【1話(前編)】
課題『自分について人間以外で描きなさい』――。
さて、どうしたものか。
鏡の前に立った。自分自身の身体ではなく、自分についてを表す特徴を描け。その課題に頭を悩ます。
まずは特徴を整理する。小蓬愛南、十五歳、凪海総合高等学校に通う高校一年生。行動力はそこまでなく周りに流さやすいタイプ。引っ込み思案タイプではあるもののコミュ障とまではいかないと自認している。髪色は茶髪だけど、校則違反ではない。学力は良くも悪くもない平凡気味。進路先を凪海にしたのもちょうど良い学力だったから。中学の頃の部活動は造形部。趣味は絵を描くこと。無心で絵を描いている間は嫌なことや罪悪感を忘れさせてくれるので好きだ。高校では是非とも美術部になりたいと切に願っている。
「で? 何描けばいいんだ?」
やっぱり絵を描くことが好きということで、絵にまつわるものを描くべきだろうか。で、絵にまつわるものとはそもそもなんだ?
考えれば、考える程、一向に思い付かない。椅子に座ろうとも筆が動かない。
あれやこれや考えている内に時間が経つ。
家族で食卓を囲む。今日の夕飯は炒飯と中華スープだ。シャンタンの味が口の中で広がる。味わい深いスープで流し込む。さらにスープの中に入ったワンタンの肉汁が口の中で踊っていた。
食べながら課題のことを思い浮かべている。そして、「私の名前の由来って何?」と、名前のルーツを聞いた。それが課題への閃きに繋がるかも知れない。
「聞きたい?」
ネギを噛み締めるシャリシャリという音がする。その後で「うん」と首を縦に振る。お母さんがにっこりと笑みを浮かべた。
「愛南の"愛"はね、みんなを愛して、そして愛される人になって欲しいって思いを込めてね。」
「じゃあ、"南"は?」
小学生の頃に名前の意味を聞く授業があったが、その頃の私では到底理解できなかった。高校生になった今なら理解できるかもしれない。
「死んだ後にね、その人は行先を北か南かで選べるの。北は新たな生命に生まれ変わる道。南は自分の人生は悪くなかったって振り返って、過去の中で生きる道。愛南にはその時、南を選んで欲しいなーって。ね。」
深い。とても深いお話だ。とっても考えられてつけられた名前なのだと感銘を受ける。今なら理解できる気がする。
「それに、南に行けば"五条悟"君に会えるもの。」
いや、誰だよ!
「七海建人にも会えるぞ!」とお父さんが付け加えた。
だから、誰だよ!
ツッコまずにはいられない。全く知らない人の名前だ。両親の時代の有名人なのだろうか。
「お父さん達が子どもの頃、ハマってた漫画のキャラだよ。今でも覚えてるよ。――僕、最強だから。」
何故か人差し指と中指をクロスし出す父と、それで盛り上がる母。私をその場に差し置いて、二人だけで盛り上がっていた。
何をやっているんだか……。
皿に残った米粒をスプーンで拾って口の中に入れる。ごちそうさまでした。私は皿を片付けた。
――――――
部屋に戻ってスマホを開く。さっき言っていた漫画を調べた。無料公開してる三話まで見たけど、案外面白いなと思った。スマホの中に残っている残高を使って、その漫画をレンタルする。
ペラッ。次々にスライドしていく。スマホがペラッという在り来りのそれっぽい音を鳴らしていく。
ペラッ。ペラッ。――。
堪らず次へ次へと読んでいく。
ふと時計を見た。もう二十二時だ。
やばい。やるべき事何もやっていない。課題があるのに何も手を付けていない。明日の学校の準備すら何一つ手付かずだ。
漫画の続きが凄く気になる。お父さんの言っていた人物の登場。敵である改造人間の登場。この先どうなる? もはや漫画を見たくて堪らない。
仕方ない。やるべき事が最優先だ。私は急いでやるべき事に着手した。とりあえず絵の課題だけは終わらせないと。頭の中にこびり付く漫画の情景。自分が、悍ましい何かを描いているような感じもしたが、立ち止まることは許されなかった。とりあえず完成させなくては。その一心だけだった。
◆
静まり返っているバス停。ベンチにはお年寄りが二人程座っている。
透き通る朝なのかも知れないが、私には靄がかかっている。気を抜けば欠伸が出る。
「ちゃーっす。まなみん、おはよー。」
低い背丈。鞄にはジャラジャラとつくキーホルダー。着崩しまくっている制服。髪はロングの明るい茶髪。校則では派手すぎない、明るすぎない色なら染髪も認められているが、その色は誰がどうみてもアウトだ。明るく振る舞うそんな彼女の名前は東杏――愛称はアズアズだ。私の中学からの友達である。
「おはよー」と寝ぼけた声で伝えた。
「眠そーじゃん。眠れなかったの?」
「課題が終わらなくて……徹夜しちゃったぁ。」
「課題? ああ、そーいや、まなみん、美術部の入部試験があるって言ってたもんねぇ。」
バスがそこにやって来た。お年寄りがそこそこ乗っている。座れはできなさそうだ。
「ふぅ。今日も間に合った~!」
そこにやって来た元気な男の子。背は低い……まあ、私と同じぐらいの背丈。アズアズと負けず劣らずの明るさを誇る。性格はまるで犬っぽい。そんな彼は大口乾。何の縁か、小中高、いずれも私と同じである腐れ縁的存在だ。
「あー、やっべぇ。財布忘れた。」
鞄を漁って焦っている。何を遊んでいるのやら。「あぁ、すまねぇけど」と悪しからずに私達の元へとやってきた。そして「金貸して下さい」と頼み込んできた。
はぁ……。ため息が出そうだ。
「はいはい」とお金を貸してあげる。なんか眠そうな靄の天気はいつの間にか消えていた。
激しく揺れ動く車内で、吊革に掴まって揺られていく。人混みも激しくなり、そして、降りるバス停へと辿り着く。
「お金……帰りの分もお願いしていいっすか?」
さり気なく言う彼に「帰りは走って帰ったらいいじゃん?」と何気なく言う彼女。それに私は「バスケ部だもんね」と付け加えた。
「いやいや、バスケ部関係なくないっすか? ってか、陸上部だとしてもきついっすって。」
文句垂れる姿を見て私は一緒に笑っていた。
学校までの道程を進んでいく。
◆
凪海総合高等学校、美術部。三年生、二十六人。二年生、十五人。そして一年生の第一希望者は三十一人。そこから課題試験を経て十五人にまで振るい落とされる。
部活動は強制ではない。つまり、緩いという理由で選ばれている訳ではない。吹奏楽部ならまだしも、美術部に希望者が多いのは何故なのか。すぐに理由は分かった。
高嶺の花――。成績優秀、運動神経抜群。それでいて、天才肌で絵のセンスが非常に優れている。ビジュも高身長で、容姿端麗で、イケメン。そんな絵に描いたような存在である大口慎二が美術部に所属しているからである。
この学校に入ればその名を聞かない事は無い。普通なら相当上の学校に行ける学力がありながらも、ここにいるのは地元唯一の美術の道が用意された総合学科だからだそうだ。
彼には取り巻きやファンクラブが存在するそうだ。それ故に、美術部も人が殺到してしまうと考えられる。
噂には聞くも、どうせ美化された話だろうと思っている。なぜなら、そんな彼の弟がお馬鹿で面白い系統の乾だからである。あの乾の兄がそんな凄い訳がないと思っている自分がいる。
「はぁ……。合格るかなぁ。」
本当に困った話である。私は純粋に絵を描くのが好きで、高嶺の花関係なく、美術部に入りたいと思っている。
入部希望者を振るい落とすために出された『自分について人間以外で描きなさい』という課題。しかし、私が用意した答案は徹夜で無理やり完成させたちょっとおどろおどろしい画。
提出の際にその絵が後ろにも見えたらしい。「うわっ」から始まるヒソヒソと言う声が聞こえる。聞き取れないけど、絶対にポジティブな言葉は言っていない。
最悪だ。私は噂の白羽の矢を立てられてヒソヒソと喋られるのが嫌いだ。何を話されているか分からないのに、それが絶対に良い話とは思えないからだ。だからと言って、友達からコソコソと話しかけれたら私もコソコソと話してしまうので、人の事言えないだろってツッコまれたらお終いでもある。
廊下の窓の向こう側に見えるどんよりした晴天に向かってため息を放つ。何故今日は雲一つないんだと心の中で呟いた。
――――――
第一美術室の前に貼られた紙。そこに名前が羅列してある。
ズラッと並ぶ名前の中で私の名前を見つけた。
良かった。無事に美術部に入部できる。私は安堵のため息を吐いた。
帰り際、待っていたアズアズ。大きく手を振っていたので、私も手を振り返した。「どうだった?」に対して「どうでしょう!」と楽しげに返した。
バスの窓の向こう側に見える爽やかな晴天に向かってため息を放つ。昨日と同様、今日は雲一つなくて気分がいいと心の中で呟いた。
◆
「ねぇ、少しお時間よろしいでしょうか?」
そう言い放ったのは同じクラスの半井遥陽である。同じ中学校ではあるものの、三分の一や二分の一を引き当てることなく同じクラスになったことはない。高校生となって、同じクラスとなってようやく知り合った関係である。
「ここではあれですし、少し場所を移動しましょう。」
スタスタと進む彼女。力強く廊下を踏みしめて歩いている。その轍を私は進んだ。
呼び出されたのは第二美術準備室の前。第一美術室はよく使う一方で、第二美術室は全く使われない。絵ではなく彫刻等の活動を中心とした部屋らしいが私も詳しくは知らない。分かるのはここが第一美術室の上の階にあり、人気のない場所と言うことだけだ。校庭の裏庭も人はいないが、この場所は裏庭よりもさらに人がいない。とっても見つかりにくい穴場である。私も初めてここに来た。
「ごめんなさいね。愛南さんにお願いがありまして。美術部を辞退して下さらない?」
「どうして?」
「あなた、そこまで慎二さんを狙っていないでしょう。私、どうしても慎二さんと同じ部活動になりたいんです。あなたが辞退すれば、合格人数が増えます。そうすれば私が繰り上げで合格するはずですから。」
真面目で優等生の印象だったのに、その印象が崩れていく。
「私はどうしても美術部に入りたくて入ったから、私は辞退したくない。」
「どうして? どうしてそこまで辞退してくれないの?」
「絵を描くのが好きだから美術部にしたの。それ以外に理由はいるの? 逆に聞くけど、どうしてそんなに美術部に入りたいの?」
すぅ――。そんな息音が聞こえた気がした。
「中一の頃、慎二さんと同じ生徒会のメンバーでしたの。そこで私は慎二さんに恋をしました。私にとって最大の恋で、禁断の恋。もう一度近づきたくて必死に頑張ってきました。学校だって、レベルをぐんと下げてここにしましたし、部活動だってこのまま一緒になるはずでしたのに……。不合格ですって……? こんなはずじゃないんです。おかしい。私はどうしても慎二さんと同じ部活動になりたいんです。そのために生きてきたんですから!」
そんなこと言われても……。そんな気分だった。
「一生のお願いですから、変わってくれませんか? 私、美術部じゃないと、生きていけないんです。」
涙の音を奏でている。心底から嫌気を覚えさせる懇願。とても優等生キャラから出るとは思えない属性の特徴。きっと彼女の絵は不用意に塗りたくられた外面のアクセサリーで埋めつくされているのだろうと勝手に推測した。
私だってどうしても美術部じゃないと嫌だ。優しく言っても「何?」と返される。本当なら強気で言い返したい。しかし、彼女は同じクラスメイトでこれからも面を付き合わせる可能性が高い。変に敵は作りたくない。
「ねぇ、辞退してくれません? お願いだから、辞退してよ!」
圧が強くなる。だからと言って嘘はつきたくないし、強めに突き放して敵に回したくもない。心だけが締め付けられていく感覚がする。「ごめんなさい。どうしても私は辞退できません」と私にも無理だと訴えることしかできない。
「何でなのよ。あーもう。あんたみたいな妖怪みたいな絵が合格して、何時間もかけてかけて丁寧に作った絵が不合格だなんておかしすぎるの! あー。うざいうざいうざい。」
雰囲気が一転した。もはや表の姿からでは想像もできない裏の顔が牙を剥いている。
しかし、まさか私の絵が見られていたとは思いもしなかった。クスクス声の中に彼女の存在が隠れていたとは気付きもしなかった。
「辞退してくれませんのなら、こちらにも考えがあります。」
「考え……?」聞くのが怖いけど、聞き返す。
「あなたの絵と名前を学校中のあちらこちらに張りまくります。それを見て皆さんどう思われるんでしょうね。すぐに学校中の笑い者になるでしょうね。安心して下さい。私、中学の生徒会でしたのでポスター張りは得意ですから!」
地味な嫌がらせだ。けど、それは大変困る嫌がらせだ。
じりじりと詰め寄られていくような感覚。
美術部を諦めるしかないのかな。
「ここで何してんの?」
半井でもない、私でもない。そもそも男の人の声。誰もいないはずの廊下。振り向くとそこに人がいた。
長身痩躯に艶っぽい髪。鋭い眼光から強かなオーラが醸し出されている。一言で言い表すならクールと言った感じだ。近くで見れば、見とれてしまいそうだ。
「どうして慎二さんが……ここに?」
【1話(後編)】
「ここは美術準備室だ。いてもおかしくないだろ? 逆に、お前らがいる方が違和感だと思うけどな。」
サラリと返された言葉。それに口が閊える半井。私はただただその様子を窺うしかできない。
「話は聞こえてた。入部試験の合否については先生が決めたことだ。もし文句があるなら直接先生に言うんだな。」
冷たい言葉が彼女を凍らせた。先程まで見せていた裏を隠して、表の姿で関わろうと取り繕うも慌ててるせいか言葉が上手く出ていない。
「それで、お前が愛南か……。」
突然、話の対象が私に向かう。思わず「えっ」と声を漏らしてしまった。私も何か言われるのだろうか。
「部長として、試験の絵は全て見させて貰ったんだ。愛南の絵……本当に絵が好きなんだなってことが分かる素晴らしい絵だと、俺は思うな。」
ここからだと横顔がチラッと見える程度でよく見えないが、ほんのり笑ったように見えた。
優しく溶けるような言葉が浮いている。思わずその場から動けなくなっていたし、喋れなくなっていた。衝動的で刺激的な熱が心から溢れてきそうな感覚と、平穏を保とうとする自分の脳が対立して拮抗状態になっているからだ。
サッとその場から去っていく姿。私達はどちらともその場から動けなくなっていた。
先に動いたのは半井で、彼を追いかけるように走っていった。
とても静寂な廊下に取り残された。今はただこの不思議な気持ちを噛み締めている。
ふと顔を横に向けた。
廊下の窓の向こう側に見える鮮やかな夕焼けに向かって一息つく。黒い烏がオレンジ空の中を飛んでは鳴いている。ちょっとだけそんな空に向かって微笑んで見た。
◆
ノートを開いた。オリエンテーションばかり続いていたが、ようやく本格的に授業が始まる。黒板に書かれた文字をひたすらノートに写す。先生が質問した問に教室にいる誰かが答えていく。あっという間に授業が終わった。
昼の時間だ。お弁当を取りに教室後ろのロッカーへと向かう。
「邪魔!」
キリッとした鋭い目つきで行く手を阻み、そのままスタスタと進む半井。お互いに子どもじゃないので、いじめみたいなことは起こらない。しかし、彼女からのあたりがとっても強くなった。当たり前だけど、私もいい気分はしないし、近寄りたくはない。
鞄から弁当を取り出した。席に座って袋を開いた。
「まーなっみん、食ーべよー。」アズアズだ。
開く弁当箱は彩りだけは鮮やかに見せた何の色気のないもの。一応外面の彩りだけは取り繕ってみたものの、実態はただ冷凍食品を詰めただけである。
周りを見渡した。どうして冷凍食品なのか。それには私なりの自論がある。料理した食べ物を弁当として食べる場合、食べる頃には冷えてしまって美味しさがその場で食べる時よりも半減してしまう。しかし、冷凍食品は弁当として食べることを前提として作られているので、食べる頃に美味しく感じる。やっぱり弁当には冷凍食品に勝るものはない。そんなことを自問自答した。もし何か言われてもすぐ自論を述べられる。
アズアズはポッキーを取り出して食べ始めた。
「えっ、もしかしてアズアズの昼ごはんってそれ?」
「うん。まなみんもいる? シェアハピする?」
「ちょっと待って。お昼ご飯それだけ? 不健康じゃない?」
まさかの昼飯がお菓子。見てるこちらは心配になる。「いいのいいの」と気にしていないみたいだ。けど、私が気になる。
戸惑いながらもお腹を満たしていく。
偶然、周りの声が耳に入ってきた。何やら慎二君の噂をしているようだ。この学校なら聞いて当然の在り来りな話題だった。
「すっごいよねー。乾っちの兄ちゃん。ずっと話題に上がってんじゃん。けど、思うんだよねー。絶対に噂が一人歩きしてるだけだって。乾っちの兄ちゃんだよ! 絶対にポンコツっしょ?」
「違うよ。絶対――」なんて言葉を頭で考えるよりも先に言い放っていた。驚いたようにこちらを見ていた。
弁明するように「いや、その……見てもないのに噂だけで判断するのはどうかなぁって」と弱々しく付け加えた。
どうして反射的にあんな強めに言葉を言い放ったんだろう。そんな思考を押し殺して、違う話題について話していった。
――――――
広めの教室。顧問の先生が黒板の前に立っている。前の席に座るのは欠席を除いた三年生、二十二名。席の後ろ側は欠席を除いた二年生、十四名。そして、一年生、十八名は椅子を持ってきて後ろの空間の適当な場所に座る。
ずっと定員が十五名だと思っていたが、そうではなかったみたいだ。試験では、絵を描くことが好きであること、つまり絵への熱意を見られていたみたいだ。先生から全体にそれらしいことを伝えられた。徹夜で急ぎで完成させた絵だとしても、中学校の頃に培ってきた絵への思いや技術は確かなものとして発揮できたからこそ私は合格したのではないかと思った。逆に、半井が不合格したのはどれだけ丁寧に外面を埋めようと、心から絵を好きである気持ちが全く足りなかったからなのではないかと思った。入部理由も絵ではなく慎二君だし。
今、無心で頷いているが、この自論を誰かに打ち上げようとは思っていない。私はその自論を飲み込んだ。
絵への気持ちか――。あの時、逃げなくて本当に良かったな。脳裏で反芻する慎二君が私にかけてくれた言葉。合格した事実も相まって、その言葉が私の自信となって行動を後押ししてくれる感覚を受けた。
本日の部活動はオリエンテーションで終わった。終わると否や、慎二君は相変わらずの人気っぷりで、三年生を中心に囲まれた。近づくことさえ許されない。無理にでも近付けば、あの取り巻きに干されてしまうことは容易に想像できた。
同じ教室の中にいるのに、まるで天と地の差がそこに存在しているみたいだ。見えない手による後押しを受けた今でも、そこには辿り着けそうにもない。そこにある雲泥の差をひしひしと感じた。
やはり、慎二君は高嶺の花。私には遠すぎる存在だ――。
◆
課題『絵を描くこと以外の好きなこと』――。
さて、どうしたものか。
まずは内容について吟味する。趣味は絵を描くこと。絵の中でも漫画風イラストを描くのが好きだ。それ故によく漫画を読んだりゲームをしたりする。ただ、見るものやるものはどれも王道。流行り物ばっかりで、何かを深めている訳ではない。
うーん、と頭を悩ませる。このままでは描く内容が上っ面のペラッペラになってしまう。
「あ、そうだ。愛南には特技があったんだ!」
ピコンッ。私は閃いた。
私には植物を育てるという特技がある。
昔、観葉植物としてミニサボテンを育てていた。最初は水を上げすぎたせいで何度も枯らした。今はミニサボテンの域を出て、小さな庭でパンジーを育てている。培養土と赤土玉の小と中玉を混ぜて庭の土を作ったり、花屋で買ったパンジーの苗をそこに埋めたりした日々を懐かしく思う。今では毎日水を欠かせずに上げたり、華やかに咲くようにと咲いた花を切り取ったりするのが日課になっている。
「いいじゃん。これ。これを描こう!」
頭の中で想像していく絵。構図はどうしようとかどの色のパンジーを描こうとか頭の中で考えていく。ある程度の基軸ができたら、それを脳裏で再現していく。この時間が愛おしく堪らなかった。
――――――
品評会――。
描いた絵を教室内に展示し、それを見合って感想を紙に書き先生に提出する。最後に、先生の講評と共に書かれたコメントを抜粋して伝えられる。言わば、絵の上達のためのアピールの場だと私は思っている。
部門は二つ。作品の展示かつ感想を書く部門と感想だけを書く部門。どちらを選んでもいい。つまるところ、参加不参加自由であり、この課題を必ずこなす必要はないということ。
私は慎二ファンクラブである理由が為に所属している部員も多くいると思っている。それ即ち、わざわざ絵を描いて提出までしようとは思わないだろうということだ。
美術室に入った。課題は『絵を描くこと以外の好きなこと』であり、それぞれの好きなことが描かれた絵がズラっと並んでいる。
さっきまでの浅はかな考えは撤回だ。意外にも展示された絵が多かった。その中でもクオリティが高いものも多くある。思わず圧倒されてしまいそうだ。
バインダーで挟んだ紙とペン。三つまで評価できる。白紙を埋めたいがためにしっかりと絵一枚一枚を見ていく。
「すごい――。」
思わず立ち止まってしまった。が、すぐに押し出されてしまう。絵の下の名前すら見れなかった。
あの一枚の絵が頭の中にこびり付く。鮮やかな青と隅で存在感を放つ緑かかったバスケットボール。赤茶色を覆うように描かれた苔っぽい緑色。全く違う色で描かれているのに、それは違和感を感じさせない。
やけにあの絵だけ人だかりができている。その情景を見て、すぐにその絵の主が慎二君であると理解した。その後、「慎二さんの絵だ!」という言葉がそこら辺で聞こえたことから確信に変わった。
それに比べて。私のパンジーの絵は可もなく不可もなくその場で存在感を放とうと健気に咲いている。
これ程までの差があれば嫉妬なんて感じない。そこにあるのは一筋の尊敬と憧れの眼差しだけだ。
一通り回って評価とコメントを書き終えた。
ただ、私の絵への反応が気になって、メモをしてる風を装いながら、邪魔にならないように近くで待機していた。
素通りされていくその様子を見て、ため息を吐きたくなる。
下手ではないと自負しているものの、特段に上手な訳ではない。多分、平凡なのだろう。可もなく不可もないような無味無臭では誰も立ち止まってはくれないのだろう。
まあ、初めから期待はしていないからショックはそこまで大きくはない。もう帰ろうと踵を返そうとした。
そんな時だった。
私の絵の前で止まり、しゃがんで私の絵を見る一人の姿。その様子を見ようとする影がチラつく。
紛れもなくそこにいるのは慎二君だった。
彼は優しく「俺、この絵、好きだな――」と呟いた。
その言葉が突風となって突き抜けてきた感覚を得た。これほど爽快な感覚は生まれて初めてな気がした。
後ろから「ねぇねぇ、慎二君。その絵が気になるんだ。めちゃくちゃ下手って訳ではないけどさ、そこまで上手いって訳じゃなくない? どこがいいの?」と三年の先輩が訊ねていた。
「もちろん、技術力は足りないな。覚えたての技法に囚われている気もする。そのせいでまだまだ表現しきれていない所もある。」
グサッ。そのダメだしは痛すぎる。
唐突なダメージで持ってたバインダーを落としかけた。危ない、危ない。
「けどな、ちゃんと伝えようとする表現力が確かにある。この絵が伝えたい気持ちはちゃんと伝わった気がするんだ。」
優しい横顔が輝かしい。
立ち上がる姿を思わず目で追いかけていた。
「この絵を描いた人が気になるな……愛南か。」
その様子に見とれている私がいた。気付けばバインダーが腕から離れていた。床に落下する音でハッと我に戻る。急いでバインダーを拾った。
「噂をすれば」と彼の方から私に近づいてきた。ちょっと緊張して体がカチコチだ。「ねぇ」という掛け声に「はいっ」と固い返事をしてしまった。
「良い作品だったよ。けど、意識すればもっと良くなるな。」
「ありがとうございます。」
「絵は見せるだけのものじゃない。絵は伝えるもの。言葉を介さないコミュニケーションなんだ。」
「コミュニケー……ション。」咄嗟の言葉にオウム返しをしている自分がいた。
「ああ。愛南は枠に囚われてるんだ。ただ、本質は掴みかけている。もっと教えてくれ。お前の全てを、ご自慢の絵で、な。」
手が触れる。触れ合う。
長い指。冷たい感触。その先にあるのは先程落としていたであろう鉛筆。
そこからちょっとだけボーっとしていた。手元には鉛筆が取り残されていた。
◆
先生の言葉。講評は褒めもあったけど厳しいご意見もあった。トータルするとちょっと凹みそう。
それでも凹みすぎないでいられるのは慎二君との会話を今でも思い出せるからだ。あの時の会話が反芻させるお陰で、私の心は立っていられているんだ。
「ねぇ、明日、暇?」カントリーマームを頬張りながら話していくアズアズ。
その質問は苦手である。暇と答えれば、どんなに嫌なお願いをされても断り辛い。逆に、暇じゃないと答えれば、もし楽しそうな出来事でも参加しづらくなるし、彼女との関係性もほんの多少はヒビが入るかも知れない。
「まあ、一応……暇かも」とだけ答えておく。
「じゃっ、遊ぼっ! 決定ね。」
もはや拒否権などなさそうだ。明日、暇かどうか聞かれて暇と答えたが最後、このような強引な予定入れも断れなくなるのだ。まあ、幸いにも遊ぶのは嬉しい出来事なので結果オーライではある。
当日。待ち合わせのコンビニに向かった。ちょっとドタバタしてて、待ち合わせの時間に遅刻してしまった。
そのせいで待ち合わせ場所が変更となった。元々、コンビニでお菓子を買ってどこかで遊ぶとだけ聞かされていた。そのどこか――詳しい場所は聞いていない。
住所だけ送られて、地図で調べて進む。迷ったので、アズアズに電話をしながら道を進む。
そして、辿り着いたのは灰色の屋根と黒色の外壁が印象的な一軒家だった。柵の前へと行き、インターホンを鳴らす。
「何してんだ? お前。」
聞いたことある声だ。どこか冷たくクールな物言い。振り返るとそこには慎二君がいた。
「どうして先輩がっ、ここにいるのっ!」驚きを隠せない。驚き過ぎて心拍数が上がる。
それに対して、何故か、ため息を吐かれてしまった。
「いるも何も、ここは俺の家なんだが――?」
ひょへっ?
恐る恐る家の表札を見る。そこには『大口』の文字が書かれていた。
心の中で、ど、ど、ど、どういうこと? と自問自答しながら、答えを導いていく。
家のドアが開く。出てきたのはアズアズだ。その後で乾も出てきた。
あっ――。
「おーっい。愛南も早く家に上がれよっ!」
乾の言葉を聞いて、「あー。乾の友達か」と納得した模様。彼の手で柵が開かれる。「入らないの?」と言われ、ハッと我に戻って二人で彼の家へと向かう。
アズアズに誘われた遊び。その場所は乾の家。乾と慎二君は兄弟。つまり、必然的に私は慎二君の家にお邪魔することになったみたいだ。今からひとつ屋根の下に在することになると思うと心拍数が上昇し続けていく。止まらない。
お邪魔します――。
【2話(前編)】
氷を壊すように六角形の塊をハンマーで叩いていく。海の中に落ちて消えるようにその塊が下へと落ちた。
穴の空いた氷の大地。その上に立派に立つ一匹のペンギン。氷に見立てた塊は次々に落とされていく。
乾がハンマーを持った。そして、塊を落とす。それを引き金にして他の塊も崩壊した。上に乗っていたペンギンが落下した。
「うわーっ、また、俺の負けかよー。」
クラッシュアイスゲーム。ペンギンを落とさないように足場を落としていくボードゲームである。簡単には崩れないが、軸となる足場を一つでも壊してしまうと、その一つが周りを巻き込み、足場は一気に崩壊してしまう。本来ならその軸となる足場を計算して叩くのだろうけど、私は直感で破壊していた。それでも勝てるのだから問題はない。
リビングに慎二君が降りてきた。
彼は冷蔵庫を開き、大容量ペットボトルに入った水を取り出してコップに注いでいた。そのコップは黄緑色で可愛らしく、どこかギャップさえ感じさせる。
「先輩は緑色がお好きなんですか?」
勇気を持って聞いた。今なら周りからの圧という障害がない。ここしかないと思えると必然的に勇気が湧いた。
「よく分かったな。どうして……ああ、コップの色か。」
「それもそうですけど、品評会の時、ボールの色が緑っぽかったので……。」
彼は軽くコップの水を口に含んで飲み込んだ。
そして「それは関係ないよ。ただ、表現したくて緑を使った。それだけだ」と伝えられた。
わざわざ赤茶色とか橙色とかで表すバスケットボールを緑っぽくしたのはなぜなのか。今、そのことを考えるので必死になっている自分がいる。そして、そんな時間が楽しいと思えている自分もいる。
やっぱり周りの色に合わせてだろうか……。けれども、何か見落としているような気がするのは何故だろうか。『絵を描くこと以外の好きなこと』で描かれたバスケットボール。ふと「バスケットボールよりも目立たせたいものがあったんじゃ……」と呟いた。それに対して「いい所に気付いたね」と楽しそうに微笑んだ。その微笑みが頭にこびり付く強烈なインパクトだった。
「俺はバスケが嫌いな訳ではないけど、好きでもない。俺の周りに近寄る女子らは俺の内心を気付こうとはしないで、上っ面だけを見てる。だから、あの課題で、あの絵を見て、俺の好きなことがバスケなんだと勘違いしている。緑色の表現すら見ようとも、気付こうともしない。」
彼の視線が乾の方向を捉えていた。
残っていた水を飲み干し、口を潤わせていた。
「俺が好きなのは乾とするバスケであって、バスケじゃないんだ。」
好きな人と一緒にする事が楽しいのであって、それ事態が好きなんではない。
「なんだか……分かる気がする。」
私達は笑った。どこか微笑ましい時間だ。
「ちょっと来てくれないか。お前に貸したい本があるんだ。」
彼は立ち上がるとどこかへと誘おうとした。
「えっ、あの兄ちゃんの大切な本を貸しちゃうの?」
「ああ。気の迷いかも知れないけど、貸したくなったんだ。俺が絵の道に進むきっかけになった『起源』であり、俺の人生の『聖書』だ。」
「そんな大切なもの、借りちゃっていいの?」
もう驚きが隠せない。
「大切だから貸すんだ。あげる訳じゃないから大切にしろよ。」
彼に連れられるまま二階へと上がった。
彼の部屋へと入った。片付けられている部屋だ。それでいて、しっかりと絵と向き合っている部屋だとすぐに分かった。
胸がドギマギする。今、私はあの慎二君の部屋に来ているんだ。あまりの高揚感に、気を抜けば鼻血が出そうでもある。
「バスケットボールを緑っぽく描いたみたいに絵は自由なんだ。俺の『聖書』にこう描かれている。『あなたが青く見えるなら、りんごもうさぎの体も青くていいんだよ』ってな。絵はもっと自由でいいんだ。お前は、囚われなければ、絵のコミュニケーション手段がもっと増えるはずなんだ。」
私の目の前に置かれる漫画の束。それらが青く広がっている。
タイトルに目を通した。『ブルーピリオド』という漫画みたいだ。そして、これが慎二君の起源。
大切に袋に入れられたそれを私は大切に持った。そこに包まれた特別感が私の胸の中の幸福感を倍増させていく。
私は嬉しい気持ちのまま階段を降りた。
――――――
漫画をペラペラと捲る。
いつもは漫画はスマホで読むものだったけど、紙で読む漫画も良いものだ。特に、それが特別な人から貸して貰った本なら尚更だ。
これが慎二君のルーツ――。
時計の短い針が二周し終えて一周目に入る時間になっていた。明日も学校なので寝た方がいいと頭では分かっているものの、続きを読みたい。どうしても読みたい。
それでも私は布団へと潜った。
タクタクタクと針の音が無音の中に反射している。目を瞑ったところで夢に落ちることができない。あれやこれや辛抱して目を覚ますが、暗闇の中でほんのりとした光で照らされる時計はまだ一時間すら経っていない。それから何度も目を閉じては開くを繰り返した。
深夜二時。結局眠れずに起きてしまう。いつもなら誰かに連絡を送るところだけども、今日だけは漫画本に手が伸びた。静かにページを捲っていく。
◆
今日の部活は外での活動だ。外の景色からどこか一面を切り取って絵に描く。学校の敷地の中をひた歩き、ピンと来るものを探していく。
ふと足が止まった。
絶え間なく動く様子。けれども、頭の中で絵に写す構図が出来上がっていく。鳴り響く声が散漫に広がる。この熱気を私は描きたい。
絵はもっと自由でいい――。その言葉が私の衝動を突き動かす。手が勝手に動いていくみたい。必死に絵と向き合い真剣になっている今の自分。とても気持ち良い。
完成した白黒のラフ画。その後、そこに色を付け加えていく。靄がかった赤で表現していく。
――――――
次の日の作品発表の時間。
体育館を舞台に、バレー部が一生懸命にボールを追っているシーンを描いた一枚だ。
私には自信があった。きっとみんなから褒められるだろう。心の中ではニヤニヤしていた。
が。「小蓬さんの絵、色がおかしくない?」という批評を初め、あまり好印象の評価は貰えなかった。
「この絵は愛南が描いたのか?」
絵を見に来た慎二君に「あっ、はいっ」と吃驚しながら返事をする。
「体育館の床だけじゃなくて全体が赤なんだよ、おかしくない」などと付近で笑われている中、彼だけは違った。
「いい絵だ。熱気を赤で表現したんだな。ストレートに伝えたい意思を感じられる。それに、しっかりと俺の大切な本を読んでくれたんだってことが分かって、とても嬉しいよ。」
その言葉を貰えて嬉しい。心が兎みたいにぴょんぴょん跳ねている。
「分かる? じゃあ、あのね、あのね」と私は絵のアピールポイントを伝えた。その時ばかりは童心に戻っていた。
「なるほどな。絶え間なく動く姿を描くために敢えて人型を留めずにボヤして描いたのか。面白い着眼点だ。」
私が最も好きなことである絵を描くこと。今まではその結果しか見られて来なかった。けど、彼は違う。彼は結果に至るまでの思考など道程をも見てくれるのだ。今まで感じたことない楽しさがとても嬉々たることだった。
「ねぇ、他の絵とかみないの?」近くに来た先輩が言う。
「せっかくの時間だ。今はこの絵を見ていたいんだ」と返される。
たったそのワンシーンを見ただけで私の心の中の満足感はあっという間に天井を突き破ってしまう程に溢れていく。
いつの間にか付近に人はいなくなっていた。二人だけの時間になった。用意された特別な時間、至福な時間を過ごしていく。
「それじゃあ、次の絵も楽しみにしてるよ。」
彼は違う絵を見に進んでいった。
確かに残る余韻を噛み締める。まだまだ味が溢れてくる。私は少しばかし目を覚ってみた。
作品発表の時間はあっという間に終わった。
作品を閉まって、教室を出た。
「ちょっとお時間いい?」と笑顔で言う一人の先輩。私の足は止められた。すかさず「ちょっと来て」と冷たいトーンで言い放たれた。
掴まれた腕は笑顔とは裏腹にギュッと怒りが込められている。無理やり引っ張られる感覚で階段を上った。
静寂に包まれた第二美術室前。そこには先輩達がズラっと待っていた。
私は教室の壁際に追いやられては囲まれる。その圧倒的な圧に、先程までの幸福感は消え去り、恐怖感が代わりに台頭した。左腕を右手で握って震えを止めようと頑張るが、恐怖感は無くなってくれない。
「あのー、大口さんとはどういう関係なのかしら?」
すっと出される手。副部長の顔が近づいてくる。
「答えて。アンタは大口さんの何なの?」
冷たいトーンには嫉妬や嫌悪感が混じっている。鼓膜を通って悪寒を感じさせていく。
「聞いてんだけど? 黙らないでくれる?」
今度はちょっとした微笑で言い放つ。
「あのさぁ、こっちはさぁ、努力してようやくあの人に近づけたの。で、アンタはそんな事も知らずに易々と近づいて楽しそうに話してたね。一年の癖に。どんだけビッチなの?」
怒りが伝わる。五感のどれもが逃げたいと伝えている。恐怖で言葉すら出てこない。涙すら出ない。
教室の壁が蹴られた音が大きく響く。あまりにも唐突に、大きな音に体が思わず反応した。
「安心して。今日は警告だけだから。次、近づいたりしたら、どうなるか分かるよね?」
嫌な視線があちらこちらから突き刺さる。
息が詰まる。
とても息が詰まる。
「これ、要らないよねぇ。こっちが責任持って捨ててあげるね。」
先輩の一人が鞄を漁って先程展示した絵を取り出してはビリビリに破り始めた。破り終えるとそのままゴミを持つようにそれを持ち帰って進んでいく。そんな彼女に周りが着いていく。
ゾロゾロとその場から離れていく集団。悍ましい雰囲気は静寂な雰囲気に戻った。
壁に持たれながら座る。あまりのキツイ時間に心がやられそうだ。
窓の向こうに映る覚束無い景色。低い階層から落ちれば痛みは少ないけど、高い位置から落ちれば致命的。幸せから不幸に落ちる時も同様だと思っている。せっかく有頂天になれそうな程に幸せだったのに、高く登れた時間だったのに、今の出来事で瞬く間に最悪な日に転落してしまった。
「辛っ――。」丸まって言い放つけど、誰もいない廊下にこだまして惨めになってくる。
◆
ギロッ。
放たれる視線が痛い。そこまで警戒しなくても私からは慎二君には近づきません。あんなことがあったのだから、近づける訳がない。
ちょっとでも手違いで近くに進もうと言うものなら強く睨まれて目で警告される。蛇に睨まれた蛙のように私は震えてしまう。
怖い――。
同じ部屋にいるはずの慎二君は取り巻きに囲まれていてとってもとっても遠くにいるように感じる。
私への扱いがぞんざいな扱いに変わる。周りからのあたりが強くなる。
それは美術部だけの話だけじゃなくて、教室でもそうだった。噂は広まるのが早い。まるで火が燃え盛るみたいの早さだ。美術部よりかは穏やかでも、ヒソヒソとした小声と目を逸らすような態度が心を痛みつけていく。
「なんかあったん?」
正直、アズアズがいなかったら、もう心が崩壊して不登校になっているだろう。
ここでは言いづらいから、夜中に相談でもしようかな。今は適当に返す。
カッカッカッ。そんな強めの足音が近づいてくる。音鳴る方へ顔を向けるとそこには半井がいた。
「愛南さんって見た目によらず馬鹿なのですね。」
何その言い方。と言い返したい所だが、今の私の心の持ちようでは言い返せない。
「慎二さんのファンクラブの怒りを買ったんでしたっけ? 一途な私ですら、近づくことさえ許されないというのに……。ほんと考えれば分かることですのに。」
ただ、ディスりに来ただけだろうか。思わず「何?」とキツめに言い放った。
「何でもないですよ。ただ、謹慎中のあなたに話しかけたかっただけですから。」
どうしてだろう。話しているうちにイラついてくるのは。
そのまま去っていく姿。本当に何も用事がなかったみたいだ。余計にイライラする。
美術室までへの道。
ふと足が止まった。どうしても足が動かない。一歩動かすためにも揚力が必要で相当疲れる。行くのが億劫になる。
私は来た道を戻った。
戻るしかできなかった。
私は馬鹿だ。その場のノリ的なもので慎二君と楽しく話し合った。取り巻きとかファンクラブとかあるのは知っていたはずなのに。あまりにも巨大な組織に睨まれてしまった。ようやく私がどれだけ身の程知らずなのか身に染みた。
絵を描くことが好きなのに、絵を描こうと言う気持ちにならない。
今はもう部活に行くことはなくなった。私はもう幽霊部員の一員だ。
帰って何かをする訳でもなく、ただ自分の部屋のベッドで枕をぎゅっと抱きしめる。それで何かが起きる訳でもない。眠れる訳でもない。しかし、何もすることが起こらない。
学校と放課後の唯一の楽しみはアズアズとの会話。それぐらいだ。だけど、アズアズにも自分の時間がある。それなりの時間が余っていた。
「そういや読んでなかったな……本。」
意図的に見えない所に避けていた漫画の単行本の束。見れば惨めになるからだ。だけど、それなりの時間が私に読む気力を与えてくれた。
部屋は青は青でも紺色の靄がかかっている。そこにさらに他の色が混じりあって、余計に黒っぽい青になっている。そのせいで気持ちがどんよりする。その中で読む漫画本。それは鮮やかな、ビビットな青だ。徐々に部屋の濁色が清浄されていく気分になった。
パタン。
最後まで読み切ってしまった。
「はー。返さなきゃ。」
せっかく清浄されてきた部屋が再び暗い色に戻っていく。仰向けになって右腕で目を隠す。これで目の前は真っ暗だ。
現実逃避できていた時間が終わってしまった。突きつけられる現実に逃げたくても逃げちゃいけない実態がある。私は借りた本を返さなきゃならない。
返すためには慎二君に合わなきゃいけない。けど、合えば今度はどんな目に合わされるのか分かったもんじゃない。板挟みになる心情。何も考えたくなくて、目だけ瞑った。簡単に眠れない自分が嫌になる。
「どうしよう――。」
【2話(後編)】
一夜明かして悩んだ末に私はつまらない選択肢を選ぼうとしている。渡すか渡さないかの問の中で、良い言葉で言うなら折衷案。悪い言葉で言うなら中途半端。だけど、正解か不正解かのどちらかをつけられるなら、きっと迷わずに不正解とされる答えだ。
「ごめん、乾。これ、お兄さんに返してくれる?」
「いや、どうして俺なんだよ。直接返せばいいじゃんか。」
「私じゃ駄目なんだよ。私には直接会う資格なんてないからさ。」
「なんだよ……それ。」
戸惑う乾を横目に私に課せられた重荷を押し付ける。
これでいいんだ、と心の中で連呼する。きっとこれでいいんだ、とそう思えてくる。
慎二君を遠ざけて生きていく。距離を置けば絡まれることもなくなる。人の噂も七十五日とはよく言ったもので、教室の冷たい視線は徐々に消えていった。もちろん、部活には行けていない。行けばきっと再燃してしまうからだ。
気持ちに蓋をして、目を逸らして、全てから背けてさえ入れば視線は気にならない。お陰様で気が楽ではある。
だけど、心にポカンと空いた穴は埋まらない。
友達でも埋めることのできない穴。私にもどうすることはできない。朧気な靄が広がっている。
本当にこれでいいんだろうか――。
◆
机の中に入っていた『今日の放課後、第二美術室前に来い!』と書かれた置き手紙。字は汚い。
今日は部活動はないので気軽に行けはする。しかし、一体誰からの手紙だろうか。差出人は不明である。ただし、一人ピンと来る人がいる。
空いた窓にもたれかかる。
「アズアズ……。私、告られるかも知れない。」
「マジ? えっ、誰?」
「多分、乾。文字がそれっぽい。そもそも考えられるのが乾しか思いつかない。けど、私さ、乾のこと恋愛対象として見れないんだよねー。」
フる理由は本当は違う。きっと何事も無ければ、承諾している可能性もある。彼のことは嫌いでもないし、キモイとも思っていない。だけど、私は受け付けない。
理由は明白。彼と付き合えば必然的に彼の兄である慎二君と関わらないといけない。わざわざ距離を置く羽目になったことへの未練もそうだ。さらに、彼と関わることになれば、取り巻きやファンクラブとの対立は避けられない。それこそ距離を置いた私が報われない。
つまり、彼をフろうとすることで慎二君と近づかないようにしている。乾を傷つける理由は完全なる自分勝手だ。そんなことを無意識の内に考えていた。
理解できるけど、理解したくはない。
こんなくだらない事を考えている自分が嫌になる。
――――――
誰もいない廊下。相変わらずの静けさだ。
窓の外を見る。鳥が飛んでいる。
静かな場所だ。
どれだけ待てどもその静けさが揺らぐことはない。ほんとに静かな場所だ。
「何で、誰も来ないの!」
ここへ呼び出して置いて誰も来ないってどういうこと? 新手の嫌がらせだろうか。それともすっぽかされたのか? 乾なら有り得る。そんなことを瞬時に考えた。
ため息を吐いてから、帰るために足を出す。
コンコン。
何も無い所から音がする。「――何?」
何やら声が聞こえる。そっと耳を近づけていく。声の出処は第二美術室の準備室からだった。
「いるのか、愛南。」
その声は確かに慎二君だった。
準備室の扉を挟んで向こう側に慎二君がいる。
「話をしないか。俺を避けてるんだろ。ならせめて壁越しでもいいから、話をしてくれないか。」
私は扉に背もたれて座った。一枚の扉を挟んで彼がいる。きっと彼も同じように扉に背を持たれているのだろう。声の出処からそう思った。
「ごめんなさい。」私の一声はそれだった。謝る言葉しか思いつかなかった。
「どうして謝るんだ。乾に愛南をここに来て貰うようお願いした。避けてるのが分かってたからな。できるだけ直接合わないようにここで待ってたから、来たかどうかの判断が遅れた。待たせたろ。俺のミスだ。」
余計に「ごめんなさい」との言葉が浮かんだ。そんなこと何も気付かなかった。まあ、このことを誰かのせいにするなら、不器用過ぎる方法で呼び出した乾のせいだろうなとも思ったりもした。
「それで、一つ聞きたいことがあってな。どうして俺を避けるんだ? 俺はお前に嫌なことでもしたか?」
「ううん。これは私が悪いの。全部、私に問題があるの。先輩は何一つ悪くない。」
「じゃあ、なんで俺を避ける……?」
「それは――」言葉に詰まった。彼に直接、彼の取り巻きの事を話して良いのだろうか。いや、良くない。だからと言って、誤魔化す言い訳は思い付かない。
無言が続いてしまった。
それを切るのは彼の方から。
「漫画を貸したことか?」「――違う。」
「絵への感想か?」「――違う。」
「俺に近寄ってくる女子達がお前に何かしたのか?」「――。」
嘘をついてまで違うと言えなかった。私は黙りした。
「そうか。そういうことか。」
多分、全て悟られてしまったのだろう。私は少しばかし観念した。「ごめん」の言葉しか出てこなかった。
「気にするなよ。そんな奴らの言いなりになる必要なんてない。自分の芯さえ曲げなければ、強く生きればきっと、何にもされなくなるだろうからな。」
「ううん。駄目だよ。そんなことしちゃ駄目なんだよ。従わなきゃいけないんだよ。」
「どうしてだ? なぜ従わなきゃならないんだ?」
ふと昔の記憶に耽った。
あまり思い出したくはない記憶だ。
「中学の頃にね、ある女の子がいたんだ。その子はね、カースト上位の女の子の好きな人に告白をしようとしたの。それに気付いたあの子は周りを巻き込んで、告白しようとした女の子にイジメをしたの。それも、その子が耐えきれなくなるまで。」
その事実を聞いていた彼は静かにしていた。
再び私のターンだ。
「これも同じだと思うんだ。私が先輩に近づくってことは、あの人達にとっては意中の相手を横取りしてくる邪魔な敵。きっとどんな手を使ってでも防ごうとしてくる。そうして私は耐え切れなくなるぐらい痛い目を見るの。」
「そんなもんなのか?」
「うん。……だから、私が私の身を守るために、私は先輩を避けてたの。つまり、自分勝手な理由。だから、謝るのは愛南の方。」
全て伝えきったら心が楽になった。あんなに重苦しい胸の内も、今なら存在しない。慎二君に会えなくても、美術部で好きなことに打ち込めなくても、私は生きていける。もう悩む必要はないから。
ごめんなさい。最後の言葉を吐いて、私はここから去ろうと立ち上がろうとした。と思ったら、慎二君に止められた。再びその場に座る。
「どうしたの?」
「つまり、俺とは会いたくても会えなかったって訳だろ?」
その言葉に小さく「うん」と返事した。
「どうしても直接会えないんなら、俺に一つ提案がある。」
「提案……?」
「まず俺を避けてていいから部活に来い。そして、絵を描いてくれ。愛南の気持ちをぶつけた絵をな。」
「どういうこと……?」
「それを机の中や教室の後ろに置いてくれればそれを見る。展示された絵なら周りに気付かれないようにちゃんと見る。俺はその絵を見て、俺の思いを絵にぶつける。お前はそれを見て、返答を絵に込める。そうやって気持ちを伝え会うんだ。」
まるで交換日記のようなことを絵で行おうということだ。思わず「そんな無茶な」と瞬間的に言ってしまっていた。
言葉で伝えるのならまだ分かる。絵に言葉の文字を散らしてアートにすればまだいけるのだろうか。いや、そうしてもアートにするには隠せる文字に限界がある。考えれば考える程に「流石に無理だと思うよ」としか感想が出なかった。
「言葉や文字みたいに細かい事は伝えられない。けど、感情ならどうだ? コミュニケーション手段は言葉や文字だけじゃないんだ。手話から目線、指タッチ――気持ちを伝えるための方法なら沢山あるんだ。絵も同じじゃないか? 絵を介したコミュニケーション……つまり、会話を絵で行うだけなんだ。」
「やっぱり無謀じゃない? それに伝えたいこともちゃんと伝わらないかも……だし。それにやっぱりさ――」と言い途中で言葉が被さった。
「伝えようとする心と読み取ろうとする心があれば問題ない。なぁ、会話に理屈は必要なのか?」
そうなのかなぁ。そうなのかも? そうなのかもね。あまりピンとはきてはいないけれども、何となく理解した気にはなった。
目を瞑れば、背中越しで、さらに扉越しの彼の姿が鮮明に眼に映る。とても近くにいるのを感じられる。
「待ってるからな。」
「うん――。」
仄かに甘い陽射しが窓の外から射し込んでいる。とても温かな光だった。さっきまでずっとそこにあって、同じように照らしてくれていたはずなのに、どうしてかその光に気づけていなかった。今、私は、その光を浴びながら窓の外を眺めた。
◆
「どういう風の吹き回し? アンタがここに来るなんて。」
「私は絵を描くことが好きだから、美術部に入った。絵を描いてなかった時間が辛すぎて、やっぱり私には部活しかないなって。」
「ふーん。まっ、大口君に近づいたらどうなるかは分かってるんでしょ? なら、気をつけて生活することね。」
警戒はされているし、気を緩めれば視線を感じる。嫌な視線だ。
パレットと絵の具。そして、使い慣れた筆。
絵を描くこの時間が何もかもを忘れさせてくれる。夢中に絵を塗り重ねていく。
自分の思いを絵にぶつける。これが私の考えていること全て。持てる技法を活用して描いていく。
新たに踏み出す――それをイメージした絵。『身近にある小さな物』という課題で、新品の文房具を描くことでそれを示した。
次の部活では、アンサーとして描かれた絵を見た。橙色で描かれた頑張れと伝わる絵。思わず見とれてしまいそうだ。ただ、嫉妬憎悪を受けないためにチラ見だけにしといて、今度は何を伝えようか、と考えていった。
絵は――伝える手段、会話の一つ。
技法が増えれば増える程に、伝えられる手段が増えていく。
何日も続いていく絵交換日誌。離れていてもしっかりと伝わってくる。ちゃんと伝えられていると実感している。
何日も何日も続いていても、まだこの私達だけの秘密の会話は誰にもバレていない。
バレる訳がないと鷹を括っている。なぜならこれは私達だけの特別な会話なのだから。これは二人だけの気持ちの共有、特別な共有――。
月日は経って、いつの間にか一学期も終了していた。夏休みの間は美術部は活動しない。しばしばのお別れだ。
スマホで連絡したいけど、連絡してることがバレたら元も子もない。彼が何気なくラインを開いた暁には、その瞬間に誰と連絡していたかチェックされるらしい。たった一枚の変哲もない画像から居場所を特定されるような時代だ。覗き見的な行為で全てチェックされるのも不可能じゃない。
それに慎二君は予備校で忙しい。私なんかが邪魔してはいけない。
寂しい時間になる。
けど、心に霧はかかっていない。空気は重くない。部屋の窓の向こう側は晴れやかな空が広がっていた。
◆
お菓子を頬張る。ゴロゴロとしながらスマホに映る動画を眺めていく。その動画に意味はない。誰かがバズりたいがために撮った映像を意味もなく見る。
食べたら運動しなきゃいけない。ダラダラなんてしちゃいけない。なんて思いながらも、ダラダラしてしまう自分がいる。とりあえずそれっぽい言い訳を考えて、誰もいない部屋の中で誰にも聞こえないように呟く。
手を拭いて、スマホを横持ちにする。動画を見るのは辞めてゲームをすることにした。音に合わせてリズムよく流れるタイルを押すゲーム――いわゆる音ゲーという奴だ。
このゲームではタイルを一度も押しミスしなかったり見過ごさなかったりして曲を終えるとパーフェクトという称号が手に入る。今までパーフェクトを目指してもどこかでミスをしていた曲を、今まさにパーフェクト手前までやって来た。
二つの親指でひたすら押しまくる。一番の山場が終わった。後は油断しないで押すだけでパーフェクトができる。
ピポンッ。横長のスマホの上半分を覆うラインからのメッセージ。乾からの連絡だ。
やって来るタイルが見えない。まるで目隠ししながらタイルを押すような別次元の難易度になってしまった。せっかくパーフェクトになるはずのこの一曲も、今の通知のせいでパーフェクトを見逃してしまった。
最悪だ。せっかく念願のパーフェクトを目指せたのに。ラインを送ってきた乾をどつきたい衝動に駆られている。
仕方なくラインを開いた。
『二十日……時間空いてる?』
適当に『暇だけど』と返す。ジーッとじろ目で睨むスタンプを添えて。
『じゃあ、原画展行くぞ。決定な!』
なんか強引に決められてしまった。私に拒否権は無いのだろうか。正直に言うと、乾との関係性なら私は常任理事国並の拒否権を持ち合わせていると思っている。
まあ仕方ない。どうせ暇だし、付き合ってやるか。
ひとまずその誘いに乗ることにした。ついでに、乾をドツくことが確定した。
――――――
ようやく辿り着いた。
昨日、集合場所を再確認したら直接会場が集合場所だったということに気付いた。てっきり最寄りの駅とかが集合場所と勘違いしていたから、私は大パニックだった。きっとそんなこと気付きすらないだろうな。
いつもは適当な服を着ているが、今日は久方のお出かけなので特別に服をおろした。
どんな反応するか想像しながら電車に揺られていく。そこからバスに乗り換えて、バスに揺られる。
小さな会場に辿り着く。
スマホを見ながら、目的地へと足を運んだ。
チラッと乾の姿が見えた。小走りで近くへと向かう。
「お待たせっ!」
「おっ、ようやく到着だなっ。」
そこに着いた。
そして、思わず「えっ」と感嘆を漏らしてしまった。
目の前に慎二君がいたのだ。
私の脳裏のフィルターが彼を煌びやかに感じさせる。確かにそこに慎二君がいる。
さっきまで平常通りの心音が、今とても早く動いていた。
まさかの慎二君とのデート!?
おまけに乾。
【3話】
だいぶ離れた市にある芸術劇場。田舎よりかは大きいけど、都市規模で考えれば小さな建物。人の集まりもそこそこ。つまり、遠い地で人もそこまで集まらない「ここなら見られる心配もしなくて良さそうだからな」と言われる程度の規模。
見られるかもしれない恐怖心がそれで消え去った感覚がある。
そうなれば後はしっかりと羽休めと同時にこの時間を楽しまなきゃ。
建物の中に入った。エレベーターで目的の階へと進む。透明のガラスでできたエレベーターから外の景色を見る。風流ある穏やかな景色が目に映った。
原画展へと入場する。作品は『コハのアロとピー』というファンタジー物である。元はインディーズのネット小説で人気のない小説だったが、ある時急に掘り起こされてちょっとだけバズったことで漫画化した。ただし、バズると言っても人気は原画展がこの小さな会場に収まってしまうレベルである。いや、無名のインディーズ作品がここまで伸びたことを褒めるべきだろうか。
「俺、小説展示・世界観展示が気になるんだよな。二人はどうせ、原画展示が目当てだよな? じゃ、俺は見たいものみとくから、後で合流っすよ。」
待ち合わせ場所と大抵の時間だけ伝えられて自分勝手に行ってしまった。乾の後ろ姿がどんどん小さくなっていく。
そこに取り残された私達二人。
「俺らも行こうか」と鮮やかに放たれる言葉。
「そ、そうだね」と彼の隣を歩く。
ちょっとだけ我に返る。慎二君と二人きりで画展に飾られた絵を見て回る。
うん――これってデートじゃない?
鼓動が早くなる。心音が短く刻む。息が荒くならないように我慢する。
一枚の絵がある。主人公コハの絵だ。その絵を見つめる彼をチラッと見る。集中して眺めるその横顔が端正で美麗。多分、これにときめかない人はいないと思う。
ゆったりとした雰囲気の中で、二人歩を合わせながら絵を見ていく。
心がドギマギしてもはや正常じゃない。私は絵に集中できない。絵を見るフリをしながらずっと慎二君を見ている自分がいる。
言葉はいらない。というか、唐突過ぎるデートに、何か話そうとしても、カタコトの意味の分からない言葉しか発せないと思う。全然まだ心の準備ができてない。
何かを話される。何か言葉を返す。
何を話されたのか覚えていないし、自分で話してるはずなのに覚えていない。きっと後で思い出して恥ずかしくなって穴があったら入りたいモードに入る奴だ。
「この絵、いいな。俺の好みだ。」
立ち止まった一枚の絵。ちょっとだけ正気に戻った脳にその絵を刻み込む。鮮やかな風景画。まるで青春の一ページを刻むようなシーン。魔法少女の主人公と剣士の彼氏が煌めく砂浜の上を歩いている。
「私もこの絵……好きかも。特に、この淡く広がる海の景色が。」
二人で刻む景色。その共有が、この時を特別なものにしていく。
「良い着眼点だな。やっぱり愛南の審美眼はいいものを持ってるよ。」
私は今、恋をしている。けれども、この恋は許されない禁断の恋。私なんかが恋なんかしちゃ駄目なんだ。
それでも私は――。
気が付けばいつの間にか出口に着いていた。
ふと彼は私に向かってある言葉を伝えてきた。「絵を見る時、その人の感性とか人間性とかがその絵の見るポイントを左右すると思っている。愛南が見るポイント……俺は惹かれるものがあるな。」
その言葉が冷静を取り戻してきた私の心を再びドギマギさせる。止めて、私のライフはもうゼロで、熱でアッツアッツだよ。これ以上熱くなったら倒れてしまう。
そこに乾が合流した。
彼の存在が私の心を冷ましてくれた。
「なぁ、せっかく来たんだし、なんか買ってこうぜ!」
乾の提案で、小さな物販ショップで何か買うことにした。そして、ちょうど三人ということで、三つ入りのキーホルダーを購入することにした。二つの種類があり、一つは主人公コハと仲間のミカン、ピーちゃん。もう一つはコハの彼氏になるアロと共に冒険するメリカ、ラメル。本当は私がコハで慎二君をアロにしたいけれども、別売りなので仕方ない。私達は仕方なく前者を選ぶことにした。
「じゃあ、俺はコレ貰うっす。」
乾は電子レンジのピーちゃんを手に取った。残ったのは二つ。私は主人公のコハを、慎二君は仲間のミカンを手に取った。
ジャラッ。電球の光に輝くキーホルダー。思い出に残る大切な特別。
私は大切に鞄の中にしまった。
会場を後にする。最初にこの芸術劇場を見た時には感じなかった輝く雰囲気を帰り際はどうして感じていた。
楽しかったな――。
今日の夜、いつものように歌いながらシャワーに打たれる。そして、湯船に浸かる。いつもその時になって一日の振り返り、所謂一人反省会が勝手に行われる。画展の時の慌てふためく私を思い出して、どう思われたか考えていく内に、体を丸めて顔を湯船の中に沈めていた。ブクブクと泡を発生させていく。恥ずかしい、辛い、やり直したい。けどすぐに楽しい時間を思い出す。今度は違う見方で恥ずかしさを感じる。結局、湯船の中に沈んでいた。
◆
蝉の声が勢いを増している。
秋に侵食した夏が続いている。残暑と言われる季節も、みんな残暑に移行していないと思っている。九月の匂いはまさに夏だ。家に飾られたキーホルダーを見て力を補給しなければ、部屋から出たいとすら思えない程の暑さだ。
二学期が始まった。気温は確実に夏休みだ。
クーラーの効いた教室で、中々に難しくなった授業を受ける。授業が終わる頃には私は睡魔と戦い負けていた。
「ねぇ、夏休みにさぁ、アンタが大口さんと一緒にいたって聞いたんだけど、本当?」
背筋が凍る。美術部の先輩の一人からの言葉が突き刺さる。
「見間違いじゃないですか?」とシラを切ることにした。
「ふーん。本当に?」
「本当……ですよ。」
訝しむ目。私は過ごす怪しまれている。まさに前途多難だ。
美術部の活動。以前よりも警戒されているのが分かる。三年生の先輩達が先に帰ったその後に、メッセージカードに先輩へのメッセージを綴っていく。
埋めたカードを二年生の先輩へと渡した。
もうすぐで三年生は部活動引退だ。慎二君との絵交換ももう終わりだ。
先輩から渡されたお別れ会のプリント。そこに予定日や開催内容が書かれてある。美術部らしく沢山の絵が彩られていた。その紙を大切に鞄にしまった。
今の所、訝しむだけで終わっている。ただの推測だが情報の確証がないのと、お別れ会まで残り僅かだからだろう。今は残り僅かの時間を大切にしようと決めた。
――――――
お別れ会も明日に差し迫った。
明日は大事な日だ。胸を膨らませてバスに乗った。
「あれ、愛南じゃん!」
偶然乗り合わせていた乾が揺れる車内でゆっくりと近づいてきた。
「今日、部活ないんだ?」
「今日は体育館がバレー部が占領する日で、外練も昨日雨で濡れてるから休みなんだとよ。ってか、それ聞きたいのはこっちの方なんすけど。」
何やら意味深な言葉を言い始めた。
よく分からないまま耳を傾ける。
「愛南っこそ、部活いかないんすか?」
「いや、今日は部活ないから――」
その言葉を被せるように「けど、兄ちゃんは今日、お別れ会があるって言ってたっすけど」と言う。
鞄を下ろし、急いでチャックを開ける。中からクリアファイルを取り出して、その中のプリントを一枚手に取る。
お別れ会のプリントを凝視する。確かにそこには明日開催となっている。「なんで?」こんなミスが起きているのだろうか。
よく見ると、その日程の文字がズレているのに気付いた。上から被せて印刷したかの様相だ。
嫌な予感がする。小刻みに揺れる心拍。ゾッとした空気が背筋を凍らせる。気を抜けば涙を流してしまいそうだ。息が苦しくなりそうだ。
帰宅してる場合じゃない。急いでバスを降りて、車道を挟んだ反対側の歩道に進み反対側のバスを待つ。
「間に合って」とスマホをおでこに当てながら、誰にも聞こえない声で連呼する。信じてもいない神様に今日だけはお願いする。
バスを経由して学校の最寄りのバス停に辿り着く。ここから学校までの距離をひたすら走る。走る。走る。はぁはぁはぁと白い息を吐きながら無心で進む。昨日の大雨で涼しくなった風が行く手を阻んでくる。
ようやく校門前に来た。
門を潜り、敷地内の坂を上る。
偶然反対側からプリントを渡した張本人が来た。息を切らす私の前に立ち塞ぐ。
「本当に明日と間違えたんだ。まー、そうなるように仕組んだのはうちだけどね。」
隣にいる子も同様に笑っている。そのムカつく顔をぶん殴ってやりたい気分だ。
「あ、うちのせいにしないでね。これ三年生の総意だから。アンタさぁ、三年生からすっごく嫌われてるの知ってる? アンタがいるとせっかくの大事な会が台無しになんの。だから、新部長として仕方なくやっただけ。」
彼女は鞄からビニル袋を取り出した。中には幾つかのメッセージカードが入っている。そのメッセージカードはどれもビリビリに破かれていた。
「これも新部長として責任持って捨てとくから。ほんとは学校に捨てたいけどねー、先生に見つかると面倒だからさぁ。まっ、みんなを代表してうちが責任持って持ち帰って捨てとくよ。」
絶望的な風が拭いてくる。ちょっぴり乾いた風だ。
「もしかして慎二先輩のメッセージカードも――。」
「当たり前じゃない。どれだけ鈍感なの。三年生はそれを望んでいんの。今回のことは諦めなさい。」
寒い。心が悲しみと絶望感で寒く感じる。せっかく夏の延長だという秋なのに、昨日雨が降ったせいで暑くない。雨さえ降らなければ、きっとこんなに寒くないはずなのに。
彼女らが通り過ぎる。
こんな所で立ち止まってる暇はない。
後ろから「あっ、もうお別れ会は終わっ――」などという言葉が聞こえたが、もう私の耳には聞こえない。ひとまず昇降口に向かって走る。
そして、第一美術室に急いで向かう。
何でもいいから間に合って――。
辿り着いた第一美術室前。ガチャリと言う音が聞こえた。そこにいたのは顧問の先生だった。
「あら、愛南さん。今来たのですね。残念ですが、お別れ会はとっくに終わってしまいましたよ。」
それは冷たい言葉でも温かい言葉でもない。ただ、空を切る平温。しかし、私は平穏な言葉には思えない。
何か言葉をかけられたが聞こえない。心の中の絶望感が巨大な雑音となってその言葉をかき消していた。
先生も過ぎ去り、ただ一人取り残された廊下。
最悪な気持ちがノイズとなって私を襲う。膝が崩れ落ちる。もう疲れた。動かせない。叫びたいけど叫ぶ気力はない。何故か涙も零れない。感情を出す気力になれないのだ。
もう何もしたくない。
どれだけ時間が経っただろうか。意外とそんなに時間が経っていないのだろうか。虚無感だけが残っている。
ただ立った。
ただ歩いた。
空っぽの心を埋めるために階段を上った。これまた無音の廊下が広がる。
第二美術室の準備室。ここで初めて慎二君と出会った思い出の場所だ。確か半井に詰め寄られて、そこに慎二君が来て助けてくれたんだっけ。
温かな思い出が空っぽの心に色を取り戻していく。
心が正常になっていく度に涙が瞼の奥から流れてくる。涙は段々、止められなくなる。
「えっ――。」
辛い感情と向き合っている合間に。いつの間にか扉が開いていた。その先には確かに慎二君がそこにいた。
優しく手が伸びる。
どこか力強さも感じる手が私を掴んだ。そして、私は引っ張られる。またもや無音の、狭い空間へと入れられた。
石像が目につく。他にも様々な絵画道具が乱雑に置かれている。物置部屋だ。
カーテンで遮られた光はほんのり少しだけ光を与えている。薄暗い部屋で私達は二人きりになった。いつの間にか涙は止まっていた。
「アイツらに嵌められて来れなかったって感じだな。」
図星だった。
彼は「災難だったな」と言いながらドアの鍵を閉めた。「少し着いてきて欲しい」と言い、小道具が密集する場所へと向かい、それらを退かす。
小道具によって足場がない壁際。その真上にある天井には扉が存在する。壁の上半分だけだが梯子もあった。その梯子を上って真上へと向かう。
着いていった先にあったのは屋上だった。小さな水溜まりが太陽の光を美しく反射している。乾いた風が心地よい。
「俺だけがよく画材を使うからだろうな。顧問から美術準備室に自由に出入りする特権を貰っているんだ。そして、この第二美術室から屋上に行けることを先生すら知らない。ここは俺だけの秘密の場所だ。」
屋上に爽やかに吹き抜ける風。
今のご時世、屋上に行けなくなっている。確りと鍵で閉じられた立ち入り禁止。多分、教員ですら屋上に行くことを許されない。だから、屋上に行ける世界なんて漫画とかアニメの世界観の中だけだと思っていた。
それがまさか屋上に行く裏の手が存在していて、屋上で意中の相手と二人きりになるなんて夢の中の夢――フィクションの中にいるみたいだ。
「だから、ここなら誰にも気付かれない。思いっきり泣いても大丈夫だよ。」
「ううん。もう涙は出し切ったよ。」
さっきまでの辛い感情は払拭され、たった一瞬で、幸せな感情に変わった。感動で胸がいっぱいになっている。今は穏やかになりつつある心で、風が「気持ちいいね」と感想を伝える。
「ここは静かでいい場所だ。俺は時間があればここに来てゆっくりしていた。絵に対するインスピレーションが湧くからな。」
彼の言うことが凄く分かる。私も何かインスピレーションが湧いてきそうだ。
「それに、ここなら誰も来ない。ちょっとだけ自分の話をしたい。俺はずっと誰かに見られている。その多くは俺に、背伸びをした完璧に近い虚像の俺を求める。とても息が詰まるんだよ。俺は完璧じゃない。運動神経抜群、成績優秀と言われるけど、ただ裏で失望されないために頑張って維持しているだけなんだ。それに俺には苦手なこともあるし、好き嫌いだってある」と言い、一呼吸置いて「ただ、俺の『聖書』に『好きなことをする努力家は最高』っていう言葉があるんだ。だから、俺は大好きな絵の道をひたすら努力した。絵を極めれば、虚像ではない俺の姿を確り見てくれる人が現れると考えてきた」と放つ。
彼はずっと見られている。取り巻きやファンクラブの大きさを考えれば至極当然。それも悪意なく見られている。そんな彼女らがカッコイイ慎二君を求めるのも理解できる。もしかっこ悪い慎二君を見せたら失望されるかも知れない。彼はそれを知って、失望させないように見栄を張って生きていたんだ……。けど、心のどこかで等身大の自分に気付いて欲しかったのだろう。聞く度に理解ができて、同情してしまい、私も内向きな感情になっていく。
「絵を見て実寸大の俺を見ようとしてくれたのは一人だけだ。」
ふとこちらの方を見てきた。その時に見せた笑顔が頭から離れられない。太陽に近い場所のせいか、水溜まりに沈みゆく光が反射しているせいか、その時の笑顔が眩しかった。
「愛南――お前だけだ。」
甘い言葉が風に舞う。
耳が気持ち良いと言っている。
確かに運動神経抜群、成績優秀、美術における天才肌と言われる慎二君だが、私は一度もそれを求めて接しようとは思っていない。そもそも私にとっての最初の慎二君のイメージは乾の兄だ。それがプラスに働いたのだろうと勝手に思った。
悪い気持ちがしない。それどころか良い気持ちに酔ってしまいそうだ。
「今日で俺は美術部を引退する。俺がこの屋上に来れる最後の日なんだ。その最後には愛南の存在が必要だった。」
屋上の真ん中で私達は立っている。緩やかな甘い匂いが運ばれてくる。
「一つ聞きたい。お前は今の美術部にいて苦しくないか?」
思い浮かばれる今までの嫌がらせ。特にさっきの新部長の嫌がらせが胸に棘を刺してくる。
「苦しい。辛い。けど……私、それでも絵が好きだから。」
「じゃあ、部活なんか辞めて、俺と一緒に絵を描いていかないか? ずっと藝大に進むためにひたすら頑張ってきたんだ。予備校で絵の見方も多少は身につけたつもりだ。」
その時ばかりは、その声はどこか強引な力強い声だった。私の心を掴んで強く引っ張ってくれる。
「美術は俺が教えてやるよ――。」
その言葉が私の心をぎゅっと掴んで離さない。純粋なる瞳と力強い眼。瞼の奥の目が私を見つめる。
「それにお前を邪魔する奴らがいたら、俺が守ってやる。約束するよ。だから、絵を描いていかないか?」
「うん。そうする。私、慎二先輩と一緒に――」
「慎二でいいよ。」
緩やかな風が止む。まるで凪のように。
水溜まりに反射する淡い太陽光のエフェクトが印象的な屋上のワンシーンの中に閉じ込められた二人。
「やっぱり伝えなきゃ。伝わらないよな。俺、愛南のことが――」
まるで時が止まったみたい。
今まで経験したことのない不思議な感覚。
「――好きだ。」
日はゆっくりと夕日色に染まっていく。
夕焼け小焼けの深い橙色ではなく、まだなりかけの淡い橙色。私の、いや私達の好きな描写になりそうなぼやけた橙色だ。
緩やかな雲はマイペースに流れる。
高揚感すら忘れかけそうな程の凪。時々吹く風が優しくなびく。
「――私も。」
お互いに微笑み合う。それだけで何だか嬉しくなる。
私は禁断の恋をした。お相手は乾の兄――慎二君である。つまり、大口兄様に恋をしたのだ。
今までも、これからも邪魔になる壁は存在するのだろうが、二人なら乗り越えていける――そんな気がする。これからは二人が結ばれるまでの物語を超えて、二人のカップルラブストーリーとして確かな甘い恋愛を積み重ねていく物語になっていくんだ、きっと。
今はこの甘い気持ちに委ねていきたい。
手が触れる。指が絡み合う。どこか冷たくて、細くて長くて、力強い指だ。その手を背伸びする時に安定させるために借りる。
顔が近づく。
サラリとした髪の奥から優しい表情が見える。
今度は手だけじゃない。
私達以外誰もいない屋上で、夕焼けになりかけの晴天の下、昨日の雨で水溜まりが鏡のように反射して、まるでベタなラブシーンを絵にした風景画の中にいる二人。
目を閉じる。
音はシャットダウンされる。もう匂いも感じない。全ての感覚が唇に集中している。
緩やかに重なっていく。
二人の気持ちが一つになる。
何かに触れていたはずの感覚はもうない。
踵を下ろして、目を開ける。
瞳には人の姿が映っていない。見えるのは鮮やかな虹色の花びらが煌びやかに舞っている。風に消えていく儚い光の粉。
そこに吹く一風。光の粉も軽やかに舞う花びらも全てが美しく、煌びやかに、そして儚く飛ばされていく。
夕日に変わる橙色が作るのはたった一つの人影。
私の唇に残る確かな感触。優しく甘い温度がしっかりと残っている。だけど、理解し難い状況が目の前に広がっている。思わず私は一言漏らす。
「えっ――?」
【4話】
手のひらに乗った花びらは塵芥になり消える。
屋上にはただ一人、無音の中に存在している。
分からない。この状況が全く理解できない。飲み込めない。
さっきまで確かに慎二君がいた。けど、瞬間移動でもしたかのように姿が消えてしまっている。私は唇に指を当てていた。この感触は嘘ではないと言っている。
来た道を戻る。
足の踏み場もなくなるほどに乱雑に置かれた小道具など。それらを避けながら床に足を着く。
ふと落ちている鍵が目に映る。
第二美術準備室の鍵だ。普通ならそれを返すべきである。それなのに道理に反してまで私は鍵をくすねた。心のどこかでこれを返せば二度と慎二君に会えないかも知れないという違和を伝えたからである。
バスの中でボーッと眺める移りゆくせいでボヤける景色。
消えてしまったことに泣けばいいのか。驚けばいいのか。急にいなくなったことに怒ればいいのか。はたまた、拗ねればいいのか。戦慄すれば良いのか。何が正解なのか分からない。幾ら時間が経てど全く状況が読み込めない。
家の中にあるキーホルダーをギュッと握る。「きっとこれは悪い夢なんだよね」と言い聞かせる。そうであってくれと神に願う。
真っ暗闇の中で目を瞑る。
これは夢。人が突然消えるなんてフィクションでしか有り得ない。これは一体どこからどこまでが夢なのだろうか。夢ならば覚めて欲しい。
脳裏にこびり付く慎二君の虚像。手を伸ばせど伸ばせど届かない。
ようやく触れたと思えば、唐突に消える。
今のは確実に夢の話だ。すぐに気づく。
ふふふ、と笑っている声が後ろからした。振り向くとそこには女の子がいた。大人しめの女の子だ。小学生と中学一年の頃の友達だった。虚ろな瞳の奥には何か物々しい雰囲気で身体が硬ってしまう。そのまま深淵へと落ちていく。……と言う所で目が覚めた。
あまり思い出したくない記憶が蘇ってきそうだ。とうの昔に蓋をしたけど、完全に閉めきれない過去だった。
「嫌な予感がするなぁ……。」
――――――
眠そうな青が広がる早朝。
アズアズがバス停に間に合った。おはようの挨拶を交わす。すぐに乾が遅れてやって来る。この時を待ちくたびれたよ。
さり気なく乾に「ねぇ、アンタのお兄さんなんだけどさ」と言う。
それに対して、首を傾げられた。
顔がひきつってしまう。これ以上、望まない現実に引き込まないでくれ、なんて思いつつ確認をする。
「何言ってんすか? 俺に兄弟なんていないっすよ。」
何言ってるの? は私の台詞だ。血の繋がった兄弟を忘れることなんてあるのか。
「ほら、慎二君だよ?」
二人とも首を傾げている。あの乾が知らないのは何かのドッキリだろうか。アズアズも知らないのは共犯だからだろうか。誰か早く答えて欲しい。
垂れ流される読み聞かせ。現代文の教科書に書かれた文が耳に流れて、反対側の耳から出ていく。
しっかりと聞くことなどできない。集中できない。周りでは寝ている人もいるが、私は眠ることすらできない状態にいる。
早く長い休みが来て欲しいと思いながら過ごしているとあっという間に昼休み。私は急いで最上級生のフロアへと向かった。
恥を覚悟で進んでいる。安心感が欲しくて、そのためならどんな恥も厭わない気持ちでいる。
だのに、誰も慎二君の存在を知りもしない。あれほど話題に上がっていた学校における時の人である。この箱の中では有名人のはずである。知らない訳がないはずなのに。
慎二君の学級。前方の教壇に置かれた座席表。しかし、どれだけ探せども『大口』の名前が見つからない。学級の人も無理なら先生に聞く。しかし、先生も知らないと答える。
呼吸が粗くなるのが分かる。この理解不能な状況が体を強張らせる。
夢のはずなのに覚めてくれない。
人間関係のせいであまり好きになれない美術部。全員が慎二君のことを知らないと言う。反応からして、嘘は言っていないのだろうというのは分かる。嘘でいて欲しかった。
美術室に居場所があるのが余計に怖かった。三年生が引退していないからだろうか。あれほど毛嫌いしていたはずの先輩達や同級生達が異様に馴れ馴れしい。まるで慎二君を巡る確執が存在しなかったと言わんばかりに。
辛いと思っていた、居場所がなかった部活に居場所ができたことは幸せなことなのだろうか。私は何故か辛いと感じている。
「辛くてもいいから、戻ってきてよ、慎二君。」
どれだけ嘆いた所で何も変わらなかった。
私の記憶の中にいる慎二君は確かに存在する。しかし、みんなはそれを幻だと言う。統合失調症じゃないかと推測して心配する人もいる。
違う――これは確かに本当のはずなんだ。
スプーンですくって口に入れるカレーライス。いつもはピリッとした辛さに美味しさを感じるはずなのに、今は何の味もしない。
「カレー、美味しくなかった?」
すぐに否定する。この母の問いは料理が不味いかどうかの問いであり、不快な思いをさせたくはない。これは完全に自分自身の問題なのだから。
風呂へと入る。シャワーに打たれながら、無意識の内に体を洗い終えていた。歌うことさえ忘れていた。いつもは一人反省会などというくだらない雑念が繰り広げられる湯船の中も、今日は何も開かれることなく無心で終えた。何も考える気になれない。仕方なく風呂を後にした。
ベッドに潜る。
目を閉じれば今でも思い出す確かに残る唇の感触。あの時の幸せなひとときを忘れることはできない。
まるで階段を転げ落ちていくようだ。ゆっくりとゆっくりと痛みが襲うように、ゆっくりと地獄を感じさせられていくみたいだ。
これはきっと悪い夢。夢はきっと覚める。希望だけは捨てられなかった。
――――――
おじゃまします。
舞い上がる彼を他所目に断りを入れつつも勝手に階段を上る。私の中の幸せという名の記録ブック。その中の一つに刻まれている慎二君の部屋。勝手に扉を開く。
「おいおい。急にどうしたんだよっ。」
遅れて乾も到着する。
「そこには何もないっす。だって、ただの物置きなんすもん。って、おい。」
物置き部屋と言っても物は全く置かれていない。言うなれば、慎二君に関する情報だけ抜き取られてできた名無しになってしまった部屋。中に入って手探りで確認しても、情報に繋がる物だけ何もかも消滅していた。
なら、次の手だ。
この時のために持ってきた『コハのアロとピー』の登場人物コハのキーホルダー。「これ、覚えてない? 三つセットのキーホルダー。」
彼は覚えてる的なことを言って二つのキーホルダーを取り出した。
「確か、奇数だから、俺が余分に貰ったんすよねぇ。」
不発に終わった。私と乾、そして慎二君で分け合ったキーホルダーを見せれば必然と違和感に気付いて貰えると思っていたのに、それすら記憶が改変されていたみたいだ。まるで手の内の施しようがない。
これ以上の策は思い付きもしない。苦肉の策、頭がおかしくなったと言われてもいいから、真実を伝えるのみだ。お願いだから、信じてくれ。
彼は笑っていた。
「アニメや漫画の見すぎっすよ。」
話をすればする程に、結局話は平行線。話せば話すほどに絶対に受け入れられないということだけが確実になっていく。
「もういい!」ほんとに役立たずだ!
私は飛び出していた。
自宅に戻って布団に潜る。「これは悪い夢」と連呼していた。
確かに私は覚えている。私だけが改変されていない。だけど、私以外の何もかもが慎二君に関する何もかもを消去してしまっている。忘れているんだと信じ込みたいのに、信じきれない。
一枚捲られるカレンダー。時間は過ぎ去っている。夢なら覚めてもいいはずなのに。どれだけ呟いても残酷に時は過ぎる。
「私、何を信じればいいの――?」
◆
半年ぶりの訪問だ。
突然、小中学生時代の幼なじみから会いたいとの連絡が来た。正直、気分は乗らないけど、幼なじみだし乗らざるを得ないかなぁという理由でお誘いに乗った。
徒歩でそれなりに進めば目的地に着く。
「久しぶり~」と元気な声を出すアズアズ。私は「最近あったばかりでしょ」と微笑する。彼女もまた誘われたみたいだ。
奈良北希恵――愛称、のえちゃん。ここは彼女の家である。小中学生の頃はよく遊んだものだ。彼女は一人っ子である。幼くして父を亡くしていて、母はいない。つまり、この一軒家には彼女しかいない。広い広い部屋で優雅に遊んだことを今でも覚えている。今の何もかもに行き詰まって息苦しい私の息抜きになってくれそうだなという期待を膨らませる。
おじゃまします。
待ち受けていたのはのえちゃんだ。彼女は少し離れた都会にある極高等女学校に進学した。そこはいわゆるお嬢様学校と呼ばれる所であり、そこに通う彼女の立ち姿はやはりお嬢様のように煌びやかだ。体中から自信が溢れてきている。
広い空間を持て余す家だ。
彼女の部屋は二つある。桃色の部屋と水色の部屋だ。ただ、水色の部屋には行ったことが全くない。多少行った覚えはあるが、何故その部屋に入ったかまでは覚えていない。
桃色の部屋へと行き、小さな丸机を囲むように座る。シンプルな作りで居心地が良さそうなデザインではあるものの、物が乱雑に片付けられていて、その片鱗が見えるせいでちょっぴり勿体なく感じる。
「今日ね、どうしても会いたかった理由は、アズアズからまなみんがおかしくなったって聞いたからなの。詳しく聞きたくて。」
それで私は呼ばれたのか。
きっと信じてくれないと思いながらも、ありのままを伝える。小説や漫画では収めきれない長ったらしいまとめ文で伝える。
「私、奈良北希恵はまなみんの言うことを堂々と信じるわ。」
力強い発言に希望を抱く。感謝の思いが溢れてくる。
「じゃあ、慎二先輩のこと、覚えているんだよね?」
「それが全く記憶にないのよ。ただ、あなたに起きた状況は確かに信じられるの。」
つまり、慎二君のことは分からないけど、世界から慎二君の存在が消えたことは理解してくれるという訳か。けれども「どうして?」という疑問が出る。
「隣の部屋が何の部屋か分かる?」
水色の部屋のことだ。一人っ子の彼女には不必要なはずの部屋。豪遊するために作ったのだろうか。分からずアズアズと顔を見合せた。
「私の妹の部屋よ――。」
その言葉の真意が読み込めない。彼女は一人っ子のはずだ。姉妹なんて話、一度も聞いたことがない。
「そう反応するわよね」と最初から分かっていたかのような言いぶりだ。
「じゃあ、私の父上が事故で亡くなったのは十一年前。母上が消えたのはどれ程前か分かるかしら?」
試されているような感覚だ。
「ずっと前からいなかったよね?」と恐る恐る聞いてみた。
「そうなると、この家は十一年前から私一人だけで住んでいることになるわよね?」
「そうじゃないの?」ずっとそう思っていたから驚きを隠せずにいた。
「母上が消えたのは四ヶ月前。それまでは普通に生きていたし、まなみんとも何度か関わったことがある。」
昔の記憶を耽ってみても、彼女は一人っ子だったし、両親の存在なんてなかった。「知らないよ、私。」
「そもそも考えてみて。その話が本当なら、私は十一年前――つまり、五歳の頃からこの家で一人暮らしをしていたことになるのよ。おかしいと思わない?」
「おかしい……かな?」
「普通におかしい話よね。五歳がこんな一軒家に一人で住むことはないわ。親戚に引き取られるか、児相に引き取られるか、常識的に考えて有り得ないのよ。」
頭がおかしくなりそうな話だ。私の中では、五歳で一人暮らしだったという記憶が定着しているのに、常識を考えれば有り得ないこと。何が正解なのかが分からなくなりそうだ。
「まなみんも同じよね? 同じように誰かが消えてしまって、そのことを誰からも信じてくれない。なのに、自分だけが覚えている。」
「じゃあ、慎二君が消えたことが、のえちゃんにも起きているってこと?」
どこか悲しみを含む弱々しいトーンでの「そうなのよ……」の言葉。
それは希望なのか、希望ではないのか。
解決策は手には入らない。けれども、同じ現象を共にした仲間がいるという事実が、昨日までの重苦しい心の荷を取っ払ってくれた。
久しぶりの三人での時間。
私達三人は中学生の頃のグループだ。少しだけこの三人の時間を楽しんだ。
◆
木の葉の緑と紅葉の黄色と赤色が混じる三色の時期。どん底に落ちていく私は何とか近くの枝木に捕まった。
何も解決なんてしていない。
どうして慎二君が消えたのか。のえちゃんの家族が消えたのか。一切解明していない。
乾の謝罪に申し訳なさを感じる。バスの中が揺れている。
次の日、私は学校を休んだ。のえちゃんのお願いだったからだ。
私は彼女の家へと向かった。
持て余した空間に佇むのえちゃんの横には誰か分からないお婆さんが立っていた。その人が私達の近くへとやって来る。
「おおぉ、やはり、あんたらにも憑き物がついておるのぅ。」
憑き物……。いったいどういうことだろうか。
その人の代わりにのえちゃんが「この方はその界隈では有名な霊媒師です」と説明してくれた。
「あんたら三人は強く恐ろしい呪いにかかっておる。誰も祓うことのできない呪いじゃ。唯一の解呪方法は、その呪いをかけた主が直接呪いを解くことだけだろうのぅ。」
つまり、呪いをかけた人を見つけ出して呪いを解呪させれば、慎二君が戻るかも知れないということだろうか。
しかし、その呪いの主とやらはどうやって見つければ良いのだろうか。質問すると「待っておれ。今呪いから探知してやるわい」と返された。
霊媒師は私達にかかっている呪いのオーラから主の位置を特定したと言う。流石はその界隈で有名と言われるまである。
連れて行かれるまま人が疎らな真っ昼間の街道を進んでいく。着いた先は手のつけられていない木が茂る小山だった。
頑張ればジャンプして飛び越えられそうな川がある。跳ぶのに失敗すれば落ちてしまって濡れてしまう川だ。深くはないので怪我はしないが、服が濡れてショックを受けるだろう。私達は適当な木で付けられた橋を渡ることにした。高齢の方を連れているので当然と言えば当然の判断だ。
手入れされていない森は、雑草で敷き詰められている。虫の来訪にビビりながらも進んでいく。そして、上り坂なのが絶妙に疲れる。
ようやく雑草の道を抜ける。地面は柔らかい土となり、斜面の角度も緩やかになる。
霧がかかり始める。
薄暗くなる。
「呪いの主の領域じゃ。油断せず行くぞ。」
こんな所に人なんかがいるのだろうか。疑問は止まない。
「呪いの主は幽霊だったようじゃな……。ありゃ、ワシの力じゃ呪いの主の除霊は不可能じゃ!」
霧の中に現れる人影のようなもの。
そこに現れた一人の女の子。
「玲ちゃん……?」
長い髪が静かに揺れている。冷たい眼が私達を捉えている。確かに人のように見える。
それが幽霊であることはすぐに分かった。彼女の名前は中西玲。中学一年生の頃。彼女はカースト上位にいた奈良北希恵の好きな人への告白未遂を契機に、いつしか集団でイジメられてしまった女の子。耐えきれなくなった彼女は――心中した。だから、もうこの世にいるはずもないんだ。
霧が消えて、彼女の姿も消えた。
私達は唖然とした。あまり思い出したくもない記憶。蓋をしてもしきれなかった記憶。罪悪感が心を握る。
「違う。違う。のえは悪くない」と頭を抱えて言い聞かせている姿が隣にあった。受け止めきれない罪の重さに、見えないふりをしても、無理やり見せてくる。
「もう一度言う。除霊は不可能。解呪方法はあの幽霊が自ら呪いを解くことだけじゃ。」
慎二君のことは何とかしたいのに、目の前のことからは逃げたい自分がいた。
「ワシはもう少しだけ呪いについて調べるかのぅ。明日か明後日にはまた連絡するわい。」
取り残された私達三人。
等しく黙りだ。
その後、私達は無言で山を下った。
大口兄様に恋をした~私にとっては禁断の恋(※私なんかが恋なんかしちゃ駄目駄目)~(1話~4話)
学園恋愛ファンタジーサスペンス
"甘美な初恋のキスは、世界から彼を消し去る禁断の呪いだった――。"
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。