普段通り、大学から親友の永倉優也と帰宅した加山樹は、「ただいまー」と声を掛けて違和感に気付いた。
「……あれ……?」
いつもならすぐに顔を出す叔父の匡史が出て来ない。そして、玄関には見慣れない革靴が一足。
「オッサンに仕事来てるとか?」
優也が声を潜めて尋ねるが、樹はそんな話があっただろうか、と首を傾げる。叔父への記事の依頼なら、大抵把握しているのだが。
取り敢えず二人とも屋内に上がり、樹がリビングルームのドアを開ける。と、
「……――――っ!?」
室内を見た樹はすぐさまドアを閉める。心臓が痛い。鼓動が大きく煩く鼓膜を揺すっていた。
「何そのリアクション」
優也が半ば呆れながら声を掛けてきたが、樹は胸に手を当てて呼吸を整えるしか出来ない。
「何かあんの? 俺が開けてもいいか?」
「ご、ごめん、ちょっと待って。心の準備が……」
震える声で優也に言い、樹は再び深呼吸を繰り返す。どうしてこの家に――
どうにか呼吸を整えた樹がドアノブに手を掛けたと同時に、ドアが向こうから開いた。そこから顔を覗かせたのは端正な容貌の壮年男性だ。
「四年振りか……久しいな、樹君」
どこか厳しさの宿る声で名前を呼ばれ、樹は気まずさに視線を泳がせる。それでも何も返さない訳にも行かず。
「……お久しぶりです、父さ――加山さん」
目を合わせられないままに、樹は血縁上の父、加山桐梧(かやま とうご)と挨拶を交わした。
――――――――――
「君が永倉君か。家内から話は聞いている。樹君と親しくしてくれているようで何よりだ」
『樹君』と敬称を付けた他人行儀な呼び方をしつつも、会話の中身は息子を思い遣るそれだ。とことん優しい人だと思う。
「いえ、俺も樹といるのは楽しいんで……」
優也が桐梧に応じながら、傍らを見遣る。土下座したまま顔を上げない三十路手前の男が一人。
「あ、あの、加山さん……本日はどう言ったご要件でしょうか……?」
伏せたままの叔父の隣でほとんど縋るように寄り添う樹は、僅かに震える声で桐梧に尋ねる。怖い。正直に言うと、この状況は相当怖い。何しろ相手は、樹達が勘当という形で出て行った家の主なのだから。
「そうだな。ゆっくり挨拶している時間もない。が……」
と、桐梧は微動だにしない血縁上の弟に目を向け、呆れを露わにした溜息を吐く。
「匡史君がその調子では話も出来ん。樹君、彼の頭を上げさせてくれ」
「は、はいっ! 匡史さん、ほら、あの、父さ――じゃなくて、加山さんが……」
「……本当に申し訳ございません……」
他人としての体裁を保とうとする父子と、罪悪感に圧し潰されている弟かつ叔父という、非常に複雑な三者である。特に、普段は飄々と自由気ままな振る舞いをしている匡史が伏せるしか出来ないという姿は、相当に滑稽だ。
「何を謝っているのか分からんが、話くらいさせてくれないか」
呆れ返った様子で桐梧が言う。謝罪の理由はよく分かっているだろうに。これは許すつもりはない、と受け取ればいいのか。
匡史は強張った表情で頭を上げたが、未だ桐梧の方を見られずにいる。隣の樹も時折視線を向ける程度で、かなり気まずい思いをしているのが見て取れた。
「……全く……仕出かしてから恐縮してもどうにもならんだろう。少しは成長したかと思ったが……まあいい。私も時間がない身だ。要件だけ伝える」
ふう、と息を吐き、桐梧はかつての弟と息子を真っ直ぐに見つめた。
「父が危篤だ」
「――っ!」
匡史が息を飲み、目を見張った。それを確かめた桐梧が続ける。
「恐らく、このまま最期を迎えるだろう。もう七十も半ばを越えたのだし、本人も弱気になっていたからな。覚悟は出来ている」
そこまで口にして、桐梧は出されていたコーヒーを一口飲んだ。喉を潤し、再び匡史に顔を向ける。
「父には伝えるな、と言われたが、お前達の名前を口に出されてはな……あの人もどうしようもない人だ」
「……名前を、出されたんですか……」
応じる匡史の声に、力はなかった。どう受け止めればいいのか、迷っているのだろう。
「勘当した人間だから構うな、と言っていた。……本当に不器用な人だよ」
溜息混じりの言葉は、兄が弟に向けた愚痴になっていた。気が緩んだからなのか、話の内容による物なのかは分からない。
「見舞いには来なくていい。もう意識も朦朧としているような具合だ。このまま、静かに見送ろうと思う」
無駄に心を騒がせるな、と釘を刺される。尤も、樹達の置かれた立場からすれば、会う事など出来はしないが。
「その折にはまた連絡する。……済まないな。黙っているべきかとも思ったんだが」
「……いいえ。わざわざ、ありがとうございます」
匡史は手元に視線を落としたまま応えた。失礼な態度ではあるが、心中を察しているらしい桐梧はただ頷く。
「会社の事も父の事もある。要件だけだが、私はここで失礼する」
それでは、と立ち上がる父を見上げてから、樹は視線を匡史に向けた。そして、
「加山さん、送ります。……ごめん優也、少し……付き合って」
どこか儚げな笑みで優也に付き添いを頼んだ。
――――――――――
匡史を家に残し、桐梧を見送る為に樹と優也は外に出た。車を運転していたのは樹の従兄である幹也だ。今は加山の家で暮らしていると聞いていた。
「その……今日は、ご足労いただきありがとうございました」
樹は頭を下げると、そう口に出す。他人行儀で堅い挨拶は、自分の――それも誤った選択で他人になったという負い目があるからだ。
桐梧は頷いて、しばらく逡巡するように黙り込む。お互いに一応の納得を経て親子の縁を切ってはいるのだが。
「……加山、さん、あの……」
「二人とも、元気そうで何よりだ」
何を話すべきかと迷う樹に、静かに声が掛けられる。染み入るような低い声は、匡史のそれによく似ていた。
「匡史も健康そうな顔色になっていたな。母さんが亡くなる前のようだ。昔から、お前は匡史の事にばかり気を配っていたからな」
ふ、と笑うような吐息を零して、桐梧は樹の頭に手を乗せる。
「大きくなったな……だいぶ背も伸びた。子供は気付かない間に成長するものだとは言うが、本当だな」
桐梧の目に浮かぶのは、寂寥と諦め。
「樹も、匡史も……二人でも何とか生活出来ているのか……二人ともあんなに小さくて、すぐ私に甘えて来ていたというのに」
「父さん――」
寂しさという言葉だけでは表し切れない感慨が含まれた声音だった。お互いに貼り付けていた『他人』という仮面が剥がれ落ちてしまう程の。
「樹、後悔はないか?」
静かな、穏やかな、温かな問い掛け。これに返すべき答えは、とても残酷だ。
樹は一度目を伏せ、ゆっくりと息を吸い込む。返すべき答えを、残酷な真実を口にする為に。
「後悔してないよ。今はとても幸せに過ごしてる」
家族を捨て、間違った倫を歩み、そうして傷付けた人に後悔はないと言い切る。人間として最低な行動だが、この答えが求められている物だと理解しているから。だから樹は、真っ直ぐに桐梧を見つめた。
桐梧はしばらく息子の視線を受け止め、ゆっくりと息を吐いた。そうして、また他人の体裁を繕う。
「ならば結構だ。元気でやりなさい」
にこりともせずに言うと、桐梧は車のドアに手を掛けた。樹に背を向けたまま口を開く。
「彩菜さんと幹也君が寂しがっているようだ。たまには訪ねて来なさい。客を持て成す準備くらいは出来ている」
「え――」
言葉の意味を問い掛ける前に、桐梧は車に乗り込んでしまった。呆然としている樹に運転席の幹也が軽く手を振り、車は走り去る。
『客を持て成す準備』――息子ではなくとも、他人としてなら受け入れる。そう言う意味なのか。かつての家族と会っても、言葉を交わしてもいいのか。自分も、匡史も――
「……よかったな、樹」
声の方を振り仰ぐと、優也が笑顔でこちらを見下ろしていた。童顔な彼の明るい笑みは、子供のような無邪気さだ。
「うん。ありがとう、優也」
「俺、何にもしてないぞ」
「ここにいてくれるだけでも、全然楽になったよ。それと――」
少し迷い、樹は優也の服を掴む。何か問いたげに首を傾げた彼に、困ったような笑みを浮かべて言った。
「ちょっと、愚痴聞いてくれる?」
――――――――――
自宅から程近い小さな公園。猫の額程、と形容されるような狭い公園は、樹と優也にとって特別な場所だ。
「オッサンはいいのか?」
並んで座ったベンチで、優也が尋ねてきた。樹が消沈している叔父を放っておくのが不思議なのだろう。
「少し、一人の時間が必要かなって。お祖父さんのことだから、あんまりね……」
俺じゃ、役に立てないと思う。そう呟き、自分の言葉に胸を刺される。近いから、事情をよく知っているから、きっと邪魔になってしまう。
「家族だからってこと?」
「そうだね。昔からよく知ってるし、それに、俺と匡史さんじゃ立場が違うのもあって……難しいね」
本当は、今も傍にいて支えたいと思っている。だが、彼がそれを望むとは思えない。
「そういうモンなんかね……オッサンならグダグダに甘えそうだけどなー」
「いつもそうだからね。そう思うのも分かるよ。でもこの問題だと、俺じゃ近過ぎる」
祖父が匡史を厄介者扱いしていた頃を知っている。それを、諦めという形で匡史が受け入れていた事も。けれど、それ以前を樹は知らない。本当の二人を、親子だった頃の彼らを知らない。
「匡史さんが今回のことをどう受け止めてるのか、正直言って分からないんだ。俺の知る限りでは、あの二人はほとんど顔を合わせないような状況で……一緒に暮らしてても、お互い何をしてるか知らないってくらい無関心で。だから、今日ショックを受けてる匡史さんを見てびっくりした」
祖父が危篤だと聞かされた時の匡史の表情は、樹が想像するよりも深い感情を孕んでいた。哀しみや寂しさとは違う、どこか悔しさの滲む表情。何に対しての憤りなのか、樹はそれすら読めずにいる。
「ずっと、匡史さんはお祖父さんのことを嫌ってるんだと思ってたから、あんな顔するなんて思わなくて……俺自身は、お祖父さんのこと聞いてそんなに悲しいとか感じなかったのも、あって……」
自分でも非情だと思う。けれど、匡史を蔑ろにして彼と年齢の近い従兄の幹也ばかりに目を掛けていた祖父は、樹から見れば近付き難く親しみを覚えられない人だった。
「だから、俺以上に冷たくされてた匡史さんは、何も感じないんじゃないかって、そう勝手に思ってて……こんなことを考えてる俺じゃ、きっと匡史さんを慰められないから……」
どうすればいいのか分からない。そう零し、樹は俯く。喉の奥に重く凝るような息苦しさを覚えていた。
「俺なんか何の役にも……」
泣き言を洩らした瞬間、ばん、と背中を叩かれた。驚いて隣を見遣ると、優也が眉を寄せてこちらを見下ろしている。
「だったら、余計ウジウジしてる場合じゃないと思うぞ」
どこか苛立ちが見えるのは、樹の情けない愚痴のせいなのだろうか。
「オッサンが落ち込んでんの、気付いたんだろ。で、樹には余裕があるわけだ。じゃあ、何の問題もねーよ」
「で、でも――」
「でも、も何もねーの。あのオッサンを受け止められんのは樹ぐらいしかいないんだし、お前はどーんと構えとけ。いざ甘えようと思った時にお前がいなかったら、オッサン泣くぞ」
どん、と肩を突く拳は、力強いが乱雑ではなく。
「きっとオッサンだって、慰めて欲しいなんて考えてねーよ。ただ、甘えたいとは思うだろうから、その為にもお前がいてやれ。無理に何かしようとしないで、オッサンの望む通りにしてやれよ。樹に求められてんのは、たぶん、そういうことだよ」
それならできるだろ? と確認され、樹は頷く。そう出来れば、と願っていた事でもあったから。
「うん……ありがとう優也。俺、ちゃんと匡史さんを甘えさせるよ。それなら、得意だから」
胸のつかえが消えたのを感じ、樹は立ち上がる。この頼もしい親友が笑みを見せたのを確かめ、一歩踏み出す。
「オッサンの甘えっぷりにウンザリしたらまた愚痴聞いてやるから、安心しろよ」
「うん。本当にありがとう! またメールするね!」
優也の言葉に背中を押され、樹は家へと急いだ。誰よりも支えたいと願う人の元へ寄り添う為に。
――――――――――
それから数日は、表面上はいつも通りの毎日だった。匡史も何もないかのように過ごしていた。ふとした瞬間に物思いに耽る様子を見せた程度だ。
年の瀬が迫った頃合い。空気が冴え、この季節初めての雪がちらついた土曜日の昼。その報せは届いた。
『……父が亡くなった。家族葬と社葬を行う予定だ。済まないが、出席は控えてくれ』
電話の向こうから聞こえた桐梧の声には、疲れが滲んでいた。
「社葬にも、ですか」
『社葬にも、だ。君達の事情を知られては困る』
父の言葉に、樹の胸が痛んだ。だが、自らの選択の結果なのだと痛みを受け入れる。
「……分かりました。弔文をお送りしてもよろしいでしょうか」
『それなら構わない。ただ、連名では止めてもらいたい』
会長であった故人の息子と現社長の息子。勘当された二人が連名で弔文を出せば、何か勘付く社員も出るかもしれない。
それを察し、樹は桐梧の要請を受け入れた。
『匡史君には、君から伝えておいてくれ。では、忙しいのでこれで失礼する』
その言葉を残して電話は切れた。気配に振り返ると、匡史がリビングから電話のある廊下にまで来ていた。
「……お祖父さん、亡くなったって」
樹は努めて冷静にそれを告げる。葬儀には出られない事、弔文なら出してもいいという事を。
匡史は儚げに笑みを浮かべ、一つ頷くと樹に寄り掛かった。樹はいつものように叔父の身体を支え、そっと頭を撫でた。
翌日、それぞれが弔電を出した。番号で選ぶ定型の文句で、何の感慨も引き起こさないそれは、酷く冷え切っていた。
前日から続く雪は、積もる程ではなく。こうして降った痕跡も残さずに消えるのだろうか、と妙な寂寞を樹の胸に残した。
葬儀に行かないのだから喪服を着る必要はなく、“他人”の為に喪に服す必要もない。いつもと同じ一日になるだけ。
いつもと同じく就寝の時間を迎え、樹は自室のベッドに一人横たわった。
匡史の傍にいてやるべきなのだろうか。悩みながらもこうしている。一人の方が気持ちも落ち着くのでは、と考え、彼が一人で苦しむ姿を思って焦燥感に駆られる。その繰り返しに苛まれ、ただ悶々と時間が過ぎて行った。
(……悩んでたって、仕方ないのに)
優也も『どーんと構えとけ』と言っていたではないか。何をウジウジとしているのだ。
樹は重い溜息を吐くと、身体を起こす。気分を落ち着かせようと、階下のキッチンまで降りて行った。と、
「――匡史、さん……?」
ダイニングテーブルに着く叔父の姿を認め、樹は恐る恐る声を掛けた。振り向いた彼の手元に、見慣れないガラスのカップがある。
「……やっぱり、酔えないな。先に頭痛が来てしまう」
ぽつりと呟く匡史の視線の先。これは日本酒か。
「お酒、飲んでたんだ」
応えて、樹は匡史の隣に座った。迷いながら彼の手に触れる。
「飲んでたって程でもないよ。舐めた程度。それでも、少し頭がガンガンする」
ふう、と息を吐き、匡史は樹の肩に頭を乗せる。すぐ近くにある彼の目元は僅かに赤く染まっていた。
「……忘れられない光景があるんだ」
絞り出すような匡史の声に、樹は息を詰めて頷いた。先を続け易くなるよう、彼の身体を支える。
「母さんが死んで、葬儀も終わって、納骨も済んで……父と二人だけになったその夜中に、あの人は一人でこうして酒を飲んでいた」
小さい頃から、何度も行った祖父の家を思い返す。大きな家は匡史の部屋以外に生活感がなく、寂しい印象が拭えなかった。その家の中で、一人。
「ただ一人でゆっくりと飲んでいて、涙の一つもなくて……俺はそれを偶然見付けて、泣く事もないのか、何て冷たい男だ、と感じていた」
記憶にある祖父の姿は、いつも眉間にしわを寄せ、不機嫌に立ち回っているそれだ。確かに、涙など流すような人とは思えない。けれど、妻が亡くなったのだから相応に哀しむべきだと、そう当時の匡史は考えたのだろう。
「けど、今こうしていて何となく分かったんだ。あの人は、あの時に泣いても許される場所を失ったんだ」
近隣では有名な製鉄所の社長。仕事に命を懸け、忙しく立ち回る敏腕な人物。弱みなど何一つない、といった威厳ある姿。その彼が唯一寄り掛かる事が出来る人が、突然亡くなった――
「俺は、あの人にとって息子だった。弱い所を見せられない、頼り甲斐があると示さなければならない、そんな相手だったんだよ。だから泣けなかった。俺の存在が泣かせてやれなかったんだ」
匡史の腕が、樹の背に回った。身体を包む腕は、しがみつくようでもあり。
「ずっと、ずっと、あの人に向かって父さんって呼び掛けられなかった。今だって、父さんって呼べないんだ。どうして……あの人は、ずっと俺を息子だって、そう認めてくれていたのに――」
樹の肩に、じわりと熱い物が広がった。その正体に気付いた樹は言葉を失う。
「勘当したのに、他人だって、そう決めたのに、こんな……最期になって名前なんて、どうして……」
震える声で絞り出す言葉。そうだ。他人になったのなら病床で名前なんて出す事はないのに。
「分からないんだ……哀しいのか、悔しいのか、そんな単純な事も……あの人が、俺を認めてくれてたなんて……分かった時にはもういないなんて、そんなの、あんまりだろう――!」
長い間、疎外されていると感じていた。匡史自身も、傍にいた樹も。手を差し伸べてくれないのだから、見捨てられているのだろうと。だが。
「馬鹿だ……俺は大馬鹿だ……気付く機会なんて、幾らでもあったのに……全部、見なかった振りをして、勝手に拒絶して、あの人は、ずっと待っててくれたのに……」
大学を出た後に定職に就かなかった匡史を、文句を言いながらも生家に住まわせた。しつこいと厭う程に、会社に入れと迫った。兄である桐梧を通したのも、彼の言葉なら素直に聞くと考えたからだったのか。
祖父が亡くなった事実が見せた物に、匡史は打ちひしがれている。普段護っている甥に縋らなければならない程に。
「匡史さん……」
名を呼ぶと、匡史の腕に力が籠った。樹はそれに応えるように彼を抱き締める。
「樹……樹、済まない……こんな、情けない男で……君にも、こんな思いを……それなのに、どうしても……」
続く言葉を樹は理解している。だから、頬を寄せて、ただ繰り返した。
「大丈夫。愛してるよ」
分かっているから。離れられない程の想いも、その所為で樹の大切な物を奪ってしまった罪悪感も、全て分かっているから。
言葉を紡ぐ事も出来ずに泣き続ける匡史を、樹は受け止める。涙も苦悩も、匡史を苛む全てを。それしか、自分に出来る事はないのだから。
「大丈夫、匡史さん……愛してる」
呪文のように繰り返す言葉は、嗚咽の声が止むまで何度も何度も囁かれていた。
――――――――――
「うん……うん、そう。だから、お願いできるかな。……本当? ありがとう優也、助かるよ」
スマホの向こうから聞こえた返答に、樹は安堵の息を吐いた。二、三日は休みになるだろうから、授業のノートを取っておいて欲しいと頼んだのだ。
「……匡史さん? そうだね……それほどは悪くないってくらいかな。いつもと同じ。……そう、ちょっと熱があるくらい。うん……あー、それは明日の方が……うん。そうだね。喜ぶと思うよ」
匡史が胸の内を吐露し、泣き疲れて眠った翌朝。それが祟ったのか、彼は熱を出して寝込んでしまったのだ。
体調を崩すのはそう珍しい事でもない。況してや、ここ数日は感情が大きく揺れたであろうし、こうなる事は予測出来ていた。
「ありがとう、伝えとく。……もう、またそんな……うん。うん、分かった。じゃあね。明日また」
励ましてくれた親友に挨拶をして、樹は通話を終えた。スマホを下ろして傍らのベッドに寝ている叔父を見遣る。
「永倉と何話してたのー?」
グダグダとした力の入らない口調は普段のそれだ。昨夜の内に全て吐き出せたのだろう。
樹は安堵の笑みを浮かべると、匡史に答える。
「大学休むから、ノート取っておいてって頼んだんだ。それから、明日お見舞いに来てくれるって」
「えー……樹と二人きりがいいのにー。別に永倉なんか来なくていいよ……っ」
と、文句を言った途端に咳き込む。咳が多い時は注意が必要だ。油断すると入院なんて羽目にもなる。
「アイスいっぱい買ってくるって言ってたのに? ふーん、匡史さんがそう言うなら、断ろうかな」
咳き込む背中を擦ってから言うと、匡史が顔を上げた。困り切った表情が可愛い。
「残念だなあ……俺は買いに行けそうもないし、アイスは諦めようか」
樹が意地悪く呟くと、匡史は口を尖らせた。こんな手に掛かるのだから、この人は愛おしい。
「分かったー。永倉のお見舞い許すから、樹はここにいて」
訳の分からない理屈を捏ねて、匡史は樹の手を握った。樹はそれを握り返し、ベッド脇に腰を下ろす。
「うん。ずっと、匡史さんの傍にいるよ」
今までもこれからも、樹はこの愛しい叔父を受け止める。彼が泣く事を、弱みを見せる事を、許せる場所であり続ける。そう決めているのだから。
「ならいいよー。樹、愛してる」
発熱で頬を赤らめ、不規則な呼吸をしながら、それでも笑顔で匡史は言う。愛情を表してくれるのは嬉しいが、
「なら、ちゃんと治そうね。元気でいてくれなきゃ、俺も寂しいから」
出来れば、こんな心配をせずに過ごしたい。
そう伝えると匡史は頷いて、握った樹の手を頬に寄せた。安心し切った表情で目を閉じる。
「うん。頑張るー。俺も、ずっと樹の傍にいるからー」
安心して、と熱を出している当人とは思えない発言をして、匡史は大人しくなった。しばらく彼を見守っていると、やがて寝息を立て始める。
無防備なその寝顔を確認し、樹はそっと立ち上がった。次に起きたら食事を摂ってもらわなくては。その用意も必要だ。
これまでと同じように匡史を癒やす為、樹はこれまでと同じように甲斐甲斐しく叔父の世話を焼き始めた。
それは雪の日のこと
家族ドラマ、人間関係
"断絶と再生の狭間で、雪が溶かす不器用な家族の絆。"
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。