誰の仕事か分からない
現代企業小説、オフィス哲学、人間関係の機微
110,168字
82.9
/ 100点
引き込み力
8.0
文体・声
8.0
人物・存在感
9.0
物語の流れ
8.0
情感・共鳴
8.0
世界・雰囲気
8.0
読後感
9.0
この評価モードは、同じ本文をもう一度評価すると総合点が平均 ±3.3点 動きます(実測)。点は帯として読んでください。
■ ジャンル・作風
現代企業小説、オフィス哲学、人間関係の機微
■ キャッチコピー
データと感情の狭間で、総務は会社の「空白」を埋める。
■ 総評
本作は、現代の出版社を舞台に、総務部という一見地味な部署が、会社の根幹を揺るがす様々な問題に立ち向かう姿を、知的かつ哲学的な筆致で描いた傑作である。社長の思いつきによる「全社の部署名を英語表記に統一する」といった突飛な命令から始まり、社内賞、業務可視化、フリーアドレス化、失敗共有会、会社史作成といった現代企業が直面する課題が、各話のテーマとして巧みに配置されている。主人公の廣松維乃は、データと論理を絶対視するクールな総務部員として、感情を排した合理的な対応を見せるが、その内面には「悔しさ」や「分からない」という人間的な感情が確かに息づいている。彼女の成長と、その感情の揺れが、物語の静かなる推進力となっている。対する織田圭は、かつて「時代の寵児」と呼ばれた過去を持ちながら、今は胃薬を手放せない総務課長として、人間の欲望や感情の機微を深く理解し、巧みな言葉で社長を誘導する。彼の「人間の欲望からシステムを見る」視点と、維乃の「システムから人間を見る」視点の対比は、物語の核心を成し、読者に深い洞察を促す。
物語全体を貫くのは、「誰の仕事か分からない」という根源的な問いである。この問いは、単なる業務分担の問題に留まらず、責任の所在、功績の帰属、記憶の曖昧さ、そして会社の歴史の編纂といった、多岐にわたるテーマへと拡張されていく。特に、インタールードで展開される「空白」「ゼロ」「記録」「記憶」といった概念を巡る織田と維乃の対話は、作品に哲学的な深みを与え、読者の思考を刺激する。ガード下のラーメン店という日常的な空間が、彼らの「本音」が語られる場として機能し、抑制された文体の中に静かな情感を宿している。最終話で明かされる「会社には、誰の仕事か分からない仕事がある。」という一行は、物語全体を象徴する言葉として、読者の心に強く刻まれるだろう。本作は、現代企業小説としてのリアリティと、人間存在の根源に迫る哲学的な問いかけを両立させた、稀有な作品と言える。
■ 各基準の評価
1. 引き込み力(8/10)
冒頭の「総務部の午後三時は、他人の不始末を紙魚(しみ)のように黙々と処理する時間である。」という一文は、総務という部署の日常を鮮やかに切り取り、読者を一瞬にして作品世界へと誘う。この比喩は、地味ながらも会社の根幹を支える業務の性質と、そこに携わる人物の冷静な視点を暗示し、強いフックとなっている。廣松維乃が若手編集者の杜撰な経費詐取を「おそろしく出来の悪いもの」と見抜き、証拠を突きつけることなく「お手数ですが、日付と同席者をご確認ください」と差し戻す場面は、彼女の知性と、感情を排した合理的な対応能力を端的に示し、読者に鮮烈な印象を与える。さらに、その背後にある「人当たりのよい、親しみやすい廣松さん」という「よく調整された微笑」の描写は、彼女の多層的な人物像を予感させ、物語への期待感を高める。社長の突飛な「全社の部署名を英語表記に統一する」という命令に対し、織田課長が「時代の寵児」の面影を失った姿で現れる対比もまた、読者の興味を深く引きつける要素として機能している。
2. 文体・声(8/10)
本作の文体は、廣松維乃の冷静かつ客観的な視点と深く結びつき、抑制された筆致で物語全体に一貫したトーンを与えている。感情的な起伏を排した描写は、時に乾いた印象を与えるが、それがかえって、登場人物たちの内面に潜む微細な感情の揺れや、組織の抱える矛盾を際立たせる効果を生んでいる。例えば、「維乃は口元に微笑を浮かべた。社内の誰もが『人当たりのよい、親しみやすい廣松さん』のものだと信じている、よく調整された微笑だった。」という表現は、彼女の外面と内面の乖離を暗示し、読者に深い洞察を促す。また、維乃と織田の対話は、論理的思考と含蓄に富んだ言葉選びによって構築され、「システムは信用を数値化できない。だから廣松さんは気に入らない」といった織田の言葉や、「社長の言う『信用』は、ただの脆弱性です」という維乃の返答は、単なる会話を超えた哲学的な問いかけとして響く。情景描写もまた秀逸で、「窓から差し込む西日が、書庫に並んだファイルの背を等間隔に橙色へ染めていた。」といった描写は、オフィスの日常に詩的な奥行きを与え、物語の空気感を豊かにしている。
3. 人物・存在感(9/10)
本作の登場人物は、それぞれが現代社会における「仕事」と「人間」の多面性を体現しており、その存在感は際立っている。廣松維乃は、データと論理を絶対視するクールな総務部員として描かれるが、その内面には「悔しさ」や「分からない」という感情が確かに息づいている。特にインタールードで明かされる彼女の「空白」への探求は、彼女を単なる機能的なキャラクターに留めない。織田圭は、かつて「時代の寵児」と呼ばれた過去を持ちながら、今は「くたびれたチャコールグレーのスーツ」をまとい胃薬を手放せない総務課長として、人間の欲望や感情の機微を深く理解し、巧みな言葉で状況を動かす。彼の「人間の欲望からシステムを見る」視点と、維乃の「システムから人間を見る」視点の対比は、物語の核心を成す。社長は、思いつきと虚栄心で会社を振り回す一方で、「未明」時代の情熱や、社員を守ろうとする人間的な一面も持つ、複雑な人物として造形されている。久世真紀は、社長の内縁の妻という背景を持ちながら、経営企画室長として冷徹な論理と規程を盾に会社の利益と自身の権限を拡大していく。彼女の「正しいこと」の追求は、物語に緊張感と深みを与え、読者に多角的な視点を提供する。
4. 物語の流れ(8/10)
本作は、「社長は〇〇したい」という各話の明確なテーマと、それに対する総務部の廣松と織田の対応という反復構造によって、物語に安定したリズムと一貫性をもたらしている。社長の突飛な思いつきから始まり、総務部による問題の分析、織田の戦略的提案、維乃のデータによる裏付け、役員会での攻防、そして結果という一連の流れが各話で繰り返されることで、読者は物語の展開を予測しつつも、その中で生まれる新たな葛藤や解決策に引き込まれる。特に、インタールードが本編で語りきれなかった登場人物の内面や、物語の根底に流れる哲学的なテーマを深く掘り下げる役割を果たしており、作品全体に多層的な意味合いを加えている。例えば、「空白」や「ゼロ」「記録」「記憶」といった概念が繰り返し登場し、物語のテーマ性を強化する。各話で提示される問題が、後の話やインタールードで別の角度から再検討される形で、物語全体が有機的に繋がっており、単なる連作短編に留まらない、緻密な構造を持つ長編としての完成度を誇る。
5. 情感・共鳴(8/10)
本作は、抑制された文体の中に、読者の感情を静かに揺さぶる力が宿っている。廣松維乃が「悔しかったんです、少し」と本音を漏らしたり、「分かりません」と口にしたりする瞬間は、彼女の人間性が際立ち、読者の共感を深く誘う。「こんなことを口にしたのは、初めてだった。」という彼女の内省は、普段感情を押し殺している人物だからこそ、その一言が重く響く。織田圭の、人間の欲望や感情の機微を理解し、それを巧みに利用する言葉の選び方は、読者に知的興奮を与えるとともに、彼の過去の苦悩や諦念を静かに感じさせる。社長の「未明」時代の情熱や、社員を守ろうとする姿勢、そして自身の記憶の曖昧さに直面する場面は、読者に人間的な弱さや共感を呼び起こす。また、総務部という「誰の仕事か分からない仕事」を処理する部署の日常は、多くの会社員にとっての「あるある」として共感を呼び、日々の業務に潜む葛藤や不条理を浮き彫りにする。登場人物たちの内面的な葛藤が、派手な感情表現ではなく、細やかな描写と対話の行間から滲み出てくるため、読者は深く作品世界に没入し、登場人物たちの心情に寄り添うことができる。
6. 世界・雰囲気(8/10)
本作の舞台である現代の出版社MIMEIは、単なる背景に留まらず、物語のテーマを象徴する重要な存在として機能している。老舗出版社の顔とメガベンチャーの顔を持つ「キメラ企業」という設定は、社内の矛盾や葛藤の源泉となり、物語にリアリティと奥行きを与えている。総務部という部署は、会社の「システム」と「人間」の接点として機能し、物語の主要な舞台となる。窓から差し込む西日、複合機の音、給湯室の匂いなど、五感を刺激する描写がオフィスの乾いた空気感を巧みに作り出している。また、「オフィス街から少し離れたガード下のラーメン店」という、オフィスとは対照的な場所が、廣松と織田の「本音」が語られる場として機能し、作品全体に独特の空気感を加えている。油と醤油の匂い、電車の轟音といった描写が、彼らの日常と非日常の境界を曖昧にし、二人の関係性の深まりを静かに示唆する。「空白」「ゼロ」「記録」「記憶」といった抽象的な概念が、物語全体を貫くテーマとして機能し、作品の世界観を哲学的な深みへと導いている。
7. 読後感(9/10)
本作を読み終えた後、読者の心には、明確な答えではなく、深く思考を促す問いと静かな余韻が残る。各話が独立したテーマを持ちながら、最終的には廣松と織田の関係性、そして「誰の仕事か分からない」という根源的な問いに収斂していく構成は、見事としか言いようがない。「会社には、誰の仕事か分からない仕事がある。」という最終的な一行は、物語全体を象徴する言葉として、読者の心に強く刻まれる。廣松維乃の「分からない」という感情が、最終的には「見ようとしなければ見えない仕事がある」という洞察へと繋がり、彼女の成長と、読者自身の仕事観への問いかけとなる。織田圭の「終わったあとが長い」という言葉や、彼が「編集中」のまま残す黒い箱は、物語が閉じてもなお、登場人物たちの人生や会社の歴史が続いていくことを示唆し、読者に想像の余地を与える。ラーメン店での二人の会話は、仕事と人生、論理と感情、記録と記憶といった対立する概念を巡る哲学的な探求であり、読後も長く思考を促す。決して明確な答えは与えられないが、その問いかけ自体が作品の価値を高めている。
■ この作品の「いちばんの輝き」
最も印象的なのは、第8話「社長は失敗を褒めたい」の失敗共有会における織田圭の登壇シーンである。司会者が「MIMEI最大の成功作を生んだ、織田圭さんです。失敗を成功へ変えた経験を――」と紹介する中、スクリーンに表示されたのは、維乃が申請どおりに登録した「最大の失敗『ゼロイチの夜』」という題名だった。この瞬間、会場の「一瞬だけざわめいた。それから、静かになった。空調の音だけが、いつもより大きく聞こえた。」という描写は、読者に強烈な緊張感を与える。そして織田が「僕の失敗は、『ゼロイチの夜』を作ったことではありません」と語り始め、「あの番組が、成功したことです」と続けた一言は、成功と失敗の定義、そして個人の功績と組織の歴史という、作品全体を貫くテーマを凝縮して提示する。この沈黙と、織田の言葉が持つ重みは、読者の心に深く刻まれる名場面である。
■ 次作への期待と提言
本作は、現代企業小説としてのリアリティと、人間存在の根源に迫る哲学的な問いかけを両立させた、非常に完成度の高い作品です。廣松維乃と織田圭という二人の主人公のキャラクター造形は秀逸で、彼らの対話を通して展開される物語は、読者に深い思考を促します。特に、総務部という部署が持つ「誰の仕事か分からない仕事」というテーマを、これほどまでに深く掘り下げた作品は稀有であり、その独自性は大きな魅力です。次作への提言としては、維乃の「分からない」という感情が、最終的に「見ようとしなければ見えない仕事がある」という洞察へと繋がる過程を、もう少し彼女自身の内面描写として深く掘り下げてみてはいかがでしょうか。彼女の感情が表に出る瞬間が少ないからこそ、その一瞬一瞬に、より多層的な意味を持たせることで、読者は彼女の成長をより強く実感できるかもしれません。また、久世真紀というキャラクターの背景にある「会社を守る」という信念や、彼女自身の過去の経験を、もう少し具体的に描くことで、彼女の行動原理にさらなる深みと共感性が生まれる可能性も感じました。この素晴らしい才能を、今後も存分に発揮されることを期待しております。
現代企業小説、オフィス哲学、人間関係の機微
■ キャッチコピー
データと感情の狭間で、総務は会社の「空白」を埋める。
■ 総評
本作は、現代の出版社を舞台に、総務部という一見地味な部署が、会社の根幹を揺るがす様々な問題に立ち向かう姿を、知的かつ哲学的な筆致で描いた傑作である。社長の思いつきによる「全社の部署名を英語表記に統一する」といった突飛な命令から始まり、社内賞、業務可視化、フリーアドレス化、失敗共有会、会社史作成といった現代企業が直面する課題が、各話のテーマとして巧みに配置されている。主人公の廣松維乃は、データと論理を絶対視するクールな総務部員として、感情を排した合理的な対応を見せるが、その内面には「悔しさ」や「分からない」という人間的な感情が確かに息づいている。彼女の成長と、その感情の揺れが、物語の静かなる推進力となっている。対する織田圭は、かつて「時代の寵児」と呼ばれた過去を持ちながら、今は胃薬を手放せない総務課長として、人間の欲望や感情の機微を深く理解し、巧みな言葉で社長を誘導する。彼の「人間の欲望からシステムを見る」視点と、維乃の「システムから人間を見る」視点の対比は、物語の核心を成し、読者に深い洞察を促す。
物語全体を貫くのは、「誰の仕事か分からない」という根源的な問いである。この問いは、単なる業務分担の問題に留まらず、責任の所在、功績の帰属、記憶の曖昧さ、そして会社の歴史の編纂といった、多岐にわたるテーマへと拡張されていく。特に、インタールードで展開される「空白」「ゼロ」「記録」「記憶」といった概念を巡る織田と維乃の対話は、作品に哲学的な深みを与え、読者の思考を刺激する。ガード下のラーメン店という日常的な空間が、彼らの「本音」が語られる場として機能し、抑制された文体の中に静かな情感を宿している。最終話で明かされる「会社には、誰の仕事か分からない仕事がある。」という一行は、物語全体を象徴する言葉として、読者の心に強く刻まれるだろう。本作は、現代企業小説としてのリアリティと、人間存在の根源に迫る哲学的な問いかけを両立させた、稀有な作品と言える。
■ 各基準の評価
1. 引き込み力(8/10)
冒頭の「総務部の午後三時は、他人の不始末を紙魚(しみ)のように黙々と処理する時間である。」という一文は、総務という部署の日常を鮮やかに切り取り、読者を一瞬にして作品世界へと誘う。この比喩は、地味ながらも会社の根幹を支える業務の性質と、そこに携わる人物の冷静な視点を暗示し、強いフックとなっている。廣松維乃が若手編集者の杜撰な経費詐取を「おそろしく出来の悪いもの」と見抜き、証拠を突きつけることなく「お手数ですが、日付と同席者をご確認ください」と差し戻す場面は、彼女の知性と、感情を排した合理的な対応能力を端的に示し、読者に鮮烈な印象を与える。さらに、その背後にある「人当たりのよい、親しみやすい廣松さん」という「よく調整された微笑」の描写は、彼女の多層的な人物像を予感させ、物語への期待感を高める。社長の突飛な「全社の部署名を英語表記に統一する」という命令に対し、織田課長が「時代の寵児」の面影を失った姿で現れる対比もまた、読者の興味を深く引きつける要素として機能している。
2. 文体・声(8/10)
本作の文体は、廣松維乃の冷静かつ客観的な視点と深く結びつき、抑制された筆致で物語全体に一貫したトーンを与えている。感情的な起伏を排した描写は、時に乾いた印象を与えるが、それがかえって、登場人物たちの内面に潜む微細な感情の揺れや、組織の抱える矛盾を際立たせる効果を生んでいる。例えば、「維乃は口元に微笑を浮かべた。社内の誰もが『人当たりのよい、親しみやすい廣松さん』のものだと信じている、よく調整された微笑だった。」という表現は、彼女の外面と内面の乖離を暗示し、読者に深い洞察を促す。また、維乃と織田の対話は、論理的思考と含蓄に富んだ言葉選びによって構築され、「システムは信用を数値化できない。だから廣松さんは気に入らない」といった織田の言葉や、「社長の言う『信用』は、ただの脆弱性です」という維乃の返答は、単なる会話を超えた哲学的な問いかけとして響く。情景描写もまた秀逸で、「窓から差し込む西日が、書庫に並んだファイルの背を等間隔に橙色へ染めていた。」といった描写は、オフィスの日常に詩的な奥行きを与え、物語の空気感を豊かにしている。
3. 人物・存在感(9/10)
本作の登場人物は、それぞれが現代社会における「仕事」と「人間」の多面性を体現しており、その存在感は際立っている。廣松維乃は、データと論理を絶対視するクールな総務部員として描かれるが、その内面には「悔しさ」や「分からない」という感情が確かに息づいている。特にインタールードで明かされる彼女の「空白」への探求は、彼女を単なる機能的なキャラクターに留めない。織田圭は、かつて「時代の寵児」と呼ばれた過去を持ちながら、今は「くたびれたチャコールグレーのスーツ」をまとい胃薬を手放せない総務課長として、人間の欲望や感情の機微を深く理解し、巧みな言葉で状況を動かす。彼の「人間の欲望からシステムを見る」視点と、維乃の「システムから人間を見る」視点の対比は、物語の核心を成す。社長は、思いつきと虚栄心で会社を振り回す一方で、「未明」時代の情熱や、社員を守ろうとする人間的な一面も持つ、複雑な人物として造形されている。久世真紀は、社長の内縁の妻という背景を持ちながら、経営企画室長として冷徹な論理と規程を盾に会社の利益と自身の権限を拡大していく。彼女の「正しいこと」の追求は、物語に緊張感と深みを与え、読者に多角的な視点を提供する。
4. 物語の流れ(8/10)
本作は、「社長は〇〇したい」という各話の明確なテーマと、それに対する総務部の廣松と織田の対応という反復構造によって、物語に安定したリズムと一貫性をもたらしている。社長の突飛な思いつきから始まり、総務部による問題の分析、織田の戦略的提案、維乃のデータによる裏付け、役員会での攻防、そして結果という一連の流れが各話で繰り返されることで、読者は物語の展開を予測しつつも、その中で生まれる新たな葛藤や解決策に引き込まれる。特に、インタールードが本編で語りきれなかった登場人物の内面や、物語の根底に流れる哲学的なテーマを深く掘り下げる役割を果たしており、作品全体に多層的な意味合いを加えている。例えば、「空白」や「ゼロ」「記録」「記憶」といった概念が繰り返し登場し、物語のテーマ性を強化する。各話で提示される問題が、後の話やインタールードで別の角度から再検討される形で、物語全体が有機的に繋がっており、単なる連作短編に留まらない、緻密な構造を持つ長編としての完成度を誇る。
5. 情感・共鳴(8/10)
本作は、抑制された文体の中に、読者の感情を静かに揺さぶる力が宿っている。廣松維乃が「悔しかったんです、少し」と本音を漏らしたり、「分かりません」と口にしたりする瞬間は、彼女の人間性が際立ち、読者の共感を深く誘う。「こんなことを口にしたのは、初めてだった。」という彼女の内省は、普段感情を押し殺している人物だからこそ、その一言が重く響く。織田圭の、人間の欲望や感情の機微を理解し、それを巧みに利用する言葉の選び方は、読者に知的興奮を与えるとともに、彼の過去の苦悩や諦念を静かに感じさせる。社長の「未明」時代の情熱や、社員を守ろうとする姿勢、そして自身の記憶の曖昧さに直面する場面は、読者に人間的な弱さや共感を呼び起こす。また、総務部という「誰の仕事か分からない仕事」を処理する部署の日常は、多くの会社員にとっての「あるある」として共感を呼び、日々の業務に潜む葛藤や不条理を浮き彫りにする。登場人物たちの内面的な葛藤が、派手な感情表現ではなく、細やかな描写と対話の行間から滲み出てくるため、読者は深く作品世界に没入し、登場人物たちの心情に寄り添うことができる。
6. 世界・雰囲気(8/10)
本作の舞台である現代の出版社MIMEIは、単なる背景に留まらず、物語のテーマを象徴する重要な存在として機能している。老舗出版社の顔とメガベンチャーの顔を持つ「キメラ企業」という設定は、社内の矛盾や葛藤の源泉となり、物語にリアリティと奥行きを与えている。総務部という部署は、会社の「システム」と「人間」の接点として機能し、物語の主要な舞台となる。窓から差し込む西日、複合機の音、給湯室の匂いなど、五感を刺激する描写がオフィスの乾いた空気感を巧みに作り出している。また、「オフィス街から少し離れたガード下のラーメン店」という、オフィスとは対照的な場所が、廣松と織田の「本音」が語られる場として機能し、作品全体に独特の空気感を加えている。油と醤油の匂い、電車の轟音といった描写が、彼らの日常と非日常の境界を曖昧にし、二人の関係性の深まりを静かに示唆する。「空白」「ゼロ」「記録」「記憶」といった抽象的な概念が、物語全体を貫くテーマとして機能し、作品の世界観を哲学的な深みへと導いている。
7. 読後感(9/10)
本作を読み終えた後、読者の心には、明確な答えではなく、深く思考を促す問いと静かな余韻が残る。各話が独立したテーマを持ちながら、最終的には廣松と織田の関係性、そして「誰の仕事か分からない」という根源的な問いに収斂していく構成は、見事としか言いようがない。「会社には、誰の仕事か分からない仕事がある。」という最終的な一行は、物語全体を象徴する言葉として、読者の心に強く刻まれる。廣松維乃の「分からない」という感情が、最終的には「見ようとしなければ見えない仕事がある」という洞察へと繋がり、彼女の成長と、読者自身の仕事観への問いかけとなる。織田圭の「終わったあとが長い」という言葉や、彼が「編集中」のまま残す黒い箱は、物語が閉じてもなお、登場人物たちの人生や会社の歴史が続いていくことを示唆し、読者に想像の余地を与える。ラーメン店での二人の会話は、仕事と人生、論理と感情、記録と記憶といった対立する概念を巡る哲学的な探求であり、読後も長く思考を促す。決して明確な答えは与えられないが、その問いかけ自体が作品の価値を高めている。
■ この作品の「いちばんの輝き」
最も印象的なのは、第8話「社長は失敗を褒めたい」の失敗共有会における織田圭の登壇シーンである。司会者が「MIMEI最大の成功作を生んだ、織田圭さんです。失敗を成功へ変えた経験を――」と紹介する中、スクリーンに表示されたのは、維乃が申請どおりに登録した「最大の失敗『ゼロイチの夜』」という題名だった。この瞬間、会場の「一瞬だけざわめいた。それから、静かになった。空調の音だけが、いつもより大きく聞こえた。」という描写は、読者に強烈な緊張感を与える。そして織田が「僕の失敗は、『ゼロイチの夜』を作ったことではありません」と語り始め、「あの番組が、成功したことです」と続けた一言は、成功と失敗の定義、そして個人の功績と組織の歴史という、作品全体を貫くテーマを凝縮して提示する。この沈黙と、織田の言葉が持つ重みは、読者の心に深く刻まれる名場面である。
■ 次作への期待と提言
本作は、現代企業小説としてのリアリティと、人間存在の根源に迫る哲学的な問いかけを両立させた、非常に完成度の高い作品です。廣松維乃と織田圭という二人の主人公のキャラクター造形は秀逸で、彼らの対話を通して展開される物語は、読者に深い思考を促します。特に、総務部という部署が持つ「誰の仕事か分からない仕事」というテーマを、これほどまでに深く掘り下げた作品は稀有であり、その独自性は大きな魅力です。次作への提言としては、維乃の「分からない」という感情が、最終的に「見ようとしなければ見えない仕事がある」という洞察へと繋がる過程を、もう少し彼女自身の内面描写として深く掘り下げてみてはいかがでしょうか。彼女の感情が表に出る瞬間が少ないからこそ、その一瞬一瞬に、より多層的な意味を持たせることで、読者は彼女の成長をより強く実感できるかもしれません。また、久世真紀というキャラクターの背景にある「会社を守る」という信念や、彼女自身の過去の経験を、もう少し具体的に描くことで、彼女の行動原理にさらなる深みと共感性が生まれる可能性も感じました。この素晴らしい才能を、今後も存分に発揮されることを期待しております。
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