梅談歌
梅を慕い、歌を歌う。
大正十五年 11月頃
私の名は藤一臣。
齢は20
幾度...幾度も新人賞に出しては、
届くのは審査員の励ましの一言だけ。
しかし偶に得意の詩・短編小説は、
評価される、散文詩だと酷評される事もある
私の救いは酒だけだと言い聞かせては
空いた酒瓶を持って蒲団に潜って
憂鬱を感じては自分を責めては
もう書かないと蒲団の中で誓っては、
次の日には忘れてしまう
「誰も私をすくってはくれぬ
だから逃げるのだ」
机に向かって
原稿を仕上げようとすると
赤く淡い血が書きかけの原稿に落ちた
私は思わず手を口元へ持っていった。
もう深夜だが
医者でいつもお世話になっている
米さん所に急いで行った。
「な...なぁ!
.....米さん.....助けてくれぇ...」
そう戸を叩くと
米さんは眠い目を擦って起きて
「また酒か〜」と戸を開けたが
倒れた私に驚いて「どうしたんだ!!」と
声を荒げた
私の身体を一通りみた後に米さんは
「肺尖カタルだお前は残念だが
春を越せるかどうか、
少しは安静にしてろ筆は置かなくても良いが
覚悟はしておく事だな」
処置室の開いていた小窓から
米さんの庭に植えてあった
梅が香った
木枯らしが運ぶ梅の匂いだけが強く胸に残った。
それから
夜は眠れないほどに咳が出続け
朝が来るたび洗面器は赤だらけに
なってしまった。
そしてお気に入りだった
白樺派の志賀直哉の「城の崎にて」の
一頁の終わりに辿り着く前に幾度も咳が出ては
血が頁にかかる前に
本を閉じてしまう。
好きだった詩会の封筒は山となって
部屋の片隅で積み重なっては崩れ落ちている。
その封筒には香や自分の酒の匂いが
染み付いている。
日の当たらぬ本棚には
埃が被った本を手に取って開いては埃が舞い
咳が出てはその頁に血が付着し一頁は二度と
読めなくなってしまった
気分転換のため窓を開け換気をしようとした時に
部屋の中の酒と埃の匂いを押し流す様に
梅の香が流れこんだ。
梅の匂いやこの木枯らしの匂いが
八歳の頃の記憶を刺激した。
あの時、泥だらけで転けた私に
「ほら、たちやんせ」と
笑顔で手を差し出してくれた
お梅ちゃんの顔、
あの日も同じ様に、
木枯らしは梅の香を運んだ。
懐かしい匂いに
病に沈んだ胸を少し高鳴らせた。
足に草履を履いて
私は煙草の匂い、裾の擦れる音
が交じる街へ足を出した。
憂鬱な身体を引きずって
外に一歩踏み出そうとしたら
木枯らしが私を押し出してくれた
春には消え去っていく風。
また一歩、街へ歩き出した。
私が街を歩き出して途中に
今にも朽ち果てそうな木を見て
「あれはもう春には持たんな...」
と言っては自分の身体を一瞥して
新しく立った街灯を見ては
「あゝ、この光は夜を人の物とした!」
と考え込んで気づくと
昼の十二時を
回ってしまった。
「あぁ少々腹が鳴った。」
「身体は病に侵されては日々気力を失う。
なのに空腹は身体の具合を見向きもしようとせずに訴えては何時も困らせる。」
と内心では苛立ってしまう。
馴染みのカフェーに寄ってお昼を
取ることにした、
"アール・ヌーヴォー"
懐かしい看板を掲げた店の
扉を開けてみると
珈琲の匂いや香辛料の匂いが
私に押し寄せた
そして席には紳士服を着た人ばかりで
私は「これが噂の..ハイカラ!」と
内心呟いて
年季の入った一つの椅子にゆっくり腰掛けた後
ある女給さんと目が合ってしまった。
その女給は..."お梅ちゃん"だった、
意図せずに胸が高鳴ってしまった
お梅ちゃんも私のことに気づいて
少し顔が赤くなった様に見えた
「そんなはずはない」と心に言い聞かせた
お梅ちゃんがお品書きを
持って来てくれた、
その時に少し話してみた
「お梅ちゃんはなんでここで働いてるんだ?」
するとお梅ちゃんは、
「可愛いでしょ?これ!このフリフリが
可愛くて私も着てみたいな〜と思って
この前、ここで働き始めたの!」
と照れる様に笑って語ってくれた。
私はその顔を見る事しかできない
私は気を取り直して品書きを見た
ほとんどはカタカナで書かれていた。
でもその中で
一番気になったのは
"らいすかれー"であった、
これだけは平仮名で書かれていた。
そこでお梅ちゃんに聞いてみた
「らいすかれーとは何なんだ?」と
するとお梅ちゃんは、
「印度の食べ物で、
すごく美味しいんだよ!」と
目を輝かせて言った。
「私には少し...眩しすぎた..」と思って
お梅ちゃんに
「じゃぁ、このらいすかれーを一つと
珈琲を一つ」と頼んだ。
お梅ちゃんが持ってきた物に
「未知なる刺激の匂いと
昔ながらの珈琲の匂いが運ばれてきた。」と思いお梅ちゃんの手元をみた。
"らいすかれー"はスープよりドロリとしていて、
苦い珈琲には角砂糖をたっぷり入れた
その癖は、矢張りお梅ちゃんに
「あ〜やっぱりその癖治って無いんだ〜
今も昔みたいに格好付けたいの〜?」
見破られていた様だ。
「自分は苦いのが苦手だけど..
もう飲める様になったんだ。」
私は銀に光るスプーンを手に取って、
その"らいすかれー"を一口分掬い、
それが私の咽喉を通った時に
香料が咽喉を
刺して食道を通って行った。
その所為か咽せては
咽喉が忌々しい朱で溢れ返り
口から溢れて出そうになる
私は咄嗟に手を口へ持っていった。
それをお梅ちゃんに見られ
「一ちゃん!大丈夫?!」と
私はお梅ちゃんに
「初めての...食べ物で少し咽せたんだ。」と
虚勢に縋った。
口の中にある鉄の味を紛らわす為に
苦い珈琲を流し込んだ
その時のお梅ちゃんの顔は見てなかった
いや見えないのだ
私は"アール・ヌーヴォー"を出る前に
家から持って来た梅の花の簪を渡した。
お梅ちゃんは少し微笑んで、
「ありがとうね...また会ったら一杯話そうね」
と受け取ってくれた。
「あゝ私の恋は終わったのだ...」
私は"アール・ヌーヴォー"を出て
十三時を過ぎた、
弱った身体が疲れたのか
そこで私は一度、
とある華屋の前で脚を止めた。
理由は何故だか分からない
病に伏すまではここの存在を私は知らなかった
ただ意識せず
華屋の中に足を踏み入れると
いきなり
色々な華の香りがサッと
頬を撫でた。
特に甘いのに凛とした梅の匂いに釣られて
辿ると一つの梅の木に辿り着いた、
私は梅の木の前に立ち尽くしていた。すると
突如として活気のある
女性の声が後ろから掛かった
「そこの青年、何をしてるんや?」と
私は少々ドキッとした。
「いや〜この梅の木が綺麗で良い匂いだと思って... ただ見ていただけですよ」と意図せず
口から放たれた。
その女は私の顔を
じっくり見た。
しかしその時間は長くは無かった
「にゃははすまんねぇ、青年誤解だよ。
偶にこの木の枝がへし折られてるんでね見回りだよ。」とその女は言った。
内心「怖いな...この人。」
少し恐れていた。
それを見てか
「にゃはは..すまんねぇ青年、
私の名前は有村佳穂って言うんや,
あんちゃんの名前は?」
「藤..藤一臣です..」と言葉が勝手に告げた。
「なら藤ちゃん、脅かしてごめんな、
お詫びでこんなかの華から一つあげるよ」
いきなり彼女は矢継ぎ早に言葉を放った
その言葉の流れに流されてか
私は匂いの元である梅の木を指差して
「ならこの...この梅の木の枝が欲しい..です。」と
言葉が溢れてしまった。
「あゝしまった、大切にしている梅の木を所望してしまった、怒られるに違いない」
そう身構えてしまった。
私はその瞬間は見えなかった
いや怒りに歪んだ顔を見たく無かったのだ、
「あぁ...それか...良いけど理由を聞かせて
くれないか?」と身構えた私とは裏腹に
そう女性らしい声を聞いた
「た..他意はないのです...ただこれが
綺麗でこの梅に引き寄せられたんです。」
と私は答えた。
「...ならええよ...ちゃんとなこの梅を大切な人やと
思って持っときや。」
顔には一瞬、藍が差した。
「あゝ彼女も同類なのだ...」と
「どの辺がええかね?」
「なら...この一つだけ梅が咲いている所で...お願い します...」
「了解ーそういえばなんで一輪咲いている所なんだい?」と
その時にはもう
彼女の顔には藍が消えて橙しか無かった。
「理由は...ない...そこに惹かれたから...?」
と意味が分からない言葉が出た。
「なんだいそれ?
まぁ...良いや旦那が大切に育ててた
梅の木だ大切にしてくれよな」と言って手渡してくれた
少し後ろめたさを感じつつ
その小枝に鼻を近づけると
少し凛とした甘さを感じた。
その匂いに私の身体は
少し病が軽くなった
気がする、いや気のせいだ。
私はそのまま華屋「有村華店」を
出て、また街を歩き出した。
時間はいつの間にか14時半を過ぎていた。
梅の匂いを嗅ぐと
周りの風に乗せられて、
煙草の匂いが梅の匂いと混ざり、
その匂いが肺に届いては憂鬱になる。
煙草を吸っている人を見て、
「あゝ可哀想に貴方方は毒に誘惑され
支配されている」と内心で呟いた。
しかし数歩歩いてこう思った
いや思ってしまったんだ
「人は皆、何かに蝕まれて...
あぁ...それは私が一番解っているではないか!」
と考えた途端、吐き気を抑えられなくなり
裏道に入っては、朱が混じったものを吐き出した。
「あゝ最悪だ、これでは世間様に
迷惑だ...。」
「私は綺麗な物を見ても良いのか?
こんな蝕まれた身体でも。」
と呟いていた筈なのに
声が世に出ていたらしい。
「そこのお兄さん大丈夫でっか?」
と尋ねられて顔を上げたら、
「おっ、これはこれは...売れない作家の藤はんやな いの」
その声を聞いた瞬間
私は嫌な予感がした。
「あぁこれは厄介な事になった、
一番会いたくない奴に会ってしまった。」
コイツは金田......金田基次郎
子供の時から「金ちゃん」と呼ばれている。
「なんやぁここで吐いてどうし...た?」
「どうしてん!とも!ちょっと俺の家来い!
連れてったる、ほら肩かしぃ」
「あぁ....コイツは変わらないな...」
「おい...とも...おい!とも!」
「あゝ懐かしい本と木の匂いだ...」
目を開けると、懐かしい天井があった。
本に囲まれた部屋だった
「すまんな、金ちゃんちょっと色々あってな...」
「そんな痩せ細って、何も食ってないんか?」
「いやちゃんと食っとるよ、金ちゃん」
「後な、ともお前吐いてた時、血も混ざっとらんかったか?」
「ぁ...あぁアレはな...最近咽喉悪くしちゃってよ、
咳をすれば血が出るで嘆かわしいんだよ。」
「アイツの顔が、いかんせん真っ直ぐ過ぎた。
私は目線をそらした。」
そんなちっぽけで大きな蟠りを
胸に抱えては、俯く事しか出来ない。
それを金ちゃんは知ってか知らずか
「まぁ、ええわまた原稿くれれば出版したるからな。」
「あゝ忘れていた。此処で出した本も、
十数冊売れたかどうかだったな。」
「そうやで、十数冊や。」
大事な小説の事ですら忘れかけてしまった。
「ちょっと休んどきなとも、
そんじゃ俺は店に戻るわ。」
そう言ってこの部屋から出ると
階段を降りていく音だけが残った。
「ぁあコイツはいつまでもやな...」
金ちゃんの部屋はごちゃごちゃとした本の色彩が無造作に積まれているだけだった。
「真面目やな...アイツも」
「アイツは私が止まらない事を知っていて
本の牢に入れたんだろう」
四方八方に本で囲まれた牢は、
幾度も私を阻んでは現実へ戻す。
本の牢から抜け出そうとして、
一つの格子を壊すと一冊だけは、
色を忘れた様に真っ白だった。
その本を手に取って表紙を見たら
「桜詩」の二文字。
「あゝ懐かしい。此れは『桜詩』ではないか」
桜に酔って、机に向かってひたすら書いていた物だ。
アイツは
「アレは十数冊売れたけど、残りは蔵に仕舞った。」
そう言っていた筈だ。
「然し、何故この一冊が此処にあるのだ?」
まぁ良いと思いつつ、
一頁、二頁と捲っていたら、
或る頁だけ、端だけが丁重に折られ、
或る一節については、赤鉛筆で、真っ直ぐそれでいて几帳面な線で引かれていた。
私はその線に自然と目が行った。
「あゝ桜よ。汝は美しい、散り消える相もまた愛しき事よ、まるであの日の面影のやう。」
それは内心で呟いていたのかわからぬ、
だが声は耳や目に届く。
一瞬、頭の奥にある歯車が軋み、
視界が暗転した。
新たな光が虹彩に入る。
一節の中から、
暖かい風が身体を駆け抜けた。
桜の花弁が、一枚だけ肩に乗った。
目の前には、一本の桜の下に見覚えのある影、
二つ。
そんな懐かしい匂いを封じる様に本を閉じた。
また暗転、
目を擦れば手にある本には色彩が戻った。
枕元に「桜詩」を置き、
蒲団を押入れに押し込むと、
四方には、ただ棚に入った
本が並んでいるだけになった。
私は静かに階段を降りた。
一階では、もう店の音がしていた。
紙が擦れる音だけが、
先程の桜のざわめきと、
耳に残っては、アイツと目が合う。
「やっぱ、おはんはあの部屋から抜け出すんやな。」
目だけが動いていて、言葉は聞こえない。
ギクリとしたが構わずに降りた。
書店の中を歩いても、客は一人しかいぬ。
私と若い書生のみ。
目を光らせては、本を抜き出しては戻す、
屈んで立っての繰り返し。
「この様子じゃ、目当ての物も見つからん事だ。」
内心では苦笑いした。
熱心な書生の事は置いておいて、
自作品を探しに行った。
本の匂いと静けさが混ざり、足音がそれを消す。
目の前の本棚を見て、自作品の「桜詩」を開いた。
また昔の匂いと音に浸る為に。
記憶を辿ろうとすれば、
懐から梅の匂いが行く手を阻む。
カタッ、ミシッと音が聞こえ、
焦ったのだろう、思い出の一節の頁に
梅の枝を栞として挟み込んだ。
本棚の陰に隠れて、来る者を観察した。
書生の目は曇り、
本を抜いては戻し、
また次へと手に取って戻す。
ある本棚だけに留まって、注意深く屈んでは立ってを繰り返して。
やがて一冊を抜き取ると、
曇っていた書生の目がふっと晴れた。
その本には、特製の栞が挟まれていた。
書生がその本を胸に抱え、小さく息をした。
書生は支払いをしにアイツの所へ行った。
アイツは
「ゲ、これ梅の枝挟まっているわ、交換するか
コレ?」と言った。
書生は
「いや、良いです!このままで買わせて下さい!」
と言った。
「もし返品したいんやったら、ここに来る事や、
あとここに名前を...一応引き換え用やねん。」
アイツは怪訝そうに言っては紙を差し出して、
名前を求めた。
書生は自家用の万年筆を出して書いた。
書生は強く強く胸に本を抱き寄せて。
本棚の陰から戻ると、
書生は特製の栞諸共に消えた。
一つ花弁を残して。
私は残念だと思い、アイツの所へ行った。
金ちゃんは、
「おい、ともなんで梅の枝なんて入れたんや?」
「あの子、お前に憧れてた様やぞ、確か梶井って
書いていたぞ、これで返品とかヤやで俺」
「まぁええや、これで十三冊売れたで、お前」
「嬉しい事だ...あの子は読んでくれるだろうか?」
「さぁな、でも昔を思い出せてくれたで、あの本」
「そうか、ならもう俺は出て行くな。」
「ほなまた、会おうな。」
「....あゝ...またな。」
そう逃げる様に、
微かな梅の匂いが残る
そんな金田書店から出てきた...
空はあっという間に、
赤に変わっていた。
気がつくと、淀の河川へと逃避行をしていた。
病が蝕んだ身体は、十数メートル走れば
肺が咽せ返る。
挙句、小石につまづいて見事に顔が地へ平伏す。
「彼は小説家の私に憧れていた、
しかし、この相を彼が見れば憧れは失望となる。」
そう自分を責めた。
彼の目には
私がとうに失った輝きが宿っていた。
それを思い出して、
もう一度だけ胸に火を灯そうとした。
だが、私はもう駄目なようだ。
千鳥足で淀川へと歩いた。
しかし水面に映る顔は、
目にはまだ火が微かに残っている。
「あぁまだ、死ねぬ。」
重い身体を引き摺りながら、
十分程度歩けば、懐かしい桜の大木の下へ着く。
「あゝ流石に疲れてしまつた。」
大木の根元に腰を下ろして、
あの頃みたいに、顔を足と胸の間に埋めた。
結局、子供のように目を泣き腫らした。
数十分...いや一時間も経っていたんだろうか、
空はさらに赤黒く染まっていた。
一度目を擦ると、ふと懐かしい梅の匂いがした。
カサ、カサという歩き音が聞こえ、
「あぁ、これは野犬の類だろう、腹を減らして
私を襲って喰う気なのだ。」
それも悪くない...
しかし、聴こえて来たのは、
蛮性な唸り声などでは無く、
誰かをすくおうと...
いや、すくってくれた声だ。
「ほら、たちやんせ」
そう聴こえた、聞き違える筈がない。
涙で腫れ上がった顔を上げて、
視線は声の元へと導かれた。
するとお梅ちゃんが手を出してくれていた。
私はその手を振り払ってしまった。
「どうせ、まやかしだ。」
その言葉に、お梅ちゃんは肩を少し震わせた。
お梅ちゃんは目を潤わせ、私に抱きついた。
それはまやかしなどでは無かった。
確かにお梅ちゃんだった、
病に蝕まれ冷え切った
身体に余りにも暖かい温もりによってか、
私は大粒の涙を流した。
「私は逃げていた、
差し伸べられた手から。」だと思った。
どれほど私は泣いていたのだろうか。
少し空に黒みが掛かっていた。
しかし空はまだ赤い。
身体にはお梅ちゃんが寄りかかっていた。
「お梅ちゃん起きな。」
ゆすってみると。
「一ちゃん〜まだ眠いよ〜」
目を擦ってはまた寝た。
「これは暫くは起きんな、それにしても腕が痛い...
こんな所で寝ていたら、互いに風邪引くな...
よし家までおぶるか...」
そう意気込んだのは良いものの、
私より幾分か、
軽いお梅ちゃんを
持ち上げようとしても、
やはり身体は言う事を聞かない。
「私は、もう...もう駄目なのだ...」
そう俯いた...が、
ふと懐かしいあの匂いが
押してくれたのだろうか。
すんなりと背に乗せられた。
「あり...がとう...」
そう目尻から頬を伝って、
汗か判らぬ物が落ちた。
お梅ちゃんを背負って、
数歩進むとまた脚が崩れそうになる、
その度に微かな懐かしい匂いが支えてくれた。
また数歩、数歩と進むと微かに懐かしい匂いは、
陽に連れられともに沈んでいた。
次に月の光に導かれてか、
桜の甘い匂いが身体を後ろから抜けた。
お梅ちゃんを背負って自宅へ歩を進めると、
「お梅ちゃん...俺頑張ってみるな」
唯の独り言だった。
ただ背後の掴む力が幾らか強くなる。
その力に顔を顰めて前を見た。
そこには
朝方にみた枯れ木にやや桃とした、
桜の蕾が実っていた。
昭和二年 四月十七日 日曜日 刊行
作者 藤 一臣
編者 藤 梅
刊行書店 金田書店
小説名 『梅談歌』
梅談歌
大正ロマン、私小説、再生の物語
"病と絶望の淵から、梅の香と幼き日の記憶が紡ぐ、魂の再生の詩。"
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。