、丸がこちらを向くたびに、画面の中で黒く瞬いた。黒丸が一周してまたこちらを向くころには、模型はさっきより下にいた。
三度撮って、三度とも回っていた。
同じクリップを羽の先へ移すと、黒丸がこちらを向く前に紙が裏返った。根元へ戻し、もう一度落とすと、また回った。
同じところへ戻せば、同じように回る。その確かさが、少女には心地よかった。
種と模型の動画を、どちらも指を開いて落とす直前まで戻した。交互に見ると、紙のほうは回り始めるまでに大きく傾いた。本物の種は、その間にもすでに二度回っていた。
少女は模型からクリップを外し、手のひらに並べた。軽い紙と、爪ほどの金属。その横に、拾った種も載せた。
種の薄い羽は、硬い根元からそのまま伸びていた。
少女は紙とクリップ、それから種を見比べ、さっきまでの動きを指先でなぞってみた。
ノートの余白に種の傾きを描き、その隣に、クリップのついた紙も描いた。
その週末、昼を少し過ぎたころ、スマートフォンが震えた。
友人からだった。
短いメッセージに、来週の中間発表で使うスライド資料が添付されていた。
画面には、「これ、変なところだけ見てもらえる?」とある。
少女は背もたれから身体を起こし、パソコンでもそのファイルを開いた。
駅前の商店街の人通りについて調べたスライドだった。通学途中で見覚えのある店の写真も載っていた。
「変なところだけね」
誰に言うでもなく、口にした。
少女は最初の一枚から最後まで、一度だけ通して見た。
最初に、誤字を一つ見つけた。グラフの単位が抜けているところと、参考資料の発行年が書かれていないところもあった。
少女は順に印をつけた。
グラフの数字を見ているうちに、元の資料も気になった。リンクを開く。平日の夕方の人通りを、何年かおきに調べた資料だった。
数字は合っていた。
ここまでなら早い。
資料のタブを閉じると、さっきの店の写真が画面に戻った。
返信欄を開きかけ、最後のスライドに戻った。
「夕方まで営業する店を増やせば、商店街の人通りは戻る」
もう一度、グラフを見る。人通りが減っていることは分かる。でも、その理由までは書かれていなかった。
少女は一文の横に、「営業時間が原因かどうかは、この資料だけでは分からないと思う」と書いた。
そこまで書くと、いったん返信欄へ戻った。
けれど、カーソルを置いたまま、最後の一文へ目が戻った。
その下に、代わりの文章を書き始めた。
「営業時間と人通りの関係について、今後さらに――」
途中まで書くと、前のスライドも変えたくなった。写真の位置を少しずらし、見出しを短くする。そうすると、隣の説明が長すぎる。
「……ここもだな」
直すと、次が見えた。次のスライドを開き、また一つ前へ戻った。赤い印が増えていく。少女は背中を丸め、画面へ近づいた。
机に置いたスマートフォンが震え、隣のカップの中身がわずかに揺れた。
「急がなくていいからね」
少女は笑って、「急いでないよ」と打った。
送る前に、パソコンの画面へ目を戻した。友人の文章より、自分が入れた赤字のほうが多いページまであった。
少女は入力欄の「急いでないよ」を消した。
最初のメッセージまで戻り、声に出して読んだ。
「これ、変なところだけ見てもらえる?」
「そうだった」
結論の横に書いた問いは残した。誤字と単位、発行年の印も残した。見出しや文章の書き替え案は、別のファイルに移した。
書き替え案だけを残したファイルを一度読み返し、そのタブを閉じた。画面には、友人の言葉が戻ってきた。
「印のところ、確認してみて。文章の案も作っちゃったけど、必要なら送るよ」
印を残したほうのファイルを添えて、送った。
数分後、返事が来た。
「ありがとう! 単位ぜんぜん気づかなかった」
続けて、もう一通届いた。
「最後のところ、まだ言い切れないのは分かった。でも、ここは自分の言葉で話してみたい」
少女は、自分が書いた代わりの文章を開いた。元の一文より長い。けれど、これなら資料の範囲には収まる。
少し惜しかった。自分には、こちらのほうがきれいに見えていた。
友人の元の一文も、もう一度読んだ。声に出してみると、途中で息を継ぎたくなる場所があった。普段の友人の話し方にも、そこに似た間があった。
このまま送れたら、早いのに。
少女はメッセージへ戻った。
「うん。じゃあ、発表で聞くね」
と返した。
「よろしく。種の動画も楽しみにしてる」
「うん。もう少し見やすく撮れたら、見せる」
少女は、自分で書いた文章のファイルを閉じた。保存済みを示す小さな印だけが、ファイル名の横に残った。
机の脇に置いた小箱のふたから、紙の羽が一枚はみ出していた。
画面を閉じかけ、友人の「ありがとう」に目を戻した。
「よかった」
口にすると、噛みしめていた奥歯が離れた。
少女は背もたれに身体を預けた。
時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。飲み物を持ち上げる。ぬるくなっていた。
「……まあ、そうなるか」
少女は一口飲んだ。
まずくはない。
*
その晩、少女は部屋の灯りを落とし、椅子に座った。
目を閉じると、丸いテーブルがあった。
小さな表示体は、離れたところに浮かんでいた。
テーブルの上に、アヒルがいた。白くて小さな、安っぽいプラスチックの身体。子どもが水に浮かべて遊ぶおもちゃだった。
少女は身を乗り出した。
「かわいい」
アヒルは動かなかった。胸の奥が、かすかに詰まった。奥歯でアルミホイルを噛んだときの感じに、どこか似ていたが、それほど強くはなかった。
少女はわずかに顔をしかめたまま、アヒルを見ていた。
すると、白いお腹のあたりが、ゆっくり横へ広がった。
「……ん?」
丸かった底が平らになり、そのまま前後へ伸びていく。
両脇に縁ができ、アヒルの身体はいつの間にか小さな船の形になっていた。
「船……?」
丸い船底がテーブルの端を押し越した。船体が前後へ伸び、甲板がせり上がり、手すりが走り、窓が並び、その上からもう一階が追いつくように現れた。
「ちょっと待って」
少女が立ち上がった。
次に足元を見たとき、テーブルはなく、灰色の岸壁の上に立っていた。
すぐ横に、白い船が浮かんでいる。船と岸壁のあいだには渡し板がかかり、人が次々に乗り込んでいた。船内から笑い声と食器が触れ合う音が聞こえた。
船はさらに大きくなった。
「すごい。豪華客船みたい」
船首には、アヒルの顔がそのまま残っている。
甲板の向こうで、子どもが背伸びをしていた。海が見えたらしく、すぐ後ろにいた父親を呼んだ。
「こっちも見て」
父親が隣へ来ると、子どもはもう一度海を指した。二人の背中のあいだから、青い水面が見えた。
荷物を足元に置き、椅子へ深く腰を下ろす人もいた。
誰かが手すり越しに船首を見下ろした。
「ありがとう」
そう言ったように聞こえた。
アヒルの口元が上がった。
少女も笑った。
「みんな、嬉しそうだね」
船は大きくなるたび、階を増やし、通路を伸ばし、部屋を増やしていった。空いたところへ人が乗り、そのたびに、また船体が広がった。
窓の列が増えるにつれ、海の照り返しも細かな光になって増えていった。白い壁、ガラス、金属の手すりで、明るさにそれぞれ違いがあった。
少女は岸壁から見上げながら、次にどこが広がるのかを目で追った。
人が増えても、通路は不思議なくらい混み合わなかった。
笑い声は途切れず、船はいつの間にか、岸壁から見上げるだけでも首が疲れるほど大きくなっていた。
アヒルの口元も、そのたびに少し上がった。
少女は岸壁の縁へ寄り、船腹の下をのぞいた。
影の中で、小さな足が一度だけ水をかいた。水かきがぱっと開き、また船の下へ隠れた。大きな白い船体の下に、そこだけ元のアヒルが残っているように見えた。
その小さな水かきを見ていると、水面を静かに進む白鳥の姿がふいに浮かんだ。見えない水の下では、足だけが忙しく動いている。
白い船体の下で水をかいたのは、白鳥ではなくアヒルの足だった。
その二つが重なったところで、言葉が一つ浮かんだ。
「スワンライフ」
口にしてから、少女は自分の声に驚いた。
言葉だけが、船の賑わいの中に妙にはっきり残った。
胸の奥が、わずかに詰まった。
アヒルの口元は、まだ上がったままだった。
船腹の影で、さっきの小さな足が一拍だけ止まった。すぐまた、水面の下で動き始めた。
アヒルが、岸壁の少女のほうへ顔を向けた。
くちばしがわずかに開いた。けれど、鳴き声は出なかった。
そのとき、アヒルの目の端に透明なものがたまった。
一滴が、白い船首を伝って落ちた。
少女の笑みが消えた。
手が動きかけた。少女は岸壁の上で、そのまま一度待った。
胸の奥で、さっきの言葉が急に重くなった。
「……ごめん」
その先の言葉は出てこなかった。
さっきまでの賑やかな音は続いている。乗船口では荷物が渡され、甲板では誰かが笑っていた。
アヒルは返事をしなかった。口元は人を迎えるように上がったまま、涙だけがその流れから外れて落ちた。そのあいだにも人は乗り続け、船はまた大きくなった。
少女は、船首を斜め前から見られる位置まで岸壁を数歩進んだ。
もう一滴、涙が落ちた。
最後の何人かが渡し板を渡っていった。
少女は船首をもう一度見た。涙は止まっていなかった。
渡し板の上が一瞬だけ空いた。
少女は迷ってから、そこを渡った。
甲板へ上がると、船首の顔はもう見えなかった。代わりに、船内の広さと人の多さを急に身近に感じた。
少女は手すりに手を置いた。胸の詰まりは、岸壁にいたときより深くなっていた。
渡し板が上がり、岸壁がゆっくり遠ざかり始めた。
海の向こうが、低く鳴った。
顔を上げると、水面が大きくへこみ、円を描いて回り始めていた。
「……渦?」
船の上にもざわめきが広がった。舵が切られ、船体がきしむ。向きを変えきる前に、船尾が横へ引かれた。
少女は手すりをつかんだ。甲板の上を皿が滑り、壁に当たって割れた。誰かが椅子をつかみ、その椅子も滑った。
船が大きく傾いた。
叫び声のするほうを向くと、手すりの向こうへ人の身体が消えた。
「危ない!」
少女が叫ぶ。
船首のほうから、短く強い鳴き声が響いた。
少女がその声のほうへ顔を向ける途中で、船が消えた。
少女の足元もなくなる。
水へ落ちる、と身構えたとき、白い影が海へ飛び込んだ。
アヒルだった。
白い身体は水へ入る途中で細長くなり、背びれが出た。イルカになった。
「え」
手すりをつかんでいた形のまま、両手だけが宙に残った。身を固くしていたのに、水は来なかった。足元はないのに、身体はその高さに残っていた。
水面のあちらこちらに、人の頭が見えた。そのうち一人が波に隠れた。少女はそちらへ手を伸ばした。
伸ばした手は、水面まで届かなかった。
その下を、白い背中がくぐり抜けた。
誰かが背びれへ伸ばした手が滑った。イルカはすぐには進まず、身体を低く沈めた。もう一度伸びてきた手が背びれをつかむと、白い背中が波の上へ出た。
一人を岸へ運び、すぐに戻った。岸へ上がった人が振り返ったときには、白い背びれはもう沖にあった。
波の間から、また腕が伸びた。その向こうにも、人の頭が見えた。
次に潜ったとき、白い身体は水の中で大きくなり、金属の輪郭を帯びた。
「潜水艦?」
白い潜水艇が浮かび上がり、側面が開いた。最初に乗り込んだ人が振り返り、水面へ手を伸ばした。次の人がその腕につかまり、中へ引き上げられた。艇はさらに長くなった。
引き上げられた人は、床に膝をついたまま振り返った。濡れた袖から水を落としながら、次に伸びてきた手を両手で握った。
艇は何度も潜り、浮かんだ。開いた側面に人が集まり、誰かを奥へ通すと、また水面へ腕が伸びた。
最後の一人が引き上げられた。
しばらくして、海面に大きな白い船が浮かんだ。いつの間にか、また客船の姿に戻っていた。
船は港へ戻り、岸壁へ渡し板を下ろした。
靴の底には、いつの間にか岸壁の硬さがあった。
人々は支え合いながら船を降りていく。肩を借りる人も、荷物を抱えた人もいた。
最後の一人が岸へ渡った。
甲板で海を指していた子どもが、父親の濡れた袖を握っていた。父親がしゃがんで顔をのぞき込むと、子どもはその首へしがみついた。
離れたところでは、船首へ手を振る人がいた。
「ありがとう!」
岸壁から、いくつもの声が重なった。
アヒルは口元を上げて、その声を聞いていた。
やがて甲板が静かになると、アヒルの視線が、どこか遠くへ向いた。
「がぁー」
長く、苦しそうで、悲しそうな声だった。
帰りかけていた人が何人か足を止めた。乗客の一人が水を持って戻り、布を濡らして差し出した。アヒルは岸壁へ顔を寄せた。目の下を拭かれるあいだ、船体が小さく揺れていた。
少女も足元に落ちていた布を拾い、その人に渡した。
アヒルは、戻ってきた人たちを見ていた。やがて、頭を下げた。
しばらくすると、乗船口がもう一度開いた。
何人かが顔を見合わせ、ゆっくり船へ戻っていく。岸壁に座ったまま、アヒルへ手を振る人もいた。父親は子どもを抱き上げ、渡し板の脇へ寄った。子どもは顔をその肩へ伏せていた。
渡し板の手前で、一人が足を止めた。前を行く人が手すりを握り直すのを待ち、それから歩いた。
少女はふいに、これが最後の航海になるのかもしれないと思った。
船は消えなかった。むしろ、その日の船は、これまででいちばん大きく見えた。
夕方の光が、何層もの窓に映っている。
窓の一つで、人影がカーテンを引くのが見えた。
少女は開いた乗船口を見上げた。その先には、さっき手を置いた手すりがあった。少女は岸壁に残った人たちのそばへ腰を下ろした。
渡し板が引き上げられた。船と岸壁のあいだに、細い水面が開いた。
さっき拾った布の湿り気が、指先にまだ残っていた。
波が岸壁に当たり、少女の足元で音を立てた。
波の音に、乾いた音が混じった。二度、三度と、同じ間隔で続いた。
少女がそちらを向くと、目の前に小さな戸口があった。奥で、一羽のアヒルが織り機に向かっていた。
少女は戸口に手をかけた。
アヒルは自分の身体から羽を一本抜いた。
抜ける瞬間、丸い身体がびくりと縮んだ。羽を抜いたところに小さな赤い点が残り、アヒルは一度だけ羽を身体へ寄せた。
白い羽を細く裂き、糸のようにして織り機へ通す。
もう一本。
また一本。
鶴の恩返しみたいだ、と少女は思った。でも、いるのはアヒルだった。
薄い布が少しずつ伸びていた。
アヒルは織りかけの布を胸へ当て、首を伸ばした。白い布の上から、丸い頭がのぞいた。いったん首を戻し、布を胸の高いところへ当て直して、もう一度首を伸ばした。
「痛くない? 無理してない?」
アヒルは布を当てたまま、少女のほうを向いた。
「それ、見せてくれるの?」
アヒルは首を伸ばしたまま、少女を見ていた。
少女は戸口にかけていた手を下ろした。
やがてアヒルは布を下ろし、端をくちばしで引いた。織った端がゆるみ、糸になった羽が足元へ垂れた。
布を胸へ当てたままこちらを見ていた目が、妙に心に残った。
アヒルは織り機へ向き直り、次の羽にくちばしをかけた。
そのまま抜くと思ったが、くちばしは羽をはさんだところで止まった。
アヒルは、胸に当てた布を見た。次に、自分の脇の羽が少なくなったところへ目を落とした。
織り機は、しばらく鳴らなかった。
それから、羽を抜いた。
一本抜かれるたびに、少女の胸の奥がわずかに縮んだ。
少女は戸口に立ったまま、織り機の音を聞いていた。
布が何に使われるのかも、アヒルがいつまで織るのかも、分からなかった。
少女はアヒルから目を離し、自分の胸の奥へ意識を向けた。しばらくすると、織り機の音が遠のき、別の光景が心に浮かんだ。
売り場の床に、小さな子どもが寝転がっていた。幼いころの自分のように見えた。手足を動かし、まだ何かを訴えていた。
前にも欲しいと言ったのに、また買ってもらえなかった。
「何が嫌だったの?」
子どもは答えず、棚のほうを指した。何が欲しいのかは分かる。
その子を見ていると、少女の中に、こんな言葉が浮かんだ。
愛されているのは知っている。それでも、そのとき、もう少し自分のほうを向いてほしかった。
少女はそばへしゃがんだ。
「……おちびさん」
小さく呼ぶと、その子が顔を上げた。目が合うと、笑って少女の首へ腕を回した。
少女は抱きとめた。背中に手を置き、しがみついてくる力をそのまま感じていた。言い聞かせる言葉は、浮かばなかった。
やがて、首に回っていた腕が緩んだ。その子は顔を上げ、少女の肩越しへ手を伸ばした。向こうから差し伸べられた手が、その手を取った。相手の顔までは見えなかった。
手をつないだ二つの姿が、ふわりと浮かび、遠ざかっていった。
光景が薄れても、肩には小さな腕の重さが残っていた。
*
目を開けると、机の上の飲み物はすっかり冷めていた。
少女はカップを持ち上げた。
一口飲む。
さっきより苦く感じた。
スマートフォンには、友人からもう一通届いていた。
画面には、「また必要になったら頼んでもいい?」とある。
少女は画面を見た。
すぐに返せる。
入力欄を開く。
親指が画面の上で止まった。
肩を回すと、まだ重かった。
「うん、いつでも」
そこまで打った。
一度読み返して、「いつでも」を消した。
「うん。時間が合えば見るよ」
送信した。
それから、冷めた飲み物をもう一口飲んだ。
*
数日後の夕方、窓の外の青が藍色へ沈み始めたころ、少女はもう一度あの場所へ入った。
最初は暗がりしかなかった。
やがて、その中に淡い円が浮かんだ。白っぽい天板。丸いテーブルだった。
小さな表示体は、少女の斜め後ろに浮かんでいた。
テーブルの真ん中に、見覚えのある白いものが、ぽつんと立っている。
アヒルだった。
今度は船ではなかった。何階建てにもなった客船の面影が、すっかり消えていて、少女の口元が緩みかけた。
前に涙を流したアヒルが、こちらを見た。少女は、何と声をかけようか迷った。
アヒルがくちばしで天板を二度叩いた。少女が顔を近づけると、くちばしを上げ、こちらを見た。
前に浮かんだ言葉が戻ってきた。
少女はすぐには言わず、アヒルの丸い身体と、羽の抜けた赤い跡を見た。それから、小さく言った。
「……スワンライフ」
アヒルの動きが止まった。
アヒルはくちばしを少し上げ、少女を見たまま動かなかった。
しばらくして、くちばしを一度開き、また閉じた。
やがて、自分の胸の脇へ目を落とした。羽毛の途切れたところに、まだ赤みが残っている。アヒルはそこへくちばしを近づけ、触れないまま戻した。
それから首を横に振った。一度。少し間を置いて、もう一度。
少女は口を閉じた。別の言葉は探さなかった。
首を戻した拍子に、足が一歩ぶん横へずれた。
「そっか」
少女がそのまま見ているあいだに、アヒルはテーブルの端までよたよたと歩いた。
少女は思わず半歩近づいた。
「行くの?」
アヒルは端で羽を広げた。羽毛の途切れた脇が見えた。
少女は一瞬、手を伸ばしかけて、止めた。
「……気をつけてね」
少女は一歩下がって、場所を空けた。
アヒルは飛んだ。羽ばたくたびに、丸いお腹が上下した。
いったん沈む。
「あ、ちょっ――」
少女の手が上がった。けれど、アヒルはもう一度羽ばたき、持ち直した。
空中で止まった手を下ろすころには、口元がゆるんでいた。
アヒルはそのまま遠くへ飛んでいく。
白い背中が小さくなり、見えなくなる直前に、何かが一枚落ちた。ゆっくり回りながら、少女の近くへ降りてくる。羽だった。
少女は、さっき伸ばしかけて止めた手を、今度は開いた。指のすぐ上で、羽がもう半回りした。手のひらに触れるまで見ていた。
軽かった。指でつまんだ。
その瞬間、羽は手の中で急に重くなり、白い軸が伸び、金属の光を帯び、やがて刃の幅を持ちはじめた。
「わ」
片手では支えにくくなり、少女は両手で持ち直した。
鋼の剣だった。
さっきまで指先にあった羽の軽さは、もう残っていなかった。
飾りはほとんどない。
よく研がれた、まっすぐな刃だった。
「……羽だったよね」
返事はない。
少女は剣を持ち上げた。
思ったより扱いやすい。
空に向けて掲げる。
遠くから、声がした。
「がぁ」
少女は顔を上げた。
白い背中は、もう見えなかった。
背筋がすっと伸びた。胸の内側が、何かで満ちていくようだった。
少女は何もいない空を、もう一度だけ見た。
刃の重さが、両手の中に収まっていた。
少女は鞘を探した。
いつの間にか、腰のあたりに鞘があった。
「あるんだ」
剣を収める。
金属が触れ合う小さな音がした。
剣の重さが腰へ移ると、身体の内側には力が残ったまま、両手の力がゆるんだ。肩から背中へ、さらに腹へと、余分な力が少しずつ抜けていった。刃は見えなくなったが、剣の重さは鞘ごと腰に残った。
腰を動かすと、鞘が一拍遅れてついてきた。
少女は柄に一度だけ触れ、手を離した。腰の重さは、そのままだった。
短く息を吐いた。
「これから、きっとうまくいく」
言葉が出た。
理由は思いつかなかった。
*
部屋へ戻ると、窓の外はもう暗かった。
温かい飲み物を用意すると、湯気が上がった。一口だけ飲んで、椅子に座った。
スマートフォンには触れなかった。
腰のあたりだけが、まだ何かを提げているように重かった。そこには、何もない。
次にカップへ手を伸ばしたとき、湯気はもう消えていた。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。