たとえば、秋風の薫る昼下がり。お気に入りのワンピースに身を包んだわたしは、石畳の小道を歩いていく。道の両脇を彩る紅が揺れ、また一葉、ひらりと舞い上がる。風に揺られ回り道をして、とうとう足元に落ちてきた。わたしは軽くつま先を伸ばし、その紅葉を踏みに行く。かさり、と小気味いい音が鳴る瞬間が、わたしは好きだ。
もしくは、柔らかな日が沈んだころ。わたしは塾帰りに大きな鞄を背負って、家の前の坂を上っていく。重い足取りに息をついて、何ともなしに空を見上げる。暗闇の中、ぼんやり漂う朧雲。立ち止まってもう少し見つめていると、雲はゆっくり動いていく。ある時、端から、ふっと覗く光。雲に隠れていた月が、少しずつ姿を現していく。小さく眩い琥珀色。わたしの好きなものだ。
どれも取るに足りないことだけれど、不思議と心に残っている。いったい何の話をしているのか。最近、頭の隅に留まる出来事があった。
箪笥の奥底から、しわくちゃになったプリントを見つけた。「1ねん1くみ じこしょうかいしーと」。小学校に入学してすぐに持って帰ってきたものが、何の因果か卒業時の断捨離を免れたのだろう。
プリントには「おなまえは?」「たんじょうびは?」といった質問が印刷され、それぞれに拙い字が答えていた。目を引いたのは、「すきなものは?」という質問だ。下には三~四行ほど書けそうな余白があった。わたしの答えは、「いっぱい」。正確には、回答欄があまりに黒ずんでいて「いっは」と掠れた縦棒しか読み取れなかったが、「いっぱい」だと考えられる。
「いっぱい」、とは。さらに下を見ると、「きらいなものは?」先程と同じくらいの回答欄に「ずっきーに」。こちらは普通に答えるのか。なるほど、好きなものも具体的に書こうとしたけれどたくさんあり過ぎて、何度も書き直した結果らしい。
わたしはなぜだか、何か短い針のような、淋しいのか切ないのかよく分からない気持ちに刺されて、力任せにプリントを丸めてゴミ箱に放ってしまった。
どうしてだったのか、次の日の朝にようやく分かった気がする。日課のニュースアプリを見ていた時だ。社会問題に関する記事の隣、芸能人の発言が不適切だとかで、コメント欄が随分と盛り上がっていた。薄目でスクロールするだけでも察する。人格否定や、大きな声では言えないような言葉が少なくない。
「すきなもの」、「きらいなもの」。しわくちゃになった創英角ポップ体が脳裏に蘇る。初めてそれを読んだわたしは、好きと嫌いの漢字すら知らなかったわたしは、ニュースアプリのコメント欄も知らなかった。
「嫌い」の充満する場所。別に特別な話ではない。わたしたちの生きる世界はどこも、「嫌い」に溢れている。たくさんの人が気軽に「嫌い」と言う。確固とした理由があったり、なかったりする。批判と悪口の境目はひどく曖昧で、時にひどく残酷だ。
仕方ないことだとも思う。「嫌い」が全くない世界の方がよほど恐ろしい。受け容れられないものはあるし、分かり合えないひともいる。「嫌い」を「嫌い」と言えた時、救われる命だってある。
だとしても、と思う。この世界は少しばかり、「嫌い」が多すぎる。
今、好きなものと嫌いなものを問われたとして、わたしはかつてのように答えられるだろうか。きっと無理だ。高校三年になったわたしは、大学受験の時事問題対策と銘打ってSNSを眺めるわたしは、いくらか「嫌い」に慣れ過ぎた。かつて「好き」ばかりが膨らんだ、ピカピカの小学一年生はもういない。十一年と半年前、桜色に輝く教室で無邪気に踊った幼い字は、彼方に忘れ去られていた。
だから悲しかったのだ。プリントを捨てることで、変わってしまったわたしから目を背けたかったのだ。
けれど、もう一度振り返ってみて思う。小学一年のわたしが忘れられたら、その価値がなくなるなんてことはない。拙く輝かしい夢も希望も、その意義は確かにあった。
嫌いなものがたくさん増えた。好きだったものが、ただ好きだと言えなくなった。幼い瞳には見えなかった、硬くて冷たくて、突き刺すように鋭い世界があった。
それでも、好きなものだってまだ、ちゃんとある。「いっぱい」の一言で片づけられるほど膨らんではいないけれど、たった一片、たった一瞬でいいならたくさんある。
そう、たとえば、落ち葉のたてたささやかな音が、緊張の糸をふっと緩めるかもしれない。雲から顔を出した光がまん丸だった時、心が微かに晴れるかもしれない。
だから、願う。
どうせ語るなら、「嫌い」よりも「好き」を語っていたい。あなたが嫌いと囁くよりも、あなたが好きだと叫びたい。
そうして、できることならわたしの眼差しを、この世界の誰かに差し出してみたい。
世界は目まぐるしく変わっていく。変わって、変わって、全部が澱んで、硬くなって、その切先をひとに向ける。必死に足掻いているうちに、ひとは深呼吸のしかたを忘れてしまった。いつしか嫌いなものに支配された。
一度、「好き」に目を向けてみようと思う。まずは、終わりの見えない日常の一刻、ほんのわずかな「好き」を探してみたらどうだろう。
一・五倍速で流れていく街の雑音から、一歩引いた時。静かな風と共に舞い上がる、小さな紅を追ってみる。
蛍光灯の照らすスマートフォンに視線を奪われ早足で歩く人々から、一歩離れた坂道。仰ぎ見た暗い大空の中、遥かに輝く琥珀を探してみる。
きっと少しだけ、息がしやすくなると思う。心のどこかがほぐれていたら、もっともっと好きなものが見つかると、そんなことを考えた。
ちなみに、ズッキーニのソテーもわりと好きだ。
丸めた記憶のほぐしかた
現代社会を問う叙情的な私小説
"「嫌い」に慣れすぎた世界で、心の奥底の「好き」を呼び覚ます、内省と希望の物語。"
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