例えば、乳白の光に照らされて、ひとり歩むとき。
白む景色は空白の刻限か、それとも希望の光陰か。
例えば、なにかを突き刺すような、鳴り渡るおと。
呼び鈴がいざなう道筋は、破滅かそれとも安息か。
例えば、ただ屹然と、眼前に立ちはだかる──
なんだろう。
私の前にあるのは。
この先にある、何かは。
なにか。なにか。手を伸ばした先に──
──手が空を切った。当たり前だ。私は今、虚空に手を伸ばしている。何かを求めるように指を広げて、でも掌が掴むのは空気でしかない。私が探しているのは眼前の濃紺か、その先にある天井か、見えはしないけれどもずっと先、確かに広がる大空か。それとももっと、何だろう。私は今、どこに手を伸ばしているんだろう。
『どうかした?』
「ひかり…」
鈴の音のように可愛らしい声に気付くと、澄んだ瞳に見つめられた。相変わらず、突然話しかけてくる。
「んーん、別に」
『なぁに、それ』
からからと笑う表情はあまりに幼くて、思わず目を細める。
ひかり。私の幼馴染であり、今のルームメイト。出会った頃から変わらないあどけなさで、いまだに私をのんちゃん、のんちゃんなんて呼んで付いてくる。
『のんちゃん、大丈夫?』
「んー…」
彼女は、ただただ純粋に聞いてくる。
「大丈夫って言うかさぁ…」
いっそ恨めしくなるほどに。
「もうさ…そういうの、意味ある?」
今夜、地球は滅びるらしい。太陽が異常接近していて、地球上のほぼすべての生物は焼け焦がれるのだと、そう聞いた。もうすぐ最後の夜がやってくる。
『意味ある? ってどういうこと?』
だというのに、ひかりは何も分かっていない。呑気なものだ。
「だってもう最後なんだよ。意味ないじゃん」
『なんで、意味ないの』
「だから、もうぜんぶ、おわりなんだよ。もう、何したって意味ないの」
『なんで』
「だから…っ」
この問答も、もう何回目だろう。呑気なルームメイトは、心底分からないという風に首をかしげる。
「…っもういいよ」
定番の流れに嫌気がさして、切り上げる。もういい。今日こそ本当に、最後だから──
『なんで、最後なの』
でも、今日はいつもと違った。いつもなら、私が嫌がれば話すのをやめるのに。
『なんで、おわりなの』
「…だって、地球が滅びるから」
『なんで』
「そう聞いたの」
『だれに聞いたの』
──だれに?
「違ッ…」
言おうとした。ひかりを見た。
ひかりは、いなかった。
──手を伸ばした先にひかりはいない。知っている。私はただ、虚空を見つめていただけだった。
伸ばした腕に纏う、濃紺の布地。あまりに深い紺が、すべてを飲み込むように。私はまた、思考の波に落ちていく。
──小夜さんはいいよね──
──マジメで気に入られてさ…私なんて──
──聞いてよ、ひどくない? あの先生さあ──
からだにまきつく高級な濃紺が、染みこんでいく。セーラー服の布地は、ひどく重い。そうだった。私は制服を着替えもせず、ただ横たわっていた。だってもう、意味なんてない。今夜地球は滅びるから、もうぜんぶ、おわりだから──
──なんで?
私はいつまでこの意味のない空想を繰り返すんだろう。いつまで、この歪な虚構の中にいるんだろう。
なんてことはなかった。ただ数珠のように連なる日常の、ほんの小さなひとかけら。毎日起きて、制服に着替えて、学校に行く。毎日毎日毎日まいにち──でもひとつ、たったひとつ、どこかが欠けてしまっただけ。
学校に行くのが嫌になった。ずっと平気だったのに。繰り返してきたのに。いちどだけ、途切れてしまった。あとはもう落ちていくだけだった。切れた糸が紡ぐ先を失うように、ぬかるみにはまった足が沈んでいくように。毎朝起きて、セーラー服に身を包む。そこまでは一緒。なのにそこからがだめだった。毎日ベッドに沈み込んだ。でも平気だった。だってもうぜんぶ──
違う──
知っている。私は幻想の中にいる。
今夜地球は滅びると、私にそう言ったのは私だった。
『のんちゃん』
「ひかり…」
また聞こえた。あどけない声。
『のんちゃん、何してるの』
これも幻想だ。知っている。ルームメイトなんていなかった。
『のんちゃん、それでいいの』
しってる。うるさいしってるだからもうだまってよ──
『だめ』
私が言えば、やめてくれるはずなのに。やっぱり、いつもと違う。
『もうぜんぶ、おわりなんでしょ』
「それは、」
『ねぇ、おわりにしよう?』
「え──」
聞こえるはずのない声。だけど。
『のんちゃん──』
また私を呼ぶ。
『のぞみ』
名前を呼ぶ。のぞみ。そうだった。小夜のぞみ。私の名前だった。
『起きて』
小夜、のぞみ。
『起き上がって、見てよ』
目に入ったのは、私の名前が書かれたノートだった。少しめくってみる。もう何日見てなかったっけ──
『ほら、これ前に──
白茶けたページを埋め尽くす文字。学校にいっていた頃に、書いていたモノ。毎日やっていたコト。授業の証。過去の残響。
別に何でもない、ただのノート。なのにあまりにも鮮烈に、私の目を焼き尽くす。そうだった。覚えていたはずだったのに。あの場所に行けなくなってから、布団の上の虚構に迷い込んでから、忘れてしまっていた。
『ねえ──
『それ、着てるだけでいいの──
からだに纏う制服を見る。そうだった。これを着て、ペンを握っていた。そうだった。いちど途切れてしまったけれど。ペンを持つ手が擦り切れて、いつしかひび割れてしまったけれど。でもそうじゃなかった。それだけじゃなかった。毎日毎日聴きいって、知識の息吹にふれられる場所。そこに連れていってくれるのが、制服だった。
声がきこえる。ふり返った先に。
のぞみ、このままでいいの──
「だめだよ」
ひかりはいない。
例えば、大空をくぐった先、蛍光灯に照らされる校内。ただ無機質な白い光の中、肩に食い込むスクールバックを携えて、ひとり教室に向かうとき。
例えば、学校中に響き渡る、金属が擦れたようなチャイム。授業の近づきを知らせる呼び鈴に駆り立てられ、足早に廊下を過ぎていく。
例えば──
──手を伸ばした先。教室のドア。私が掴むのは、くすんだ銀色のドアノブ。
これを回せば。私はまた、日常に。戻れるだろうか。
──ねえ、私はうまくやれる?
千切れた糸をより合わせるように。ぬかるんだ地面が乾くように。
──私は──
答えてくれるひとは、もういないけれど。
拝啓、この地球のどこかにいるどなたか様へ。
やっぱり、地球はまだ滅びないみたいです。
拝啓、この地球のどこかにいるどなたか様へ。
青春、内省、心理ドラマ
"地球滅亡の虚構に逃げ込んだ少女が、幻の友との対話を通じて現実へと還る物語。"
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