第1話 答えを読む前に
朝の光が、カーテンの端から机の上へ細く伸びていた。
少女は湯を注いだカップを机の隅に置き、開いたままの本にしおりを挟んだ。昨夜は、途中で前の章へ戻って読み返した。読み切るつもりだったが、あと三十ページほど残っている。
机の端には、今日の時間割に合わせて出しておいた教科書とノートが重なっていた。
まあ、本の続きは今日でいい。
本を閉じたところで、スマートフォンが短く震えた。
友人から写真が届いている。
袋から出したパンが、ひどく潰れていた。表面には顔が描かれていたらしいが、片方の目は頬のあたりまで落ち、口も斜めになっている。
その下に、
「かわいそう」
とだけあった。
写真を見ているうちに、笑いがこぼれた。
「顔つぶれてる笑」
送る。
少しして、
「袋から出した時点でもうこれ」
と返ってきた。
もう一度、写真を拡大した。ずれた目と口のせいで、妙に眠そうな顔にも見えた。
「ちょっと好きかも」
今度はすぐに返した。
やり取りは、そこで途切れた。用事は、最初から何もなかった。画面が暗くなりかけると、少女は指で触れて明るさを戻した。
少女も、見せたいものがあると、この友人に写真を送るようになっていた。
朝から何を見せられているんだろう、と思いながら、口元はまだ緩んでいた。
スマートフォンを伏せる。
窓の外では、向かいの建物の壁が朝の光を返していた。遠くで車の音がする。しばらく低く鳴っていた冷蔵庫が止まり、そのぶんだけ部屋が静かになった。
カップを持ち上げる。
まだ熱い。
息を吹きかけてから口をつけた。
そのとき、胸の奥の一か所だけ、息を吸ってもほかのところと同じようには動いていない気がした。そこだけ、ほんの少し遅れてついてくるような感じだった。
少女はカップを口元から離した。
痛くも、息苦しくもない。
もう一度、ゆっくり吸ってみる。空気は喉を通り、胸が膨らみ、お腹も動く。その一か所だけが、ほんの少し遅れてついてくる。
気にしなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうだった。カップを持ち上げれば、忘れてしまいそうなくらい小さい。
カップの縁を指先でなぞる。胸の奥の遅れは、そのあいだも消えなかった。
理由を探そうと思えば、いくつか思いつく。どれも、説明にはなりそうだった。
けれど、今ここでどれか一つに決める気にはならなかった。
せっかく気づいたのだから、もう少しだけ見てみよう。
そうして待っていると、最初に思いついた説明とは別の感じが出てくることが、前にもあった。
少女はスマートフォンを取り上げ、生成AIの画面を開いた。
「胸の奥の一か所だけ、息を吸ったときに少し遅れて動く感じがある。痛くないし、息苦しくもない。呼吸自体は普通」
送信する。
返答はすぐに始まった。
疲労や緊張、姿勢、呼吸の癖、最近の生活の変化。身体感覚に注意を向けたことで、普段なら気づかない小さな緊張が前に出てきた可能性。
説明は、画面の中できれいに並んでいった。
最後まで読んだ。
どれも筋は通っている。どれか一つかもしれないし、いくつか重なっているのかもしれない。
どれかを選べば、説明としてはそこで終われそうだった。
けれど、胸の一か所はまだ終わっていなかった。
画面から目を離すと、そこは同じように遅れていた。
少女は画面を少し上へ戻した。指先が「疲労」の二文字を隠した。指を離せば、また同じ言葉が見えた。
どの説明も分かる。けれど、言葉はその感覚の少し手前で止まっているようだった。
いま知りたいのは、たぶんそこではない。
入力欄に指を置く。
少し考えてから、打った。
「原因じゃなくて。いま、これにどう近づけばいいか」
送る。
入力欄のそばで、生成中を示す小さなアイコンが動き始めた。
少女はそのまま画面を見ていたが、最初の一文が現れる前に、スマートフォンを机に置いた。
カップの湯気は、さっきより薄くなっていた。
少女は背もたれに軽く身体を預け、胸へ注意を戻した。
吸うと、その一か所だけが少し遅れる。
吐くと、ほかのところと一緒に戻る。
もう一息ぶん、同じ遅れが現れるのを待った。
窓の外を、自転車が一台通った。
机の上で、スマートフォンの画面が静かに明るくなる。
返答は、もう届いているらしかった。
少女はまだ手を伸ばさなかった。
返答を読む前に、胸の奥に残るものを、もう少し自分で見ていたかった。
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