なあ、お守りって持ってるかい?
厄除けや願いを叶えるために持ち歩く、あれだよ。神社とかお寺なんかで買う人が多いのかな?
俺は持ってるよ、お守り。ちゃんとしたやつじゃないけどね。
俺はいつも、糸を持ち歩いてる。糸だよ、裁縫で使う、あれ。ミシン糸だったり刺繍用の糸だったり日によって変わるけど、とにかく必ず糸を持ってる。ボビンでも束でも、何でもいい。糸が巻かれたものだ。ただし、太いやつはダメ。針に通せるような、細長いやつだ。
――なんでこんな話をしてるのかって?
――なんでだったかな……
「いつまでもそんなところに立っていると、風邪をひいてしまいますよ」
ふと意識を戻すと、心配そうな声が聞こえてきた。途端に、ここが外だったことを思い出す。風がびゅうびゅうと音を立てて身を撫でた。
「そうですね、そろそろ帰ります」
とりあえず返事をして目を向ける。着慣れない服のせいか、ほんの少し体を動かすだけでひどく違和感があった。
「寒くないですか?」
「いえ、大丈夫です」
ほとんど反射で答えるけど、自分が言っている意味もよく分かってない。帰りますと言ったものの、体はうまく動いてくれなかった。
「最近風邪が流行ってますから……」
「そうですね」
「……体調を崩されることを願ってはいないと思いますよ」
「――……」
誰が、なんて聞かなくても分かる。言葉に詰まって、何とか曖昧に笑った。
手に持った花束を握りしめる。やり場のない気持ちをどうにかしたくて、でも花を折ることはしたくない、という思考が働いて、指が震えるだけだった。
自分の手が白く見える。袖とのコントラストのせいだろうか。自分の体なのに、どこか別のところにあるみたいだ。
白を基調にした花束も、全身を包む真っ黒な服も、自分が見てるものだなんて思えなくて、気が詰まってしょうがない。
――いいや、本当は分かってる。違和感の原因は服なんかじゃないって、分かってるけど。
俺はあの日から、ずっと変わってない。
――一ヶ月前。
俺は学校帰り、百均に寄った。家庭科の授業で使う手縫い糸を買うためだ。裁縫なんて授業以外でやらないからよく知らないけど、適当に安い糸束を買って家に帰った。
その日は母さんがローストビーフを作るって言ってて、俺はルンルンだった。リビングのドアを開ければ、ブロック肉のいい匂いで満たされる――はず、だった。
――母さんは、浮いていた。正確に言えば、足がついてなかった。
項垂れた体。
足元には倒れた椅子。
鼻に入るのは、腐った生ゴミの匂い。
……ここまで言えば分かるかな。ミステリーとかドラマなんかでよくある、あれだよ。
――俺の母さんは、首吊って死んだんだ。
俺の目に入ったのは、母さんの首に巻かれたロープだった。握れるくらい太いロープが巻きついて、天井の梁に吊るされてた。
俺の記憶にあるのは、それだけだ。その後どうしたかなんて覚えてない。泣いたのか、助けようとしたのか、警察に通報したのか、何も分からないけど、気づいたら母さんは火葬されてた。
葬式は淡々と行われた。俺の意志も気持ちも存在しなくて、ただただ母さんが死んだという事実だけがそこにあった。
目に映ったロープが、脳裏に焼きついて離れなくなった。
次に意識を戻したとき、俺の手には買ってきた百均の糸があった。どうも、握りしめてたらしい。
なんで、と思った。
だってロープって、「糸」だろ。繊維を合わせて、よりをかけたものだろ。ただよりをかけた本数が、ずっとずっと多いだけで。元は手の中の糸と、何も変わらないはずなのに。なんであんなにも違うんだ。なんで、母さんの命を奪ったんだ。
――それからだな。俺は糸を持ち歩くようになった。
「お守り」って言っただろ。まさにそれだ。安心するんだよ。針を通る、頼りないくらい細い糸がいい。ちょっと力をこめて、簡単に切れると心が落ち着く。だって、首に巻きつけたって、すぐ切れるだろ。これなら何も奪えないなって思うと、ほんの少しだけ、安らげるんだ。
――また、意識をどこかに飛ばしていた。
心配そうな声が聞こえるけど、もう何を言ってるのかもよく分からない。
あの日から、ずっとそうだ。ちょっとした動作、言葉、日常の全てが異物に思える。ひたすらに違和感が拭えない。
単純な話だ。俺はただ、母さんがいない世界に馴染めない。母さんが死んだって、たった一言で言える事実が、受け入れられないんだ。
目の前には、母さんの文字が彫られている。こうやって墓参りにくるのも、もう何回目だろう。寒空の下、花束を持ったまま立ち尽くすのも。
何度も声をかけられる。そこまで心配されるってことは、相当長い間立ったままなんだろう。いいかげん足も疲れたはずだ。何度着たって慣れない喪服は、ペラペラの生地だから風邪を通す。体も冷え切ってるはずだ。
――はず、だけど。もう、分からない。
糸に触れよう。細い糸だ。長い糸を手でちぎろう。
糸は繋がってる。糸はどこまでも続いていく。でも、一番大事なものは、繋ぎ止めてはくれないんだよ。
なあ、お守りって持ってるかい?
俺はいつも、糸を持ってる。
それは、糸を切るときに
現代文学、喪失と再生
"母の死が刻んだ傷跡を、一本の細い糸が繋ぎ止める。"
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