第7話 いつもの朝へ
朝、少女は光で目を覚ました。
カーテンの隙間から、白い線が床に落ちている。
眩しい。
少女はベッドの上で目を細めた。
掛け布団の内側は暖かい。出していた手を引っ込めると、冷えた指が胸元に触れた。触れたところは、指先より温かかった。
息を吸うと、指の下で胸が動いた。
少女はふと、胸の奥のあの一か所を探した。
最初に気づいたとき、息を吸うと少し遅れて動いていたところ。
今朝は、その差が見つからなかった。
もう一度吸っても、指の下で胸はすっと動いた。
見つからないのに、ほんの少し名残惜しかった。
それ以上は探さなかった。
掛け布団をあごの下まで引き上げた。頬だけが、まだ冷たかった。
時計を見る。
そろそろ起きる時間だった。
「うーん」
数秒だけ、ベッドの上で動かなかった。
それから起きた。
掛け布団をめくると、腕や脚へ朝の空気が一度に触れた。
思っていたより冷たい。
少女は肩をすくめた。
髪が片側だけ変な方向へ跳ねている。
鏡の前で押さえてみる。
手を離すと、また跳ねる。
もう一度押さえる。
「今日はこれでいいか」
顔を洗った。
水が冷たかった。
頬から顎へ流れた一滴が、首の付け根まで落ちる。
少女は小さく身を縮め、タオルで顔を拭いた。
台所へ行って湯を沸かし、カップに飲み物を注ぐと、湯気が上がった。
両手で包む。
熱い。
少女は指をずらし、熱すぎない位置で持ち直した。
手のひらに、じわじわと熱が広がる。
少女はカップを両手で包んだまま、窓の近くへ行った。
窓の近くは、部屋の中央より少し冷えていた。足首の近くを空気が通り、袖の内側では布が腕に触れている。
外は晴れていた。
建物のあいだから見える空は狭く、その中を雲が一つ流れていた。
下の道で自転車のブレーキが鳴り、誰かが笑った。遠くでは車が走っている。
少女は一口飲んだ。
温かいものが喉を通り、胸の下へ落ちていく。手のひらにはカップの熱があり、足の裏には床がある。窓際の空気は少し冷たい。
少女は窓のそばに立ち、湯気がほどけていくのを見ていた。
スマートフォンが短く震えた。
机の上に置いてある。
少女はすぐには取らなかった。
カップをもう一口飲んでから、机へ戻る。
友人からだった。
画面には、「今度、帰りに何か食べよ」とある。
少女は笑った。
「行こ」
それだけ打って送った。
送信された二文字を一度見た。指は入力欄へ戻らなかった。
いつにするかも、どこへ行くかも、まだ決めなかった。
少女はカレンダーを開かず、ホーム画面へ戻った。
ホーム画面の下のほうに、生成AIのアプリがあった。
一度だけ目をやった。
指先がアイコンの上まで来たが、触れなかった。
アプリはそのまま、画面の中にあった。
スマートフォンを机に戻す。
隣に、読みかけの本がある。
昨夜、途中で閉じたままだ。ページのあいだから、しおりの端が出ている。
少女は表紙に指を置き、すぐに離した。
今日は開かなかった。
しおりは抜かず、本を机の端へ寄せる。
飲み物を飲み終えると、カップを洗った。縁に残った泡まで水で流し、伏せて置いた。
部屋へ戻り、着替えた。
袖口に指が引っかかり、一度引き抜いて通し直した。裾を引くと、背中側の布がすっと落ち着いた。
鏡を見る。
さっきの髪の跳ねは、まだ残っていた。
窓から入った朝の光が、鏡の端に当たった。
少女は一瞬、目を細めた。
光はきれいだった。
少し眩しかった。
*
登校するには、まだ少し余裕があった。
少女は部屋を見回した。
財布。
鍵。
スマートフォン。
ハンカチ。
今日使う教科書とノート。それから、数学の小テストの範囲が載ったプリント。
今日使うものは、そろっている。
机には読みかけの本があり、窓の向こうでは、雲がさっきより先へ進んでいた。
少女は鞄を持った。
玄関へ行く。
靴を履く。
片方の靴紐がねじれていたので、ほどいて結び直した。もう片方も緩んでいたので、締め直した。
立ち上がる。
足の裏が床につく。
ドアノブに手をかける。
金属が冷たい。
少女は一度握り直し、ドアを開いた。
その先は、いつもの廊下だった。
白い壁。金属の手すり。突き当たりの小窓から、朝の光が斜めに入っている。
少女は廊下へ出て、ドアを閉めた。鍵をかけると、かちり、と短く鳴った。
頬と手の甲に、部屋の中より冷たい空気が触れる。
小窓のほうへ歩き出した。
二、三歩進んだところで、足元に水があるように感じた。
少女は立ち止まり、足元を見る。
床は乾いている。靴も濡れていない。
水は、音もなく上がってきた。
足首を越え、脛を上がり、膝から腿へ。下ろした手の指先も水に入り、手の甲から手首、腕へと水位が上がっていく。腰からお腹へ、胸へ、肩へ。
冷たくも重くもない。
そのまま首まで上がり、顎を越えて、頬へ届いた。
目のすぐ下まで来たところで、一度、息を吸った。
息はいつもと変わらず通った。
まばたきをすると、額も頭のてっぺんも、もう同じ水の中にあった。
足元へ向いていた視線が、いつの間にか小窓の光へ移っていた。
水は何も押し流さなかった。
下ろした手を、少し開いた。水は指のあいだにもあった。
見える水ではなかった。けれど、知らない水でもなかった。
少女は指を動かした。手を開くと、掌の線が伸びた。皮膚はちゃんとそこにある。それでも、水はそこで途切れているようには感じなかった。
目は開いたままだった。
小窓から差す光も見えている。階下でドアが閉まる音がして、遠くを車が走る音もした。
廊下の冷たい空気が頬や手の甲に触れる。その変化も、全身を包む水の中で感じられた。
白い壁に光が当たり、金属の手すりが細く光り、床には淡い四角が落ちていた。その端が、少女の袖にもかかっていた。
光の縁に、ごく薄い色がにじんだ。白い壁にも、床にも、手すりの角にも、小さな色の欠片が一瞬ずつ浮かんでは消えた。雨上がりの水滴に出る虹よりもずっと淡く、ひとつの帯にはならなかった。
同じ光でも、手すりでは細く鋭く、袖では織り目の上へやわらかく広がっていた。
袖に目を落とすと、布の細かな織り目まで見えた。
全身を包む水はそのままに、頬の冷たさも、肩にかかる鞄の重みも、靴の底に伝わる床の硬さも、遠くの車の音も、小窓の光も、一度にあった。
階段を上がってくる足音が近づいた。
少女は端へ寄った。
すれ違った人に、軽く頭を下げる。
相手も頭を下げた。
その人は廊下の角を曲がり、見えなくなった。
足音も、少しして聞こえなくなった。
廊下はまた静かになった。
水は途切れなかった。
そのとき、鞄の中でスマートフォンが短く震えた。
さっきの友人から、「やった」と短い返事が来ている。
少女はその返事を読んだ。笑いがこぼれた。
画面を消し、鞄に戻す。
階段を降りる。
一段。
もう一段。
靴の底に床の硬さが返り、そのたび肩にかけた鞄が小さく揺れた。水は途切れなかった。
外の光が近くなる。
建物を出ると、風が頬に当たった。
首筋を通り、袖を膨らませる。
風が触れたところだけ、皮膚の感覚が少し変わる。
少女は顔を上げた。
建物に切り取られた青い空を、薄い雲が一枚流れていた。縁だけが白く光っている。
一台の自転車が道を通り過ぎ、タイヤの音が遠ざかっていった。向こうでは車のエンジン音がした。
雲が動くと、頬に当たる光がいったんやわらぎ、また戻った。袖の上でも、明るさの境目がゆっくり移っていく。
雲が抜けると、白い壁と舗道が明るくなった。窓には小さな反射が残り、路面では細かな砂粒まで光って見えた。
水はまだそこにあった。
朝の光は、水の中を通っているように感じられた。壁は壁の白さのまま、窓は窓の反射のまま、舗道は乾いた硬さのまま見えていた。
光は、見えない水の中へ静かに注いでいた。白い明るさは、水の奥で折れ、散り、細かな色へほどけていった。壁のざらつきでは細かく散り、窓の薄い反射では揺れ、舗道では砂粒のまわりに小さな色が現れては消えた。その光が見えない水の中でもう一度ほどけ、袖の織り目にも、袖口から出た手の甲にも、赤や橙や黄や緑や青の細かな色を落とした。
手をわずかに返すと、皮膚の上の色も動いた。色が触れているように見えるところは、朝の光でほのかに温かかった。見えない水は、身体の表面を途切れず包んでいた。
虹、と少女は思った。
風が頬を通った。肩の鞄がわずかに揺れ、舗道の硬さが靴の底へ返った。自転車の音はもう遠く、息はいつものように通っていた。細かな色は、視界のあちこちで、なお生まれてはほどけていた。
少女は、静かに輝く海の中に立っていた。
足は地面についていた。鞄は肩に重く、風は頬を通っていた。手の甲にはまだ細かな色が揺れ、そこには光の温かさと水の感触も重なっていた。
長く息を吐いた。
吐ききると、息はまた自然に入ってきた。
寂しさは、消えていなかった。
頬には朝の光があり、薄い雲は、さっきより少し先へ流れていた。
それから、歩き出した。
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