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きっと大丈夫な逃避行

玖条詩季

2,338 字

青春小説、友情、日常の機微

"太陽とアラビア、そして親友。小さな逃避行の先に、明日への希望が待つ。"

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「太陽に行ってみたい」
 瑞希はいつもそう言う。
「そこは月じゃないの」
「えー、月は寒そうじゃん。太陽は暖かそう」
「暖かいって言うか、暑いよ。近づいたら死ぬんじゃないの」
「そうだけどさあ…」
 お馴染みの会話だ。
 私は肩に食い込むランドセルを背負い直し、空を見上げた。眩しくて直視できないほど私達を照らす太陽。このうだるような暑さで、怒りの矛先を向けたくなる太陽。よくまあそこに行きたいなどと考えるものだ。
「…悠ちゃんはさあ、どこに行きたいとか、無いの」
 瑞希はちらりとこちらに視線を向けた後、ぽつりと言った。
「私? 私はアラビアに行きたい」
「何その妙にマイナーな回答」
「そう? 太陽よりいいでしょ」
 幼い頃絵本で見た、魔法のカーペットが登場するミステリアスな街。不思議な音楽が流れる、魔法の世界。別にお伽話のような冒険をしたいわけではないけれど、憧れは幼い頃から変わっていない。
 ふと顔を上げて、瑞希は目を細めた。
「…あれ、チャイムの音じゃない?」
「嘘、もう予鈴?」
 確かに、見知った音が聞こえた。まだ学校が見えていないというのに。
「遅刻しちゃう」
「急がないと」
「…うん、急ご」
 私達は笑い合い、慌てて走り出した。

 
 チャイムの音の中、教室に駆け込む。幸い、本鈴の時間になっても先生はまだ来ていなかった。
「良かった、ギリギリセーフ」
 二人で笑い合う。
 …クラスメイトの、クスクスと笑う声を無視しながら。
 そのまま席に着いて、準備をする。
 …汚れだらけの上履きも、ボロボロの教科書も、落書きされた机も、見ないふり。飛び交う悪口にも、その渦中に平然と入ってくる先生の無関心さにも、気づかないふり。…


  

『太陽に行ってみたい』
 瑞希の言うことは、分からないわけではないのだ。私は、彼女と同じ。ここではないどこかへ行きたい。明るいところへ。クラスメイトがいないところへ…。
  
 アラビアに行きたい。




「一緒にいれば、平気だよ」
「うん」
 一緒に帰りながら、笑い合う。それでも瑞希は、口癖のように言うのだ。
「太陽に行ってみたい」
「…そっか」
 …何だか、いつものように返せなくなった。

「あっ、鳩」
 瑞希が突然、顔を上げた。彼女は道を歩く鳩が好きだ。
「追い回さないでよ」
「しないよ!」
「えっ、意外」
「ひど…」
 今までは、鳩が逃げ回っても、飛び立つまで追いかけ回していたのに。
「鳩って、平和の象徴なんだよ」
「へぇ」
 なるほど、どこかで知ったのだろう。それで、追いかけなくなったのか。
 ……平和の象徴。平和、か。世界が今より平和になったら、私は学校で、瑞希以外とも笑えるようになるんだろうか。一瞬、そんなことを考えてしまった。
 何と言えば良いのか、分からなくなった。瑞希も、それを察したのだろうか。少し、沈黙が訪れた。
「…悠ちゃん、あのさ」
 沈黙を破ったのは瑞希だった。
「何?」
「……あー…、」
 彼女は言いにくそうに口をゴニョゴニョと動かした。何か言いかけては、口を閉ざす。それを何度か繰り返した後、意を決したように口を開いた。
「あのさ!」
 一際大きい声で、こちらをじっと見た。
 何だろう、そんなに重要なことなのか。もしかして、悪い知らせが…。
「…今日、うち来ない?」
 ………………!!
「い、いいの?」
「いいよ、友達でしょ。今日親いないから、秘密ね」
 私は今まで人の家に行ったことはない。友達、秘密、なんて言葉は、私の心を躍らせた。

 
「わぁ…」
 これがまさしく、感動というものだ。
 友達の家を、初めて見た。家の作りも内装も、私の家とは全く違う。
「どうぞ、入って」
 瑞希が言い終えるかどうかのうちに、ドタドタと足音が聞こえてきた。
 親はいないと言っていたはず…。いや、この足音は、知っているものよりもずっと軽い。これは…。
 そんなことを考えているうちに、『それ』が飛び出してきた。
 キャンキャンと鳴く『それ』は、真っ白い子犬だった。
「犬を飼ってたの?」
「うん。最近飼い始めたんだ。かわいいでしょ」
「かわいい!」
 私の家ではペットを飼ったことがない。くるくるした毛に、ぱっちりした目。初めて間近で見て、触れるという経験は、胸に込めていた感動をあっさりと上書きしていった。
「この子を見せたかったの。元気出るでしょ」
「うん」
 かわいい動物というのは、ここまで人の心を動かすものなのか。初めて友達の家に来たという興奮を抜きにしても、今までのモヤモヤがすっと晴れたような気がした。
「さっ、上がって」
「お、お邪魔します」
 私は、瑞希の家に上がった。
 そこからはもう、ずっとふわふわしていた。お菓子を食べたり、遊んだり、たったそれだけのことが、私には全てがキラキラしていた。きっと、瑞希もそうだったのだろう。私達は、我を忘れて笑いあった。
 
 人間の脳というのは、思っていたよりもずっと単純らしい。私は、自分の家に帰る頃には重い気持ちなんてとうに吹き飛んでいた。
 何だかもう、どうでもよくなってきた。悩んでいたのがばからしい。アラビアじゃなくていい。ここがいい。私には今、一人の親友がいる。それでいいじゃないか。
 私は、興奮していた。でも、それでいい気がした。きっと、私は大丈夫だ。明日が来るのが待ち遠しいと、心から思えたから。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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