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ひとりぼっちの空

hat47x

53,113 字

幻想的内省小説

"見えない水に包まれて、私は虹色の世界を歩き出す。"

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第6話 足跡の先

中間発表の日、友人は最後のスライドを映した。

「夕方まで営業する店を増やせば、商店街の人通りは戻る」

少女が印をつけた一文が、そのまま残っていた。

「ここは、まだ確かめられていません」

友人は一枚前のグラフへ戻した。

「このグラフでは、人通りが減った理由までは分かりません」

グラフには単位が入り、参考資料の欄には発行年も足されていた。

少女はペンを持ち直し、小さくうなずいた。

次に、商店街の写真が映った。

「私が帰るときも、閉まってる店が多くて。ずっと、やってないんだと思ってたんですけど」

友人は写真の端を指した。シャッターの脇に、小さな札が掛かっていた。

「ここ、三時まででした」

教室のどこかで、笑い声がした。少女も笑った。自分も、その店のシャッターしか見たことがなかった。

別ファイルに残した自分の文章には、コロッケは一度も出てこなかった。

「窓にコロッケの写真があるんです。前から、帰りに買えたらいいなって」

友人は写真を拡大しかけ、やめた。

「この店が開いてたら、私は寄ると思って」

先生が顔を上げた。

「お店の人には聞いてみた?」

「まだです」

友人はメモに目を落とし、それから写真へ向き直った。

「まず、休みの日の昼に行ってみます。開いてるところを、まだ見たことがないので」

友人が最後のスライドへ戻ると、同じ一文が大きく映った。少女はノートに「仮説」と書いた。友人はキーに指を置いたまま、何も押さなかった。

「この文は、直します」

少女はノートの「仮説」を丸で囲んだ。

その横に、友人がさっき言った「まだ見たことがない」と書き足した。

窓際の席のクラスメートが手を上げた。

「その店のコロッケ、食べたことはあるの?」

「ない」と、友人はすぐに答えた。

「ないんだ」と、質問した子が笑った。

友人も笑った。

「写真は、おいしそうだった」

少女はノートの余白に、店の名前を書いた。

席へ戻った友人が、小さな声で聞いた。

「最後、変だった?」

「最後の一文は、やっぱり変えたほうがいいと思う。今の資料だけだと、まだ原因までは言えないから」

友人はうなずき、机の上へメモを伏せた。

「コロッケの話、余計だった?」

少女はその手を見てから、ノートを寄せた。余白に書いた店の名前を指した。

「聞いてたら、私も行ってみたくなった」

友人は顔を上げた。

「じゃあ、行こうよ。日曜とか」

「うん。昼なら」

次の発表が始まった。友人は伏せたメモを戻し、最後の一行へ線を引いた。

少女の番は、それから二人あとだった。

前へ出るとき、さっき教室に広がった笑い声が、まだ耳に残っていた。

少女は箱を机に置いた。拾った種を置き、その隣に、それをまねて最初に切った紙の模型を並べた。羽の幅を変えたものや、根元に小さなクリップをつけたものは、その先に順に並べた。実物の薄い羽は机からわずかに浮き、最初の紙模型はその横で平らに寝ていた。

「最初は、帰り道でこの種が回りながら落ちてくるのを見ました。回るたびに片側だけ明るく見えたのが気になって、拾いました」

言ってから、動画を映した。

「紙でも同じ形を作ってみたんですが、最初はうまく回りませんでした。そこで、羽の幅や根元の重さを少しずつ変えて、回り方を比べました」

動画の中で黒い丸が明滅すると、前の席の子が顔を上げた。

「回ってる」

少女は口元を緩め、模型を持ち上げた。

「これは、根元に小さなクリップをつけたものです」

クリップの位置を指し、つけていない模型と並べた。

席へ戻ると、友人が小声で聞いた。

「黒い丸って、何のため?」

「一周したときに、同じ向きに戻ったのが分かるように付けたの」

「それ、先に言ってほしかった」

少女は黒丸を見た。

丸を描いた夜の机が浮かんだ。最初に回らなかった紙の模型。羽の幅を変えたもの。クリップの位置。何度も撮り直した動画。

発表のメモを開いた。最初の行の上に、「黒丸は回転を見るため」と書き足した。

授業のあとも、前の席の子が箱をのぞいていた。練習のとき、机の下の模型を拾ってくれた子だった。

「どれが一番ゆっくり落ちるの?」

「落ちるまでの時間は、まだちゃんと比べてない」

「これ、落としていい?」

少女がうなずくと、その子は長い羽の模型を選び、もう一つの模型を少女へ渡した。

「遅いほうが勝ちにしよう」

少女は受け取った模型を見た。

「じゃあ、私はこっち」

二人で距離を取り、手の高さをそろえた。

「せーの」

一つが床へ着いても、少女の模型は机の脚の向こうでまだ回っていた。

「やった」

しゃがんで自分の模型を拾うと、もう一つの模型が目の前を横切った。見ると、その子が羽の先を折っていた。

「今、どこ折った?」

少女が手を出すと、模型が渡された。爪でつけた短い折り目が、黒い丸を斜めに割っていた。

「このくらい。戻しとく?」

「待って。先に撮りたい」

少女は模型を返し、スマートフォンを出した。その子は同じ場所へ戻り、模型を持ち上げた。

画面に羽の先まで入れようと、少女は一歩下がった。見上げると、その子はまだ指を開かずにいた。

「いい?」

少女は録画を始めた。

「うん、お願い」

指が開いた。少女は画面の中の黒丸を追った。

「今の、見せて」

録画を止めると、前の席の子が寄ってきた。

少女は撮った動画を開いた。「うん、お願い」と、さっきの自分の声がした。二人で画面をのぞき込んだ。

*

それから何週間かたち、放課後の教室では、文化祭の準備が本格的になっていた。

商店街へ行った日、平日の帰り道には閉まっていた店のシャッターが、昼には頭の上まで上がっていた。

「あ、開いてる」

友人が早足になった。少女もそのあとを歩いた。

奥から油のはぜる音がして、通りへ揚げ物の匂いが流れていた。帰り道には銀色のシャッターしか見えなかった場所の奥に、小さなカウンターと揚げ物のケースがあった。

コロッケは売り切れていた。友人は春巻きを買った。紙袋の底に少し油がにじみ、友人は持つ位置を少し上へずらした。

店の人に、いつならコロッケを買えるか聞くあいだ、友人は紙袋を少女へ差し出した。受け取ると、薄い紙の底からまだ熱が伝わってきた。

店を出ると、友人は袋を受け取り、すぐ春巻きにかじりついた。袋が手から離れても、少女の指の腹には熱が残っていた。

「熱っ」

割れた皮の内側から、白い湯気が一度だけ出た。少女は、思ったより大きな声で笑った。

「熱い?」

友人は目を細めたまま、うなずいた。

「うん。でも、おいしい」

そう言って、もう一口食べた。

少女は店の窓に貼られたコロッケの写真を振り返った。

「今度は、コロッケがある時間に来たいね」

「ね」

友人は春巻きを持ったまま笑った。

探究で調べたものを、文化祭でも展示することになっていた。

机は端へ寄せられ、床には段ボールや定規、使いかけのテープが広がっている。入口から先生が、「通路の幅だけは、明日までに確認しておいてね」と声をかけた。

「はーい」

係の子が返事をすると、教室にはすぐまた作業の音が戻った。

「通路は、私があとで測っておくね」

少女が言うと、友人は「お願い」と返し、テープを切り続けた。少女も、自分の探究の展示に使う見出しの文字を切る作業に戻った。刃を閉じるたび、しゃき、と薄い音がした。

一枚だけ、下の余白がほかよりわずかに広い。

並べてしまえば、たぶん誰も気づかない。

それでも、そこだけが目に残った。定規を当てると、紙の外側の音が遠くなった。

隣でテープを切っていた友人が笑った。

「そこまでそろえるの?」

「見つけちゃったから」

「ほんと、そういうとこ見つけるよね」

切り直し、隣の一枚にも定規を当てようとしたところで、友人が別の紙を差し出した。

「そこ、貼ったらほとんど見えないし、こっち先にお願いしていい?」

少女は口を開きかけた。けれど、親指は定規の端を押さえたままだった。一本だけ線を引いてから、手が止まった。

時計を見た。

顔を上げると、机を動かす音やテープを切る音、誰かの笑い声が急に近くなった。

「これだけ切ったら、今日は先に帰ってもいい?」

「通路の幅は?」

友人が顔を上げた。

少女は、机の端に置いた巻尺を見た。

「まだ、測ってない」

「そこ、終わったんだと思ってた」

友人は切ったテープを指先に貼ったまま、少女を見ていた。

「私も、こっちが終わったら帰るつもりだったんだけど」

少女は手元の文字を見た。切り直した分の細い紙が、机に散らばっている。床に落ちた一本は、誰かが通るたびに場所を変えていた。

「ごめん。明日の朝、私が測っておく」

「朝は私、別の係だから、手伝えないよ」

「うん。そこは私がやる」

友人は机に残った紙へ目を移した。

「こっちは、あとどれくらい?」

少女は、まだ手をつけていない紙の束を友人のほうへ滑らせた。

「この束。まだ線も引いてない」

「じゃ、これは明日でいいね」

手元には、さっき渡された一枚だけが残った。少女はそれを切り終え、はさみを置いた。

「ごめん。お先に」

「おつかれ」

「おつかれ」

少女の返事は、一拍遅れた。

友人は貼りかけのテープへ目を戻していた。指先には、切りかけのテープが一枚貼りついたままだった。

端の折れた模造紙が一枚、目に入った。少女は鞄を持ち、教室を出た。

廊下へ出てからも、机の端に置いた巻尺だけが何度か浮かんだ。見出しの余白ではなかった。黄色い帯と、まだ書いていない数字だった。

翌朝、幅を測り終える前に、机を元へ戻す時間になった。端の一列だけ動かすのを待ってもらい、床にかがんでノートへ数字を書きつけた。

「いいよ。ありがとう」

顔を上げると、鞄を肩に掛けたまま立っていた子が、何も言わずに机を動かした。少女は手を伸ばしかけ、やめた。ノートへ戻って、残りの数字を書いた。

机の脚が床を擦ったとき、鉛筆の先がわずかにぶれた。最後の数字の末尾だけ、ほかより長く伸びた。

*

数日後の晩、少女が目を閉じると、見覚えのない家の中にいた。

小さな台所と丸いテーブルがあった。窓の外には、家々の屋根が並んでいた。

小さな表示体は、窓辺のあたりに浮かんでいた。

丸いテーブルの左端に、料理用のおたまが一つ置かれていた。中には、黒ずんだものが残っていた。

部屋の左半分は暗かった。

おたまは明るいほうに背を向け、暗がりへ逃れるように向きを変えた。けれど、白い光は丸い縁まで回り込み、おたまがまた向きを変えると、そのあとを追った。

「どうして回るの?」

「回りたくて回ってるんじゃない!」

おたまはまた光を避け、テーブルの左端へ下がった。そこには皿もないのに、何かをよそうように傾いた。

銀色の柄が白くなった。次の瞬間、おたまは一本の腕の骨になっていた。

テーブルから伸びた骨の手は、おたまのように丸くくぼみ、そこに小さな筏が浮かんでいた。白い三角の旗が立ち、人影が二つ乗っている。

水はないのに、筏は揺れていた。骨の手が筏を包み、テーブルの下へ引っ込んだ。白い旗の先だけが、縁の下で揺れている。

骨の腕のまわりに、ぼんやりと輪郭が重なった。肩ができ、胴体が現れ、その上に顔が浮かんだ。少女が瞬きをすると、テーブルの向こうに誰かが座っていた。

人の身体をしているのに、顔はトカゲのようだった。怖いというより、ひどく疲れて見えた。

「それ、ずっと持ってるんですか?」

「この二人が旅に出てから」

トカゲの人は筏を持ち上げた。旗がテーブルの縁を越え、二つの人影が現れた。両手はもう骨ではなく、器のような形をつくって、筏の底を支えていた。

筏の手前の影が、先を指した。男の人のようだった。白い旗が右へ傾いた。

「ここまで来たんだ。このまま進もう」

奥の影が首を振った。女の人らしい。白い旗が今度は左へ傾いた。

「もう食べるものがないよ。今からでも戻ろう。途中で船に会えるかもしれない」

二人の声が重なると、白い旗だけが小さく揺れた。

「あの男の人とは、昔からのお知り合いですか?」

少女が尋ねると、トカゲの人は筏の手前を見た。

「私が育てた子です。まだ歩けないころから、一緒でした」

筏を包む手に、赤ん坊の姿が重なった。赤ん坊は泣いていた。トカゲの人が抱き上げると、赤ん坊は顔をくしゃくしゃにして笑った。

二人の背後に帆が膨らんだ。次には、停めたバイクと、積み重ねた荷物が見えた。どちらの光景でも、トカゲの人は赤ん坊を抱いていた。

「歩き始めたころに、家に住むようになりました」

三角の屋根の下で、小さな男の子が戸口につかまっていた。片手を離し、足を出す。トカゲの人は敷居の外へ手を差し出した。笑わずに、男の子が歩いてくるのを待っていた。

同じ戸口から、背に剣を負った若者が出てきた。そばのバイクにまたがり、片手を上げた。

その姿が見えなくなると、戸口にはまたトカゲの人がいた。やがて若者が戻ってきた。後ろにいた女の人の手を引いて、何かを話している。

トカゲの人は二人を見た。戸口で男の子を待っていた手が、身体の脇へ引かれた。

少女の目の前で、白い旗が揺れた。手の上にいるのは、また筏の二人だった。

「行かせたのは、私なんです」

トカゲの人の声が低くなった。

「あの子には、経験もお金もなかった。それでも、新しい土地へ行きたいと言ったんです」

筏を支える指に、力が入った。

「二人を見て、何を感じているのか、自分でも分かりませんでした。でも、お金なら出せました。持っていたものは、全部出しました。そうすれば、うまくいくと思っていたんです」

男の影はまだ先を指していた。女の影はそちらを見ていなかった。

トカゲの人は黙った。

「でも、気づいたときには、二人はここまで来ていました。進むのも、戻るのも、もう簡単じゃない」

少女は空いていた椅子を引いた。

椅子の脚が鳴ると、トカゲの人は顔を上げた。少女は向かいに座り、テーブルの端に腕を置いた。

「重そうですね」

「落とすわけにはいきませんから」

しばらく、二人で旗が揺れるのを見た。

やがて、その人も肘をテーブルについた。筏が低くなった。

「あのとき、帰ろうと言えばよかった」

少女は顔を上げた。

その人は筏を見ていた。

「二人とも連れて、ここへ戻ればよかったんです」

旗がまた傾いた。筏を支えていた両手が動きかけ、その途中で止まった。筏は揺れて、元へ戻った。

筏の底が、ゆっくりテーブルに触れた。

その人はすぐには手を引かなかった。両手の指を一本ずつ離し、最後に、筏の底へ差し入れていた手を抜いた。

白い旗は、まだ揺れていた。

「ずっと、そばにいたんですがね」

その人は筏を見ていた。少女も、その小さな二人を見た。

もう一言続くのを待っていたが、その人は何も言わなかった。

少女は椅子へ座り直した。

トカゲの人は、筏から離した手を見た。

両手を重ねると、掌のあいだに浅いくぼみができた。そのくぼみは、さっきのおたまに似ていた。

その人はしばらく、その形を見ていた。

それから、指を一本ずつほどいた。

「……手が、軽いですね」

少女はすぐには返事をしなかった。

筏から離れたその手を見ているうちに、膝の上の自分の指も開いた。指先は、何も押さえていなかった。

筏の二人は、まだ何か言い合っていた。少女は片方の声を聞こうとしたが、途中からもう片方が重なった。

トカゲの人は、少女を見た。

「これからも、話を聞いてもらえますか」

少女はうなずいた。

「はい。また、ここで話しましょう」

言ってから、少女は小さな台所を見た。

「お腹がすいたら、何か作れます。簡単なものしかできないですけど」

商店街で預かった紙袋の熱が、一瞬だけ指の腹に戻った。

トカゲの人の目元がやわらいだ。

トカゲの人が立ち上がると、その輪郭がふっと揺れた。

少女は目を瞬いた。

トカゲの顔が薄れ、背格好が変わった。気づけば、そこに立っていたのは初老の紳士だった。スーツを着て、帽子をかぶり、片手には杖を持っていた。眼鏡の奥の目だけは、さっきと同じように見えた。

「……同じ人ですよね?」

「ええ」

紳士はにこりと笑った。

「では、またここへ来ます」

「ほんとに来るんですね」と少女は言った。

「もちろん」

玄関へ向かいかけた紳士が、ふと思い出したように振り返った。

手には、細長い包みがあった。

「まずは、ほんのお礼です。これは先にお渡ししておきます。今度また伺います。そのときに、改めてお礼をさせてください」

「私に?」

「ええ」

「ありがとうございます」

少女が受け取ると、紳士は軽く頭を下げ、そのまま玄関の向こうへ出ていった。

包みを開くと、料理用のフライ返しが入っていた。柄を持ち上げると、薄い紙がかさりと鳴り、銀色の先が現れた。さっきのおたまと違って、その先は薄く平らだった。少女はしばらく、それを見た。

「……フライ返し?」

玄関へ目をやったが、もう誰もいなかった。少女は近くに浮かぶ小さな表示体へ向き直った。

「フライ返しをくれたときの言葉、記録にある?」

「『これは先にお渡ししておきます。今度また伺います。そのときに、改めてお礼をさせてください』です」

「先に、か」

*

部屋へ戻っても、フライ返しの柄を握っていた感触が残っていた。

少女はノートを開き、紳士の言葉を書きとめた。紙の上で「先に」の二文字を見直し、その下へ短い線を引いた。

翌日の放課後、教室では文化祭の掲示を壁に貼っていた。

少女は横長の紙の右端を押さえていた。左端まで手を伸ばすと、右端が浮く。右端を直すと、今度は左が下がった。

「そっち持つよ」

友人が手を伸ばした。

「大丈夫」

声が、手より先に出た。

左へ指を伸ばすと、右端のテープがぱり、と剥がれた。

「……やっぱり、お願い」

言ってから、少女の視線が一度だけ紙の端へ落ちた。

友人が左端を持つと、紙はすっと横に伸びた。

右端を押さえていた指の力が抜けた。

「もうちょい上?」

「うん。そこ」

二人で位置を合わせ、テープで留めた。

二人で手を離し、一歩下がった。紙は壁に残っていた。

「次、これね」

友人が別の紙を持ってきた。少女は今度は左端を持った。

「待って。上下、逆」

「あ、ほんとだ」

友人がひっくり返そうとして、少女の手まで引っ張った。

「一回離して」

二人で笑い、持ち直した。

次の一枚では、どちらからともなく左右の端を持った。持ち上げると、紙の上辺がほぼ同じ高さで止まった。

「そこ?」

「うん」

さっきより早く、テープが二か所に貼られた。

家へ帰って手を洗ったとき、指に小さなテープの切れ端がついていた。少女はそれを剥がし、ごみ箱へ落とした。

部屋着に着替え、湯を沸かす。待つあいだに読みかけの本を開くと、思っていたところと違うページにしおりが挟まっていた。

前のページへ戻ると、さっきまで忘れていた台詞があった。少女はそこから読み始め、湯が沸く音で顔を上げた。

*

数日後の晩、少女が目を閉じると、またあの家の中にいた。

丸いテーブルも、小さな台所も前と同じだった。台所の脇には、あのフライ返しが置いてあった。

少女はフライ返しを持ち上げ、台所から玄関を見た。

誰もいない。

テーブルへ戻りかけたとき、呼び鈴が鳴った。

少女はフライ返しを見て、それから玄関のほうを見た。

「来た」

フライ返しを台へ置き、玄関の扉を開けた。

この前の紳士が立っていた。

その隣に、白い犬がいた。

おとなしそうだったが、とにかく大きかった。胸のあたりの白い毛が、ふわふわとふくらんでいた。

「……大きいですね」

紳士は犬を見た。

「今では、私のよい友人です」

犬は紳士を見上げ、それから少女を見た。尻尾だけが、ゆっくり左右に動いた。

「今日は、この子のあとについて歩いていたら、同じ角に二度出ましてね」

「迷ったんですか」

「私は、そう思ったんですが」

犬は鼻先を扉の隙間へ差し入れた。

少女は笑った。

「どうぞ」

脇へ寄ると、犬が先に入ってきた。脚にやわらかな毛が触れ、少女はよろけた。

「やっぱり大きい」

今度は声に出して笑った。

台所には、卵とフライパンがあった。棚にはパンもあった。

少女は、この前自分で言ったことを思い出した。

「何か食べますか? 簡単なものなら」

「ぜひ」

少女は袖をまくり、フライパンを火にかけた。油が温まるあいだに、紳士へ皿を渡す。

フライ返しを手に取った瞬間、銀色の表面に金色の光が混じった。

「え」

持つ角度を変えてみる。

光は消えなかった。それどころか、柄を握る指へ移ってきた。やがて手のひらまで、白銀と金色に輝きはじめた。

少女はフライ返しを持ち替え、光った手を開いた。

「これ、手まで光るんだ」

膝の横に、犬の鼻先が触れた。

少女は火を弱め、しゃがんだ。

「あなたは平気なんだ」

光った手で頭を撫でると、犬は目を細め、小さく鳴いた。それから、その場に座った。

少女はもう一度笑い、立ち上がった。

卵を焼き、パンの端に薄い焼き色がつくまで温めた。香ばしい匂いに顔を上げると、紳士が皿を二枚、テーブルに向かい合わせに置いていた。少女はフライ返しの薄い先を焼けた卵の下へ滑り込ませ、二枚の皿に取り分けた。片方だけ、形が崩れた。

少女は一瞬迷ってから、そちらを自分の前へ置いた。

紳士は帽子を隣の椅子に置いた。

「いただきます」

「いただきます」

少女も席につき、一口食べた。卵からは、まだ湯気が立っていた。

テーブルの下へ犬の頭が入ってきた。足首に毛が触れる。少女は、犬が顎を置けるように足をずらした。

紳士はパンを割った。焼けた端が、ぱり、と鳴った。半分を少女の皿へ置き、残りは自分の皿へ置いた。

少女は何か話そうとして、口の中にまだ卵があることに気づいた。ゆっくり飲み込んだ。紳士は急がず、次の一口を食べていた。

皿に触れる小さな音と、犬の息づかいが続いた。

少女は背中を椅子へ預けた。

皿のパンを取り、もう一口食べた。

食べ終わるころ、犬は少女の足元で横になっていた。

紳士が帽子を手に取った。

「そろそろ失礼します」

「もう帰るんですか」

「ええ」

少女は空になった皿を見た。

紳士は少し笑って、それから犬の首輪に細いリードをつけ、その持ち手を少女へ差し出した。

少女は差し出された持ち手と、紳士の顔を見比べた。

「私が持つんですか」

紳士は答えず、帽子を胸に当てて一礼した。

顔を上げたとき、肩の輪郭が白くほどけた。

少女がもう一度瞬きをすると、そこに一羽の鶴が立っていた。

「……え?」

いつの間にか、窓が開いていた。

鶴は窓辺へ上がり、羽を広げた。ひと羽ばたきで家並みの上へ出ると、そのまま左斜め上へ飛んでいった。白い姿は、風船を手放したときのように、少しずつ遠く、小さくなった。

犬が「バウ」と一度鳴いた。

少女が持ち手を握っても、リードはたるんだままだった。犬はその場に座っていた。

少女は一度だけ鶴の消えたほうを見た。もう、どこにも見えなかった。手を開くと、フライ返しから移った白銀と金色の明るさが、まだ掌に薄く残っていた。

そのとき、下腹の奥に小さな圧を感じた。

そこに温かさが集まり、しばらくして背中の内側へ移った。やがて、頭の奥まで届いた。

頭の内側に、蝶の羽のように左右へ広がる白い骨の形が浮かんだ。見ているうちに、それが手のように思えてきた。頭の内側を包むように、温かさが広がった。

その手に守られるような小さな空間に、ゆりかごが一つあった。

赤ん坊が眠っていた。天蓋の薄い布がかかり、その向こうに夜空の星々が透けている。布のひだは、星の白い光を受ける角度によって、淡い青や黄、かすかな赤みを浮かべた。ゆりかごがかすかに揺れるたび、その色もひだの上をゆっくり移った。

ふいに、少女はゆりかごの中から見上げていた。

天蓋の縁はすぐ近くにあるのに、その向こうの星は遠かった。

息を吐くと、隣で犬の耳がわずかに動いた。

星々は、天蓋の向こうで少しずつ薄くなっていった。

*

机の前へ戻ると、膝から下がひんやりしていた。少女は両足を椅子のほうへ引いた。指先には、まだ温かさがあった。

それから数日して、少女がもう一度あの場所へ入ると、丸いテーブルはなかった。

薄い灰色の空の下に、低い壁が長く続いていた。風はあるのに、草も木も見当たらない。どこか乾いた場所だった。

その真ん中に、一本だけ煙突が立っている。

煉瓦でできているのに、全体がだるっと力を抜いたようで、壁面まで妙に柔らかそうに見えた。

少女は首を傾げた。

煙突からは、ほとんど煙が出ていない。

「煙、出てないのかな」

煙突の口を見ていると、薄い煙が一筋だけ上がった。

「はいはい、出てますよ」とでも言うような、妙に投げやりな出方だった。

少女の口元が緩んだ。

「……出るんだ」

煙が、さっと煙突の向こうへ隠れた。

少女は煙突の向こうを見た。

手が胸の高さまで上がりかけた。煙がさらに向こうへ寄るのを見て、その手を下ろした。

少女は近づく代わりに、横へ一歩ずれた。煙もまた隠れた。

反対側へ回ると、煙もまた逃げた。

一瞬、かくれんぼのようにも見えた。

けれど、煙がぴたりと縮こまるのを見て、少女は足を止めた。

遊んでいるようには、もう見えなかった。

煙突の中ほどに、斜めに走る細いひびが見えた。

少女がそこへ目を向けた瞬間、頬にかすかなしびれが走った。

煙が激しく揺れた。

少女はすぐに視線を外した。

「……ごめん。見ないね」

二、三歩離れて、煙突を正面から見ない位置へ移った。

それ以上は離れず、少女は横を向いたまま立っていた。

風の音が一度途切れ、そのあとで小さな音がした。

泣いているようだった。

涙が一滴、地面に落ちた。

そこから芽が出た。

「え」

もう一滴が落ちると、また芽が出た。細い茎が伸び、葉が開く。風に押された一枚が裏返って戻る、その短いあいだにも蔓は増え、煉瓦の影へ入り、反対側からまた現れた。

少女は一歩下がった。

植物は止まらない。

緑は、煙突のまわりに空いていた場所をひとつずつ埋めていった。風に押された葉が裏返るたび、緑の明るさが細かく変わった。やがて、それは煙突を取り巻く厚い壁になった。

空は、薄い灰色のままだった。

葉と蔓の向こうに、煙突も、その上の煙も隠れていく。

少女はその壁の外側で足を止めた。

「……うん。ここまでにするね」

返事はない。

葉の隙間から、一筋だけ煙が見えた。それもすぐに隠れた。

「じゃあ、今日は帰るね」

植物は揺れなかった。

少女は背を向けた。

何歩か歩いてから振り返った。

煙突をぐるりと囲む、緑の壁だけが見えた。

*

文化祭の日、展示の机では、模型が回る動画を繰り返し流していた。机のあいだを、人が行き来していた。

画面の横には、少女が「黒丸は回転を見るため」と書いた紙を置いた。模型も、机の端に並べてあった。

見出しの一枚だけ、下の余白がほかよりやや広いままだった。

教室の奥で「回った」と声がした。少女がそちらを見ると、模型はもう別の子の手にあった。

その子は一度模型を落としてから、横で流れている動画へ顔を寄せた。隣の子が再生位置を少し戻す。画面の中で黒丸が一瞬だけ正面を向くと、「今の」と指を差した。

二人でもう一度、同じところを見ていた。

少女は二人を一度見て、口元を緩めてから、画面へ視線を戻した。

次の当番の子が来て、画面の横で端が浮いていた説明紙にテープを一本足した。少女はそれを見て、席を立った。

そのとき、前の席の子が、黒丸を斜めに横切る折り目の残った模型を持って近づいてきた。

「窓のそばでも落としてみない?」

少女はうなずき、スマートフォンを持って立った。

窓は細く開いていた。録画を始めると、模型をつまんだ指が開いた。模型が数回転したところで、カーテンがふくらんだ。模型は斜めに流れ、画面の端から消えた。

少女はスマートフォンを下ろした。模型はまだ回っていた。二つ先の机のそばへ落ちると、前の席の子が拾いに行った。

「思ったより飛んだね」と、模型を拾った子が言った。

その子が戻ってくるのを、少女は窓辺で待った。

「次、少し離れて撮るね」

少女は二歩下がった。画面には、模型を持ち上げる手だけでなく、その子の顔も入った。

録画を止めても、窓のカーテンはしばらく揺れていた。

録画を見返すと、カーテンがふくらんだところで、模型の軌道が横へずれていた。

*

次に同じ場所へ戻ると、景色は変わっていた。

煙突のまわりを囲んでいた植物の壁は、前より厚くなっていた。外側の葉は同じあたりで揺れている。その奥で、蔓が煙突を締めるように絡んでいた。

「……そっちに行くんだ」

自分の「ここまでにするね」が、まだ耳に残っていた。

少女は緑の壁の手前で一度止まった。それから、ゆっくり近づいた。

葉の隙間に、煉瓦のひびが見えた。そこへ細い根が入り込んでいる。

ぱき、と鳴ったと思うと、煉瓦のひびが一気に走り、少女が身を引くより早く、煙突は乾いた音をいくつも立てながら地面へ崩れ落ちた。

粉々になった煉瓦の間から、煙が立ち上がった。風が吹いても散らず、崩れた煉瓦のすぐ上に、しばらく留まっていた。

少女は何も言わず、見ていた。

崩れた煙突のほうから、煙を気にかけているような温かさが伝わってきた。

少女の口から、小さく声が漏れた。

「……大丈夫かな」

煙は静かだった。もう、隠れなかった。

やがて、煙の濃いところから輪郭が生まれた。肩、腕、胸、脚。若い男性の姿になった。

男性は左斜め前の砂地へ顔を向けたまま、立っていた。

まだ、衣服らしいものは身につけていなかった。

少女は目のやり場に迷い、いったん視線を外した。

視線を戻すと、男性の右側に鎧と盾が見えた。その横には剣もあった。

少女がそちらへ目を向けると、男性もその視線を追った。

男性は鎧を見てから手を伸ばした。鎧を身につけ、盾を持ち、最後に剣を取った。

少女は、自分の腰に手をやった。鞘の縁が指先に触れた。

いつの間にか、男性の肩には外套まで掛かっていた。風が布を後ろへなびかせた。煉瓦の欠片をまたいで、鎧を着た男性の影が伸びていた。

「もう、行くんですか?」

男性が振り返った。

表情は穏やかだった。

「はい」

男性がわずかに身体の向きを変えると、二人のあいだの砂が広くなったように見えた。

少女は一度、口を閉じた。

見つめるだけで縮こまっていた煙が、いまは砂の上に立ち、もう向こうを向いている。

前にここへ来たときは、緑の壁の外で、煙を見ないように横を向いたまま立っていた。帰り際にも一度振り返ったが、見えたのは葉だけだった。いまはその人の顔が見え、初めて声まで聞けた。返事は短く、すぐに風の音が戻ってきた。

聞きたいことはいくつもあった。けれど、そのどれを聞くより、まだ一緒にいたかった。

「もう少しだけ、ここにいませんか?」

男性は少女を見た。

風が外套の裾を一度持ち上げ、足もとの砂がさらさらと流れた。

男性はすぐには答えなかった。崩れた煉瓦と、その間に残った細い根へ目を戻した。

「ここが、好きなんです」

男性は盾を持ち直した。革の帯に通した指が、わずかに震えた。

「でも、もう行きます」

少女は息を吸った。

「……そうですか」

男性は右手の砂地へ歩き出した。

歩幅は大きくなかった。

それでも、足は止まらなかった。

その背中を見送った。

まだ声が届きそうな距離だった。

少女の唇が一度動いた。

「待って」が喉まで出かかった。

声にはしなかった。

外套が風に鳴った。遠くまで続く砂地の向こうに、低い山が見える。男性の姿は小さくなり、外套だけがときどき揺れた。それも、やがて見えなくなった。

砂の上には足跡が残った。

一つ。

その先に、もう一つ。

ずっと向こうまで続いている。

少女は足元へ目を落とした。煉瓦の欠片に、細い根が絡んでいた。

しゃがんで、一つ拾った。煙突の内側にあたる面には、黒い煤がついていた。裏返そうとすると、角が掌の中で崩れた。

少女は手を地面近くまで下げ、残った欠片をそっと置いた。掌の細かな粒も、そのそばへ落とした。

手を返すと、煤の灰色が皮膚の溝に薄く残っていた。風が通ると、指の付け根にあった粒が一つ落ちた。

立ち上がると、欠片のそばから男性の足跡が続いていた。

太陽が足跡の先へ落ちていくにつれて、砂の赤みが消えていった。低い山の輪郭から先に暗くなる。

空にまだ明るさが残っているうちに、星が一つ出た。その横に、もう一つ。

少女が見上げているあいだにも、星は数を増やしていった。

やがて、夜になった。

少女は砂の上に座り、そのまま後ろへ倒れた。背中に砂の冷たさが広がる。

見上げると、星とのあいだには何もなかった。

腕を左右に広げた。

その先にも星空が続いていた。視界の端では、地面と空の境目が暗さに紛れていた。

自分の身体が小さくなったようにも、大地のほうが身体に近づいたようにも感じる。

遠くに誰もいない。

少女は長く息を吐いた。

胸が、ふいにいっぱいになった。

何かが上がってきたのか、胸の中へ広がったのか、自分でも分からない。息をするたび、霧のようなものが形を変えた。

風が一度、頬を通った。

そのあとで、言葉が一つだけ残った。

「寂しい」

声は、思っていたより小さかった。

言ってみても、胸の霧は残った。むしろ、その霧がもっと奥まで動いたような気がした。

少女は、それ以上は言葉にしなかった。

片手を砂についた。冷たかった。

星は何も答えなかった。風だけが動いていた。

少女は砂の上にいた。

星の位置が、さっきとは変わっていた。

視界の端に、黄色いものが入った。

星ではなかった。

少女が顔を向けると、誰かが浮いていた。肩のあたりでゆるく巻いた髪は、外へはねた毛先が淡い金色に光り、頬にかかるところは影になっていた。ローブのような服の背には羽があった。羽を開いたまま、その人はゆっくり近づいてきた。

「……天使、ですか?」

その人は答えなかった。左手に持った杖の先には、黄色い五芒星がついていた。腕の下で、袖の布が深くたわんでいた。星から、細い三本の光が、ほとんど平行に伸びていた。

三本の黄色い光には、夜空より濃い黒い影がくっついていた。そのぶん、黄色が妙にはっきり見えた。

少女の口元がゆるんだ。

その人は微笑んだまま、杖で少女の頭を軽く叩いた。

こつん。

「え」

痛くはなかった。少女が頭に手をやるより先に、三本の光が杖を離れた。黒い影がくっついたまま、額の前まで来た。

一瞬だけ身を固くしたが、光はそのまま少女の中へ入り、身体を通り抜けるように、ずっと下へ落ちていった。

「私を使って!」

三本の光から声がした。急かすような勢いがあり、どこか切実だった。

「……何に?」

返事はない。

少女は、光の落ちていった先へ注意を向けた。胸にもお腹にも、その明るさはなかった。

もっと下を探すと、足の裏よりさらに下に、かすかな黄色い光があった。

足の裏には、男性が歩いていったのと同じ砂が触れていた。

黄色い光はそこで、線香花火のように細かな眩しさを散らした。明るい粒が足元で短く弾けては消えた。

消えきらなかった明るさは、足元に残ったまま、少しずつ身体の中にも広がった。しばらくすると、脚にも背中にも、胸にも腕にも、同じ明るさが広がっていた。

頭上で、星が一つ回った。少女が見上げると、ひときわ強く輝いた。

ふと、地球の上半分が浮かんだ。頂から白い明るさがこぼれた。

背中には、砂が触れていた。

明るさはしばらく残り、やがて星々のあいだへ夜の暗さが戻ってきた。

少女は身体を起こした。

「……ありがとう、でいいのかな」

その人はもういなかった。

少女は頭に手をやった。杖が触れたところに、わずかな温かさが残っていた。足の裏には自分の重さがさっきよりはっきり伝わり、砂の感触も鮮明になっていた。

胸の奥の霧も、まだ残っていた。

少女は、しばらくそのまま座っていた。

星空はまだそこにあった。砂は、さっきより冷たかった。

少女は目を閉じる前に、星をもう一つだけ見た。

*

次に目を開けたとき、部屋は静かだった。

足の裏に、床の硬さが戻っていた。

別の晩、少女はもう一度あの場所へ入った。

砂漠も星空もなかった。目の前にあったのは、丸いテーブル一つだけだった。あれほど広い夜のあとでは拍子抜けするほど小さくて、少女はほっとした。

テーブルには、二本の薔薇があった。白い薔薇と、ピンクの薔薇。花瓶はよく見えない。二本は間を空けて立ち、白いほうはピンクを見ず、ピンクも白いほうからわずかに顔をそむけていた。

同じ窓の光を受けても、白い花びらは縁を透かし、ピンクの花びらは奥の色を濃くした。

仲が悪そうだな、と少女は思った。

頬がうっすらしびれるような感じがした。指で触れてみると、触れたところは分かったが、その下に鈍さが残った。

椅子に座ると、白い薔薇がすぐに茎を伸ばした。少女が顔を上げると、花はさらに高くなり、光を受けた面をこちらへ向けた。

そのまま、ピンクのほうへ傾いた。

ピンクの花がわずかに身を起こした。けれど、白いほうが近づくと、また元の位置へ戻った。

白い薔薇がさらに寄った。二本の茎が触れ、ピンクの花が横へ揺れた。

白いほうも揺れて、離れた。

しばらくして、今度はピンクが白いほうへ向きかけた。

そのときには、白い薔薇は、ふい、と横を向いていた。

ピンクもまた、そっぽを向いた。

少女は思わず笑った。そのまま、声をかけずに見ていた。

そのとき、頭に言葉が浮かんだ。

「なかなおりまであと五秒」

少女は眉を上げた。

「カウントするの?」

五。

何も起こらない。

四。

白い薔薇が揺れた。

三。

ピンクの薔薇が、ちらっと白いほうを向いた。

二。

白い薔薇が迷うように上下した。

一。

白い薔薇が、頭を下げた。

「もう、分かったよ」

そんな感じがした。

ピンクの薔薇はすぐには動かなかった。白い薔薇は、頭を下げたままだった。

五秒は、もう過ぎていた。

少女は数え直さなかった。そのまま待った。

やがて、ピンクの花が白いほうを向いた。

「もっと早く言えばよかったのに」

少女には、そう聞こえた。

白い薔薇がわずかにしぼんだように見えて、少女は口元を押さえた。笑いが漏れた。

やがてピンクの薔薇の張りつめた感じがゆるみ、白い薔薇も軽く揺れた。

そのとき、二本の茎の下に、飾りのない透明なグラスが見えた。

白い薔薇はまた窓のほうへ伸び、ピンクの薔薇はその場でゆっくり花を起こした。やがて白いほうへわずかに寄り、さっきより近いところで止まった。

少女はグラスの縁に指を触れた。冷たかった。

ピンクの花が手元へ傾いてきた。少女も顔を寄せた。花びらの奥から、甘い匂いがした。

少女は二本の茎を目で追った。同じ水の中で一度交差し、そこから下では、それぞれ別の方向へ伸びていた。

白い花が揺れると、触れ合った茎を通して、ピンクの花も一拍遅れて揺れた。水の中には、別々の小さな波紋が重なって広がった。

少女はグラスの縁から指を離した。二本は、そのまま立っていた。

指先には、グラスの冷たさが残った。

── 第6章 了 ──

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